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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

2隻の「電信丸」

2021-03-29 | 尼崎汽船部
電信丸については2012年に書いた。新たに判明した事柄を含め、改めて書き直してみたい。

「電信丸」という長寿船のことは、山田廸生氏が『船の雑誌』に書かれた「電信丸のこと」を読んで知った。二学年合同の小笠原中修学旅行の際、
竹橋の書店で求めた『船の雑誌』3冊は、帰路の椿丸船中で目を通した。
「電信丸」は明治初期における国内建造の鉄船で、驚くべき長命を保ったことや、その建造経緯は謎に包まれていること等、本当の面白さや海事史
上の位置を理解したのは、かなり後になってから。「電信丸」への興味は、汽船導入期への関心を深め、尼崎伊三郎・尼崎汽船部の史料調査へ繋が
っていった。
東京港で船の仕事に就いてから、「電信丸」建造の地とされる「築地波止場跡」を毎日望み、その都度、誕生の経緯の不思議を考えることになった。
しかし、なかなか「電信丸」は姿を見せてくれなかった。先頃ようやく、築地で建造された証拠史料を確認した。
史料を確認した翌朝、早めに自宅を出て、「はとば公園」に立ち寄り、この地で148年前に建造された「カーベ号」に思いを巡らせ、建造に従事し
たセヱシイル氏へ、「確かにここで造ったと、ようやく判ったよ」と語りかけた。





築地波止場の対岸は、東京湾汽船月島工場の跡地。また、波止場北側は川崎造船所発祥の地。

明治初期、船名の重複期間は無いものの、「電信丸」は2隻存在した。セヱシイル氏の建造した「電信丸(カーベ号)」は2隻目。先ず、1隻目の
「電信丸」から史料を追ってみたい。
最初の「電信丸」は工部省電信寮に所属した。『海底線百年の歩み』によると、本邦最初の海底線は、1872(M5).08関門海峡に敷設された。この
敷設には、蒸気船は使用されていない。敷設は、「団平船2艘を舫い、これに板を渡し、その上に海底線を積み込み・・(略)・・曳船として和船
10数艘を傭って、舫った2艘の団平船を曳かせ」て施工した。
敷設後、重錘取付箇所に障害が発生し、翌1873(M6).10に第2海底線を敷設した。施工は、弁天沖に埋没している太くて丈夫な浅海線を、莫大な労
力と時間をかけて取り出し、前回とほぼ同様に団平船3艘を舫い、これを小蒸気船「電信丸」に曳かせて行った。
一方、津軽海峡への海底線敷設工事は、大北電信会社に委託され、1974(M7).10竣工。工事に先立ち、1872(M5).12には、御雇外国人の電信丸船
長「エドワルト・ウィルソン・ハスウェル」等を派遣し、海底線敷設線路を測量した。「電信丸」も津軽海峡へ航海したとみられる。
同書巻末には海底線敷設船一覧が掲載され、その最上段に記載の「電信丸」は、工部省所属、「1872(M5).08~1874(M7).04/1年10月間稼働」
とある。この電信寮「電信丸」稼働期間中に、「カーベ号」は建造されている。



これは1896(M29).01.03撮影の「馬関海峡海底電線沈布之図」。大阪商船ファンネルマークの小型汽船が、「合いの子船」と共に写っている。船名は読み
取れない。「電信丸」を用いた敷設も、こんな光景だったろう。

政府は1870(M3)に東京~長崎間の電信線架設を決定し、技術者や機械物品を欧州に求めた際、電信寮「電信丸」は、欧州で建造されたと思われる。
5年後の1875(M8).02に、電信寮は「電信丸」を競売に付した。『横浜毎日新聞』掲載の広告は次のとおり。
  一 内仕掛蒸気船  一艘
       但 船号 電信丸
  一 馬力      80
  一 噸数     151
  一 端船三艘 其附属船具一式
船質に関する記載は無いものの、「電信丸」の馬力と噸数が明らかになった。セヱシイル建造「電信丸」とは、要目の異なる別船と判る。
その後、電信寮「電信丸」はどうなったか。大胆な推測をしてみたい。M9汽船表に掲載の「静岡丸」(1876(M9)に外国人から購入)の要目は、
それに近いと判った。
     競売広告   M9汽船表   M18汽船表   M20 船名録
船名   電信丸    静岡丸     静岡丸     静岡丸
船質   -      鉄       鉄       鉄
推進器  内仕掛    暗車     螺旋      -
馬力   80      75     名60 実240  公60
噸数   151     150     283.6     総457 登283
長    -      141.5    142.1     142
製造地  -      -      不明      蘇格蘭
製造年  -      -      不明      不詳

電信寮「電信丸」は外国人が落札し、1876(M9)茶商山崎彌七(静岡)に転売され、「静岡丸」と改名されたのではなかろうか。1881(M14)静隆
社の設立に際し、山崎は発起人の一人となり、「静岡丸」は同社所有となる。同船は横浜~清水に就航し、1886(M19).05「三浦丸」と観音崎沖
で衝突して失われた。因みに、『M20船名録』に記された建造地は「スコットランド」。

「電信丸」347 / HBLMは、『M26船名録』に1873(M6).02建造、製造地名「東京築地柳原町」、造船工長「セイガイ」、前名「コウベマル」と
記される。これまでは、このあたりまでしか判らなかった。
この「電信丸」は、M10汽船表に外国人からの買入船として初記載される。築地建造という『船名録』の記録と、一体どのように整合するのか、最
初は理解できなかった。
その後、「電信丸」について、山田廸生氏が『海事史研究74号』(2017.11)に研究を発表された。この論文により、1877(M10)、ドイツ商人キ
ニフルから「カーベ号」を購入した古野嘉三郎は「電信丸」と改名。その旗章を大阪府へ届け出たと、明らかになった。
この「届け出」年は、汽船表の「外国人からの買入」年と一致する。「電信丸」は建造から1877(M10)まで、日本籍に無かった。このことは、日
本籍にあった船を外国人が購入し、再度、日本人が購入した「静岡丸」のような場合、同様の扱いになったことだろう。

「カーベ号」に関し、新たな史料「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12083333200、東京地所貸借関係雑件(B-3-12-1-44)(外務省外交史料
館)」を確認した。この発見により、「電信丸」の前身「カーベ号」は、東京築地で建造されたという、確たる裏付けを得た。
1873(M6).05、「セヱシイル」は独逸国領事「ヱム・マリテン・ヘール」を通じ、「船打立」のため、築地税関所属地を借用したい旨を申し出た。
辨事局、考法局の協議を経て、東京府知事大久保一翁は、(業務に)「差支えの無い」税関波止場北側地所200坪を、6月より5ヶ月間、「船打立」
用として貸し出す旨の回答をした。地代は1ヶ月につき坪2銭5厘。竣工を10月頃として、借地期間を設定したと考えられる。
「カーベ号」の建造は、臨時的な借地であったことや、5ヶ月という建造期間から、大阪川崎新田で建造の3隻と同様、キット組立船と思われる。
旧石川島修船所跡地を借受けた平野富二は、1876(M9).10.30に石川島平野造船所を創立し、同所による鉄船建造は、1887(M20)軍艦「鳥海」が
最初であった。また、川崎正蔵は、「カーベ号」の建造された同じ地所(波止場北側)を借受け、川崎築地造船所を設けたのは1878(M11).05.06。
同所は閉鎖まで、鉄船を建造していない。



明治16年測量同19年製版同20年8月26日出版の参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図(第三号南東部)」を確認すると、川崎造船所の敷地に斜
路がある(着色は筆者)。三島康雄著『川崎正蔵の生涯』は、築地波止場の船溜りを「池」とし、この周囲に船台があったと推測されているが、船
台は斜路に設けられたと思われる。
1877(M10).03.15「カーベ号」は東京から神奈川へ寄港した。03.17付『横浜毎日新聞』は、ドイツ人所有「神戸丸」は、米人フラチア(?)氏を船将(船
長か?)として、「神戸へ売船に行く」と報じている。
同船は03.27神奈川を出港し、午後7時浦賀へ入港。同船の動向は、税関や海軍に怪しまれ、ドイツ国商人キニッフル所有「神戸号」として、偵察を
受けている。時は「西南の役」のただ中。「乗組員ごと、船を鹿児島へ売り渡すのではないか」との憶測もあったようだ。翌03.28午前8時、神戸へ
向けて浦賀を出港。この後、6月迄に古野嘉三郎が購入し、「電信丸」と改名した。

