津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

知られざる連絡船

2017-10-10 | 旅行
舞鶴を起点とした連絡船に関連し、船影の知られてこなかった2隻の旅客船を紹介したい。とは言え、阪鶴鉄道時
代の話では無く、国有化後に登場した連絡船の話。日本三景の一つ、天橋立に投入された「文珠丸」「岩瀧丸」姉
妹は、実は、多くの絵葉書にその船影を残してる。『日本鉄道連絡船史』には、次のとおり記される。

明治42年8月、天の橋立の探勝と峰山地方の交通連絡を図るため、宮津より橋立の絶勝地文珠の切戸
を経て湾内に入り、須津、岩瀧に巡航する宮津湾内航路を開設し、さきに阪鶴鉄道が使用した由良川丸
を再び使用した。然し同船は輸送力が不十分であるから、翌43年、岡山旭川に使用した旭丸を以てこれ
に代へた。然し同船も老朽で、屡々修理を加へ、多大の経費を要するのみならず、その都度休航し、これ
が年間相当の期間にわたるので、新造計画をたて、瓦斯発生器附吸入瓦斯発動機船文珠丸及び岩瀧丸
(17噸)を建造してこれに代へ、運航回数も増加した。


宮津湾内航路に新造投入された「文珠丸」「岩瀧丸」姉妹に触れる前に、同航路の開設から終焉を眺めておきたい。
1909(M42).07.29付業界紙は、次のとおり報じている。手許の時刻表からは確認できないものの、当初、府中寄港
も計画されたのか。

宮津湾内連絡汽船開航
鉄道院にては来る八月五日より宮津湾内連絡汽船の運航を開始し宮津、文珠、府中、岩瀧、須津相互間
に於て旅客及び大小荷物手荷物の取扱を為す賃銭割合左の如し
乗客賃金 宮津、文珠、府中、岩瀧、須津、相互間 金九銭
但し小児四年未満は無賃、十二年未満は五銭とす


『鉄道技術発達史』は、宮津湾内航路に関し開航1909(M42).08.05、廃航1925(T14).07.30、最初の就航船に「由良
川丸級」を使用したとある。
浅喫水船「由良川丸」は、「第一由良川丸」「第二由良川丸」の二隻があった。姉妹については、由良川航路の謎と
共に、項を改めて記してみたい。両船とも『船名録M36版』(M35.12.31)より掲載されるが、「第二由良川丸」は『船名
録M39版』(M38.12.31)への掲載を最後に、1906(M39)年中に抹消されている。従って、1909(M42)宮津湾内航路開
始時に投入されたのは、「第一由良川丸」に限られる。
航路開設の翌年1910(M43)、「第一由良川丸」に代え「旭丸」を投入し、輸送力の改善を図った。「旭丸」は山陽鉄道
の発注により建造された浅喫水船で、岡山京橋~三蟠間に使用された。1910(M43).06.12宇野線開通により役を失
い、宮津湾内航路へ転用された。
「橋立丸」を記録した絵はがきは、後方に阪鶴丸と隠岐丸(何れも船名不詳)を確認できる。また、対岸にさらに一隻、
不思議な船影を捉えている。





この船影は船尾の形状から、「旭丸」と見られる。「橋立丸」の使用は1904(M37)から1910(M43)までの間。「旭丸」
の転用は1910(M43)。海舞鶴駅桟橋における両船の邂逅は、あり得ないことではない。
「旭丸」は、1915(T04)の「文珠丸」「岩瀧丸」の登場により井上泰治郎に売却され、最末期は旭造船所所有となり、
1919(T08)に抹消された。覚えとして、宮津湾内航路の略年表を記しておく。

1909(M42).08.05 宮津湾内航路「第一由良川丸」で開設。
1910(M43)    使用船を「旭丸」に代替。
1915(T04)    新造船「文殊丸」「岩瀧丸」就航。
同年        「旭丸」(大蔵省→井上泰治郎)売却。
1922(T11).03   舞鶴・宮津間航路に貨物船「由良丸」就航。
同年        「第一由良川丸」(大蔵省)抹消。
1924(T13).04.11 峰山線(舞鶴・宮津間)開通により舞鶴・宮津間航路廃止。
1925(T14).07.30 宮津湾内航路廃止。翌日、峰山線(宮津・丹後山田間)延伸。
1929(S04)     貨物船「由良丸」(鉄道省→小林與四郎)売却。
1932(S07)     「文珠丸」(大蔵省)抹消。
1933(S08)     「岩瀧丸」(鉄道省)抹消。

舞鶴・宮津間航路に使用された貨物船「由良丸」についても年表に加えた。船影未確認の「由良丸」は、主に奥丹
後地方名産「丹後ちりめん」の輸送に使用されたという。年表にしてみると、「第一由良川丸」の1922(T11)迄の在
籍も、不思議に思える。「由良丸」投入と同年に抹消されたことから、貨物輸送に使用された史実はないかと、考え
てしまう。

鉄道連絡船史に船名を残しながら、旅客船「文珠丸」「岩瀧丸」の船影は、これまで紹介されなかった。日本三景の
一つ「天橋立」は、各年代において、多くの絵葉書に記録された。幸い「文珠丸」「岩瀧丸」姉妹は、絵葉書に船影を
残した。スマートな船の多い連絡船の中で、垢抜けないスタイルに見える。
建造者については、『鉄道技術発達史』は「福島光敏」、古川氏の著作は「福島光教」とある。船名録の造船所頁か
ら「福島」を探すと、島根県松江市にあった1893(M26)設立「福島造船所」らしい。各版の所有者欄を追うと、『船名録
T8版』までは「福島卯市」、『船名録T9版』から「福島光敬」。姉妹の建造は松江市「福島造船所」に間違いあるまい。



文珠丸 (不) 17G/T、木、1915(T04).02、福島造船所[福島光敬](松江)、50.40呎



岩瀧丸 (不) 17G/T、木、1915(T04).02、福島造船所[福島光敬](松江)、50.40呎





この2葉は船名不明。姉妹の船影の多くは、航路のハイライトの「廻旋橋」において記録されている。





1921(T10)鉄道省刊行の『鉄道旅行案内』に掲載の鳥瞰図と地図。舞鶴・宮津間航路と、宮津湾内航路が描かれ
ている。『福知山鉄道管理局史』によると、前者は大正12年度、後者は大正13年度に、最も活況を呈した。



これは、1921(T10).04.01改正の宮津湾内航路時刻表。宮津発下りは12便設定されている。
鉄道の延伸と航路の改廃は、どこの地域においても連動し、宮津周辺も例に漏れない。当時の鉄道路線図を『時刻
表1920(T09).07号』『時刻表1927(S02).06号』から見ると、峰山線(後の宮津線)の延伸と、舞鶴・海舞鶴間の旅客
営業廃止が目立つ。峰山線は舞鶴・宮津間1924(T13).04.12、宮津・丹後山田間1925(T14).07.31、丹後山田・峰山
間1925(T15).11.03、峰山・網野間1926(S元).12.25と延伸した。また、1924(T13).04.12に舞鶴・海舞鶴間の旅客営
業は廃止された。

天橋立は、代表的な砂州地形として、また歴史ある景勝地として、なかなか奥が深い。さらに、活躍する船ぶねも面
白い。旅客船で目立つのは、ファントムマリン石島造船の建造したスピードボート。これだけの隻数がまとまって活躍するの
は、かつての大村湾とここだけではないか。







「一体あれは何なのか‥?!」 エンジン音に振り向くと、松原ごしに操舵室のような構造物が動いている。驚いて遊歩道
を戻り、「廻旋橋」を通過するプッシャー軍団を目にした。日本冶金工業大江山製造所へ、沖荷役で積取ったニッケル鉱石
を運搬するプッシャーバージだった。プッシャー「双輪丸」は、撮影当時は、宮津港運の運航。同社は2011(H23)にカヤ興産
と合併し、宮津海陸運輸となっている。沖合に停泊するのは太平洋汽船の鉱石船。天橋立へ出かける時は、鉱石船
の入港時を狙うと楽しい。
『太平洋汽船社史』によると、「基礎産業部門との提携による専用船経営に着目し、この実現に努め」「ニッケル業界の
雄、日本冶金工業株式会社との提携のもとに、専用船第一船として、金龍丸を佐世保船舶工業において建造した」
とある。第一船「金龍丸」は、1958(S33).09.15に竣工し、ニューカレドニア島と宮津港間に専航就航した。

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「阪鶴丸」の登場

2017-08-13 | 旅行
前回は阪鶴鉄道による「舞鶴・境間航路」開設の経緯を記した。これまで著されてきた航路史とは、少々異な
る経過を辿っていた。今回は「阪鶴丸」登場から記してみたい。





阪鶴丸 10154 / JWVF 760G/T、鋼、1906(M39).05、大阪鉄工所、187.00尺[M40版]
「1尺」曲尺=0.3030303m

これは、大阪鉄工所アルバムに掲載された「阪鶴丸」の船影。トライアル時の撮影と思われる。船橋楼の腰より上、
及び船首楼のコンパニオン上部は、船体とは異なる塗色になっている。マスト、煙突及び通風筒も同色か。この塗色
は、前掲の「第三隠岐丸」と同じに見える。乗客定員は一等8人、二等35人、三等194人とある。

「阪鶴丸」登場の直前、1906(M39).07.07付山陰新聞は、同船の回航から定期運航に至るまでのスケジュールを
報じている。各港におけるレセプションの予定など、大変に興味深い。就航先各港における期待の高さを、このこ
とからも伺えよう。

7/03 20時 大阪出港
    途中、多度津寄港後、舞鶴へ直航
7/06 15時 舞鶴入港
7/07 17時 来賓饗応
〃   22時 舞鶴出港
7/08 06時 賀露入港、観覧に供す
〃   08時30分 賀露出港、馬潟へ直航
〃   15時30分 馬潟入港
〃   17時 来賓饗応
7/09 07時 観覧に供す
〃   09時 馬潟出港
〃   10時 安来入港
〃   11時 来賓饗応
〃   13時 観覧に供す
〃   14時30分 安来出港
〃   15時 米子入港
〃   16時 来賓饗応
7/10 07時 観覧に供す
〃   09時 米子出港
〃   12時 境入港、直ちに来賓饗応
〃   18時 定期の運航に就く



