1853(嘉永6)ペリー艦隊が浦賀へ来航、同年幕府は大船建造を解禁した。1854(嘉永7)日米和親条約締結、1858
(安政5)日米修好通商条約締結と続き、翌1859(安政6)横浜は開港した。横浜に東西の波止場を築造し、運上所
が設けられた。この年著された「横濱御開地明細之圖」(1859)には水面を囲むように築造された二本の突堤が
見え、「御開港横濱之圖」(1860)は右手の突堤を「東ハトバ」と記している。「象の鼻」の原形となった。
これはペラ紙に印刷された画像で、裏面には小さく広告(?)が印刷されている。日露戦争当時のグラフ誌と、印刷
が似ている。キャプションには「開港時の横浜港全景」とある。沖合遠くに汽船や帆船が浮かび、その手前に見える
のは「東ハトバ」の先端。突堤がカーブしているのが判る。この船溜りは今も機能していることになる。
横須賀製鉄所は1865(慶応1)着工され、翌1866(慶応2)には一部創業を開始、30馬力船(「横須賀丸」)と10馬
力船(後の「海運丸」)の建造に着手した。この年、米国商人が所有していた小蒸気船を購入し、1866.06より
横須賀横浜間の通船が運航される。横浜側発着場所は、この波止場であろう。後に「十馬力船」や「横須賀丸」
が通船として活躍する。
画集『横須賀造船所』は十馬力船(後の「海運丸」)について、「慶応3年に進水したのが、十馬力船・海運丸
である。横須賀製鉄所に於ける第一号船である。主機械は横浜製鉄所で製作された。」と記し、民間払下げ後の
写真も掲載されてる。この「海運丸」は、1899(M32)に不登簿船から登簿船となり、「3648 / HVGP」が点付され
ている。『M24船名録』までは1867(慶応3).11建造になっているが、『M25船名録』から1866(慶応2)となる。これ
は錯誤で『M45船名録』から再び1867(慶応3)に戻っている。
『横須賀海軍船廠史』には「横須賀丸」「十馬力船」の図面が収録される。両船の建造に先立ち、首長ウエルニーは、
医師のサバチエーが植物学に明るいことから、用材選びに深川の貯木場へ派遣した。「横須賀丸」の機械はフランスか
ら輸入され、「十馬力船」用は横浜製鉄所にて2隻分を製作した。「十馬力船」は、1867(慶応3)建造船が一隻目
(仮称「10NHP:No.1」)、明治元年に於いて「製造に着手中歩合不詳」となっている「十馬力小汽船」は二隻目
(「10NHP:No.2」)であろう。
山高五郎著『日の丸船隊史話』『図説日の丸船隊史話』は、挿絵と共に山高氏自らの乗船経験を記されている。
前著には「(十馬力船は)続いて出来た数隻の同型船と共に番号で呼ばれた」「明治12年になって、使用船を
東京の藤倉五郎兵衛に貸し下げて運航せしめた」「明治の末期、横須賀工廠に実習に行った当時、工廠の通船
に使用されていて、屡々御厄介になった」「少なくとも大正初期迄は健在であった筈と思ふ」とあり、後著には
「(横須賀丸に)続いて10馬力のもの6隻を造ったが(慶応2年起工)これは船名はなく番号で呼ばれていた」と
ある。
また、元綱数道著『幕末の蒸気船物語』には、「10馬力船は通船や所内の雑用に使用され、明治以降に建造され
た分も含めて全部で5隻建造された」と記される。
画集『横須賀造船所』には、明治初期の横須賀製鉄所(1871(M4)「横須賀造船所」と改称)の写真が数多く収録
されている。P145の写真には、横浜方面行き乗船場に「横須賀丸」、金沢方面行き乗船場に「十馬力船」が着桟
している。船影はごく小さくしか写っていないが、細い煙突やその付近の開口部、窓三枚、煙突と前後のマストは
間隔のバランスを欠く等の特徴が見て取れる。
前掲画像の中央に見える小型汽船は、『横須賀造船所』の写真と対比すると、特徴が一致する。5隻若しくは6隻
建造された「十馬力船」の一隻と見て良かろう。
『船名録』に「十馬力船」を探したところ、5隻確認された。
M20~26版不登簿船の項には「一號十馬力船」「三號十馬力船」「五號十馬力船」があり、番号は建造順に付番
されていない。藤倉五良平所有「海運丸」も掲載されている。また、登簿船の項に掲載の「日泰丸」も、要目等
はほぼ一致する。
一號十馬力船 M11.11 55.11×14.38×4.78 37.00G/T 40NHP
三號十馬力船 M元 55.11×14.38×4.78 37.00G/T 40NHP ←「10NHP:No.2」
五號十馬力船 M10.12 55.11×14.38×4.78 37.00G/T 40NHP
海運丸 慶応3.11 53.10×13.00×5.80 31.00G/T 10NHP ←「10NHP:No.1」
日泰丸 M07 54.35×14.00×4.70 49.31G/T 10.5NHP
後に東京湾汽船の所有となり、『明治28年船名録』を最後に抹消された「日泰丸」は、「十馬力船」の後身と
見て間違いなかろう。造船工長「チブリー」は、横須賀製鉄所副首長「ティボディエ」である。M02.03.10雇入、
M10.03末迄横須賀造船所に在籍した。『横須賀海軍船廠史』には「佛國海軍大技士チボジー」と記録される。
当時の表記は、やはり、船名録の記載に近いものになっている。
