これは1977の国鉄のキャッチコピー。この年には、物心つく前から慣れ親しみ、生活と共にあった船舶や車輌が、次々に
終焉を迎えた。同年、引退した「椿丸」は坂越港へ廃船回航され、東京駅には80形湘南電車が来なくなった。地方
幹線系統において、吊掛けモーター音を轟かせる旧形国電が、最後の活躍をした頃にあたる。
実家には、父島の同級生M君の撮影した、坂越港に佇む「椿丸」のパネルを掲げてある。彼は乗り鉄の切符コレクター。国鉄
合理化により、無人駅化される全国のローカル線各駅へ、硬券入場券を求めに歩いていた。そんなM君も既に鬼籍に入っ
てしまった。
この度、手にした「一枚のキップ」から謎の船社名を知り、残された古絵葉書の船影の、船名特定に至った時、切符
に情熱を注ぎ、国鉄キャンペーンをジョークで笑い飛ばしていたM君を想った。
その切符には「サ」をデザインしたと思われる社旗がスタンプされていた。会社名は奥藤(オクトウ)汽船合資会社。佐藤国
汽船の社旗と良く似ている。かねてより、この煙突マークを纏った小型客船を数隻、古絵葉書上に確認していた。鮮明
な「都丸」を見た時には、撮影地から奥藤汽船の可能性を考えもしたが、同社の在籍期間は1913(T2)~1917(T6)と
短く、船社特定は保留していた。
坂越の奥藤家は古い定住伝承を持つ旧家で、江戸期より酒造業や廻船業を営んだ。坂越は「船どころ」として知ら
れ、船ぶねは、江戸期には塩の買積や城米輸送など、北国・西国航路に活躍し、明治期になると塩の買積を主とす
る東京への塩廻船となった。1857(安政4)生の奥藤研造は廻船業で利益をあげ、その財力をもって耕地や塩田を集積
し、電灯会社、汽船会社も興した。数行の銀行役員に名を連ね、自ら奥藤銀行も設立するなど、氏の経営手腕により
奥藤家は赤穂郡最大の地主となり、ミニコンツェルンを形成した。奥藤家の廻船経営最盛期はM20~30年代にかけてという。
塩廻船の終焉はあっけなかった。1905(M38)塩専売制が実施され、翌年には官費輸送が開始された。買積船は成り
立たなくなり、坂越の塩廻船業者は業態転換を迫られ、奥籐家は廻船業を廃業した。船名録から奥藤研造所有帆船
を見ると、M43版掲載は3隻、M44版2隻と減少し、M45版掲載「万全丸」を最後に姿を消している。
一方、1912(M45).02奥藤汽船合資会社を設立した。『赤穂市史』に「大阪・坂越航路の営業権は、姫路汽船会社か
ら奥藤汽船会社へ譲られ、以後は奥藤汽船会社の播州丸'(ママ)と新和歌浦丸(1915年からは千代丸)が就航すること
になった」とある。陸上交通の整備による船客減少に歯止めをかけるため、奥藤汽船は大阪・坂越航路を日生港へ
延長すると共に、相生港や木場港への寄港も開始したが、1918(T7)営業を停止した。
大阪~坂越の定期航路は『赤穂市史』『姫路市史』『網干町史』等によると次のとおり。一部、誤記誤認もある。
1883(M16)大阪の和合社により航路開設。外輪船「明龍丸」就航。
1885(M18)大阪商船会社の「佐渡川丸」就航。
この頃、岩崎商社(坂越)の「第一赤穂丸」「第二赤穂丸」就航。
1888(M21)姫路汽船会社の「第一姫路丸」就航。
1889(M22)大阪商船と姫路汽船の競合は妥結し、「新和歌浦丸」「第一姫路丸」就航。
1912(M45)姫路汽船は奥藤汽船に営業を譲渡。「第一姫路丸」の代船として「播洋丸」「新和歌浦丸」の
二隻にて営業。
大阪商船開業年(M17).10.01改正の航路一覧及配船表によると、坂越へ寄港するのは「第十四本線」と「第四支線」。
奥藤汽船所有船は船名録(M45版~T6版)に計6隻を確認できる。