1906(M39).07.10付山陰新聞は、馬潟におけるレセプションの詳細を報じている。来賓と芸妓は、「料理其他の準
備あり」という理由により、松江港東桟橋と馬潟港において、散々待たされたようである。待ちくたびれた芸妓
が自転車を乗り回した事まで記事となり、110年以上も経った今に、進行管理の難しさを伝えている。続いて、
記事から船内の造りや装飾、祝賀会の様子を覗いてみよう。

一等室は稍や寝臺狭くして肥満せる乗客はドウやらと思はるばかり併し其設備は清楚にして旅情を慰
するに足るべく食堂亦敢て議すべきにあらす而して喫煙室は盖し船中の白眉とも稱すべし二等室は平
民的にして男子同士の乗船には快味少なからさるべきか下りて三等室となると無理に押込めば三百人
というのてあるが棚なしの家庭的に作られたるを以て郵船等の牛馬舎同様なるに比すれば二等の価値
あり他に其類を見さる所にして東海道の三等食堂付急行列車よりも乗客の意に適するものあるべしコ
レ将た本船の特色なるかサスがにハイカラー船の稱あるたけ先づは近頃気の利きたる新造船というに
吝かならす或るものは之れを評して隅から隅まで行届きてドコやらにシッとりとした処は田社長の人格
を代表しドコまてもハイカラー風なる処は早見支配人其ままなるか如しと


しかし、これ程までに当時の新造船就航祝賀会の様子や、船内装飾を詳述した記事も珍しい。

甲板上は電灯によるイルミネーションを灯し、真昼のようであった。また、ハンドレールには野草や花々を用いて装飾し
ていたという。現在の、モールのようなを用い方だったのか。船内の式場も、同様に草花にて装飾し、中央の
天窓にはリボン様の布を何本も交叉させて、卓上には約一間ごとに草花挿した竹籠を配置していた。
祝賀会において、田社長は「南北連貫航路」の重要性と本船新造の経緯を語った。松永武吉島根県知事、松
江の企業経営者、福岡世徳松江市長らの祝辞の後、「阪鶴丸万歳」を三唱し、「酒、泉の如くして芸妓その間
に周旋し飲まさるに酔ふて狂せんはかり」とある。来賓達は迎えの船に乗り、松江港へ帰着した時は22時を過
ぎていた。来賓数は160~170名に上ったという。

時代の先端を行く大型新造船「阪鶴丸」は、就航先の人々に歓迎され、1906(M39).07.10境港18時出港の上
り便から定期航海に就いた。「第十壹永田丸」からの置換えは、境出港広告から見ると次のとおり。

7/08 第十壹永田丸 境出港 <これまで隔日運航>
7/10 阪鶴丸 境出港(処女航海)
7/11 第十壹永田丸 境出港(最終航)
7/12 阪鶴丸 境出港 <以後、隔日運航>



手許に不思議な絵葉書がある。船名は「阪鶴丸」とあるのに、船影は「第貳勢至丸」。絵葉書から船名は読み
取れないが、『大阪鉄工所アルバム』は、全く同じ写真の「第貳勢至丸」を収録している。どんな経緯によりこの
絵葉書は世に出たのか、疑問を抱いてきた。目にした当初は、この船影こそ「永田丸」ではないか‥と考えた。
「阪鶴丸」就航の新聞記事を読むなかで、祝賀会において配布された数種の絵葉書のあることを知った。恐ら
く、竣工と祝賀会の間の時間は少なく、同じ頃に大阪鉄工所建造の建造した船から写真を見繕い、絵葉書は
製作されたと見ている。
絵葉書の「船影取り違い」や「船名の修正」は、枚挙に暇がない。何故このような作為をするのか、全く理解不
能なものさえある。絵葉書の船名は、先ずは疑ってかかる必要がある。

『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告(第四回)』は、「舞鶴境線」の寄港地として「往復共米子、安来、馬
潟ニ寄港し、臨時賀露ニ寄港ス」とある。また、航海頻度については、「総噸数七百八十噸平均十海里ノ船舶
一艘ヲ用ヰ夏季ハ隔日冬季ハ三日一回ニ舞鶴又ハ境ヲ發ス」とある。
だだ、疑問なのは、『大阪海事局報告(第四回)』は、M38年01月~12月における報告の筈。この間には、阪鶴
鉄道による定期航路は開設されていない。しかし、刊行年月との間に時間があり、「山陰道の海運」特集は挿
入されたと考えている。
この記事で重要なのは、当初、賀露寄港は臨時であったことと、出港頻度は「夏季ハ隔日冬季ハ三日一回」
であったこと。このことは、阪鶴鉄道時代の1906(M39).07~1907(M40).07における新聞広告から、裏付けを
得ている。この間、9月まで隔日、10月から翌年3月まで三日に一回運航し、月末に運休日を設定している。

1907(M40).08.01「舞鶴・境間航路」は買収により国有化された。国有後の「阪鶴丸」の船影は、二点見つか
っている。





上は十神山を背景に安来港に停泊する船影。ファンネルマークは「工」に変わり、塗装は腰より上の塗り分けが無い。
境港における船影は、所々に松飾りを付けていて、暮れから正月にかけての記録とみられる。

『日本鉄道連絡船史』から、国有化後の「舞鶴・境間航路」を引用させていただく。

国有鉄道の阪鶴鉄道買収と共に、同社が大阪鉄工所において建造中なりし第二阪鶴丸(八六四噸)も
国有鉄道に継承され、明治四十一年六月二十五日竣工し、同年七月十日、舞鶴・境間航路に配船され、
同年八月二十日より従来の隔日運航を毎日運航に変更した。
同航路は浜坂及び鳥取市外賀露港に寄港することにしたが、連絡作業が困難なるため永続しなかった。
明治四十五年三月一日、山陰本線の全通によつて、本航路は廃止された。


『大阪鉄工所アルバム』は進水直後の「第二阪鶴丸」を記録している。刊行年月の記載は無いが、この頃に刊行
されたとみられる。



第二阪鶴丸 11081 / LFKS 864G/T、鋼、1908(M41).04、大阪鉄工所、187.62尺[M42版]
「1尺」曲尺=0.3030303m





「第二阪鶴丸」当時の絵葉書は二点あり、舞鶴海岸駅における船影と、旧境港灯台を背景に、境水道を港外
へ向けて航行する姿。

1908(M41).08.20付山陰新聞は、「阪鶴丸毎日の航海」として「第一、第二阪鶴丸は本日より隔番毎日の航海
をなすと云ふ」と報道している。運航スケジュールは「舞鶴発午後4時、境着翌朝6時。境発午後6時、舞鶴着翌朝
8時」「八月廿日より実施」とある。

新聞広告を見る限り、賀露への定期寄港は確認でず、『連絡船史』の記述は、裏付を得られない。一方、浜坂
(諸寄)への定期寄港は、1908(M41).09.15~12.10の間であった。初日の「帝国鉄道連絡船出帆広告」に「本
月15日より濱坂(諸寄)ニ寄港但上下便共寄港せざる分あり」と記される。『大阪海事局報告(第四回)』にある
とおり、賀露は臨時寄港であったと思われる。
1907(M40).04までは鉄道作業局、以降、帝国鉄道庁。1908(M41).12から鉄道院と改組されたその間にあたる。

1912(M45).03.01山陰線浜坂~香住間は開業した。鉄道院米子出張所は、「境舞鶴間ニ運航シタル連絡汽船
ハ二月末日限リ廃止致候」と新聞広告を出している。

「阪鶴丸」は宇野・高松間航路に臨時配船後、阿波国共同汽船に払下げられた。「第二阪鶴丸」は関釜航路の
貨物輸送に従事後、青函航路に配船。後に、同じく阿波国共同汽船に払下げられ、「第十八共同丸」と改名さ
れた。

最後に「舞鶴・境間航路」略史を掲げる。鉄道連絡船「阪鶴丸」の華やかな時代は、6年に満たなかった。
1904(M37).11.01 隠岐汽船と阪鶴鉄道は、車船連絡輸送契約を締結。
1905(M38).03.19 隠岐汽船と阪鶴鉄道は共同し「浮世丸」用船契約を締結。
1905(M38).10末 「浮世丸」用船契約を解除。
1906(M39).01.09 「第十壹永田丸」就航(三日毎)。
1906(M39).07.10 「阪鶴丸」境港18時出港の上り便から定期航海に就く。
            2隻体勢となるまで、4~9月は隔日、10~3月は三日毎。
1907(M40).08.01 「舞鶴・境間航路」は買収により国有化。
1908(M41).08.20 「阪鶴丸」2隻体勢となり、毎日就航。
1908(M41).09.15 浜坂(諸寄)寄港開始。12.10まで。
1912(M45).02.29 「阪鶴丸」就航最終日。翌日、山陰線開通。



いわつばめ 17G/T、FRP、藤井造船所
リアス式海岸の山陰東岸には、遊覧船の活躍する入江が点々と並ぶ。沿道に桐の花の咲く季節、国道178号を
走り、浜坂港へ但馬海岸遊覧船㈱「いわつばめ」を訪ねた。最近訪れていないが、『フェリー・旅客船ガイド』による
と、先年、経営者も船も変わったらしい。

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「舞鶴・境間航路」の開設

2017-04-09 | 旅行
明治40年前後の新聞紙面から、阪鶴鉄道によって開設され、官設鉄道に継承された「舞鶴・境間航路」史
を調べていた。掲載された記事や広告には、これまでに著された航路史とは、少々異なる経過が記されて
いた。また、詳細不明の「永田丸」も、真相に近づけた。

阪鶴鉄道による舞鶴・境間航路開設の経緯は、『日本鉄道史』や山本煕著『日本鉄道連絡船史』[1948(S
23).03.25]に詳しい。後者は「阪鶴鉄道時代」と「鉄道国有後」に分けて記述され、その内容は、後に著され
た文献のベースとなっている。前段の阪鶴鉄道時代を引用させていただく。

阪鶴鉄道は、福知山・舞鶴間の官線の借受けにより、宿願を達し、さらに海運を兼営して、山陰地
方をその培養圏内に入るることを企図し、舞鶴への開業と共に、舞鶴・宮津間航路を開き、さらに
明治三十八年四月には汽船永田丸を用船して舞鶴・境間の航路を開いて隔日運航をなした。
‥(略)‥
同社は本航路開設に当つて、新船の建造に着手し、大阪鉄工所とその建造を契約すると共に、鳥
取島根の両県に航路補助金の下付を申請して、その聴届を得た。
明治三十九年七月十一日、新造船阪鶴丸(七七五噸)を就航せしめて、永田丸と交替させた。