判る範囲で「電信丸」の改装・改造を記すと次のとおり。
 1888(M21)汽機換装(二連成2基)。
 1908(M41)汽機換装(三連成2基)。併せて船体延長。
 1934(S09)主機換装(日本発動機製焼玉機関1基)。
 1952(S27)主機換装(木下鉄工所製焼玉機関1基)。併せて船尾機関型改造。
 1953(S28)「甲栄丸」と改名。
 1957(S32) 行方不明となる。

「電信丸」は絵葉書にも記録されている。


安治川右岸の大阪中央卸売市場に、入船で接岸している姿。
1931(S06)開市場から1934(S09)主機換装までの間の記録。


今治港における記録で、日本発動機製焼玉機関へ換装後の姿。
「9.3.30今治築港竣工記念」という記念印のあることから、主機換装は1934(S09)年
の年明け早々であったと判った。(前年中に着工か。)


これは黒川裕直著『新居浜港を中心とした海事史話』から使用させていただいた。
船尾機関型改造後の姿で船名は「電信丸」。非常に貴重な記録である。
この改造にあたり、主機は木下鉄工所製に換装された。

あらためて、『日本近世造船史』から、鉄船に関する頁を見てみたい。

明治4年、新潟税関が、佐渡国夷港に於て建造したる新潟丸(長82尺、幅17尺、深6尺、総噸数64、公称馬力10)は、我国に於ける最初の
鉄船なるものの如し。然れども、同船は其設計を海外に仰ぎ、本邦に於ては、単に其組立を為したるに過ぎざりき。
同5年、大阪川崎新田に於て製造したる興讃丸(総噸数121、公称馬力17)は、普通貨客の運漕に従事する目的に出でたり。蓋し是れ内国鉄
製商船の嚆矢なりとす。
同6年、東京築地に於て神戸丸(後電信丸と改む、長118尺、幅18尺5、深14尺6、総噸数251)と称せし旅客汽船を建造し、大阪を基点とし、
瀬戸内海交通の用に供せり。本船は、鉄製なると、速力の軽快なりしとによりて、当時世人を驚嘆せしめたりと言ふ。
明治の初、「レーマン、ハートマン」商会は、独逸より小鉄製汽船三隻の船材を輸入し、大阪に於て之を組立て、「アドラー」「ワショー」
及「ペルリン」(後福山丸と改む)と命名せりと言う。
明治14年、阿波国徳島に於て、効鉄丸と名づけられたる108噸の鉄製汽船を製造せりと言う。爾来鉄船の製造せられたるものあるを聞かず。


「興讃丸」については、重複して記されている。「新潟丸」及び「アドラー(→快鷹丸)」「ワショー(→鷲丸)」「ペルリン(→興讃丸)」は、
鉄材を輸入した国内組立船。「ペルリン」の「福山丸」改名は、確認できなかった。1882(M15)青森県沖で遭難の「福山丸」は、横須賀造船所建
造の別船。また、「効鉄丸」は先に記したとおり、熊本藩「奮迅丸」の後身、「徳島丸」の船殻を流用再生したもので、国内建造の鉄船ではない。

尼崎汽船の最終航海

2017-06-13 | 尼崎汽船部
6年前の2011(H23)年に「尼崎汽船の終焉」を記した。尼崎汽船に関心を持つ者にとって、尼崎汽船と尼崎造
船所の黄昏は、永遠の謎である。尼崎汽船は、1952(S27)上半期に最終航を迎えたと絞り込んだものの、日
付の特定までは難しかった。折にふれ、手掛かりを探す中で、ようやく旅客定期航路最終日を突き止めた。
判ってみれば呆気ないことも、確証を得るのは大変だった。

太平洋戦争開戦の前、1941(S16).11.11に瀬戸内海及び四国九州方面航路を経営する7社の役員は、関西汽
船創立に関する申合書を作成した。合名会社尼崎汽船部は17隻を出資し、1942(S17).05.04関西汽船は創立
した。
一方、芸予海域における戦時統合は、第一次統合として1940(S15).09.16広島湾汽船が創立された。現在の
瀬戸内海汽船の前身である。第二次統合は、広島湾汽船、瀬戸内商船、(合)尼崎汽船部ほかの出資により、
1942(S17).12.31広島県汽船が創立。(合)尼崎汽船部は3隻を出資した。第三次統合は広島県汽船、東海汽
船、尼崎汽船(株)ほかの出資により、1945(S20).06.11瀬戸内海汽船が創立され、尼崎汽船(株)は2隻を出資
した。第二次統合の1942(S17).12.31時点において「合名会社尼崎汽船部」と記される社名は、第三次統合の
S20.06.11では「尼崎汽船株式会社」と変わる。そこには、単なる社名変更とは異なる経緯があった。
先ず、尼崎汽船史において、「鉄道連絡急航汽船株式会社」を忘れるわけにはいかない。同社は1924(T13)に
尼崎家の設立した船社で、当初から株式会社の形態を取っていた。1926(T15・S01)に「急航汽船株式会社」
と社名を変更した。在籍した汽船は、期間の長短はあるものの「兒島丸」「玉藻丸」「此花丸」の3隻。同社につ
いては、「急航汽船のこと」として記してある。



『海事要録S25版』を見てみたい。1943(S18)における「急航汽船株式会社の合名会社尼崎汽船部の吸収合
併」と「尼崎汽船株式会社への社名変更」を記している。文脈から、存続会社は急航汽船株式会社である。
このことは、『海運業者要覧』の記述とも符合する。同書より手掛かりを拾うと、鉄道連絡急航汽船株式会社
の創立は1924(T13).05.13。同社の合名会社尼崎汽船部吸収合併及び社名変更は、1943(S18).09(日付不
明)と考えられる。

戦後、過度経済力集中排除法の公布をみて、財閥解体の進む中、戦時統合によって創立した関西汽船に対
し、尼崎汽船、宇和島運輸及び阿波国共同汽船の三社は、分離要請を行った。1948(S23).04.26開催の関西
汽船臨時株主総会の承認を経て、尼崎汽船10隻、宇和島運輸4隻、阿波国共同汽船4隻の船舶返還は実現
した。手放す方の『関西汽船社史』はサラリと記しているが、分離独立は三社の悲願。後に首相を務めた大物
政治家の動きもあって、経緯は実に興味深い。

船舶返還後の運航時刻について、改めて触れておきたい。



1950(S25).07時点の旅客定期航路は大阪・多度津航路。船は「浪切丸」「大衆丸」「神惠丸」「日海丸」の4隻
を投入している。



これは「1950(S25)10月時刻表」。原稿は前月09/10締切りの内容。
1950(S25).05.22高松市で開催された公聴会を経て、航路は多度津から尾道へ延伸された。この時点で、延
伸は既に認可されていたと判る。就航船は2隻で、何故か「第十四宇和島丸」が充当されている。



尼崎汽船の旅客定期航路を確認できる最後の時刻表は「1952(S27)5月時刻表」。原稿は前月10日(4/10)
閉切りの内容となっている。上段は関西汽船の大阪・多度津航路、中段は尼崎汽船の大阪・尾道航路、下段
は加藤海運の大阪・観音寺航路。尼崎汽船は大阪・尾道航路に「大衆丸」「日海丸」の2隻を投入している。

1952(S27)当初の尼崎汽船は、一体、何隻のフリートを所有していたのか。『船名録S27版』(S27.01.01現在)を
確認すれば良いのだが、残念ながらS27版は刊行されていない。
『近畿海運局要覧S27版』は「管内100G/T以上鋼船所有者一覧表(S27.01.01)」を掲載している。記載は「隻
数」「総屯数計」「重量屯計」「備考」で、船名は記されない。尼崎汽船は「総隻数4隻」「総屯数計2044G/T」、
備考欄に「旅客定期及び内航不定期」とある。当時、「内航不定期航路」も経営したと判る。
「総屯数計」から引算すると、4隻は「大衆丸」「日海丸」「赤城丸」「一心丸」と見られる。『船舶明細書S26版』
(S26.11.01)に掲載の「第四南興丸」「電信丸」の2隻は、1950(S25)中に売却されたようだ。

