津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

十馬力船「日泰丸」

2012-03-15 | 東京湾汽船
1853(嘉永6)ペリー艦隊が浦賀へ来航、同年幕府は大船建造を解禁した。1854(嘉永7)日米和親条約締結、1858
(安政5)日米修好通商条約締結と続き、翌1859(安政6)横浜は開港した。横浜に東西の波止場を築造し、運上所
が設けられた。この年著された「横濱御開地明細之圖」(1859)には水面を囲むように築造された二本の突堤が
見え、「御開港横濱之圖」(1860)は右手の突堤を「東ハトバ」と記している。「象の鼻」の原形となった。



これはペラ紙に印刷された画像で、裏面には小さく広告(?)が印刷されている。日露戦争当時のグラフ誌と、印刷
が似ている。キャプションには「開港時の横浜港全景」とある。沖合遠くに汽船や帆船が浮かび、その手前に見える
のは「東ハトバ」の先端。突堤がカーブしているのが判る。この船溜りは今も機能していることになる。

横須賀製鉄所は1865(慶応1)着工され、翌1866(慶応2)には一部創業を開始、30馬力船(「横須賀丸」)と10馬
力船(後の「海運丸」)の建造に着手した。この年、米国商人が所有していた小蒸気船を購入し、1866.06より
横須賀横浜間の通船が運航される。横浜側発着場所は、この波止場であろう。後に「十馬力船」や「横須賀丸」
が通船として活躍する。
画集『横須賀造船所』は十馬力船(後の「海運丸」)について、「慶応3年に進水したのが、十馬力船・海運丸
である。横須賀製鉄所に於ける第一号船である。主機械は横浜製鉄所で製作された。」と記し、民間払下げ後の
写真も掲載されてる。この「海運丸」は、1899(M32)に不登簿船から登簿船となり、「3648 / HVGP」が点付され
ている。『M24船名録』までは1867(慶応3).11建造になっているが、『M25船名録』から1866(慶応2)となる。これ
は錯誤で『M45船名録』から再び1867(慶応3)に戻っている。

『横須賀海軍船廠史』には「横須賀丸」「十馬力船」の図面が収録される。両船の建造に先立ち、首長ウエルニーは、
医師のサバチエーが植物学に明るいことから、用材選びに深川の貯木場へ派遣した。「横須賀丸」の機械はフランスか
ら輸入され、「十馬力船」用は横浜製鉄所にて2隻分を製作した。「十馬力船」は、1867(慶応3)建造船が一隻目
(仮称「10NHP:No.1」)、明治元年に於いて「製造に着手中歩合不詳」となっている「十馬力小汽船」は二隻目
(「10NHP:No.2」)であろう。

山高五郎著『日の丸船隊史話』『図説日の丸船隊史話』は、挿絵と共に山高氏自らの乗船経験を記されている。
前著には「(十馬力船は)続いて出来た数隻の同型船と共に番号で呼ばれた」「明治12年になって、使用船を
東京の藤倉五郎兵衛に貸し下げて運航せしめた」「明治の末期、横須賀工廠に実習に行った当時、工廠の通船
に使用されていて、屡々御厄介になった」「少なくとも大正初期迄は健在であった筈と思ふ」とあり、後著には
「(横須賀丸に)続いて10馬力のもの6隻を造ったが(慶応2年起工)これは船名はなく番号で呼ばれていた」と
ある。
また、元綱数道著『幕末の蒸気船物語』には、「10馬力船は通船や所内の雑用に使用され、明治以降に建造され
た分も含めて全部で5隻建造された」と記される。

画集『横須賀造船所』には、明治初期の横須賀製鉄所(1871(M4)「横須賀造船所」と改称)の写真が数多く収録
されている。P145の写真には、横浜方面行き乗船場に「横須賀丸」、金沢方面行き乗船場に「十馬力船」が着桟
している。船影はごく小さくしか写っていないが、細い煙突やその付近の開口部、窓三枚、煙突と前後のマストは
間隔のバランスを欠く等の特徴が見て取れる。