阪鶴鉄道による舞鶴・境航路の「開設日」「投入船」を探るには、その前史にも触れておかねばならない。
『日本郵船50年史』を紐解くと、1885(M18)創業時の命令航路には「神戸小樽西廻線」があり、同社第22
期(M39.10-M40.09)まで経営した。社史の航路沿革図によると、門司・敦賀間の寄港地は境のみ。後に
触れる『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告(第四回)』は、「参考」として「山陰道ノ海運」というタイム
リーな特集を組んでいる。神戸小樽西廻線の項には「毎週一回ノ発着ニシテ之ヲ利用スルコト稀ナリ」「阪
鶴航路ノ開始以来著シキ打撃ヲ蒙リ従来敦賀ニ出テタル郵船客ノ始ント過半ハ総テ仝線ニ奪ハレ益々
減少スルノミナリ」とある。日本郵船はダンピングしたものの、使用船に関するクレームもあり、22期を最期に
廃航した。
『大阪商船50年史』によると、従来、山陰方面における海運は加能汽船[1886(M19).05設立]によって経営
されたが、同社解散[1900(M33)]の後、境以東に汽船航路は無くなった。大阪商船は1901(M34).04.06に
「大阪舞鶴線」を開設し、「手取川丸」「金龍丸」を投入、月間5回運航した。前者は加能汽船「加能丸」の
後身であり、1900(M33)年中に取得・改名されている。大阪商船による本航路は、1904(M37).07に休航し、
1905(M38).04に廃航となった。
また、本航路史については、『隠岐航路史』『百年の航跡』(共に隠岐汽船刊)も詳しい。特に前者は年度
毎の詳細を記述している。
隠岐汽船は、隠岐~境航路の充実に併せ、新たな航路の拡張を図るため、総会決議を経て1903(M36).
03大阪で建造中の「大成丸」を購入し、「第三隠岐丸」と改名、1903(M36).05下旬より隠岐(浦郷)~舞鶴
航路を開始した。同船は、隠岐汽船最初の自社所有船である。
1904(M37).11.03官設鉄道の新舞鶴(現:東舞鶴)延伸が完成すると、阪鶴鉄道は開通区間を借受け、大
阪~新舞鶴間の直通運転を開始した。
直通運転開始の二日前、1904(M37).11.01隠岐汽船と阪鶴鉄道は、山陰東岸と京阪神を結ぶ車船連絡輸
送契約を締結した。契約締結に先立つ10月より、隠岐汽船は隠岐(浦郷)~舞鶴航路に充てていた「第三
隠岐丸」を、専ら境~舞鶴・敦賀航路に充当した。大阪商船は1905(M38).03末同航路を廃止したという。
(『大阪商船50年史』と廃航日が異なる。)



第三隠岐丸 8700 / JQTL 185G/T、木、1903(M36).03、片岡彦次(大阪)、119.50尺[M37版]

隠岐汽船による境~舞鶴航路は、貨客とも日増しに増加し、「第三隠岐丸」一隻のみでは船腹不足を来
した。そこで隠岐汽船と阪鶴鉄道は共同し、1905(M38).03.19に「浮世丸」(9127 / JSCN、356G/T)の用船
契約を締結した。同船は高崎謙二所有、同所建造[1904(M37).07]の新船。大阪商船の用船により、大阪
~熱田、大阪~内海(宮崎)等に使用されていた船。しかし、「浮世丸」は本航路にそぐわない不採算船と
判り、1905(M38).10末に用船契約を解除した。隠岐汽船は、この解除に併せ航路を隠岐~舞鶴と改め、
「第二隠岐丸」も追加投入した。さらに、翌年度からは「隠岐丸」も就航させている。隠岐汽船が山陰東部
沿岸航路の全てを廃止したのは、山陰線全通の1910(M43).03.01であった。



「浮世丸」の最初に現れる出帆広告[1905(M38).03.29]と、その直前の広告[同年03.04]を対比する。
因みに、「浮世丸」は1908(M41).07.28アムール河口の露領「ニコライスク」(現:ニコラエフスク・ナ・アムレ)において炭庫
より出火、水線上全部を焼失して河底に沈没した。彼女の渡った浮世は、僅か4年の短いものとなった。
広告には、就航は「不定期」、寄港地は「橋津、賀露、濱坂、津居山、宮津舞鶴行」「但積荷都合ニ依リ
敦賀迄延航スルコトアル可シ」とある。

次に、連絡船史等に「永田丸」と記される汽船について触れたい。『船名録』の「M39版(M38.12/31現在)」
と「M40版(M39.12/31現在)」に、「永田丸」という登簿汽船は見当たらない。『船名録』に載る「番号付の
永田丸」は次のとおり。
39・40 第貳永田丸 6877 / JCQV 1163G/T M33.03 (御用船として使用中)
39・40 第四永田丸 2570 / HPSR 40G/T M31.09 
39・40 第八永田丸 6924 / JCRW 360G/T M33.11 
39・40 第九永田丸 7068 / JDBF 20G/T M34.05 (御用船として使用中)
39・40 第十永田丸 7067 / JDBC 39G/T M34.06 (御用船として使用中)
39・40 第十壹永田丸 8356 / JDBR 414G/T M34.10 大阪~境
39・40 第十二永田丸 8386 / JDCV 522G/T M35.03 神戸~東京 (御用船として使用中)
39・40 第十三永田丸 8803 / JRFH 569G/T M36.10 神戸~小樽 (御用船として使用中)
39・40 第十四永田丸 9275 / JSLK 668G/T M37.11 (御用船として使用中)
39・40 第十五永田丸 9112 / JRSM 361G/T M37.06 神戸~仁川
-・40 第十七永田丸 10300 / LBMK 70G/T M39.05

1905(M38)から1906(M39)にかけての永田三十郎所有「永田丸」は上記のとおりで、右に記した航路等は、
『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告(第三回)』(M37年中)による。



新聞記事や広告は、「永田丸」の総トン数を「415噸」と記している。阪鶴鉄道の用船した「永田丸」は、
「第十壹永田丸」と特定して間違いあるまい。船名録は表示単位未満は切捨てだが、切上げたと思われ
る。また、当該船の航路は「神戸~下関~境航路」とある。推測になるが、全く見ず知らずの船ではなく、
境港に姿を見せていた同船を、阪鶴丸登場までの繋ぎとして用船したものと思われる。

「第十壹永田丸」投入時期も、新聞記事から判明した。M39.01.10付紙面は米子港トライアル(?)入港の状況
を、また同01.12付紙面は舞鶴・境間航路開設に関し、次のように報じている。

阪鶴鉄道連絡汽船初航海
阪鶴鉄道連絡汽船永田丸は米子深浦初航として去五日満船飾を以て入港せしに依り荷客取扱所
員は勿論米子町大字大工町塩町の全体は出迎の上船員一同を倉庫内の宴席に招待し歓待を為し
たるが汽船は同夜一泊せり爾後隔日に入港し荷扱所は米子は大字日野町立林喜太郎宅に大阪は
西横堀相生橋角梅田停車場構内の両荷物取扱所にて取扱を為す由にて旅客運賃は米子より大阪
まで金三圓八十銭速達便は目方五貫目にて運賃三十銭普通荷物も非常の勉強を為すべしと披露
せり

舞鶴境間の直航開始
阪鶴会社においては従来舞鶴と境港との間を浮世丸及び隠岐丸を以て連絡運航し来たるか今回
新たに汽船永田丸(四百十五噸)を専用船となし去九日を初航に以来三日目毎の直航を開始し
僅々十四時間にて境港に着するを以て松江大社米子安来等の乗客及び貨物の運輸上には至大
の便宜を得ることとなれり尚ほ津居山浜坂鳥取橋津への往復は従前通り第二第三両隠岐丸を以
て運航する筈なりと


これら紙面や広告から、阪鶴鉄道の用船した直航船は「第十壹永田丸」が最初であり、境港発上り初航
はM39.01.09からで、就航は三日毎であると判った。
同じ01.12付の紙面には「馬潟近況」という記事もあり、浚渫船を用いた馬潟港浚渫工事の進捗と共に、
「阪鶴連絡汽船永田丸は遠からず来航すべく又阪神往来船も碇泊すべし」と報じている。
これまで、連絡船史等に記された「M38.04」という年月を採るなら、3月中に初便の運航された可能性は
残るものの、当初の使用船は隠岐汽船と共用の「浮世丸」となる。さらに「第十壹永田丸」就航までの間、
二ヶ月強の休航期間もあった。
一方、使用船を「永田丸」とするなら、就航は「M39.01」からとなる。運航頻度は「隔日」ではなく「三日毎」。
新聞広告によると、永田丸は「阪鶴鉄道新造船(来ル六月竣工)開航準備トシテ」の投入であった。





隠岐汽船は、前述の航路以外にも、舞鶴~津居山線や、津居山~網代線を運航した時期もある。そのた
め、津居山港を記録した絵はがきに、隠岐汽船は船影を残している。一枚目は「第二隠岐丸」。二枚目の
白い船体の船は、「第二隠岐丸」に比べると小形に見える。「隠岐丸」か「第二船穂丸」と見られる。

第二隠岐丸 1525 / HKMC 228.89G/T、木、1895(M28).04、森川卯三郎(大阪)、128.10尺[M29版]

津居山港を訪れた時、海はシケていた。城崎マリンワールドを見下ろす撮影ポイントまでバイクで登り、日和山観
光の遊覧船の出港を待ったが、その日、遊覧船は欠航となった。船だけは見ておこうと、円山川沿い係留
場所へ向かった。





「マリンビュー2」は津居山のガソリンスタンドの前に、「マリンビュー1」は個人の庭先のような所に係留されていた。た
またま、撮影のお許しを願った方が、関係者であった。ヤマハ発動機(蒲郡)建造の姉妹の話を伺ったが、特
に印象深かったのは、同じヤマハ発動機製の「かいげつ11」を見に、的矢湾へ行かれた話。船や海の話に、
時の経つのを忘れた一時だった。