S26.01.01  船名録昭和26年版   12隻
S26.11.01  船舶明細書S26版    6隻 <第四南興丸、大衆丸、日海丸、赤城丸、一心丸、電信丸>
S27.01.01 (船名録昭和27年版刊行無し)
  〃     近畿海運局要覧S27版 4隻 <船名記載無し>
S27.02.28  「一心丸」独航機能撤去により信号符字取消。
S27.07    「大衆丸」を九州商船へ売却。
S27下期   「日海丸」を宝海運へ売却。
S28.01.01  船名録昭和28年版   1隻 <赤城丸>
S28.03.15  「赤城丸」独航機能撤去により信号符字取消。
S28.06.26  和議手続開始。
S28.10.13  債権者集会。
S28.10.26  和議認可。



これは1935(S10)に行われた主機換装直後の「日海丸」。多度津港における記録。
日海丸 9673 / JKFE 300G/T、41.2m、鋼、1905(M38).02、尼崎造船所(大阪) [S11版]

「四国新聞」には高松港出港情報が掲載されている。1952(S27).05下旬以降の紙面から、尼崎汽船と加藤海
運の船名を併記してみた。時刻表は前掲のとおりで、「阪神行高松出港時刻」は、両社共21:00。なお、加藤
海運の船名は記事のままとした。船名録によると、船名は漢字と平仮名が逆になる。
    尼崎汽船  加藤海運
5/23  日海丸  八千代丸
 24  大衆丸  あおい丸
 25  日海丸  八千代丸
 26  大衆丸  あおい丸
 27  日海丸  八千代丸
 28   -   あおい丸
 29  日海丸  八千代丸
 30   -   あおい丸
 31  日海丸  八千代丸
6/01   -   あおい丸
 02  日海丸  八千代丸
 03  日海丸  あおい丸
 04   -   八千代丸
 05  日海丸  あおい丸
 06   -   八千代丸
 07  日海丸  あおい丸
 08   -   八千代丸
 09  日海丸  あおい丸
 10   -   八千代丸
 11  日海丸  あおい丸
 12   (記事無し)
 13  日海丸   -
 14   -   八千代丸
 15   -    -
 16   -   八千代丸
 17  日海丸   -
 18   -   八千代丸
 19  日海丸   -
 20   -   八千代丸
 21  日海丸   -
 22   -   八千代丸
 23  日海丸   -
 24   -   八千代丸
 25  日海丸  八千代丸
 26   -   八千代丸
 27  日海丸   -
 28   -   八千代丸
 29  日海丸   -
 30   -   八千代丸
7/01   -   あおい丸
 02   -   あおい丸
 03   -   あおい丸



最初に姿を消したのは「大衆丸」。1952(S27).05.25 / 18:00大阪出港、翌05.26 / 12:00尾道着。折返し13:00
尾道出港、21:00高松出港、翌05.27 / 07:30大阪入港で運航を終えた。
その後「日海丸」一隻で隔日運航した。しかし、06.28大阪出港、翌06.29尾道折返し、翌06.30大阪入港をもっ
て「日海丸」は運航を終えた。尼崎汽船社員は、どんな思いで安治川を上って来る「日海丸」を迎えたのか。
今から65年前のことである。
尼崎汽船の運航休止は、確認した限りにおいて新聞報道されていない。阪神~小豆島~高松~丸亀間には、
同一時刻、同一運賃の加藤海運の航路があり、住民生活や地域経済に、影響は無かったのだろう。
『九州商船80年のあゆみ』によると、「大衆丸」は同年7月に九州商船へ売却され、翌月「椿丸」と改名、五島
の海に登場した。「日海丸」は宝海運に売却され、1952(S27).12.01改訂大阪・鳴門線時刻表に掲載された。
しかし、旅客定期航路事業休止後も、尼崎汽船株式会社及び尼崎造船株式会社は存続した。1953(S28)まで
在籍した貨物船「赤城丸」の運航や、オペレーターとして貨物船を用船した可能性も否定できないが、真相は判ら
ない。

最後に『海運業者要覧』から創立日等を拾ってみた。版により、異なった年月が見える。先にも記したが、その
辺りに真実が隠されているように考えている。
『S18・19版』(S18.04.01現在)
  合名会社尼崎汽船部 M13.03創立 代表社員尼崎伊三郎
  尼崎造船株式会社 S15.07.04創立 取締役社長尼崎伊三郎
『S21・22版』(S21.09.01現在)
  尼崎造船株式会社 S15.07.04創立 取締役会長尼崎伊三郎 取締役社長田村太郎
『S24版』(S24.04.01現在)
  尼崎汽船株式会社 合名会社T10.01 株式会社S18.09 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船株式会社 M34.04創立 取締役社長田村太郎
『S28・29版』(S28.06.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船株式会社 M34.04創立 取締役社長北山由雄
『S29・30版』(S29.06.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船工業株式会社 M34.09創立 代表取締役村上平太郎
『S30・31版』(S30.04.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船工業株式会社 M34.09創立 代表取締役村上平太郎
『S31・32版』(S31.06.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船工業株式会社 M34.09創立 代表取締役村上平太郎
『S32・33版』(S32.06.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 (役員の記載なし)

尼崎造船工業株式会社は『S31・32版』、尼崎汽船株式会社は『S32・S33版』を最後に掲載されなくなる。登
記の抹消された「真の終焉」は、この頃と思われる。

姿を見せた「大有丸」

2017-05-22 | 尼崎汽船部
汽船導入の始まった明治初期の建造船や輸入船は、船歴はもとより、多彩な人々のかかわりや改造によ
る船容の変化など、興味は尽きない。輸入船の中でも、特に長命を保った尼崎汽船部「大有丸」に、遂に
めぐり会えた。





これは国鉄佐賀線「筑後川橋梁」を通過する汽船を捉えた絵葉書。キャプションには「筑後川ニ架設ノ東洋一
昇開式鐵橋ト汽船通過」とある。
鹿児島本線矢部川駅(後の瀬高駅)と長崎本線佐賀駅を結んだ佐賀線は、1935(S10).05.25に全線開通し
た。筑後川下流域には、内務省指定港湾の若津港や諸富港があり、『筑後川昇開橋保存修理工事報告
書』には「当時は尼ヶ崎汽船会社が所有していた約830tの汽船が航行することを想定した可動橋として設
計された」と記されている。

筑後川橋梁の完成は1935(S10).05。一方、1936(S11).01.15付逓信省告示第67号で「大有丸」の信号符
字「JSHA」は1935(S10).08.30取消と告示された。また、「大有丸」は『昭和10年版船名録(S9.12.31現在)』
には掲載され、『昭和11年版船名録(S10.12.31現在)』には掲載が無い。「大有丸」はその最末期におい
て、ごく短期間ではあるものの、筑後川橋梁を通過した可能性はある。

「大有丸」については、最初、山高五郎氏の『日の丸船隊史話』で知った。山高氏は『近代船舶史稿』『図
説日の丸船隊史話』においても触れられている。
山田廸生氏は、ラメール誌に連載の「名船発掘」で、『大有丸 本土~沖縄的航路のパイオニア』として、
同船を紹介されている。また、安岡昭男氏の『琉球藩船大有丸小史』は「海事史研究」誌に掲載され、船
歴の詳細を知ることができる。
「大有丸」は、小笠原諸島史における「咸臨丸」「明治丸」のように、沖縄近代史から外せない船。しかし、
「大有丸」の船影は『川崎汽船五十年史』に掲載の解体中の写真と、沖縄逓信博物館にある絵画しか知
られていない。
もう一点、「大有丸」の船影は記録されている。沖縄郵政管理事務所編『琉球郵政事業史』(1974)に掲載
の「琉球へ最初の郵便船大有号那覇港入港の図」には、バウスプリットの付く3檣の汽船が、煙突から煙を
靡かせて航行する姿が描かれている。この絵画からは、綱具装置は判らない。
「大有丸」の最初に現れるリストは『明治6年船名表』。この年以降、明治13年まで「2檣ブリック」と記録され
ている。『明治18年汽船表』では「2檣スクーネル」となり、以降の船名録も同様である。絵画の船影はイメー
ジなのか。
ブリッグはメインマスト、フォアマスト共に横帆を備え、メインマストの後部にスパンカーを持つ。明治10
年代に行われたブリッグからスクーナーへの綱具装置の改装は、操帆の容易さ求めた故と思われる。