前掲画像の中央に見える小型汽船は、『横須賀造船所』の写真と対比すると、特徴が一致する。5隻若しくは6隻
建造された「十馬力船」の一隻と見て良かろう。

『船名録』に「十馬力船」を探したところ、5隻確認された。
M20~26版不登簿船の項には「一號十馬力船」「三號十馬力船」「五號十馬力船」があり、番号は建造順に付番
されていない。藤倉五良平所有「海運丸」も掲載されている。また、登簿船の項に掲載の「日泰丸」も、要目等
はほぼ一致する。

一號十馬力船 M11.11   55.11×14.38×4.78  37.00G/T  40NHP
三號十馬力船 M元     55.11×14.38×4.78  37.00G/T  40NHP   ←「10NHP:No.2」
五號十馬力船 M10.12   55.11×14.38×4.78  37.00G/T  40NHP
海運丸     慶応3.11  53.10×13.00×5.80  31.00G/T  10NHP  ←「10NHP:No.1」
日泰丸     M07     54.35×14.00×4.70  49.31G/T  10.5NHP

後に東京湾汽船の所有となり、『明治28年船名録』を最後に抹消された「日泰丸」は、「十馬力船」の後身と
見て間違いなかろう。造船工長「チブリー」は、横須賀製鉄所副首長「ティボディエ」である。M02.03.10雇入、
M10.03末迄横須賀造船所に在籍した。『横須賀海軍船廠史』には「佛國海軍大技士チボジー」と記録される。
当時の表記は、やはり、船名録の記載に近いものになっている。
東京湾汽船には、こんな船もいたのか‥と、改めて創業間もない頃の船隊に思いを巡らせた。

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「春一番」の頃

2012-03-12 | 旅行
仕事柄、気象に関心を持たざるを得ない。毎朝、気圧配置や海上模様の変化をチェックしてから家を出る
のが日課になっている。季節の節目(入梅や木枯し一号等)や開花日も、記録するよう心掛けている。
中国地方(3/06)と北陸地方(3/11)に春一番が吹いた。「春一番」の定義は、冬から春へと季節が変わる
この時期、日本海を東進する低気圧に吹き込む、強い南風を言う。



1859(安政6)壱岐郷ノ浦から五島沖に出漁した漁師53人全員が遭難したことから、壱岐の漁師は春先に
吹く強い南風の突風を「春一」「春一番」と呼んだ。後にその言葉が気象用語として一般化したと云う。
「大衆丸」が就航した郷ノ浦には遭難した漁師の「供養塔」と1987(S62)建立の「春一番の塔」がある。
「春一番」の報を耳にする度、郷ノ浦を思い出す。画像は「供養塔」。



郷ノ浦には「フェリーみしま」と壱岐海運の貨物船を見に出掛けた。「フェリーみしま」は郷ノ浦と沖合の
三島(原島、長島、大島)を結ぶ壱岐市営船。136859 / JM6725、102G/T、2003.02、井筒造船所。



第二十一壱岐丸(手前) 127848 / JM5454、122G/T、1985.06、旭洋造船。
第二十八壱岐丸(奥) 132750 / JM6169、160G/T、1992.06、渡辺造船所。
この時は2隻のフリートを捉えることができた。「第二十一壱岐丸」は2008.08.20パプアニューギニアへ海外売船
さた。九州周辺離島の貨物船はスマートなRORO船が目立つが、在来型貨物船も活躍している。

1950年代、背後の崖上から俯瞰した「大衆丸」が記録されている。





大衆丸は「旧軍所属船より編入」により、1948(S23).07.27信号符字JPCAが点付された。その時点の
所有者は大蔵省。残念ながら、貨客船への改装をどこで行ったかは、調べがつかなかった。俯瞰画像
からは、機器配置の詳細やダミーファンネルの頂部を見ることが出来る。船首楼の後部中央がウェル甲板部分に
飛び出しているのが目を引く。斜路の天井部分の名残か? 船尾は簡易工法のトランサムになっている。
上の桟橋時代はスカジャップナンバー(T257)付で、ブームはアングルを組んだ代用品である。東海汽船「黒潮丸」
もこの代用品を装備していた。下は岩壁完成後で、ブームは更新されている。