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若狭湾の鉄道連絡航路

2017-02-09 | 旅行
前項にて触れた「第貮橋立丸」は、阪鶴鉄道の発注により建造された船。若狭湾内に活躍した鉄道連絡船
は、京阪神近郊の景勝地の故か、多くの絵葉書に船影を残している。手持ち画像から、若狭湾内の鉄道連
絡船の姿を見てみたい。
若狭湾内の鉄道連絡船を探るには、阪鶴鉄道について記さないわけにはいかない。1893(M26).08に住友吉
右衛門外56名は、大阪と舞鶴を結ぶ鉄道を出願し、翌1894(M27).09に神崎から三田、篠山を経て福知山へ
至る鉄道の、敷設等の仮免状の下付を受けた。1895(M28)に阪鶴鉄道を設立し、免許は1896(M29)に下付
され、鉄道敷設を進めた。阪鶴鉄道は1899(M32).07.15に福知山南口まで到達・開業したものの、綾部~舞
鶴間の免許は京都鉄道に下りていて、当初の目的を達せられずにいた。一方、京都から舞鶴を目指した京
都鉄道は、1899(M32)に園部まで開業したが、その先の敷設は捗らなかった。
同年12月に、阪鶴鉄道は再び福知山~舞鶴及び宮津間の鉄道敷設の免許を求めたが、却下された。その
ため、阪鶴鉄道は由良船舶商社を設立し、由良川水運により、舞鶴及び宮津を目指すことになる。2隻の
「由良川丸」についても後に記したい。
その後、阪鶴鉄道に許可されなかった区間は、国によって敷設された。1904(M37).11.03官設鉄道の福知山
~綾部~新舞鶴(現:東舞鶴)の完成をみると、阪鶴鉄道は自社線と官設鉄道線を連結し、開通区間を国か
ら借受け、念願の大阪~新舞鶴間直通運転を開始した。
阪鶴鉄道の舞鶴~宮津航路は、「橋立丸」の回航到着を待ち、11.24に運航を開始した。続いて舞鶴~境航
路、舞鶴~小浜航路を開設したものの、1906(M39)03.01公布の「鉄道国有法」により、1907(M40).08.01阪鶴
鉄道は航路・汽船共に買収され、国有化された。買収時、「第二阪鶴丸」は建造中であった。

『鉄道技術発達史』によると、若狭湾に関係する航路の運航期間は次のとおり。中には誤記と思われる日付
もある。
1901(M34).12.01~1904(M37).11.03 由良川水陸連絡航路。
1904(M37).11.24~1924(T13).04.11 舞鶴~宮津航路。
1905(M38).04.-~1912(M45).03.01 舞鶴~境航路。
1906(M39).07.01~1913(T02).06.20 舞鶴~小浜航路。
1907(M40).08.01              買収により国有化
1909(M42).08.05~ 1925(T14).07.30 宮津湾内航路。



阪鶴鉄道により開設され、国有鉄道の継承した「舞鶴~宮津」「舞鶴~小浜」両航路に、橋立丸三隻はど
のように運用されたか、その船影と共に航跡を追いたい。航路の開設・廃止と就航船からⅠ~Ⅳ期に区
分できる。



橋立丸 9210 / JSLC 58G/T、木、1904(M37).10、大阪鉄工所、79.20尺[M38版]
「長」は「メートル換算」せずに表記。「1尺」曲尺=0.3030303m
この船は阪鶴鉄道の発注により建造された。田辺富士とも云われる特徴的な山容の「建部山」を背景に、
海舞鶴駅桟橋に係留される「橋立丸」。鮮明な船影は初出と思われる。
『鉄道連絡船100年の航跡』によると、「航程わずか30キロとはいえ、日本海の荒波を乗り切るには、この
52人乗りの橋立丸ではあまりにも小型で、しばしば欠航」し、1910(M43).12第三橋立丸と交代して宇高航
路へ転属した。同書には「S6年売却」とある。また、『鉄道技術発達史』には、除却年月として「S5.6.4」とあ
る。しかし、『船名録』には運輸省所有として「S22版」まで掲載される。営業から外れた車輌が、車籍を抹
消されても、構内用備品として残ったようなものか。良く判らない。
「橋立丸」一隻のみのⅠ期時刻表は確認できなかった。『福知山鉄道管理局史』には「M37.11.24から舞鶴
・宮津間16哩に1日1往復の運航を開始」とある。舞鶴発上り列車に乗継がせる必要から、Ⅱ期時刻表は
宮津始発で3往復している。







第貮橋立丸 10152 / JWVC 170G/T、木、1906(M39).05、小野清吉、115.30尺[M40版]
阪鶴鉄道「舞鶴~小浜」航路は、この船の投入によって開設された。『福知山鉄道管理局史』は、鮮明な左
舷側画像を掲載している。「第二橋立丸」は、1924(T13)井上達三(徳島繁栄組汽船部)に払い下げられ、阿
攝航路に就航してからの船影が、大阪築港桟橋において多数記録されている。二枚目、三枚目は大阪築港
桟橋に於ける同船。
航路開設9ヶ月目にあたり、国有化直前でもある1907(M40).03時刻表においては、「小浜~舞鶴~宮津」航
路に就航している。Ⅱ期における両船の箱ダイヤを作成してみた。



箱ダイヤを描いてみると、両船の運用は限定運用であったと良く判る。この設定では、小浜から阪鶴鉄道へ
の旅客誘導は困難であったと思われる。『日本鉄道連絡船史』には、「第二橋立丸は本航路船としては小
形であることと、従来の取引関係が、同一県下なる敦賀、福井に密接な関係を有していたので、予想の客
貨を獲得することが出来ず、その成績は不振であった」とある。「舞鶴~小浜」航路は1913(T02).06.20廃止
され、丹越汽船へ譲渡された。







第三橋立丸 13704 / LPBN 168G/T、鋼、1910(M43).10、浦賀船渠、103.4尺[M44版]
「橋立丸」に代え、1910(M43).12.24から就航した。『鉄道連絡船100年の航跡』には、「国鉄がはじめて「鉄
道連絡船」として発注した鋼製客船」とある。海舞鶴駅桟橋における、船名の読み取れる画像が残ってい
る。上甲板前部舷側は開放の通路、後部はポールドの並ぶ甲板室となっている。先の二枚の画像から、不
鮮明ではあっても、三枚目の画像は同船を捉えたものと判断できる。1922(T11).03「舞鶴~宮津」航路に、
貨物船「由良丸」29.59G/Tを投入し、丹後縮緬の輸送を行ったと記録されるが、船影は見つかっていない。
1924(T13).04.11「舞鶴~宮津」航路は廃止され、「第貮橋立丸」は民間払下げ、「第三橋立丸」は宇高航路
へ転配された。



Ⅲ期の1912(M45).09の箱ダイヤからは、両船は共通運用で「小浜~舞鶴~宮津」航路に就航していると判
った。時刻表は「舞鶴~小浜」航路を「第貮橋立丸」限定のように記すが、これは誤り。



宇高航路に移ってからの「第三橋立丸」は、「貨車はしけ用曳船」として使用するため、操舵室の改造を受
けた。遊歩甲板前部にあった操舵室は、新たに航海船橋甲板を設けて移設している。これは、積載した貨
車等に遮られる視界を、広くするための措置と思われる。撮影時には、飾り窓を持った古典客車を航送し
ている。



第二わかさ 125178 / - 50G/T、強プ、1985(S60).04、小浜ドック、25.50m[2017版]
小浜へは、蘇洞門・小浜湾周遊航路に就航する「そともめぐり」の小型客船を撮影に、何度か訪ている。こ
の時は、琵琶湖の撮影と掛け持ちした。新緑の303号線は快適な走行だった。三隻全船の航行中の撮影は、
未だ果たせていない。機会を設けて再訪したい。
小浜港に鉄道連絡航路のあったことを知った時、にわかに信じられなかったことを思い出す。

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晩秋の吉備路へ

2016-12-31 | 旅行
2016(H28)年の暮れにあたり、自身の覚えとして、本年、最も心躍らせた小型木造汽船「T丸」と、その船に
纏わる旅について、記しておきたい。
「T丸」は、終戦後に建造された旅客船。鮮明な進水記念式典の画像を手にしてから、長い間、その特定に
頭を悩ませてきた。セピア色になった写真の裏面には、今はY市域となっている地名を冠した造船所名が記さ
れていた。鮮明な写真から船名を読取れるのに、何故、記録に迫ることが出来ないのか。交通事情の逼迫し
た当時に建造されながら、杳として掴めぬ「T丸」の消息に、長い間、もどかしい思いをしてきた。
勤務する船会社には、荷主やメーカー・商社の営業さんが打合せに来所する。本船出港の度、荷の確認にご
来所下さる商社マンI氏とは、打合せの後、バイクやツーリングの話をする間柄。I氏お勤めの商社は、主に鉄製品
を扱っている関係から、瀬戸内の中核都市Y市に営業所を構えていた。
Y市の縁から、I氏に「T丸」の話をしたのが今年に入ってから。I氏は直ぐ、Y営業所の同僚M氏に「T丸」の話
をお伝え下さった。M氏もバイク好きで、早速、造船所のあった集落を訪れ、地元の方々のご紹介もあって、
「T丸」建造をご記憶のご尊老より、証言を頂戴することが出来たという。
これには驚かされた。『戦時船名録』にも採録されず、全く手掛かりを得ることの出来なかった小型木造汽
船について、自分は全く身体を動かさず、情報を得ることが出来たのである。ご尊老の証言と船舶原簿より、
芋蔓式に「T丸」の謎は解けた。年内に、Y市にご尊老とM氏を、お尋ねしたいと考えていた。

そんな頃、関係している団体の事務局長氏より、玉島港と備中鍬の話を伺った。氏は倉敷市のご出身。
倉敷市内の玉島は、備中松山藩(高梁市)の飛地として新田開発・築港が行われ、高梁と玉島は高瀬舟によ
って結ばれた。備中松山藩は、領内から採取される砂鉄から備中鍬を生産し、江戸へ移出・販売することで、
藩財政を立て直したという。
製鉄文化に関連し、氏の話は「青江の刀鍛冶」にも及んだ。その時、地名「青江」を耳にして仰天した。
高校生の頃、備中国青江住「次吉」作の古刀を一つのモチーフとした小説を手にした。数年前に他界された作
家の、僕にとって入口の作品となり、後に、作品全てを読了した。しかし、刀剣に関心は向かず、「青江」が
実在地名とは、考えもしなかった。青江には刀鍛冶の守護神を祀った神社や、刀工の井戸も残っていると
判った。