絵葉書を目にした時、「大有丸」ではないかと直感したが、船名は5文字に見える。船名部分を拡大したも
のの、潰れていて判然としない。しかし、船影は「大有丸」との裏付けを得た。

では、見つかった船影を「大有丸」とした根拠を幾つか記しておきたい。
山田廸生氏の『大有丸 本土~沖縄的航路のパイオニア』には、重要な手掛かりがある。内航貨物船会社
の経営者滝田清氏は、『川崎汽船五十年史』に掲載の船影について、「全体的にズングリしていること」
「船体上部に木造船特有の丸太状の防舷材が付いていること(一本は船首から船尾にかけてある)」を指
摘され、山田氏はこの点を「大有丸」の判断の根拠とされている。



船橋楼部分を拡大すると、『川崎汽船五十年史』の船影と同じ位置に、防舷材を確認できる。撮影角度か
ら両船は別船のようにも見えるが、ポールドの位置や間隔など、同一船と判る。
そして何より、この船影は沖縄逓信博物館にあるという絵画と、大変良く似ている。

写真を眺めている時、この画像中に「モノサシ」のあることに気がついた。筑後川橋梁の「可動桁最大昇降
距離(高さ)」は23.044mであった。
早速、画像をスキャンし、A4の印画紙にプリントしてみた。汽船は航路筋の中央を航行していると見られるため、
「桁の中央部上下巾」と「汽船の長さ」を計測し、汽船の実際の長さを計算したところ、54.886mと出た。
『昭和10年版船名録』に記載される「大有丸」の長さ(Lr)は54.3m。我ながら、驚くほど近い数値が現れた。
この船影は、「大有丸」と特定して間違いないと思われる。

築港用石材運搬船団

2016-12-07 | 尼崎汽船部
貨物船「咲花丸」の種船となった曳船「第三咲花丸」は、大阪築港工事用として、大阪市の発注により建造さ
れた。慶応4年に開港した大阪港は、淀川分流の河口に位置し、堆積する土砂により水深は浅く、川口波止
場まで遡行できるのは、小型船のみであった。また、天保山沖合に投錨する大型汽船も、冬季季節風時の停
泊は厳しく、次第に神戸港寄港船が増えていった。大阪築港計画は、1885(M18)淀川明治大洪水等を経て、
「淀川改修」と「大阪築港」の分離施工が打ち出され、調査・設計はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケに委託された。
1897(M30).10.17天保山旧砲台にて築港起工式は開催され、当初予算総額2249万円、工期8年の大規模工
事はスタートした。
主要工事として防波堤及び桟橋築造、埋立地造成、港内浚渫等があり、また、工事に伴う採石場、コンクリートブ
ロック製造工場、船舶・機械器具類の整備等も行われた。
大阪市は、西方海上65浬にある犬島群島に採石場を設け、防波堤工事用石材(捨石)を採石した。犬島群島
は良質の花崗岩を産出する。閉塞船「彌彦丸」を記した際、若宮神社(久里浜)にある記念碑台石は、犬島産
花崗岩である可能性に触れた。



大阪鉄工所の写真集には、採石場を背景に、石材を積載中の「犬島丸」の画像が掲載されている。煙突に大
阪市の市章を付けている。
大阪市は、1898-99(M31-32)に70立坪積自航式石材運搬船「犬島丸」6隻を建造した。当初、12隻を建造する
計画もあったが、予想以上の好成績により6隻の建造に止め、非自航式「早潮」を増備した。
犬島丸6隻の貨物倉は底開式で、築堤築造予定海域に着くと船底の扉を開き、捨石を投入した。工事の進捗
に伴い、水深が浅くなると底開式での石材投入が困難となり、改造により固定式石材運搬船となった。真っ先
に改造された第四犬島丸は、1902(M35).11に扉を閉塞した。
なお、「第五犬島丸」は犬島からの復航において、M33.12.08風波により明石沖に沈没した。約10ヶ月の稼働
であった。6隻の主要目は次のとおり。

第一犬島丸 3547 / HTSV 611.01G/T、鋼、1898(M31).12、大阪鉄工所(大阪)、169.00尺
第二犬島丸 3634 / HVFQ 611.01G/T、鋼、1899(M32).03、大阪鉄工所(大阪)、169.00尺
第参犬島丸 4397 / JCLP 611.01G/T、鋼、1899(M32).05、大阪鉄工所(大阪)、169.00尺
第四犬島丸 4403 / JCLT 608.94G/T、鋼、1899(M32).07、大阪鉄工所(大阪)、169.00尺
第五犬島丸 4459 / JCNB 590.63G/T、鋼、1899(M32).10、東京石川島造船所(浦賀)、165.85尺
第六犬島丸 4522 / JCPM 592.33G/T、鋼、1899(M32).12、東京石川島造船所(浦賀)、165.80尺

なお「第一~第四犬島丸」は『船名録』初記載のM33年版において、「長」は「船舶積量測度方法に依る量噸
甲板上最大の長」とされ、各々「169.50尺」だが、M34年版以降「船舶積量測度方法に依る量噸甲板下の長」
となり、「169.00尺」に変化する。

大阪築港工事に用いる石材は、3隻の「咲花丸」によって曳航される「早潮」でも運ばれた。20立坪積非自航
式石材運搬船「早潮」15隻は、「犬島丸」を補完する役割を担っていた。
「早潮」には底開式(第3~第10)8隻、側開式(第1、第2、第11~第15)7隻があり、第1~第10は鋼製、第11~
第15は木造。
一方、「早潮」を曳航する「咲花丸」は、「第一咲花丸」「第二咲花丸」は木造、「第三咲花丸」は鋼製だった。
「咲花丸」は3~5隻の「早潮」を曳航し、最後尾に舵効きの良い底開式を配置した。大阪港~犬島群島間の
航海には、大凡、往航12時間、復航18時間を要した。『大阪築港誌』には、木製と鋼製を比較し「両者の利害
は猶ほ早潮に於ける如く木造船は価格廉なるも船体の歪み甚しく且修繕頻繁なるを以て結局鋼製を以て優
れりとす」とある。3隻の主要目は次のとおり。

第一咲花丸 3548 / HTSW 142.31G/T、木、1898(M31).09、福井造船所(大阪)、102.50尺
第二咲花丸 3549 / HTVB 142.31G/T、木、1898(M31).09、福井造船所(大阪)、102.50尺
第三咲花丸 4513 / JCPG 154.45G/T、鋼、1900(M33).02、川崎造船所(神戸)、101.30尺



曳船当時の船影は無いものかと、『大阪築港誌』の図面を参考に絵葉書を眺めていたところ、築港桟橋沖合
にその船影はあった。いきなり、絵葉書の画面に引き込まれた瞬間であった。絵葉書の仕様は、明治末期か
ら大正初期にかけてのもの。絵葉書に記録された何気ない光景も、当時の貴重な覗き窓であることを、改め
て痛感した。





図面と画像の煙突附近を対比すると、同一船であると判る。「第三咲花丸」と「第一咲花丸」「第二咲花丸」
は、明らかに外観が異なっている。







この図面に記された船名が「SAKUHANA MARU No.3」であった。
大阪築港工事は、1905(M38).09.30で8年の工期を終えた。しかし、護岸・埋立などの残工事も多く、工期
は10年延長された。「第三咲花丸」は1925(T14)尼崎汽船部に売却され、1930(S05)貨物船に改造、「咲
花丸」と改名された。