第壹姫路丸 1124 / HGSK、130G/T、木、1888(M21).11、前田卯之助(大阪)、1911~1912
新和歌浦丸 555 / HDLN、141G/T、木、1881(M14).06、E.C.Kirby商会(神戸)、1911~1917
播洋丸 1559 / HKPJ、278G/T、木、1895(M28).10、春木藤次郎(徳島)、1911~1916 ←第貳共同丸
都丸 9117 / JSBV、88G/T、木、1904(M37).04、(株)大湊造船所(三重大湊)、1913~1917
岡山丸 14211 / LQGJ、94G/T、木、1911(M44).03、?(広島向島西)、1914~1917
千代丸 14432 / LSCF、189G/T、木、1911(M44).04、森川貞蔵(大阪)、1912~1917
安治川口で記録された船影を、上記の「在籍年」と、「1918(T7)より仕切線1/2という仕様」に当て嵌めてみると、
朧気ながら船名が見えてくる。初めて安治川口の古絵葉書を手にした頃より、一隻毎の船名を明らかにしたいと夢
想してるが、少しは安治川口に近づいたろうか。
中央部に係留された奥藤汽船の煙突マークを纏った汽船は、「播洋丸」と見られる。二枚目の『阿波國共同汽船社史』
掲載の、「第貳共同丸」当時の煙突は短い。甲板室上部に遊歩甲板を設けた為、煙突を高くしたと思われる。
こちらは下関港における「播洋丸」。単独配船なのか、それとも用船されたのか。キャプションに続いて「大正五.二.廿一
許可」とある。1916(T5)に奥藤汽船は手放したので、最末期と見られる。
安治川口の画像には、実はもう一隻の奥藤汽船の船影がある。安治川右岸に船首を川下に向けた船が係留されてい
る。この絵葉書にも、鮮明なモノクロ画像は存在していると思うが、船名は五文字。不鮮明な画像は惜しまれる。仕切
線は1/2で1918(T7)以降の発行である。奥藤汽船に在籍した五文字船名は「第壹姫路丸」と「新和歌浦丸」の二隻。
前者は1911(M44)~1912(M45/T01)にかけての在籍であり、1918(T7)以降に印刷された絵葉書に、その画像が使い
回しされたとは考えにくい。
スタンションの形状や位置、船名の書かれたブルワークの位置や文字数も同じ。ハンドレールは設けられていないが、甲板室上に
デッキを増設している。後者の絵葉書も仕切線1/2となっていることを考えると、この船影は「新和歌浦丸」に相違ない。
「都丸」は鮮明な画像を二点残している。一枚目は奥藤汽船二隻が接舷し、停泊している。キャプションには「邑久郡教員
体育會寒霞渓遊覧記念」とあり、小豆島の撮影と思われる。二隻とも奥藤汽船の煙突マークを纏っている。船体寸法は
ほぼ同一なことから、岸側は「岡山丸」のようだ。
二枚目には煙突マークがない。奥藤汽船時代は平仮名書きとなっているが、こちらは漢字。一見、別船にも見えるが、
ポールド配置は同一と確認できる。こちらには、甲板室上の遊歩甲板は無い。この改造は奥藤汽船好みなのかもしれ
ない。キャプションには「淡の輪洲本連絡船」とある。庄野嘉久蔵所有当時は、大阪湾で使用されたのか。
坂越港を捉えた絵葉書も残っている。港内には「都丸」の姿がある。今、坂越港に旅客船航路はない。最初は「椿丸」
「藤丸」の終焉の地というだけで訪れた坂越だった。この界隈に船を追う時、必ず立ち寄る地となっている。
それにしても、この静かな入江にのあったことが信じられない。久三商店家治社長のお話を聞かせて下さった、