秋も深まり、旅心は募るばかり。仕事の調整もつき、珍しく昼行で西へ向うことにした。運輸局や法務局での
調査もあるため、現地調査日に平日を充てた。自宅を08:10に発ち、晩秋の箱根を超え、新東名道へ入った。
浜松いなさJCTと豊田東JCT間は初走行区間。快適な走行から、箱根を超えたら、直ぐ中京地区‥といった
感覚。北風の厳しい日で、伊勢湾岸道では車体を倒しても、いきなり現れる風の道に、吹き倒されそうになる
恐怖を覚えた。若狭湾から琵琶湖、濃尾平野を通り、伊勢湾へ吹き抜ける風の道を体感した。桑名へ渡り切
った時には、心底「ホッ」とした。途中、静岡SAと西宮名塩SAの給油停車のみで、16:05岡山総社ICから下道へ
出た。陽は西へ傾いていたが、先ずは青江神社を目指した。



全国を歩いていても、余り、風景写真を撮ることはない。今回、偶々見かけたこの風景に、バイクを停めた。
備中国分寺は江戸期に再興され、五重塔は江戸末期の建築。予備知識無しに現れた、絵になる風景に感動
した。







高梁川堤防上の県道を南下し、青江神社に参拝する。境内には金山神社もあり、拝殿内には男根が祀られて
いた。岡山県神社庁のHPには、青江神社に関し「当社の御祭神素盞嗚命、五十猛命は吉備穴海、高梁川接点
の津の神であり、金山彦神、金山姫神は鎌倉、室町期に栄えた青江鍛冶の守護神と伝えられている」とある。
祭神の解説は、附近の原地形を考える上で非常に興味深い。
青江神社参拝を終えた頃には既に日は落ち、夕闇のなか、青江の井戸へ向った。墓地横の路地から山に入る
には、勇気が要った。井戸とは言っても水溜りのよう。手を浸したら凍みるように冷たかった。





宿は岡山市内にとり、翌日は早朝から「高瀬通し」を見学した。「高瀬通し」は、農業用水及び高瀬舟の運航
を可能としするため、船穂町水江から玉島港にかけ、正保2(1645)年から延宝2(1674)に整備された約10㎞の
水路。船穂町水江にある「一ノ口水門」「二ノ口水門」の間が閘室だったという。
現在、高梁川からの取水はサイフォン式となっているが、築造当時、それぞれの水門が、どのように機能したの
か、現地では良く判らなかった。『運河と閘門』は、従来の説と異なる説も取り上げている。
グーグルアースを見ると、現地の高梁川中に洗堰がある。至近から見ようと藪漕ぎしたが、行き着けずに諦めた。



「二ノ口水門」の山手に「白神源次郎記念碑」のあることに気付いた。帰宅して調べたところ、水江村に生ま
れた白神は、高瀬舟を仕事としていた。日清戦争で死亡した白神は、「死んでも喇叭を離さなかった」美談
の主として広く紹介されたものの、後に、喇叭手は別人の木口小平であったとされた。訂正は、白神の死因
が溺死であった事によるという。
何故に美談は生まれ、広まったのか。日清戦争に同じ備中国から出征し、喇叭手となった2人の若者が、生
きて再び故郷に帰れなかったことに、違いは無いのである。



高梁川の右岸を下流へ向かい、玉島で羽黒神社に参拝した。神社の鎮座する羽黒山は、干拓前は阿弥陀島
(古来「玉島」と呼ばれた)という小さな島であった。羽黒神社は、万治元年(1658)年、備中松山城主水谷伊勢守
が玉島周辺の干拓に着手するにあたり、出羽神社の神霊を勧請したことに始まる。玉島の市街は、羽黒神社
を中心に広がる。溜川河口は高梁川の河川舟運と、北前船による沿岸舟運の結節点として、大いに繁栄した。



玉島みなと公園から周辺を眺めた。遠くに中国電力玉島発電所の煙突を望んだ。高校3年の夏休み、東京
港から内航貨物船に便乗した経験を記したが、水島港の製鉄会社専用岸壁に上陸したことを思い出す。
みなと公園で時間調整の上、運輸局と法務局を訪れ、証明書を取得した。その後、ご尊老をお訪ねし、柔ら
かな晩秋の日射しのもと、造船所跡地を望む縁側で「T丸」のお話を伺った。時代に翻弄された小型木造客
船の航跡と、建造に関わった人々の、喜びや悲しみが胸に響いた。お読み下さった方には申し訳ないが『日
本船名録』や『戦時船名録』に採録されなかった船名の故、明記は控えさせていただきます。

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さまざまな旅

2014-12-31 | 旅行
オーナー間を転々としながら活躍水域を変え、地域の人々の足となる小型客船の船歴は、「旅」そのものと考えて
いる。船を追うボクは撮影優先の「旅」をしている。予め緻密な旅程を決めず、運航ダイヤと日の出日没を計算し
つつ港を巡り、辿り着いた街に泊まっている。漂泊の旅の所以である。
大晦日となってしまったが、秋の初め頃に出掛けた心に残る旅を記しておきたい。

「はぎおおしま」の投入された萩海運は、早い内に訪れたいと考えていた。
「フェリーくるしま」を下船して冨岡I.Cから都市高速に入り、関門橋を渡って厚狭東へ向かった。途中、ガス欠の危
機に陥り、小郡往復という思わぬ時間のロスもあった。新設の小郡萩道路は走り易く、入港前に萩港へ到達した。
朝方の萩海運は撮影しにくい。防波堤内側の水域で撮るならともかく、波を切って航行する姿を順光で狙うに
は、せめて川の対岸の磯に立ちたい。しかし、磯はすぐに断崖で途切れてしまい、納得するような所まで進め
ない。最初の頃は満足したものの、前回は断崖上に出て、俯瞰撮影をものにすることが出来た。





たちばな2 127999 / JK4685、134G/T、鋼、1986(S61).11、三菱重工業(下関)

これは2006(H18)と2008(H20)に撮影した「たちばな2」。大島航路に投入されていて、相島航路よりも港への
進入角度が緩やかで、対岸からも撮りやすい。2008年の画像背景は相島で、同島を07:00に発った「つばき2」
が見えている。画像データを確認して驚いた。この二枚は共に07:24にシャッターを切っている。
撮影地を探してバイクで鶴江台に上ったが、眺望も開けず道幅も狭くなって引き返し、バイクを止めて石段から登
りはじめた。家並みを抜けた先に墓地が見えた。前回に訪れた時に墓地はあったろうかと、記憶をたどるよう
右手を見上げたところ、立木を背に、十字架を乗せた碑が建っていた。なぜ十字架‥? 下部に碑文は埋め込
まれていた。





目指すでも探すでもなく、偶然に行き当ったキリシタン弾圧を記録する碑に、衝撃を受けた。江戸幕府から明治政府
に、キリシタン弾圧政策は継承されたことを知らなかった。松下村塾もあり、維新の志士を多く輩出した萩の地にキリ
シタンは送られて弾圧され、拷問や餓えで亡くなったていた。重い歴史を知り、息苦しさを覚えた。
すっかり忘れていたが、父島の小学校図書室で『浦上の旅人たち』という本を手にしたことを思い出す。小学生
には難しい内容だった。信者はこの流刑を「旅」と呼んだ。
帰宅して確認したところ、鶴江台に仮埋葬された信者の遺骨は明治中期に改葬されたが、全てではなく、遺骨
は2010(H22)年にも発掘されている。



つばき2 132458 / JK5048、113G/T、鋼、1990(H2).08、三菱重工業(下関)



おにようず 135335 / JK5489、258G/T、鋼、1997(H9).10、三菱重工業(下関)



はぎおおしま 141869 / JD3483、323G/T、鋼、2013(H25).01、三菱重工業(下関)、萩市所有

マムシを気にしながら進んた藪の先に、海が見えた。藪に籠もって入港を待つ間、碑文は頭から離れなかった。今
回も会心の撮影をすることができた。
左手に浮かぶ大島を眺めつつ国道191号線を進み、次の街の阿武町に差しかかる。曾祖母の一人は後妻に入っ
た人で、阿武町の出身だった。大正期に、どんな縁で小笠原へ来たのか。この曾祖母は八丈島に眠っている。
走りを楽しみながら、日本海沿いを北東へ進み、益田で国道9号線に入る。船を追って全国の海岸線沿いの国道
や県道を走っているが、萩~浜田の海岸線は、未走行区間だった。残るは襟裳岬のみとなった。



6年前のこと、19G/T型遊覧船「スーパーマリン」を訪ねて浜田港を訪れた。古い情報をもとに出掛けてきてしま
い、いくら港内を探しても見つからなかった。何人かにお尋ねしても「もう運航していない」といった程度の話し
か伺えず、不発に終わった。この船は益田市の大浴造船所建造のFRP船で、いずれ撮りたいものと考えていた
ところ、その3年前の2005(H17)に「にじ観光」となってからの同船を、丸亀港で押さえていたと判った。19G/T型
ならではの話である。
萩から四時間半で七類港に到達し、フェリー乗場よりも先へと進み、眺望の開けた所にバイクを止めた。
「良い景色でしょう。どちらからお見えですか。」
草刈りをしていた年上の女性から声をかけられた。若い頃に東京へ行き、仕事に就いていたという。勤務され
た天現寺や吉祥寺のことを、懐かしそうにお聞かせ下さった。事情により地元に戻り、こちらの集落に嫁いだ
という。そんなご自身の「旅」の話をお聞かせ下さった。海を一望する沿道の展望台は、そのご婦人のご尽力
により整備されたという。
入港を待つ間、展望台のベンチに寝そべり、30年間カメラバッグに忍ばせているハモニカを吹いていた。旅に出て良
かったと感じるのは、潮風を感じながら時間の流れるそんな時。今携えているハモニカは、未明の神戸第四工区
防波堤外側で下ろしたもの。東神戸に入港するフェリー群を順光で狙うことを楽しみに、暗闇の中、一人心細く待
ったことを思い出す。



フェリーくにが 136134 / JK5346、2,375G/T、鋼、1998(H10).11、三菱重工業(下関)



フェリーおき 136139 / JK5349、2,366G/T、鋼、2003(H15).11、三菱重工業(下関)、隠岐広域連合所有

入港時刻はそれぞれ「17:35」「17:55」となっている。この季節にも撮れるなら、最も陽の長い時分に撮って
みたい。また来ようと考えつつ、岡山に向けて中国山地を越えた。