姿を見せた「咲花丸」

2016-11-03 | 尼崎汽船部
曳船改造貨物船「咲花丸」に巡り会えた。船尾側には既出の「白濱丸」も接岸している。船影から船名を確認す
ることなど、あり得ないと考えていた両船の鮮明な姿に、見惚れてしまった。まるで、1931(S6)にタイムトラベルした
かのような一時であった。







咲花丸 4513 / JCPG 197G/T、鋼、1900(M33).02、川崎造船所(神戸)、130.0呎 [S5.12.31]
撮影された場所は大阪中央市場。船影は、合資会社錢高組による1931(S6).03『大阪市中央卸売市場新築落
成記念』絵葉書にあった。さらにこの下流側には「日海丸」も接岸し、尼崎汽船部フリート集結の、魅惑の光景。
大阪中央市場は1925(T14).03に国の認可を得て着工し、1931(S6).11.11に開場した。この接岸は市場開場に
先立つ時で、画像を確認すると、確かに岸壁へは荷を揚げていない。接舷している和船の船尾側に、俵状の
貨物を積み上げている。薪炭だろうか。
ところで、当時の安治川口に発着した汽船は、どのような動きをしたのだろう。安治川口の古絵葉書を見ると、
明治・大正期より安治川右岸(北岸)に接岸している船は、殆ど左舷(ポートサイド)付け。一方、左岸(南岸)に接
岸している船も、同様に左舷付けをしている。案内書などを見ると、いつの時代からか、右岸は下船及び到着
貨物引渡し、左岸は乗船及び発送貨物受取りと、役割分担されたようだ。
昭和初期の『尼崎汽船部航路案内』には、「汽船のりば」は川口波止場とあり、「荷受所」(御発送貨物御用承
り所)として富島町(川口町船のりば前)外2ヶ所、「荷捌所」(到着貨物揚荷御用承り所)は北区中之島七丁目
(市電船津橋下車東入)とある。当時の汽船にバウスラスターがあるわけ無く、荷揚げ後の汽船の回頭は、川幅の
少し広くなる中央市場と住友倉庫の間の水面で行われたと考えている。



鮮明な画像の出現により、今治港におけるこの船影も、「咲花丸」との確証を得た。奥右側は「第十二東豫丸」。
内務省所有船を種船とした改造船と異なり、「咲花丸」の氏素性は明らかで、大阪築港工事用に建造された大
阪市所有「第三咲花丸」の後身にあたる。因みに大阪市所有当時の船名は「さくはな」と読み、「さきはな」では
ない。証拠は後にお示しする。
尼崎汽船部は1925(T14)同船を買船し、1930(S5)貨物船に改造し、改名を行った。買船から改造迄の間、どの
ように使われたかは判らない。同じ頃、内務省所有船を種船に改造された「成功丸」「此花丸」「運輸丸」は、新
たな船舶番号を付与されたが、「咲花丸」は「第三咲花丸」の番号を継承している。尼崎汽船部所有となってか
ら、船名の「読み」が変えられたとは考えにくい。謎の「運輸丸」については新たな画像の発見もあり、鋤簾式浚
渫船を種船とした可能性が高まった。
船体の「継足し」について『海運夜話』には次のくだりがある。大正期の大阪の造船所は「何でもあり」のようだ。

一番造船の盛んだったのは大阪で、尻無川の川尻にずらりと並んだ処は天下の壯観でありましたが、
彼邊は別に造船設備は出来て居らぬのでありますから、いきなり畠の中へ聊かの土䑓を構へ、其上
で何千噸もの船を造るのでありますから呆れた話で、其又造る船がハルクの改造があり、木船があ
り、よくまあ盲目滅法に遣つたものであります。面白いのはトロール船を胴中から二つに切りまして、
中央部に繼足しをし、大きな商船にする方法で、相當流行した樣であります。


「船名録」に記される「長さ」は、単位が「尺(=曲尺)」から「呎(=フィート)」に変わった大正8年版より後、昭和8
年版までは「量噸甲板上ニ於テ船首材ノ前面ヨリ船尾材ノ後面ニ至ル長」、昭和9年版以降は「上甲板梁上ニ
於テ船首材ノ前面ヨリ船尾材ノ後面ニ至ル長」と、定義されている。
これは、船舶原簿の「上甲板梁上ニ於テ船首材ノ前面ヨリ船尾材ノ後面ニ至ル長」の欄に記される数値(=登
録長(Lr))である。船舶原簿には、全長や垂線間長は記されない。また、史料に「垂線間長(Lpp)」として記され
た数値の場合、戦前と戦後は垂線の位置が異なり、数値の扱いに注意を要する。
「船舶原簿」最上欄に記されるのは「番號」「造船地」「造船者」「進水ノ年月」「原名」であり、船名や信号符字、
船種、長さ等は変化しても、その5点は変えよう無い。船舶番号の変わった船もあるが、これは抹消された船
の、船殻流用の別船扱い。

改造前後の「長さ」を比較してみたいことから、船名録の凡例から「長さ」に係る「単位の変遷」を整理する。
大正3年版までは「曲尺」。
大正4~7年版は「曲尺」。*印は「フィート」。
大正8~12年版は「フィート」。△印は「曲尺」。
大正13~昭和8年版は「フィート」 (8年版凡例は誤りか?)
昭和9年版は「フィート」。×印は「メートル」
昭和10~18年版は「メートル」。×印は「フィート」

記録された数値を「メートル表記」するなら、「換算係数」も押さえておく必要がある。
「1尺」曲尺=0.3030303m
「1呎」フィート=0.3048m
そもそも、船名録には「表示単位未満は切捨て」て記載されているため、余り厳密に考えることも無かろう。
「第三咲花丸」及び「咲花丸」の「長さ」は、船名録に次のとおり記録される。
昭和5年版 100.2フィート(第三咲花丸)
昭和6年版 130.0フィート(咲花丸)
昭和7年版 130.0フィート(咲花丸)
昭和8年版 39.6メートル (咲花丸)
改造前 100.2×0.3048=30.54096メートル
改造後 130.0×0.3048=39.624メートル
改造後のメートル換算は、昭和8年版に記載の数値と合致する。貨物船「咲花丸」の船体は、曳船当時に比べ約
9メートル延長されたと判った。

見えないところ

2015-03-19 | 尼崎汽船部
見えないところだからこそ、気になるのだろう。何も変な話を書こうとしているのではない。東京山手の地下10m
前後にある礫層の話。
毎朝、運動を兼ねて数駅間歩く道すがら、宅地化・都市化される前の原地形に思いを廻らせている。井の頭池に
源を発する神田川は、武蔵野台地を東南東へ流れ、下高井戸と西新宿あたりで、流路の向きを大きく変える。
以前から不思議でならなかった。
東京山手の台地は、下末吉面と武蔵野面に区分される。下末吉面が陸化し、下末吉ローム層堆積後、古多摩川に
浸食されて氾濫原となり、武蔵野礫層の堆積した武蔵野面と、削り残された下末吉面の間には浸食崖が形成され、
約5万年程の時間の経過があると言う。そこを武蔵野ローム層が覆った。古多摩川による河岸段丘の名残は、現地
形に見出せるのか。十二社から新都心へ上る坂は、古多摩川と神田川による新旧浸食崖の重なった場所に思え
てならない。
味も素っ気も無い話になるが、東京都によるボーリング調査結果は公開されていて、武蔵野礫層(古多摩川氾濫原)
の広がりを知ることができる。

絵葉書は、地中のボーリング調査にも似た、時代の覗き窓と考えている。画面から外れた部分に、もどかしい思いを
することも屡々だ。幸いにも、次々と新たな画像を目にすることの出来た小型汽船について、記してみたい。
安治川口の住友倉庫は1929(S4)に完成した。「君が代丸」を捉えた有名な絵葉書は、その屋上から撮影されたも
の。そこを足場としている絵葉書は、昭和一桁後半の記録と見ている。

尼崎汽船部の痕跡を見出せるはずはないものの、何か手掛かりを得られるのではないかと夢想しながら、大阪に
出掛けるたび、安治川口を歩いている。かつて、汽船で賑わった川筋の短さや狭さを、実感しない訳にはいかない。
絵葉書に見る往時の汽船の姿を、頭の中で余りに大きく捉え過ぎているようだ。







