津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

ストンボ「金札」

2022-07-30 | 日記
三年前の2019年、品川駅の工事現場から、明治初期に築造された高輪築堤の一部が出現し、橋台部も見つかった。汐留
地区再開発の際にも、転車台や鉄道工場の遺構が発見され、ゆりかもめ車窓より、興味深く眺めた覚えがある。
明治の初め、鉄道開業前の東京横浜間・大阪神戸間に、蒸気船による航路が誕生した。前者では「稲川丸」「弘明丸」が
有名で、「シティ・オブ・エド」の汽罐爆発事故は、当時の人々に記憶された。この航路には、他にも鉄船「奮迅丸」も
使用された。この船は熊本藩の輸入した蒸気船の後身で、後に「徳島丸」を経て、廃船殻再生の上、「効鉄丸」に生まれ
変わった。この航路に使用された蒸気船は、1872(M5)年の新橋横浜間鉄道の開業後、東京湾内航路には転用されなかった
ようだ。

一方、大阪神戸間航路に就航した蒸気船の一部は、1874(M7)年の大阪神戸間鉄道の開業前から、瀬戸内各地に航路を延伸
させている。当初、蒸気船を所有・運航したのは、「藩」や我が国に進出した外国商社であり、藩船や外国商社所有船は、
次第に国内資本家の所有船となっていく。当時、「内航」に従事した外国商社船は、外国籍船として運航されている。

『日の丸船隊史話』には、次のとおり記される。
「フヒッツゼラルド・エンド・ストローム会社の建造した無事丸・芙蓉丸(90呎木造客船)は阪神の交通に用いら
れ、両地間を1時間45分で走り好評を博した。此阪神航路は右両船の後、金札丸、往返丸、ライジングサン、バール
ングの4隻(上海トンブリ所有)を輸入使用したと言う。」


神戸開港文書に収められている大坂通船の記録[1871(M4)年]を見ると、船名等は次のとおり。
年月は陰暦。辰=元年、巳=2年、午=3年、未=4年。
米国「ヲーヘンマル船」 90噸 テレシング 午12月16日入港
米国「キンサツ船」   20噸 テレシング 牛12月16日入港
米国「ライシングサン船」90噸 テレシング 未 正月2日入港
米国「バールング船」  60噸 テレシング 巳10月22日入港
孛国「コロン船」    24噸 キニッフル  →M4に大阪開商会社「起商丸」改名
福山藩「快鷹丸」    50噸 午2月より
新屋次郎助(兵庫町人)「鷲丸」50噸 午7月晦日入港
高鍋藩「千秌丸」       午閏10月10日入港
佐賀藩「秋芳丸」    58噸 午11月より
徳島藩「戊辰丸」    5噸  午12月24日入港
大坂開商会社「起商丸」 10噸 午12月27日入港   ←元キニッフル「コロン」
徳島藩「富商丸」    5噸  未 正月14日入港  →阿州徳島綿屋彦兵衛
鳥羽藩「飛燕丸」    20噸 未 正月20日入港  →志摩屋羽左衛門
播磨屋久兵衛「勢鷹丸」 20噸 未2月3日入港   →大坂町人播磨屋久之助
徳島藩「己巳丸」    18箇6合 未2月6日入港  →阿州徳島長尾最兵衛

テレシングは「テレジング商会(日支貿易商会)」、キニッフルは「クニフラー商会」とみられる。個人名ではない。
福山藩「快鷹丸」は、福山藩がレーマンハルトマン商社より購入した原名「アドレール」(鉄製)。輸入キットを組み立
てた、鉄船3隻中の一隻。但し、『明治18年汽船表』や『船名録』はハンブルグ製としている。
新屋次郎助(治郎助)「鷲丸」は、レーマンハルトマン商社より購入した原名「ハービート」で、「ヲーサカ」を経て
国内籍船「鷲丸」となった。この船は後に鉄船「大安丸」(太安丸とは別船)と改名、1880(M13)年頃抹消され、『明治
14年船名録』には掲載されない。輸入キット組み立ての、鉄船3隻中の一隻。
高鍋藩「千秌丸」は「千秋丸」の誤り。幕府運輸船とは別船である。本題から外れるので、以下数隻を端折りたい。
最後の徳島藩「己巳丸」は「己巳鵰」の誤りで、同船は後に「凌波丸」(船舶番号40)となった。この船は神戸で建造され
ている。

大阪神戸間に就航した蒸気船は、1874(M7)年の大阪神戸間鉄道の開業後も、阪神と瀬戸内海各地を結ぶ航路に就航し、
大阪の玄関口として、川口波止場の賑わいは続いた。
明治初期に撮影された大阪川口波止場の光景を、鶏卵写真から眺めてみたい。