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祝式翌日の悲劇

2014-10-05 | 旅行
工部省兵庫工作分局の建造船を追った際、船名録や汽船表に「徳島丸」の手掛りは無かった。その後『名東郡
史』に目を通していて、1878(M11)に発生した徳島丸の悲劇を知った。記念碑は「大瀧山の中腹、夫婦杉のかた
わら」に建っているという。
仕事の調整もついたため、気に掛かっていた碑の捜索に西へ発った。東京I.Cに入り、新東名浜松S.Aに給油停
車。次いで停車した三木S.Aにて2度目の給油と共に、日の出に姫路港頭に立てるよう時間調整。今回はここま
での所要6時間30分。
港頭にて家島諸島航路に活躍する高速船群の撮影を堪能する。小型RORO船や内航貨物船も入出港を繰り返
し、時の経つのを忘れる。今朝の4社は「高速いえしま」「高福ライナー」「クィーンぼうぜ」「はるか」。



高速いえしま(高速いえしま)140399 / JD2626、146G/T、軽合金、2006(H18).10、三保造船所



高福ライナー(高福ライナー)260-45058、19G/T、軽合金、2006(H18).07、アルシップ



クィーンぼうぜ(坊瀬汽船)134196 / JJ3941、173G/T、軽合金、1997(H9).05、讃岐造船鉄工所



はるか(輝観光)273-11181、19G/T、軽合金、2001(H13).09、常石林業建設

早々に切り上げ、姫路・加古川バイパス、第二神明及び北線を経て明石海峡大橋を渡り、徳島を目指した。
旅に発つ前日、仕事でお会いしたN氏は淡路市のご出身。雑談となってから、1878(M11)佐野沖合にて発生した
海難事故のことを伺ったところ、慰霊碑をはじめ、地元に伝わる話は無い模様。話は淡路フェリーや、元は廻船業を
営んだ井植家に及ぶ。松下幸之助氏との縁により、船に明るい井植歳男氏は松下造船に係わっている。また、北
淡出身の原健三郎氏は、山を越えて津名に出て東浦航路船で洲本の学校へ通ったことなど、地元の船に纏わる
エピソードをお聞かせ下さった。



フェリーつるぎ(南海フェリー)135032 / JI3553、2604G/T、鋼、1997(H9).03、臼杵造船所

鳴門I.Cを下りてから南海フェリーを撮り、いよいよ碑の探索に大瀧山へ向かった。手掛かりは『名東郡史』の
み。徳島市域に大瀧山という地名は無く、また、大瀧山という独立した山塊も無い。どうやら眉山麓の公園名
らしい‥という程度の情報しか無いまま、現地に着いた。この辺りには神社や寺院が集中していて、先ずは春
日神社に参拝する。社殿内にカラス天狗の面が掛けられていた。
境内から見上げる大瀧山は考えていた以上に広い。社殿脇より登った散策路に、人は余り立ち入っていない
様子。藪の中には解説板のある歌碑も建っていた。茶店のような閉じられた建物もあった。念のため、行く手を
木の棒で叩きながら進む。伊豆の山歩きに明るいT氏より、マムシのいる周囲には生臭い匂いが立ち込めている
と聞いたことを思い出す。気は急くしマムシも怖い。登った先の自動車道には「マムシ注意」の看板もあった。ざっと
一巡したものの「夫婦杉」は見つからず、碑の所在は判らなかった。
この日は暑い一日だった。夜間走行の末の疲れ切った顔に、汗が吹き出していた。次の機会に探そうと諦めつ
つも、社務所の扉を叩き、夫婦杉の所在をお尋ねしてみた。
「まぁ、ゆっくりお茶でも飲んで行きなさい。」
打合せをされていた二人の方が、招き入れて下さった。お気遣い下さったのは、宮司さんと氏子さんだった。
「焼き餅を取りますから‥」
門前の焼き餅屋さんから、名物の焼き餅を取り寄せて下さった。初めていただいた焼き餅は、香ばしさと共に、
ほんのりした甘みが口に広がった。焼き餅屋のご主人は、「大瀧山には杉があった」という情報と共に、お店
に掲げてある絵図を見せてくださった。しかし、杉は一本しか描かれてなく、夫婦では無いと云う。それでも、
初めて接した杉の情報だった。地元の方々のご厚意に頭が下がった。
絵図から現在の位置を割り出していただき、杉のあった場所に向け、再び大瀧山を登った。草むした石段を登
った先に、その碑はあった。





第三徳島丸記念碑
明治十一年十月二十八日夜汽船第三徳島丸火ヲ失シ淡路國佐野海中二沈没
ス本舩ハ曩ニ徳島社ノ新ニ神戸工作局ニ於テ造ル者ニシテ舩体堅牢機関精
完舩長亦其人ヲ得タリ矣是月二十七日落成ノ祝式ヲ舉ケ其明拂曉津田港ヲ
發シ将サニ大坂ニ航セントスル也會■風浪甚タ惡キヲ以テ和田浦ノ灣ニ錠
シ風ヲ候ツコト數時日没ニ及テ海面稍々平ナリ舩客開舩ヲ促シテ止マズ乃ハ
チ船ヲ発ス佐野海ニ至リ時ニ午後十時俄然火起リ烟熖舩ニ充ツ衆之ヲ防救
スルコト頗ル力ムト雖モ此時風又益■猛烈ナルヲ以テ亦之ヲ如何トモスルコト
無シ矣殊ニ舩長山川某ハ舟子ヲ指揮シ防救至ラサルコト無シト雖モ事蒼卒ニ
出ルヲ以テ智術ノ施ス可キ所ナク遂ニ船客舟子七十有餘名■共ニ激浪ノ中
ニ溺死ス其惨状言フ可カラサル也獨リ海部郡伊坐利村ノ人安井某纔カニ萬
死ヲ免レ其状況ヲ語ルト云後本舩機關ヲ海底ニ取ルヲ得ルト雖モ死者遂ニ
返ラス嗚呼哀ム可キ哉頃者有志者相謀リテ碑ヲ大瀧山上ニ建テ其非死ノ顛
末ヲ勒シ以テ其幽魂ヲ弔シ併セテ後来舩ヲ操ル者ヲシテ失火ノ尤モ懼ル可
キヲ知リテ以テ警ムル所アラシムト云爾 明治十三年十月 新居敦書


■は不明箇所。汽船導入の初期、大阪湾を航行する新造船を襲った大惨事。それも、お披露目の翌日に起こっ
た悲劇である。時間を追ってみると次のとおりとなる。
M11      「第三徳島丸」兵庫工作局建造
M11.10.27    落成祝式
M11.10.28 払暁 津田港より大坂港へ向け出港
           和田浦湾に碇泊
        日没 和田浦湾を抜錨
        22時 火災発生の後、沈没

碑文から失火の原因は判らない。「和田浦の湾」と云えば、和田ノ鼻の内側の水面に避泊したとみれらる。十
月という時期から、時化は台風だろう。一時的に風は弱まったように見えても、台風の進行に伴い、風向きは
変わったのか。
この海難は海事史年表に記されていない。都立図書館所蔵の地方誌からは、『名東郡史』以外に記載は見つ
からなかった。「徳島社」とは何だろうか。

『M13徳島県統計表』『M14同』に「徳島社」は出てこない。同書及び『徳島県史』『大阪商船50年史』の掲載
船と所有者を一覧すると次のとおり。

船名   M13(統計表) M14(統計表) M16(県史)    M17(50年史)
鵬翔丸  井上三千太  -       -         -
太安丸  撫養会社   撫養会社   天羽兵二    天羽源太郎
末廣丸  船場会社   船場会社   徳島汽船会社  新居岩太
巳卯丸  船場会社   船場会社   徳島汽船会社  新居岩太
鵬勢丸  船場会社   船場会社   徳島汽船会社  西村忠兵衛
長久丸  -       船場会社   徳島汽船会社   中川重内 徳島汽船会社社長
太陽丸  -       太陽会社   徳島汽船会社   中川重内     〃
朝陽丸  -       太陽会社   徳島汽船会社   岡田啓介
撫養丸  -       撫養会社   天羽兵二      天羽源太郎
常盤丸  -       安川長平     -         -
飛鳥丸  -        -      小浜南洋     -

『徳島県史』に記載の一次史料「徳島県勧業課第四回年報」には、6隻の「徳島汽船会社」が所持人として記
録される。『大阪商船50年史』と併せて読むと、中川重内は2隻のオーナーであり、オペレーターとしての「徳島汽船会
社」を代表したと見られる。事件発生の1878(M11)にあった「徳島社」と「徳島汽船会社」は繋がらない。
『普通新聞』を見たところ、「徳島社」は「徳島舎」と記される。記事から判った事件の経緯は興味深いが、
一点、「第三徳島丸」の所有者を明らかにしておくと、お披露目の報道記事の中に「此船の持主は犬伏龜太郎、
諏訪善作、森勝彌其他数名の共同」とあった。「徳島舎」は今で云うオペレーターとは少々異なるものの、運航の主
体と見て相違なかろう。

『徳島県史』『阿波の交通』は夜間航海解禁について詳しく記している。阿摂間を航行する旅客船の夜間の航
海は停止となっていたが、巳卯丸、鵬勢丸、太安丸の三船について「客船構造の改良を兵庫工作分室で行い」
夜間航海の許可が下り、1880(M13).09.26より夜航に就航し、阿摂間の交通は一段と便利となった。
引用の『徳島日々新聞』に次のとおりある。

阿摂間の航海は、かねて昼間のみにて夜中は停止となりゐしが、潮の満退もありて実際は行われ難き
により午後十時よりの航海は行われざりしが此度允可となりしかば船場会社より鵬勢丸を以て本日午
後十時を限り大阪へ向け出港さらるるよし‥