「君が代丸」を中心に、船尾側に接岸するのは既出の「末廣丸」。船首側に見える尼崎ファンネルマークの小型汽船は、
何丸だろうか。大正期の客船スタイルに見えるが、画面に入らなかった操舵室前面や船首はどんな形状をしている
のか。長い間、疑問を抱いてきた。後に、この絵葉書には同日に撮影された別バージョンのあることを知った。





これは画像二枚を接合し、一葉としたもの。中央市場上屋の屋根を中心に繋いであるため、小型汽船の船首部
は折れ曲がって見える。この画像には、既出の「運輸丸」も写り込んでいる。「運輸丸」には鮮明な画像が残さ
れていて、特定可能。この時、中央市場の岸壁は上流側から「運輸丸」「不明汽船」「君が代丸」「末廣丸」と、
四隻もの尼崎フリートが接岸していたことになる。
一体、中央の不明汽船は何丸なのか。シアラインが滑らかに繋がるよう、画像を再接合してみた。船名を知りたくて
たまらなくなるのは、尼崎汽船部に魅了されてしまった以上、仕方ないこと。ただ、東京都のボーリング調査結果の
ような、決定打はあり得ないと考えていた。





ところが、覗き窓は他にも存在した。同じ小型汽船の記録された画像を目にした時、よくぞ出現してくれたと、
嬉しさがこみ上げた。前掲の画像と異なるのは、岸壁と引込線の間に屋根が設けられたこと。同じく、住友倉
庫屋上から捉えた「弘仁丸」の画像もあり、並べてみると、ほぼ同じ船体寸法に見える。







何気なく新和歌浦の絵葉書を眺めていた時、小型汽船の姿に目は釘付けとなった。攝陽商船のファンネルマークを纏
ったこの船は、中央市場で記録された小型汽船とマストや操舵室の配置が相似であり、船尾上甲板の客室窓数も
一致する。扉の配置も同じ間隔と判った。攝陽商船を経て尼崎汽船部の所有した船といったら、「白濱丸」に絞ら
れる。
同船は「第二清貞丸」の前歴を有し、『件名録9版』を紐解いたところ、写真も掲載されていた。長い間、船名不明
としてきた船影は「白濱丸」と決着した。船を調べていると、芋蔓式に謎の解けることが良くある。
明治大正期の商船に関心を持つ者にとって座右の書である『件名録』の、画像取違えについて触れておきたい。
『9版』は藤岡貞市所有「第二清貞丸」「第三清貞丸」の要目と「第二清貞丸(236噸)」の画像を掲載している。
『10版』になると、要目の掲載は所有者の代わった「第三清貞丸」のみとなるが、画像は「第二清貞丸(236噸)」
を載せている。『11版』も「第三清貞丸」の要目を掲載するが、画像は『9版』『10版』と同じ画像を使用し、船名は
「第三清貞丸(128噸)」にすり替わってしまう。『船舶明細書』に至っては、尼崎汽船部「白濱丸」の要目も掲載し
ているのに、本来の「白濱丸」画像は、「第三清貞丸(128噸)」とされている。



「白濱丸」の最前身は1889(M22)石川島造船所建造の「第四震天」で、『石川島物語』によると建造計画は「東
京湾防御用とありしも」、納入後は「機雷布設、掃海、魚雷発射、通信等に使用さられ後横須賀港務部に於て曳
船作業に従事、大正五年廃船」とある。
1916(T5)相澤岩吉(西宮)「第五相澤丸」として登簿され、栖宮勇吉(西宮)を経て、1918(T7)藤岡イシ(大阪)「第二
清貞丸」となる。所有は大阪西区で藤岡鐵工所を経営する藤岡貞市の関係者(妻?)と見られる。『件名録』によると、
1921(T10).04岡本造船所(大阪)において旅客船に改造され、同年、藤岡貞市名義となった。1923(T12)攝陽商船
の所有となり、翌年「白濱丸」と改名。尼崎汽船部の所有したのは1927(S2)から1934(S9)抹消までの間であった。
白濱丸 19239 / NBWG、236G/T、木、1889(M22).04、石川島造船所(東京)

開通式の「舩運丸」

2014-02-22 | 尼崎汽船部
ガラス乾板から画像を取り込んでみたところ、浮かび上がった船影は「舩運丸」だった。さらに、その光景は残
された絵葉書や写真に見ていた多度津港桟橋開通式と判り、撮影日も特定された。



浮桟橋に繋留された3隻の汽船は、満船飾の晴れの姿となっている。これは1910(M43).07.01に挙行された多
度津港桟橋開通式当日の、桟橋の光景である。ただ、少々ピンの甘いこの画像から、船名は読み取れない。
尼崎汽船部「舩運丸」は、船橋楼の腰より上を塗り分けていることが判る。これはデビウ3年目の姿であり、彼
女の確認された最も古い船影となる。左手にはもう一隻、尼崎汽船部の汽船を確認できる。影に隠れているの
は大阪商船「天龍川丸」。

多度津港は金刀比羅宮参詣の玄関口にあたり、汽船導入以降も、讃岐地方を代表する港として賑わった。讃岐
鉄道は1889(M22).05.23丸亀~多度津(後の「浜多度津」)~琴平間を開業し、1897(M30)高松へ延伸した。高松
港の改修工事は1897(M30)より開始され、明治末期には多度津港に匹敵する乗降客数となった。
一方の多度津港は1900(M33)改修工事に係る調査を開始、1906(M39).12.01工事着手となった。1908(M41).11暴
風・波浪による被害の発生や、物価暴騰による工事費の増加もみたが、埋立工事や桟橋設置は1910(M43).06.09
竣工、07.01桟橋開通式と祝賀会は行われた。1912(M45).01.26全ての工事を終え、改修工事は完成した。









多度津の街を子供達のブラスバンドが行進している。遠くに見える門型のアーチには「開通式」の文字がある。左手、
軒先の看板には大阪商船の社章を中心に船客待合所とあり、手前の軒に吊された提灯には東豫丸と読める。
通りは信号旗や造花で飾られ、開通式・祝賀会当日の、多度津の街の浮き立った雰囲気が伝わってくる。
桟橋には笹を立てているのが見える。着桟している汽船の内、写真より船名を読み取れたのは大阪商船「天龍
川丸」のみ。「舩運丸」の特徴を決定付けるのは、船橋楼後部の外板端部を「⊂」状に処理していること。
「舩運丸」船尾側の汽船は、船体も小型に見え煙突も細い。当日の様子を記した新聞記事に船名の記載は無い
ものか。



開通式をを記念した絵葉書も発行された。初見時、オモテからの船影に「舩運丸」と判らなかった。





「舩運丸」左舷船首部のコンパニオンにポールドは無く、右舷にのみ3枚設けている。船橋楼のポールド配列にも特徴は
ある。似たようなスタイルの多い明治~大正期の小型汽船を確認する際、中甲板の「前後の舷門間」及び、上甲板
の「船橋楼」のポールド配列及び相互の位置関係は、(例え一部が塞がれたり、防舷材などで隠れていても)船
影を識別するにあたり、有効と考えている。





「菊水丸(上)」と「日海丸(下)」の、ポールド配列を対比してみたい。
「菊水丸」は船首楼を備えているため、見誤ることはない。「日海丸」の左舷側は、主機換装後の姿しか確認
していない。右舷側の船橋楼のポールドはオモテより「1・1・4」となっている。この画像は4枚目が少々確認しづ
らい。『汽船簿』掲載の主機換装後の画像は、6枚目を確認しにくいものの、何れも存在を確認できる。当初、
中甲板には6枚のポールドがあり、その後(主機換装時?)に3枚を閉鎖したと思われる。「玉津島絵葉書」と
『汽船簿』を対比すると、閉鎖しなかった3枚と、船橋楼の6枚の位置関係は同じ。左舷側は確認しにくいもの
の、同様に見える。
大阪商船の山陽航路船は、船首部左右両舷のコンパニオンにポールドを設けるが、尼崎汽船部は左舷側に設けな
い慣わしなのか。



