津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

「松島丸」のこと

2018-06-10 | 東京湾汽船
1889(M22).11.15創立の東海汽船(もと東京湾汽船)は、来年、130周年を迎える。同社は時代の変化や社会の要
請に呼応し、その都度、内部改革や船隊整備を行っている。東京に本拠を置き、首都圏を集客地とする東海汽船の
動きはダイナミックであり、その歴史は興味深い。今回は、社史を読んで船名の判明した、古絵葉書に記録された汽船
のことを記したい。





これは、40年位前にアベノスタンプで購入した絵葉書。記録された小型汽船の船名は、残念ながら読み取れない。右側
のキャプションには「大島観光記念」とあり、左下に「明治製菓写真班撮影」とある。裏面には、明治製菓の社章と社
名が印刷されている。市販された絵葉書では無いようだ。ほぼ中央に捉えられている船影は小さく、印刷も粗い。
史料価値は無かろうと、一度は流してしまった。ただ、キャプションの「大島」が気になり、再び探し出して購入した。
大正後期から昭和初期の頃、東京湾汽船のフラッグシップは「櫻丸」「橘丸」であり、このようなスタイルの汽船は在籍して
いないことも、首を傾げた理由であった。

第一次大戦の戦後不況や、震災復興に係る不良債権の増加により金融不安の広がるなか、「東京渡辺銀行が破綻し
た」という片岡蔵相の失言(1927(S2).03.14)により金融恐慌が発生し、東京渡辺銀行は破綻した。同行より役員
を迎え入れていた東京湾汽船は、経営陣の刷新を行う必要に迫られ、1927(S2).12.15開催の臨時株主総会において、
中島久萬吉取締役社長、林甚之丞常務取締役体勢となった。中島・林体勢のもと、東京湾汽船は短期間に大改革を
断行する。

社史によると、海運界に初めて身を置いた林甚之丞常務は、大阪商船紀州航路の乗船・視察から行動を開始した。
当時のパンフレット等から、恐らく勝浦急行線の新鋭船「那智丸」「牟婁丸」に乗船したと思われる。旅程等は記録さ
れてないが、1927(S2)年12月後半の、歳末に旅している。
林常務は、続いて年明け早々の1月2日から5日にかけ、「橘丸」に乗船した。社史によると、視察は「会社創立40
周年(1929=S4)を間もなく迎えるに当たって、会社無限の資財たる300万府民を対象に会社の営業方針の転換を
胸中に納め」ての視察で、「下田、大島、熱海、伊東、三崎、館山等を視察して大いに感ずるものを得た。とりわ
け大島では胸中の意を強くした」という。

二回の視察により打ち出されたのが、いわゆる「貨主客従」から「客主貨従」への経営方針の転換であった。航路
の見直しと共に、老朽船処分、新船計画、月島工場廃止等を行い、当面の策として「櫻丸」「橘丸」を純客船へ改
装した。白塗装となった両船は、4月1日から大島・伊豆航路に投入された。
改正直前の、1928(S3)03時刻表は確認出来ないものの、1927(S2).01時刻表から東京発大島行きを見ると、次の
とおり。月間13便設定され、全便とも東京霊岸島発20時(午後8時)となっている。(数字は出港日)
東京→大島各港(波浮行)01、03、11、13、21、23
東京→大島各港→神津島行05、25
東京→大島各港→伊東行08、18、28
東京→大島元村→三宅島行11、27