客船構造の改良は何を行ったか。「第三徳島丸」失火の経験を活かしていることは間違いなかろう。

夜行フェリーに乗ろうと、松山へ向けて徳島I.Cより徳島自動車道に入る。ここから井川池田I.C迄は初めての走行
となる。上板S.Aの標識を目にし、この地を30年前に訪れたことを思い出す。
当時、勤務していた母島に、郷土資料館を整備する動きがあった。戦前の母島には独特の石文化があり、特産
するロース石と言われる凝灰岩を切り出し、生活用具や建築資材に用いた。島にはロース石を削った火消壺や七輪
も残っていた。資料館の整備は島民による手作りを基本とし、設立準備会は熱のこもった議論が重ねられた。母
島の勤務には、仕事の範囲を超えた思い出が多い。民家跡に残っていたサトウキビ圧搾機の石ローラーにも興味を覚
えた。母島産安山岩で作られたものの他、島に産出しない花崗岩や灰緑色の石もあった。この石ローラーはどこから
もたらされたのか。
小笠原諸島の開拓初期、藍栽培や製糖技術を徳島に学んだらしい。徳島県にある和三盆糖の資料館を見学した
らどうか‥というアドバイスを役所の先輩よりいただき、この地を訪れた。岡田製糖所の資料館前庭に立って驚いた。
保存されていた圧搾機の石ローラーは全て、灰緑色をしていた。ご主人に話を伺ったところ、付近の山から切り出さ
れた石とのこと。記録のみではなく、実物で母島と徳島の結びついた瞬間の感動は忘れられない。

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毛馬閘門へ

2013-09-23 | 旅行
八軒家船着場より天神橋筋を北上し、毛馬に向かった。数年前に大阪の川船を撮り歩いた時も、毛馬は訪れ
ていなかった。
1896(M29)制定の河川法に拠り、高水防御を目的に「淀川改良工事」は着手された。淀川放水路(現「淀川」)
を開削すると共に、大阪市内へ流入する水量の調整や土砂堆積を防止する「洗堰」と、河川舟運の航路を確
保するための「閘門」を、旧淀川と中津川の分流する毛馬に築造した。
「旧閘門」は1902(M35).12起工、1907(M40).08竣工し、1976(S51).01まで使用。
「旧洗堰」は1904(M37).12起工、1910(M43).01竣工し、1974(S49).10まで使用。
現役の「毛馬閘門」と区別するため、保存された旧閘門は旧「第一閘門」という。1918(T7)下流側に「第二閘
門」を設けたため「第一」を冠する。「第二閘門」は今は無く、閘室は船溜まりとなっている。
毛馬閘門において記録された外輪汽船絵葉書は2点見つかっている。何れも、汽船通過時を待ち構え、撮影
されたと思われる。





一枚目の絵葉書には押印され、日付はM43.2.?と読める。こちらが古いと判断する根拠に「淀川改修紀功碑」
の有無がある。上の画像には見当たらない。淀川改良工事竣工式は1909(M42).06.01、一部の工事を残し、
毛馬洗堰横の広場において、関係官庁や沿岸住民約1000名参列の下、盛大に挙行された。惜しいことに、
鮮明な画像にもかかわらず、船名は書かれていない。
二枚目の絵葉書には、紀功碑基部が見えている。中央の煙を吐く煙突は、京阪電気鉄道の発電設備として
1907(M40).07.28着工された火力発電所。現在の蕪村公園にあった。煙突に文字が書かれている。前掲は少
し鮮明で、輪郭から「京阪電気鉄道会社」と読めそうだ。発電開始は、電鉄開業1910(M43).04.15の、少し前
と思われる。電鉄開業により旅客は激減し、「曳船専業」になったことを考えると、何とも皮肉な画に見える。
こちらも船名は見当たらない。

『船名録』を見ると、M40版(M39.12.31)~T03版(T02.12.31)の間、「渡邊永助」「中島豊吉」二社体制のまま
推移している。変化はM41「第四長安丸」退役により8→7隻となったこと、同年「第貳此花丸」→「宇治丸」
に更新、T02「第一此花丸」退役と「大正丸」登場程度となり安定している。『M42船名録』(M41.12.31)から
在籍船を拾うと次のとおり。前掲二隻の該当船はこの中にある。
■渡邊永助
  攝津丸 6960 / JCTB、150G/T、木、1893(M26).12、林政七(伏見)
  近畿丸 6961 / JCTD、132G/T、木、1896(M29).12、尼賀又兵衛(大阪)
  近江丸 6970 / JCTK、143G/T、木、1894(M27).10、林政七(伏見)
■中島豊吉
  第三長安丸 4533 / JCPT、133G/T、木、1893(M26).09、林政七(伏見)
  第一此花丸 6963 / JCTG、58G/T、木、1900(M33).12、林政七(伏見)
  長安丸 6971 / JCTL、132G/T、木、1891(M24).08、平野龍太郎(伏見)
  宇治丸 10342 / LBQC、113G/T、木、1907(M40).04、尼賀又兵衛(大阪)





一枚目画像を拡大したところ、この画像に隠されていた重大な情報に気付いた。約60年間の淀川蒸気船リスト
を作成し、初めて思い至ったことでもある。どうも変だな‥と見ていた船首部は、舳先まで甲板室は達してい
たと判った。改めて葭屋橋の船影を眺めると、不思議な形状の船首部を理解出来る。諦めていた煙突マークも
「豊」と読めた。中島豊吉所有船と見て間違いなかろう。実は「第三長安丸」の船影は、絵葉書から船名を読
み取り、特定している。「第一此花丸」は小型に過ぎるし、断定は避けねばならないが、古い形態から「長安
丸」ではなかろうか。どうも二枚目のマークも「豊」に見える。



『件名録』は「第三長安丸」と「近畿丸」に、同じ画像を使用している。前者の退役後に刊行された『明細書』
は、その画像を「近畿丸」としている。この船影は、「近畿丸」と見て良いと思われる。下は『件名録』に掲載
の「大正丸」。甲板室部分を欠き取り、外輪曳船スタイルになっている。





公園には、かつて長柄運河を跨いでいた眼鏡橋を渡って入った。先ず、右手に見えた電気機関車モドキの設
備に気を取られた。一体、これは何だろう。機関車?はレール上にあった。架線も引いてあり、小さなパンタグラフ
まで付いている。レール延長は20m程度か。塗色から近江鉄道の凸型電機ED31形を連想してしまった。
1929(S4)第一閘門に制水扉を設置したと解説板にあった。この設備は、制水扉を動かすための装置か。





閘室に降りてみた。第一閘門の要目は、幅員11.35m、閘室長75.38m、有効長89.85m。かつて、淀川と大
川の水位差は1mあった。曳船は先端まで入れても、曳航してきた荷船を引き込むのは人力に頼ったのか。
通過にはかなりの時間を要したことだろう。実際に、数々の外輪汽船の通過した閘門に立つと感慨は深い。



絵葉書の構図と重ねて見ようと歩き回ったが、埋め立てられて良く判らない。旧洗堰は左手にあり、当時
の総延長は52.72m、10門の水通しを設けてあった。現在は3門を残して撤去される。当初の水量調節は、
角材をクレーンで吊り上げ、溝に落とし込む「角落とし」という方法を用いた。一枚目絵葉書の、丁度、発電
所煙突の基部に見える三角形の設備がこれ。



公園内には「淀川改修紀功碑」(上)と、1917(T6)出水に伴う増補工事に係る「記念碑」がある。前者の周囲
には、「毛馬の残念石」という石材もあった。江戸幕府は、大坂城再築にあたり、廃城となった京都伏見城の
石材をリユースした。これら石材は、運搬途中に船から落下し、淀川改修工事の際に発見されたらしい。大坂築
城に再利用されなかったことから「残念石」と云う。



現在の毛馬閘門は1974(S49)竣工した。第一・第二閘門は1976(S51).01まで使用された後、第一閘門と旧洗
堰一帯は公園化された。「淀川旧分流施設」は、用いた工法や技術が規範を示し、近代史上価値が高いとして
2008(H20).06.09国重要文化財に指定された。
公園内には「工學博士沖野忠雄君之像」と解説碑もあった。豊岡に生まれた沖野忠雄は1881(M14)フランス留学
より帰国し、政府に採用され、1883(M16)より1918(T7)まで土木局や内務省にあり、主要な河川改修や港湾整
備を主導した。特に近畿地方に沖野の関係したプロジェクトは多い。

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二回の天下統一

2013-09-16 | 旅行
今年は3回、長距離フェリーを目的に大阪湾を訪れている。日の出の早い季節には、クリアな画像は望めないもの
の、早朝の入港船を押さえたい。その時は、入港船の一段落した後、葭屋橋と毛馬閘門を訪れた。



フェリーきたきゅうしゅう(名門大洋フェリー) 133389 / JPBR、9,476G/T、鋼、1991(H3).12、佐伯重工業 
ネット動画に、淀川を遡航する外輪汽船の映像がある。曳船として活躍する姿を捉えていて、煙突を傾け橋梁を
潜るという、思いもよらぬ貴重な映像に目を見張った。昭和一桁中半頃と思われる。毎日のように眺めては、タ
イムトラベルを楽しんでいる。淀川水系の外輪汽船は、画像を見慣れた利根川水系の船と、印象を異にする。







この鶏卵紙写真の中央部には、甲板室上に操舵室のある外輪汽船3隻を確認できる。手がかりは片隅にプリン
トされている「IOSIYABASI in TSUKIJI」 と、「築地 葭屋橋 舩塲ノ東北隅ニ在リ料店客舎河岸ニ満チ斿人常ニ絶
エズ」 と記された文言。「築地」とあることから、記録地は東京築地。「愉快丸」(東京湾汽船)など、低い橋梁を
潜らない外輪汽船は甲板室上に操舵室を設けているため、船は航洋型外輪汽船と誤解した。
築地のIOSIYA橋を調べる内に勘違いに気付いた。大阪にも築地はあった。「IOSIYA」 は記されていた「葭屋」
と判った。
伏見と大坂を結んだ蒸気船の、大坂側乗り場は八軒家にあった。現在の京阪電車天満橋駅の北側にあたる。
その下流に今も葭屋橋はある。淀川を航行した外輪汽船は、折返しの間、大川から東横堀川の分流する葭屋
橋界隈に係留されたようである。『船名録』の「大坂東区京橋」は、八軒家船着場のあった町名。
築地は当初「蟹島築地」と呼ばれ、遊興地を形成していた。蟹島遊郭は天明4(1784)葭屋庄七らによって設け
られ、「葭屋橋」は遊郭への通路として架橋された。外輪汽船の背後に見える三階建の建築物は遊郭なのか。
妙なところに梯子が掛けられている。鶏卵紙写真の解像度の高さに驚嘆させられる。



鶏卵紙写真に近い角度を探し、天神橋上から葭屋橋を望んでみた。葭屋橋と今橋は東詰で接している。右手奥
に見えるのは難波橋。





ひまわり(大阪水上バス) 135953、54G/T、鋼、1998(H10).01、杢兵衛造船所 
大阪水上バスの運航する「ひまわり」は、グルメ・ミュージック船と銘打っている。外輪汽船を模したシックな装いは好ま
しい。外輪部分のデザインは、嘗ての淀川蒸気船を参考にしたと思われる。数年前の秋の撮影。