1935(S10).07.02別府航路「晩便」に充当された大阪商船「みどり丸」は、大阪天保山20:00発、寄港した神戸
を21:40に発ち、次港今治港へ向け濃霧の小豆島地蔵埼南東方海上を航行中、3日01:00頃、大連汽船「千山丸」
と衝突。「みどり丸」は沈没し98名溺死(内、船客92名)、9名行方不明(同8名)の大惨事となった。
東京日日新聞『寫眞特報』には「千山丸」と並んで写る尼崎マークの汽船の姿があり、「舩運丸」に相違ないと見
ていた。記録をあたったところ、運の良い船客の居たことを知った。彼の名を渡邊という。
渡邊は「みどり丸」にめり込んでいる「千山丸」の船首部甲板に飛び移り、「天運丸」に便乗して高松港に帰
還したという。これは「舩運丸」の誤植若しくは誤認と思われる。



『大阪商船出帆表』より1934(S9).05月下旬を見ると、「舩運丸」は安治川口発05.21、05.25、05.30の山陽線
(中国航路)20:10発に充当されている。また、別府線は「みどり丸」「すみれ丸」を晩便専用としているこ
とが判る。他に、断片的に知った便は次のとおり。
1921(T10).08.19、15:30安治川口発の中国航路に充当。これは尼崎船舶合名会社の時代
1925(T14).12.09、14:00多度津港に金比羅参詣客213名を団体輸送して入港。20:40多度津発、翌10日07:50安
治川口着。
1930(S5).02.26下関発15:30の中国航路に充当、02.28神戸港03:55発、安治川口06:00着。
同年.08.16安治川口発15:30の中国航路に充当、08.18下関着07:00の予定。











安治川口や下関にの絵葉書に、「舩運丸」は姿を留めている。四枚目までは安治川口、五枚目は下関港におけ
る船影。「舩運丸」を押さえておくことにより、見えてくる船もあるかも知れない。

鉄船「末廣丸」

2014-01-03 | 尼崎汽船部
廣幡忠隆著『海運夜話』の「古船の話」の節に、尼崎汽船部に触れた個所がある。殊に「第二君が代丸」の機関の
話は面白い。

一體尼崎さんは丹念な御家風ださうでして、如何なる品物でも、之を捨賣りなどに爲さる事は無く、
総て整理して御保存になるとか承つて居ります。 ‥(略)‥ 一寸獨逸人の遣り口に似て居ます。宣
なる哉、明治十三年かに汽船業を始められてから半世紀、業界浮沈の常ならぬ中に在つて、超然とし
て獨自の建前を以て嚴たる存在を示されて居ります。が、斯様な御家風である爲め、自然造船術研究
資料たるべき船が麾下に集る事に成りまして、斯道の研究家にとつて誠に有難い事であります。


昭和7年10月5日発行の本書を初めて目にした時、大分、斜に構えた書き方だな‥と考えながらも、80年前もそうだ
ったのかと、思わず苦笑してしまった。
これまで、「徳寿丸」「正宗丸」「香取丸」など、芸予・備讃の両海域を転配されて活躍した小型客船の船影を特定し
たが、これら100~200G/Tクラスの船は、白一色に塗られていた。それらの船が現役の頃、「斯道の研究家」によっ
て残された記録はあるのだろうか。菊水丸の調査をしていたとき、新聞記事に、一隻の船の手掛かりを見つけた。

九日夜明石海峡垂水沖で佛船ポルトス號と衝突沈没した菊水丸の遭難現場には、十日午後寒風吹き
荒む中に物凄く重油流れる沈没の位置の赤旗を圍んで垂水、明石漁業組合、青年團、消防組の艀船
二十數隻が活動し、午後三時尼崎汽船末廣丸(二百㌧)が大阪から潜水夫十三名を乗せて現場に到
着神戸水上署保安丸も保安課長以下多數の課員を乗せて来塲、尼崎汽船運輸丸、白濱丸等の汽艇も
姿を見せ本式に捜索作業に入つた。






新聞記事に添えられた画像には、特徴的な船影が記録されていた。最初は、なぜ甲板が折曲がって見えるのかと
考えたが、乗降口の天井高を確保するため、上部を拡げたように見える。記事からするとこの船影は「末廣丸」。し
かし、俄には信じがたかった。「末廣丸」は、1894(M27).06建造の「鉄船」だったからだ。
再掲の、「菊水丸」捜索現場の船は、遊歩甲板上の操舵室と煙突の間に天幕の骨があり、「船運丸」「日海丸」タイプ
ではなく、また、「神恵丸」「天正丸」のような客船型にしては小型に過ぎると見ていた。



宇品港



安治川口の大阪市中央卸売市場岩壁。右手には「君が代丸」の姿がある。



新電信丸 1398 / HJVP、1894(M27).06、鉄、前田卯之助(大阪)
1922(T11)に末廣丸と改名、174→195に増トンされている。「末廣丸」を記録した絵葉書の仕様は、全て表面仕切線
1/2となっているため、果たして、「新電信丸」当時、この船影になっていたのか、わからない。
宇品港と安治川口では、操舵室の位置が異なる。1931(S6).02.10において操舵室は遊歩甲板上にあるので、宇品
港の姿が古いと思われる。しかし、この「末廣丸」の船影は、国内で建造された数少ない「鉄船」の一隻と見て良い
のだろうか。
船尾機関型に改造された「電信丸」最末期の姿を、N氏より見せていただいた。中央機関型の時代とは、かけ離れた
姿をしている。鉄製汽船の改造は、木造汽船より容易だったのか。それとも、全くの別船が、「1398 / HJVP」名義
を引継いだのか。



いずれ詳細を記してみたいと考えている尼崎汽船部全船名を記した史料。「明治二十七年六月進水」となっている。
二代目尼崎伊三郎氏の手許にあった品に相違ない。もしかしたら、氏の筆跡かも知れない。

古船に関連し、「神代丸」の新画像発見を記しておきたい。チョンジン港における記録。既述のとおり、同船はキャパシティ
プラン集からも特定されるが、画像からは船名も読み取れた。





神代丸

飾磨港の「徳壽丸」

2013-05-19 | 尼崎汽船部
墨消しされたPR葉書を見た時、思わず苦笑してしまった。差出しは「尼崎汽船飾磨扱店」。







これは嶋谷汽船「朝海丸」「日本海丸」姉妹。スタンンプを用い、キャプション二個所とファンネルマークを消している。
一見すると、煙突が並列しているように見えるのは、スタンプずれのため。これは尼崎汽船飾磨扱店による、
お得意様へのPR葉書。表面の仕切り線は消されても、社旗の一部が見えている。
他社船の絵葉書流用は置くとしても、ここまでタイプの異なる船の画像を使うものか。これは「扱店」の
仕事で、安治川口本社の関知する所では無かったのかも知れない。船好きとしては、投入された船名
を知りたい。



尼崎汽船部の飾磨航路は『海事要覧』によると1933(S8).01開設された。現在の姫路港の状況を考えると、
意外と遅い。残された多くのパンフレットは美しい絵図を添えているが、殆どの場合、発行年月の記載は無く、
悩ましい。これは飾磨航路開設後、S13.05尼崎汽船部の「小豆島」案内パンフレット。航路は5本記されている。
■大阪多度津線 
 (往)大阪 - 神戸 - 家島 - 牛窓 - 土庄 - 高松 - 鷲羽山 - 出ノ口 - 味野 - 丸亀 - 多度津
 (復)多度津 - 丸亀 - 高松 - 土庄 - 牛窓 - 家島 - 神戸 - 大阪
■飾磨線
 高松 - 土庄 - 大部 - 小部 - 家島 - 飾磨
 飾磨 - 相生 - 新浜 - 土庄 - 高松 (各2往復)
■岡山支線
 古江 - 苗羽 - 植松 - 下村 - 西村 - 蒲野 - 高松 - 土庄 - 九幡 - 三幡 (1往復)
■岡山支線乙便
 土庄 - 九幡 - 三幡 - 土庄 - 高松 (3/20 - 5月上旬、1往復臨時増発)
■北浦線
 福田 - 吉田 - 灘山 - 大部 - 小海 - 見目 - 小江 - 土庄 - 小瀬 - 高松 (2往復)
大阪多度津線は別として、岡山支線乙便の運航日に、記載されたスケジュールをこなすには最低6隻の船腹を必
要とする。なかでも、土庄港の寄港回数の多さは際立っている。
備讃海域と芸予海域に投入された100G/T前後の小型客船は、その時々、両海域を転配されていたことが、
残された画像から判っている。