改装成った「櫻丸」「橘丸」を投入した1928(S3).04.01ダイヤは、実に画期的であった。パンフレット等によると、大島
経由下田行き観光便は毎日出港となった。具体的には、往航は東京霊岸島午前8時発、復航は下田午前7時30分発と
いうもの。寄港地は、「東京~大島~熱海~網代(不定期寄港)~伊東~八幡野(不定期寄港)~稲取~下田」。
パンフレットには「東京下田間の毎日定期(両地より発航)」「会社の優秀船たる『さくら』『たちばな』の姉妹船を
此航路に向け、しかも船内の設備を最も家族的に最も社交的に改むると共に、等級廃止と運賃値下げに会社の利益
を度外視する程のデモクラティックな改革を断行」とある。
国府津より延伸した国鉄熱海線の熱海駅は、1925(T14).03に開業している。当初ダイヤの熱海港発着時刻は「下り下
田向け17:50発」「上り下田より11:40着」と設定され、下田への乗船客は、熱海集客を目論んだと見られる。
早くも4月10日にダイヤ改正を行い、毎土曜夜と祭日前夜に、東京22時発大島行特別夜航を増発した。ただし、日曜
祝日の午前8時発大島行は休航となる。
1928(S3).04.01ダイヤ改正から翌年07.01「菊丸」投入までの間、非常に多くのパンフレットが配布され、刻々変化する
運航ダイヤを知ることが出来る。ただ、この間の変化の経緯は省略する。
当時、「櫻丸」「橘丸」に見合う予備船は無く、毎日二隻でこのスケジュールをこなすには無理があり、社史によると
「攝陽汽船(ママ)から松島丸(約500噸)を用船」してこれを補った。大島観光航路開設当初は乗客数1日10人以下とい
う日もあり、宣伝に努めた結果、東京~大島への観光客は徐々に増え始めた。
1928(S3).08.22の役員会において、8隻の新造計画と、8隻の老朽船処分が決定たことから、用船「松島丸」は同
年9月に返船した。
返船理由は明確に記されないが、廃船予定一覧表によると、同船の経費は最も高額。また、集客も一段落したので
はないか。日付は不明だが、「櫻丸」「橘丸」限定の観光航路は「東京→大島→下田→半島沿岸→熱海→東京」と
変化し、大島寄港は往航のみとなった。さらに、観光便は東京発「月水土」の週3回となり、出港時刻も21:30とい
う夜行に戻った。「火木金日」にも大島行は設定されているものの、従来の波浮行、神津島行、伊東行を加えて毎
日就航とし、「松島丸」用船を解消した。東京湾汽船の「松島丸」用船は、5ヶ月ばかりであった。

大島で記録された船影は「松島丸」に相違ないと見られるものの、裏付けを得られないかと考えていた。資料に船
影を探したところ、不鮮明ながら、『鳴門市史』にそれらしい船影を見つけた。キャプションには「眉山丸」とあった。
しかし、この船影は「眉山丸」ではない。





画像を比較すると、ポールドの位置や船橋楼甲板のブルワーク形状などから、同一船と判る。『鳴門市史』は異なる船名
を記していても、攝陽商船(鳴門で記録)と東京湾汽船(大島で記録)を結びつける船名は「松島丸」しか無い。
この画像により裏付けを得られたと考えている。

「松島丸」は九州汽船の発注により建造され、『船名録T9版』から掲載される。
松島丸 25335 / RNCD 433G/T、木、1919(T8).05、中井亮作(熊本鬼池)、141.3ft(呎)[T09版]
1923(T12)新興汽船籍となり、1927(S2)攝陽商船へ売却された。『船名録S6版』に掲載されないことと、海員審
判記録にも船名は無いことから、1930(S5)解体抹消されたと見られる。攝陽商船へ売却されるまでの経緯を『九州
商船社史』から拾うと次のとおり。

1919(T08).05  九州汽船「肥州丸」として進水。
1919(T08).06  「松島丸」と改名。竣工後、長崎~玉之浦・福江~奈良尾航路に就航。
1923(T12).09  九州汽船は五島汽船と共同出資で新興汽船設立。
1923(T12).10  「松島丸」を新興汽船へ現物出資。
1925(T14).07  新興汽船解散。
1926(T15).04  「長福丸」が長崎~玉之浦航路に就航。
1926(T15/S01) 「松島丸」を攝陽商船へ売却。

長崎~下五島航路に投入された「松島丸」の攝陽商船売却は、「長福丸」就航による玉突きではなかろうか。

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