東京湾汽船には、こんな船もいたのか‥と、改めて創業間もない頃の船隊に思いを巡らせた。
(安政5)日米修好通商条約締結と続き、翌1859(安政6)横浜は開港した。横浜に東西の波止場を築造し、運上所
が設けられた。この年著された「横濱御開地明細之圖」(1859)には水面を囲むように築造された二本の突堤が
見え、「御開港横濱之圖」(1860)は右手の突堤を「東ハトバ」と記している。「象の鼻」の原形となった。
これはペラ紙に印刷された画像で、裏面には小さく広告(?)が印刷されている。日露戦争当時のグラフ誌と、印刷
が似ている。キャプションには「開港時の横浜港全景」とある。沖合遠くに汽船や帆船が浮かび、その手前に見える
のは「東ハトバ」の先端。突堤がカーブしているのが判る。この船溜りは今も機能していることになる。
横須賀製鉄所は1865(慶応1)着工され、翌1866(慶応2)には一部創業を開始、30馬力船(「横須賀丸」)と10馬
力船(後の「海運丸」)の建造に着手した。この年、米国商人が所有していた小蒸気船を購入し、1866.06より
横須賀横浜間の通船が運航される。横浜側発着場所は、この波止場であろう。後に「十馬力船」や「横須賀丸」
が通船として活躍する。
画集『横須賀造船所』は十馬力船(後の「海運丸」)について、「慶応3年に進水したのが、十馬力船・海運丸
である。横須賀製鉄所に於ける第一号船である。主機械は横浜製鉄所で製作された。」と記し、民間払下げ後の
写真も掲載されてる。この「海運丸」は、1899(M32)に不登簿船から登簿船となり、「3648 / HVGP」が点付され
ている。『M24船名録』までは1867(慶応3).11建造になっているが、『M25船名録』から1866(慶応2)となる。これ
は錯誤で『M45船名録』から再び1867(慶応3)に戻っている。
『横須賀海軍船廠史』には「横須賀丸」「十馬力船」の図面が収録される。両船の建造に先立ち、首長ウエルニーは、
医師のサバチエーが植物学に明るいことから、用材選びに深川の貯木場へ派遣した。「横須賀丸」の機械はフランスか
ら輸入され、「十馬力船」用は横浜製鉄所にて2隻分を製作した。「十馬力船」は、1867(慶応3)建造船が一隻目
(仮称「10NHP:No.1」)、明治元年に於いて「製造に着手中歩合不詳」となっている「十馬力小汽船」は二隻目
(「10NHP:No.2」)であろう。
山高五郎著『日の丸船隊史話』『図説日の丸船隊史話』は、挿絵と共に山高氏自らの乗船経験を記されている。
前著には「(十馬力船は)続いて出来た数隻の同型船と共に番号で呼ばれた」「明治12年になって、使用船を
東京の藤倉五郎兵衛に貸し下げて運航せしめた」「明治の末期、横須賀工廠に実習に行った当時、工廠の通船
に使用されていて、屡々御厄介になった」「少なくとも大正初期迄は健在であった筈と思ふ」とあり、後著には
「(横須賀丸に)続いて10馬力のもの6隻を造ったが(慶応2年起工)これは船名はなく番号で呼ばれていた」と
ある。
また、元綱数道著『幕末の蒸気船物語』には、「10馬力船は通船や所内の雑用に使用され、明治以降に建造され
た分も含めて全部で5隻建造された」と記される。
画集『横須賀造船所』には、明治初期の横須賀製鉄所(1871(M4)「横須賀造船所」と改称)の写真が数多く収録
されている。P145の写真には、横浜方面行き乗船場に「横須賀丸」、金沢方面行き乗船場に「十馬力船」が着桟
している。船影はごく小さくしか写っていないが、細い煙突やその付近の開口部、窓三枚、煙突と前後のマストは
間隔のバランスを欠く等の特徴が見て取れる。
前掲画像の中央に見える小型汽船は、『横須賀造船所』の写真と対比すると、特徴が一致する。5隻若しくは6隻
建造された「十馬力船」の一隻と見て良かろう。
『船名録』に「十馬力船」を探したところ、5隻確認された。
M20~26版不登簿船の項には「一號十馬力船」「三號十馬力船」「五號十馬力船」があり、番号は建造順に付番
されていない。藤倉五良平所有「海運丸」も掲載されている。また、登簿船の項に掲載の「日泰丸」も、要目等
はほぼ一致する。
一號十馬力船 M11.11 55.11×14.38×4.78 37.00G/T 40NHP
三號十馬力船 M元 55.11×14.38×4.78 37.00G/T 40NHP ←「10NHP:No.2」
五號十馬力船 M10.12 55.11×14.38×4.78 37.00G/T 40NHP
海運丸 慶応3.11 53.10×13.00×5.80 31.00G/T 10NHP ←「10NHP:No.1」
日泰丸 M07 54.35×14.00×4.70 49.31G/T 10.5NHP
後に東京湾汽船の所有となり、『明治28年船名録』を最後に抹消された「日泰丸」は、「十馬力船」の後身と
見て間違いなかろう。造船工長「チブリー」は、横須賀製鉄所副首長「ティボディエ」である。M02.03.10雇入、
M10.03末迄横須賀造船所に在籍した。『横須賀海軍船廠史』には「佛國海軍大技士チボジー」と記録される。
当時の表記は、やはり、船名録の記載に近いものになっている。
東京湾汽船には、こんな船もいたのか‥と、改めて創業間もない頃の船隊に思いを巡らせた。