備讃海域において、最も多くの船影を残しているのは「徳壽丸」。この船は尼崎の建造ではない。追って
アップしたい自社建造「正宗丸」は均整取れた美しい姿をしているのに対し、いささか無骨に映る。
徳壽丸 29062 / SLKW、123G/T、木、1922(T11).12、岡田嘉太郎(木江)
発注者は岡田為三郎、船籍を大阪に置いた。建造者と発注者は同姓、両者は関係者なのか。『レヂスター』の
旅客定員欄は無記入のため、判らない。尼崎汽船部は1924(T13)に購入している。
一枚目は土庄港。この画像は、他に3隻の小型客船の姿を捉えられている。
二枚目は高松港外に停泊中の同船。背景は屋島。他に、宇品港において船尾を見せる画像も残っている。







「徳壽丸」は飾磨航路開設の前、1932(S7)に抹消されている。この光景は飾磨線開設前と思われる。
左手に見える石垣は、湛保(たんぽ)の護岸。「徳壽丸」は港奥部の物揚場へ向かったのか。
2007(H19).07.28小豆島に渡る前、「湛保」を対岸から眺めてみた。築港に功績のあった「藤田祐右衛門
顕彰碑」が見える。この時、正栄貨物「第三はちしば」に出会った。前歴をたどると「第三十二向島丸」。
第三はちしば 115341 / JK3665、99G/T、鋼、1973(S48).12、木曾積造船

垂水沖の大惨事

2013-03-04 | 尼崎汽船部
歌集『磯山集』(松本静史)に、「菊水丸遭難をかなしみて」という歌は収められている。
1931(S6).02.09垂水沖を西航する尼崎汽船部「菊水丸」は、フランス郵船「Porthos」に追突
されて沈没、28名の犠牲者を出した。各紙はこの大惨事を大々的に報道している。裁決録を
読んでいると、確かに、尼崎汽船部の関係した事件は多いように見える。しかしながら、社名
と船名を全国に流布させたこの事件は、「貰い事故」だった。
中国航路に就航していた「菊水丸」は大阪安治川口を15:30に発ち、神戸港中突堤に寄港し
18.02に離岸。次港は坂手、仕向港は下関となっている。一方の「Porthos」は、横浜を発ち
同日10:10神戸第三突堤に寄港し、次港の上海へ向け18:02に離岸していた。
事故発生は19:15、平磯燈台より南南東1浬弱の沖合。「菊水丸」右舷側、船橋より少し前方
に、後方より「Porthos」の船首が衝突した。当時、降雪により見通しは悪かった。「菊水丸」の
衝突個所は大破し、5分後には沈没した。西村船長は、沈没直前まで乗客救助に努め、船と
運命を共にしたと報じられている。
沈没の翌々日、紀元節を迎えた東京は白銀の世界になっていた。天気図は確認していないも
のの、本州南方海上を「南岸低気圧」が東進し、それも、八丈島より南側を進んだと思われる。





「菊水丸」の船影は、宇品港の画像に初めて確認した。前掲の、急航汽船の右手側に係留さ
れている尼崎汽船部の貨客船に、アルファベットの船名を読みとった。この船は船首楼を備え
ていた。中国航路用貨客船に船首楼は珍しい。後方の大阪商船は「愛媛丸」。
二点目は下関港における同船。右舷側のポールド配置を確認できる貴重な船影となってる。
大阪へ折返す停泊中を捉えたものと思われる。中国航路は5隻運用。
「菊水丸」 11734 / LFPS、370G/T、鋼、1908(M41).10、尼崎鉄工所(大阪)





尼崎汽船部発行の絵葉書も残っている。上は金の縁取りの付く豪華な印刷。船橋楼は塗り
分けられている。婦人と子供の描かれたアート絵葉書は黒塗りの船橋楼。共に明治末から
大正初期の発行。塗り分けられていたのは、就航当初と見ている。『明治運輸史』の口絵と
なっている船影も船橋楼は黒。



「菊水丸」には、香川県三豊郡荘内村から堺市の網元へ、雇われ漁夫として出稼ぎに来て
いた一行38名も乗船していた。旧正月を自宅で迎えるための、帰郷の途上だった。漁夫達は
「この帰郷を唯一の楽しみに朝夕懸命に働いていた」と報じられている。その中に、一家四人
全員の遭難もあった。連れられていた女児は小学校入学を控え、南海高島屋で鞄や学用品
を購入して乗船したが、波に呑まれる瞬間まで、後生大事にこれを離さなかったという悲話
は哀れを誘う。この画像は、遭難海域における捜索状況。

『水路要報』には神戸税関港務部の報告(S6.03.02)として次の記事がある。

昭和6年2月9日内海平磯燈台附近に於て佛國汽船「ポートス」號と衝突沈没したる
汽船菊水丸の船體今後の處置に關し所有主尼崎汽船部神戸支店に就き調査候處
同社は本船沈没當時より遭難者救助死體の捜索其の他に關し相當混雑致し居り
候爲右に關しては未だ最後の決定を爲す運びには至らざる模様に有之候へ共現
在の方針にては其の儘放棄するものと認められ候に付爲御參考及報告候也


「菊水丸」の謎は、『船名録S10年版』(S9.12.31現在)まで掲載されていること。浮揚されたの
か。一方、『官報№2768』(S11.03.27)の「船舶登録」広告欄に、「菊水丸」11734は沈没を事
由に、S10.12.04付で抹消登録された記載がある。この内容は、12/04に手続きが行われた
ことを表していて、沈没年月日ではない。
垂水沖で沈没した1931(S6)から1934(S10)に至る間、「菊水丸」の実体は、どうなっていた
のか。手持ちの『時刻表』『同復刻版』に「菊水丸」は出てこない。裁決録にも、再度の事故
記録は無い。





『大阪商船出帆表』(S9.04.01)と云う、非常に興味深い記録をご紹介したい。1934(S9).04から
約一年間にわたる、大阪港に入出港した汽船に係る詳細な記録。市販の便箋に記されている。
先輩のお目にかけたところ、「社内の公式記録ではないでしょう」とのこと。安治川口や築港か
ら船を眺め続けた、船好き少年の記録ではないかと、密かに考えている。
9月初旬の中国航路は、「日海丸」「大衆丸」「神惠丸」「浪切丸」「船運丸」「日海丸」「天正丸」
のローテーション、多度津航路には「女王丸」「弘仁丸」「船運丸」が投入されている。
この記録に「菊水丸」は全く出てこない。浮揚復旧されたとしたら、必ず、安治川口に姿を現わ
したと思われる。記録の一年間、「中国航路」「多度津航路」に使用されなかったことは確実で
ある。浮揚されたものの使用されなかったのか。はたまた貨物船として使用されたのか。
「屋島丸」の記録を調べた際、遺族への補償問題から容易に船体の処分は出来ないことを知
った。抹消登録の遅れた裏には、何らかの理由があるように思える。

桜木町事件で有名な「モハ63形」電車は、事件後に改造され「モハ73形」に改番された。とこ
ろが、桜木町より前、三鷹事件に関係した「モハ63019」は、事件の証拠物件として保全命令
が出され、唯一「モハ63形」の車籍を保ち続けた。最後は鋼体となって東ミツに保管された車
体は、1960年代半ばに解体されたと云う。「菊水丸」の不思議を考えるたび、旧形国電を追っ
ていた頃、先輩から聞かされた「モハ63019」の話を思い出す。
確たる証拠は見あたらないが、「菊水丸」は浮揚されなかったと思えてならない。



「Porthos」 OQZD、12,692G/T、鋼、1914、Ch.& Atel. de la Gironde(Bordeaux)