これは博多港における姿で、まだブームは代用品が付くが、スカジャップナンバーは消されている。郷ノ浦に於
ける二枚の画像の、丁度、中間と思われる。船首部の喫水線付近の構造が良く判る。
「大衆丸」は1963(S38)に「韓水丸」と改名、韓国航路に転用された。1970(S45).09.14信号符字は抹消
されている。





これは「大衆丸」の一等喫煙室と通路で、操舵室の下部にあたる。通路の両側に一等客室が並び、
前方が喫煙室となっていた。ここは増設部なのでどうということないのだが、既設部分とどのような
取合いになっていたのか。一般配置図を見てみたい。
「新さくら丸」の最上等級キャビンは、窓の外がデッキだった覚えがあるが、建増し(?)された船は、とか
く妙な配置になるものだ。

内山鐵男氏が著した『舊陸軍特殊船舶記録(S23.02.08)』という、ES船開発の経過が記された手書き
青焼きの冊子がある。福井静夫氏による、著者の経歴に関するメモも添えられていた。この冊子には、
浜根汽船「よりひめ丸」に施された試験改造の見取図も掲載されているが、観音開き式バウドアは無く、
バウドアとランプが兼用される方式である。この試験改造を踏まえ、ES船には観音開き式バウドアが装備
されたのであろう。「よりひめ丸」は戦後まで残存したが、バウドアはどうなったのだろうか。

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忘れてならぬ船

2012-03-03 | 旅行
絵葉書の余白に「忘れてならぬ長門丸」とあった。誰が、どんな思いで記したのか。日本郵船「長門丸」
は旅順港閉塞船21隻中の一隻である。



「長門丸」948 / HGBQ、1884G/T、1884.11、NAPIER SHANKS & BELL (グラスゴー)
旅順港閉塞は、明治三十七八年戦役の際、老朽船を用いて三回に亘る港口閉塞が行われたものの、結果
は失敗であった‥程度の認識しかなかった。海軍に用船されていた「長門丸」は第三回閉塞隊に編制され、
1904(M37).05.03の閉塞行動に使用された。使用された船舶の多くは、海外で建造され、後に輸入された
中古船であるが、「長門丸」は共同運輸が海外発注し、日本郵船に継承された船。第三回閉塞行動1904
(M37).05.03は、天候不良のため行動中止となるも、徹底されなかった。行動を中止して残存したのは12
隻中4隻であった。「長門丸」は1910(M43).03.22に売却、解体されている。



記録によると、自沈したが後に浮揚に成功し、商船として蘇った船もある。板谷合名会社「彌彦丸」が
それ。沈船地図に照らし合わせると、右側が「彌彦丸」、左側は「福井丸」で、共に第二回閉塞行動1904
(M37).03.27に加わった。板谷合名会社は、北海道沿岸航路を経営した板谷宮吉により1899(M32)に設立
され、「彌彦丸」は「米山丸」と共に1902(M35)に購入された。同社は1912(M45).02に板谷商船株式会社
に改組している。



『旅順案内』という冊子中に、旅順港内で捉えられた「彌彦丸」の画像がある。船名に関する特段のキャ
プションは添えられていないが、本文中に興味深い記載がある。

鬼神も恐るゝ勇士を乗せて共々渤海の波に沈んだ彼の名誉ある閉塞船の引揚作業は意外の
好結果で彌彦丸の如きは昨年の秋船體の浮上を見ることが出来今では港内中央に繋留され
て幾多勇者の魂を乗せて記念の花を飾つて居る(口畫参照)其他十數艘の沈没船も此春期
を待つて夫々作業を終るの豫定である