蒸気船による航路の開設された頃の状況を、神戸、大阪両地の地誌は、次のとおり記している。

「貿易の開かるると共に、最も不備を感じたるは、交通運輸の機関なり。此に於て海上の運搬は、早くも従来の
檜垣船、樽船、猪牙船に加ふるに、汽船の航行を以てせんとする者出で来り、元年四月汽船「ストンチ」は、日
々午前八時に大阪に奔り、午後五時に大阪より来る。其目的とする所は、全く一般の旅客と、普通の貨物積載に
ありて私人営利の計画に出づ。 (略) 一般の旅客、普通の貨物が、汽船に由て兵庫大阪及び大阪横浜間に回
漕せられたるは、蓋し此時を以て嚆矢と為すなるべし。」

『神戸開港30年史』(明治31年5月刊)

「明治二年の春、米国商館「ワッチ」の所有船往返丸及び外人某の所有船「千里馬」は相共に大阪神戸間の運転
を始め、自己商館の物資を運搬する傍、商業的行為を以つて一般交通の旅客を搭載し、往返丸は安治川を遡行し
て旧安治川橋下流に碇繋せり、是れ大阪に於ける純然たる商船開始の濫觴にして、又、汽船が安治川を進航せし
嚆めなりとす、 (略) 明治三年に至りては徳島丸及び照天丸の二隻新たに摂津阿波間を航行し、阪神間には
己巳鳩(後、凌波と改称す)快鷹丸(福山藩船)通計丸、金札丸等の諸船前後して航業を開始し、早く巳に競争
の傾向を来たし、神速丸、勢鷹丸、鷲丸等亦相次いで現はれき、」

『大阪府誌』(明治34年刊)

運航開始時期や船名にに違いが見える。『神戸市史』は明治元年4月「汽船ノ阪神間航海開カル」としている。神戸側の
記録にある「ストンチ」は、明治6年に日本籍となった2噸2馬力の「ストンポーチ」なのか。それとも「スチームボート」
が転化したという「ストンボ」のことなのか。『神戸海運50年史』には、明治3年「ストンボ」運河丸が辨天浜に打ち上
げられた件が記されている。ここでは「ストンボ」は、船名ではなく総称のようだ。

橋本徳壽『日本木造船史話』は、次とおり記している。
「明治元年西暦1868年4月には、神戸大阪間に小蒸気船で、貨客運送を始めた者があった。また、同じ月に大阪
運上所の汽船浪速丸が大阪横浜間の飛脚船をはじめた。また6月には横須賀造船所の横須賀丸が旅客を専門とし
て、毎週3回横須賀横浜間の飛脚船をはじめた。また同じ年の8月には神奈川丸が横浜東京間の往復をはじめた。
これらの蒸気船を当時はストンボ(スチーム・ボートの訛り)と呼んで評判になり、錦絵の材料にもなった。」


「金札」という船名を読み取れる画像に接し、3枚目の鶏卵写真に見える小外輪船の船名が判明した。上甲板を外側に張り出
し、外輪部を外板より内側に設けているため、スッキリした外観である。その外輪覆部分に「船名額」と見られる板が取り付
けられているものの、読み取れない船名にもどかしい思いをしていた。判ってみると、確かに、文字の輪郭は「金札」と相似
だ。明治のごく初期、阪神間に就航したストンボ「金札(キンサツ)」の船影が特定された瞬間だった。







「金札(キンサツ)」の建造地は判らない。日支貿易商会が運航し、上海トンブリ所有という記録等から、建造地は上海なのか。
「金札」の係留される背後には、寄棟造の、テラスを持つ特徴的な建物がある。これは、鶏卵写真二枚目に見える建物と同じで、
大阪運上所構内に設けられたという川口傳信局。局舎内に、二名の人物が見える。
「金札」の船上にも、欧米人とみられる人物の姿がある。錨を格納する位置や、船楼甲板上のボートの向きから、左側が船首で
ある。人物の右上方、銭湯の「湯気抜窓」のようなところが操舵室か。キセル型ベンチレーターも付いている。要目表には1檣
とあり、鶏卵写真の右手船尾側に見えるマストは、背後の汽船のものと見られる。
同船は明治10年に米国テレジング商会より大阪の平尾喜平治(岡山出身)が購入し、「置郵丸」と改名。初めて日本籍となった。
丁度、西南戦争の時期にあたる。
しかし、改名(購入)から一年で、「置郵丸」は名簿から消滅する。当時、数少ない鉄船であり、船体寸法の似た船を後年の版
に捜したが、見当たらない。再び海外へ売却されたのか。はたまた、海難に遭って失われたのか。記録された要目は次のとおり。
置郵 鉄製 外輪船 馬力22.5 噸数51 長63.62尺 巾15.51尺 檣1本

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