江戸期より、京都~大坂間の旅客は主に「三十石船」という旅客船が担っていた。『日本の船・和船編』による
と、乗組員4名、旅客定員28名。下りは流れに乗って棹さして大坂を目指したが、京都へ上るには、棹で遡航出
来る区間以外の9個所に「綱引道」があり、大変な労力をかけて上ったと云う。京都側船着場は伏見にあった。

淀川に最初に登場した蒸気船は、1870(M3)柴田(大坂)による「鳩丸」「水竜丸」らしい。高額の運賃に客足は伸
びなかったのか、1873(M6)に休業する。安藤半兵衛は2隻の譲渡を受け、曳船業を開業した。人力に頼っていた
川舟を曳航し、輸送単価を下げたことが当たった。旅客や貨物は蒸気船にシフトし、経営は安定した。
それを見て後へ続く者は続出した。『M18汽船表』に初記載される船は、1884(M17).03設立の澱江汽船会社3隻
(第一安全丸、第二安全丸、光陽丸)と、大坂澱江汽船会社1隻(伏見丸)。1885(M18)には夜間航行も認められ、
就航船は更に増加した。その間の1877(M10).02.05、京都駅~神戸駅間の官設鉄道は営業を開始たものの、運
賃は高額であり、淀川蒸気船は賑わった。

『M21船名録』掲載12隻の定繋港を確認すると、京都側・大坂側夫々の船主が判る。
■京都府下伏見--大坂澱江汽船会社系
  第一伏見丸(四方卯之助)M16.04
  第二伏見丸(木村榮次郎)M17.11
  第三伏見丸(大島源三郎)M18.02
  運貨丸(木村平七)M19.07
  大坂丸(津田太郎兵衛)M18.01 
  改進丸(中路八兵衛)M18.03  
■大坂東区京橋--澱江汽船会社系
  第一安全丸(手塚平右衛門)M12.04
  第二安全丸(老村亦次郎)M15.06
  六盛丸(秋岡弥平衛)M16.06
  牧方丸(鈴木六平)M18.03
  第五運輸丸(大島佐七)M16.09
  第六運輸丸(大島佐七)M17.04

過当競争排除を目的に、京都府・大阪府の介入により淀川汽船会社は設立された。設立は1887(M20)と1888
(M21).06との二説がある。船名録を見る限り1887(M20)と考えられる。前掲12隻に「新淀川丸」を加えた13隻が
当初の陣容。ここに最初の天下統一が成った。
直ぐに対抗勢力は現れるもので、南方一族の「英丸」「第二英丸」が参入して来た。淀川汽船会社にとって、続
いて現れた「第一京阪丸」(池山小三郎→森島儀三郎)M22.04と、「長安丸」(柏谷忠七)M24.08は、強敵となっ
た。森島は役所の指導により協定に応じたが、柏谷忠七は「長安丸」M24.08に続いて「第二長安丸」M25.04、
「第三長安丸」M26.04、「第四長安丸」M26.12と次々に船腹を増やし、対決姿勢を強めた。

『船名録』に拠ると、淀川水系の外輪汽船の最多在籍年は1893(M26)~1894(M27)。淀川汽船株式会社8隻、柏
谷忠七4隻、森島儀三郎2隻、南方英夫1隻の、計15隻を確認できる。
1895(M28)伏見~京都駅間に、京都電気鉄道により我が国最初の電車運転は開始された。
1896(M29)大阪汽船曳船は「第一此花丸」「第二此花丸」の2隻を建造し、参入した。この大阪汽船曳船は、吹田
庄兵衛らによって設立されたという大二曳船と、どのような関係なのか。1901(M34)所有者は大阪汽船曳船から
大二曳船に変わっている。

1899(M32).04の時刻表を見ると、淀川汽船「大阪八軒家~牧方~八幡~淀~伏見」航路は、上下各7便設定さ
れている。所要時間は、下り3時間に対し、遡航する上りは7時間を要している。
淀川汽船株式会社は徐々に所有船を減らし、遂に1902(M35)渡邊永助に所有船4隻を譲渡して解散した。渡邊
永助は、淀川汽船と競合した「柏谷義一」「大二曳船」二社と協定し、経営の安定を図っている。
1905(M38)~1908(M41)にかけ、中島豊吉は「柏谷・橋本」「大二曳船」所有船を買収した。社名を中島運送部と
し、渡邊永助と協定した。
1910(M43).04.15京阪電気鉄道は天満橋~五条を開業した。この開業により、旅客は激減し、以後、淀川の外
輪汽船の活躍は曳船業(石炭などの貨物輸送)に限られていく。

次の変化は1914(T3)に訪れた。渡邊永助は所有船3隻を中島豊吉に売却。ここに二回目の天下統一は成った。
中島は淀川運送株式会社を設立し、所有船7隻は同社名義となった。
  第三長安丸 4533 / JCPT、133G/T、木、1893(M26).09、林政七(伏見)
  攝津丸 6960 / JCTB、150G/T、木、1893(M26).12、林政七(伏見) ←渡邊
  近畿丸 6961 / JCTD、132G/T、木、1896(M29).12、尼賀又兵衛(大阪) ←渡邊
  近江丸 6970 / JCTK、143G/T、木、1894(M27).10、林政七(伏見) ←渡邊
  長安丸 6971 / JCTL、132G/T、木、1891(M24).08、平野龍太郎(伏見)
  宇治丸 10342 / LBQC、113G/T、木、1907(M40).04、尼賀又兵衛(大阪)
  大正丸 15833 / MDNG、78G/T、木、1913(T02).01、尼賀又兵衛(大阪)

『船名録』で追いかけていくと不思議なことに気付く。船舶番号は変わり、新たに登簿されているが、汽機、汽
罐の製造者・年月から「宇治丸」は「第貳此花丸」、「大正丸」は「第一此花丸」の後身と見られる。単に汽機、
汽罐の流用ばかりでなく、船殻も締め直しを行い、再利用したと見られる。

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「Island Breeze」号に会う

2013-09-03 | 旅行
八重山海域から本土へ移り、活躍を続ける高速船に出会う度、八重山への思いは募るばかり。梅雨の明けた
頃、思い立って船見に出かけた。出掛ける前、おさらいに八重山高速船系譜図を作成し、一部未確認の謎解
きを楽しみながら羽田へと向った。
今夏こそ八重山へ出掛けようと、強く心に誓わせてくれたのは、再会した「アイランドブリーズ号」だった。

4.05付神戸新聞(夕)一面は、「芸術祭へいざ出発」「淡路-直島高速船が就航」の見出しを掲げ、色とりどりの
風船を飛ばしつつ、淡路翼港を出港する弥栄マリン「アイランドブリーズ号」の写真を掲載している。撮影は当
日午前8:37。
彼女の前身は「サザンクロス8号」。既出の「サザンクロス1号」と同様、八重山の海から本土へ来た一隻で、
魅惑のサーフェースプロペラ船。八重山海域に幾度も通ったものの、どうした訳か「サザンクロス8号」の稼働率は低
く、航行中の撮影は叶わなかった。噂によると、最も飛沫をあげる船らしい。彼の地における航行を撮れなかっ
たことや、飛沫の「噂」を耳にし、関西入りとなった。
「アイランドブリーズ号」は淡路夢ツアーズの企画する「感動体験 アートの旅 瀬戸内島めぐり 淡路島&直島ツア
ー」に使用されていた。ウェスティンホテル淡路に一泊し、翌日に直島を訪れる「宿泊プラン」と、直島訪島のみの「日帰
りプラン」が用意されていた。出発日は 4/05、18、25、5/08、15、26、6/05、07/09、18の9日のみ。それも日曜
に該当するのは一日限り。幸いにも天気は良く、仕事の調整もつき、目論んだ撮影行を決行した。
長距離フェリーを狙った後、訪れた神戸の定係地に「アイランドブリーズ号」はいた。石垣港離島桟橋以来の再会
となる。隣には「なっちゃん」の姿もあった。彼女は元「あをしお」。豊島フェリー「なっちゃん」となってから、高松
に会いに行こうと計画したものの、会えずにいた。現船名に改名後、会うのは初めて。この船、JCI船ながら日
田勝(対馬)~釜山の国際航路に就航し、現在の国際航路の先鞭を付けた。先頃、N氏より登場時の経緯を記
した記録を見せていただき、考えていた以上に輝かしい、特異な経歴を有する船と知った。



サザンクロス8号 19G/T、軽合金、1996(H8).02、興和クラフト
石垣港離島桟橋における「サザンクロス8号」。八重山海域における航行中は撮れなかった。





翌朝、先ずは神戸港で航行をキャッチした。加速するにつれ飛沫は高くなり、灯台をかわしたとたん、飛沫はさら
に高く舞い上がった。 お見事!!
直ぐバイクに跨り、阪神高速を西へ急ぐ。第二神明を抜けて明石海峡大橋を渡る。淡路I.Cから下り、ロケハンしつつ、
初めて訪れる「淡路交流の翼港」へ向った。陸岸からどの程度離れて航行するのだろうか。足場はあるのか。
漁船はいないか。漁具は仕掛けられていないか。おまけに逆光だ。
翼港ターミナル入口にいたホテルマンと思しき方に、「アイランドブリーズ号」の写真を撮りに来た旨を告げ、出港時刻を
お尋ねしたところ「2台目の送迎バスの到着次第、出港します」とのこと。バスは既に陸岸と港のある人工島を結
ぶ橋上に見えている。ロケハンした道路沿いから撮ることは断念し、釣り人で賑わう防波堤を先端へ急いだ。







画像の右手に見えている建物はウェスティンホテル淡路。先頃、秋のツアー予定と共に、この企画が「瀬戸内ブランド推
進連合」による「瀬戸内ブランド」に認定されたという、嬉しい情報もHPに紹介されている。
八重山観光フェリー当時の旅客定員を比較すると、62名の「サザンクロス1号」に対し、「サザンクロス8号」は90名。
貸切観光用の大型バスの、標準的な座席定員(補助席除く)は45名。ちょうど、2台分の定員を持っていることに
なる。これから、彼女はどのような航跡を見せてくれるのだろうか。ますますのご安航をお祈りいたします。

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