「彌彦丸」 7658 / JRCN、2692G/T、1888、建造所不詳(英国)、ex GLENELG
これは『件名録(T12版)』掲載画像で、当時は神戸汽船信託が所有していた。旅順まで溯ると、1905(M38).
12浮揚は成功し、1906(M39).11修理完成。所有者は、薩摩徳三郎、彌彦商会、神戸汽船信託と変化した。
当初、この画像に付く「二」は理解不能であった。画像が取り違えられているのかとも考えた。
板谷合名は1904(M37)に「彌彦丸」7658 / JRCN (ex GLENELG)を失うと、早くも同年中に7089 / JMSP
(ex VEGA)を「彌彦丸」とし、乗り換えていたのである。新潟出身の板谷氏にとって、「弥彦」は外せない
船名だったと思われる。
7658「彌彦丸」の修理が成って以降、7089「彌彦丸」が北海道恵山岬に乗り揚げて失われる1920(T9).
05.02までの間、2隻の「彌彦丸」が登簿されていたのである。徴用時に同一船名がある場合、船舶番号
が老番の7658「彌彦丸」に、区別のため、便宜的に「二」を付けたのではないかと想像している。大正
13年版『船名録』掲載を最後に抹消される。謎が解ければ何でもないが、ややこしい話である。

閉塞船21隻を調べていた際、横須賀市HPに「彌彦丸」の記載のあることに気付いた。久里浜の若宮神社に
「彌彦丸」に積まれていた石材があるという。早春の一日、久しぶりに横須賀線で久里浜へ出かけてみた。



若宮神社は、平作川沖積地に浮かぶ島のような、小高い丘に鎮座していた。途中の平作川に架かる夫婦
橋周辺には乗合いの釣船が係留され、漁協の看板も見える。この辺り、古くからの漁師町のようだ。社は
東の海の方を向いている。先ずは参拝してから境内を散策する。道路を背にし、社に相対するように建て
られていた社殿改築記念碑(昭和10年8月)の台石は褐色がかった花崗岩で、次の文言が彫られている。

この台石は
浦賀工場の
寄贈にして日
露戦役の際
旅順口閉塞船
弥彦丸に使用
せしものなり


『旅順閉塞隊秘話』には次のとおり記されている。
第一回 「閉塞船は粉炭を満載していた」
第二回 「バラストは第一回の時は粉炭であつたのが、今回は御影石になつてゐた」
第三回 「瀬戸内の某所に於て石材を満載し、その空隙にはセメントを流し込む等の作業を行ひ」
徐々に用意周到になっていく様子が判る。船には爆薬も仕掛けてあり、粉炭や石材の搭載は、早く沈め
るための準備なのであった。第二回閉塞隊に編制された「福井丸」の老船長、伊藤氏の話は面白い。

今回の御命令は前進根拠地用の石材を搭載するのだとあって、三月五日から十日までの間に
大阪築港で大急ぎでやつたのでありますが、自分等は何の為めにするのか最初の程は少しも
存じませんで…
福井丸での閉塞の一件は此の儘私にやらして戴くわけに参りませぬかと、切に嘆願致しまし
たが…
是でも御一新の時には伏見鳥羽の戦で随分やつたものでありますが、今度は是非此の世の名
残り彼の世の思出に、露西亜を十分やつ付けてみたいものだと思ひまして云々…


1897(M30)に始まる大阪港築港工事には、犬島の花崗岩が使用された。第二回閉塞船に大阪で石材が
積込まれたのであれば、まず、犬島産花崗岩(犬島石)と考えて間違い無かろう。花崗岩は産地によって
鉱物の比率や結晶の大きさに違いがある。
「彌彦丸」の1906(M39)修理完成時の所有者は薩摩徳三郎で、船籍は「浦賀」であった。「彌彦丸」は
浦賀船渠で修理工事が行われたのではなかろうか。その時、船内に残っていた石材が陸揚げされ、後に
若宮神社に奉納されたのである。となると、台石になった花崗岩は、犬島で切り出された大阪港築港用
石材と言うことになる。「彌彦丸」に思いを馳せながら、推測に推測を紡いでみた。「おまえは犬島から
来たのかよ?」 パンパンと掌を台石に当ててみた。



若宮神社の社は立派なコンクリート造で、電気も点灯していたことから、宮司さんがいらっしゃるのかと考え
たが、氏子の方々が輪番でお守りしている。面白い話を伺った。この右手の狛犬には「一物」があり、
「雄」という。狛犬ファンもいると聞いてるが、成る程、狛犬の背後に作り手の姿が見えて面白い。

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