縁側で縫い物をしていたおばあさんは、お元気だろうか。次回は、保存された街並みを歩いてみたいと考えている。
終焉を迎えた。同年、引退した「椿丸」は坂越港へ廃船回航され、東京駅には80形湘南電車が来なくなった。地方
幹線系統において、吊掛けモーター音を轟かせる旧形国電が、最後の活躍をした頃にあたる。
実家には、父島の同級生M君の撮影した、坂越港に佇む「椿丸」のパネルを掲げてある。彼は乗り鉄の切符コレクター。国鉄
合理化により、無人駅化される全国のローカル線各駅へ、硬券入場券を求めに歩いていた。そんなM君も既に鬼籍に入っ
てしまった。
この度、手にした「一枚のキップ」から謎の船社名を知り、残された古絵葉書の船影の、船名特定に至った時、切符
に情熱を注ぎ、国鉄キャンペーンをジョークで笑い飛ばしていたM君を想った。
その切符には「サ」をデザインしたと思われる社旗がスタンプされていた。会社名は奥藤(オクトウ)汽船合資会社。佐藤国
汽船の社旗と良く似ている。かねてより、この煙突マークを纏った小型客船を数隻、古絵葉書上に確認していた。鮮明
な「都丸」を見た時には、撮影地から奥藤汽船の可能性を考えもしたが、同社の在籍期間は1913(T2)~1917(T6)と
短く、船社特定は保留していた。
坂越の奥藤家は古い定住伝承を持つ旧家で、江戸期より酒造業や廻船業を営んだ。坂越は「船どころ」として知ら
れ、船ぶねは、江戸期には塩の買積や城米輸送など、北国・西国航路に活躍し、明治期になると塩の買積を主とす
る東京への塩廻船となった。1857(安政4)生の奥藤研造は廻船業で利益をあげ、その財力をもって耕地や塩田を集積
し、電灯会社、汽船会社も興した。数行の銀行役員に名を連ね、自ら奥藤銀行も設立するなど、氏の経営手腕により
奥藤家は赤穂郡最大の地主となり、ミニコンツェルンを形成した。奥藤家の廻船経営最盛期はM20~30年代にかけてという。
塩廻船の終焉はあっけなかった。1905(M38)塩専売制が実施され、翌年には官費輸送が開始された。買積船は成り
立たなくなり、坂越の塩廻船業者は業態転換を迫られ、奥籐家は廻船業を廃業した。船名録から奥藤研造所有帆船
を見ると、M43版掲載は3隻、M44版2隻と減少し、M45版掲載「万全丸」を最後に姿を消している。
一方、1912(M45).02奥藤汽船合資会社を設立した。『赤穂市史』に「大阪・坂越航路の営業権は、姫路汽船会社か
ら奥藤汽船会社へ譲られ、以後は奥藤汽船会社の播州丸'(ママ)と新和歌浦丸(1915年からは千代丸)が就航すること
になった」とある。陸上交通の整備による船客減少に歯止めをかけるため、奥藤汽船は大阪・坂越航路を日生港へ
延長すると共に、相生港や木場港への寄港も開始したが、1918(T7)営業を停止した。
大阪~坂越の定期航路は『赤穂市史』『姫路市史』『網干町史』等によると次のとおり。一部、誤記誤認もある。
1883(M16)大阪の和合社により航路開設。外輪船「明龍丸」就航。
1885(M18)大阪商船会社の「佐渡川丸」就航。
この頃、岩崎商社(坂越)の「第一赤穂丸」「第二赤穂丸」就航。
1888(M21)姫路汽船会社の「第一姫路丸」就航。
1889(M22)大阪商船と姫路汽船の競合は妥結し、「新和歌浦丸」「第一姫路丸」就航。
1912(M45)姫路汽船は奥藤汽船に営業を譲渡。「第一姫路丸」の代船として「播洋丸」「新和歌浦丸」の
二隻にて営業。
大阪商船開業年(M17).10.01改正の航路一覧及配船表によると、坂越へ寄港するのは「第十四本線」と「第四支線」。
奥藤汽船所有船は船名録(M45版~T6版)に計6隻を確認できる。
第壹姫路丸 1124 / HGSK、130G/T、木、1888(M21).11、前田卯之助(大阪)、1911~1912
新和歌浦丸 555 / HDLN、141G/T、木、1881(M14).06、E.C.Kirby商会(神戸)、1911~1917
播洋丸 1559 / HKPJ、278G/T、木、1895(M28).10、春木藤次郎(徳島)、1911~1916 ←第貳共同丸
都丸 9117 / JSBV、88G/T、木、1904(M37).04、(株)大湊造船所(三重大湊)、1913~1917
岡山丸 14211 / LQGJ、94G/T、木、1911(M44).03、?(広島向島西)、1914~1917
千代丸 14432 / LSCF、189G/T、木、1911(M44).04、森川貞蔵(大阪)、1912~1917
安治川口で記録された船影を、上記の「在籍年」と、「1918(T7)より仕切線1/2という仕様」に当て嵌めてみると、
朧気ながら船名が見えてくる。初めて安治川口の古絵葉書を手にした頃より、一隻毎の船名を明らかにしたいと夢
想してるが、少しは安治川口に近づいたろうか。
中央部に係留された奥藤汽船の煙突マークを纏った汽船は、「播洋丸」と見られる。二枚目の『阿波國共同汽船社史』
掲載の、「第貳共同丸」当時の煙突は短い。甲板室上部に遊歩甲板を設けた為、煙突を高くしたと思われる。
こちらは下関港における「播洋丸」。単独配船なのか、それとも用船されたのか。キャプションに続いて「大正五.二.廿一
許可」とある。1916(T5)に奥藤汽船は手放したので、最末期と見られる。
安治川口の画像には、実はもう一隻の奥藤汽船の船影がある。安治川右岸に船首を川下に向けた船が係留されてい
る。この絵葉書にも、鮮明なモノクロ画像は存在していると思うが、船名は五文字。不鮮明な画像は惜しまれる。仕切
線は1/2で1918(T7)以降の発行である。奥藤汽船に在籍した五文字船名は「第壹姫路丸」と「新和歌浦丸」の二隻。
前者は1911(M44)~1912(M45/T01)にかけての在籍であり、1918(T7)以降に印刷された絵葉書に、その画像が使い
回しされたとは考えにくい。
スタンションの形状や位置、船名の書かれたブルワークの位置や文字数も同じ。ハンドレールは設けられていないが、甲板室上に
デッキを増設している。後者の絵葉書も仕切線1/2となっていることを考えると、この船影は「新和歌浦丸」に相違ない。
「都丸」は鮮明な画像を二点残している。一枚目は奥藤汽船二隻が接舷し、停泊している。キャプションには「邑久郡教員
体育會寒霞渓遊覧記念」とあり、小豆島の撮影と思われる。二隻とも奥藤汽船の煙突マークを纏っている。船体寸法は
ほぼ同一なことから、岸側は「岡山丸」のようだ。
二枚目には煙突マークがない。奥藤汽船時代は平仮名書きとなっているが、こちらは漢字。一見、別船にも見えるが、
ポールド配置は同一と確認できる。こちらには、甲板室上の遊歩甲板は無い。この改造は奥藤汽船好みなのかもしれ
ない。キャプションには「淡の輪洲本連絡船」とある。庄野嘉久蔵所有当時は、大阪湾で使用されたのか。
坂越港を捉えた絵葉書も残っている。港内には「都丸」の姿がある。今、坂越港に旅客船航路はない。最初は「椿丸」
「藤丸」の終焉の地というだけで訪れた坂越だった。この界隈に船を追う時、必ず立ち寄る地となっている。
それにしても、この静かな入江にのあったことが信じられない。久三商店家治社長のお話を聞かせて下さった、
縁側で縫い物をしていたおばあさんは、お元気だろうか。次回は、保存された街並みを歩いてみたいと考えている。