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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

一枚のキップから

2014-01-18 | 日記
これは1977の国鉄のキャッチコピー。この年には、物心つく前から慣れ親しみ、生活と共にあった船舶や車輌が、次々に
終焉を迎えた。同年、引退した「椿丸」は坂越港へ廃船回航され、東京駅には80形湘南電車が来なくなった。地方
幹線系統において、吊掛けモーター音を轟かせる旧形国電が、最後の活躍をした頃にあたる。
実家には、父島の同級生M君の撮影した、坂越港に佇む「椿丸」のパネルを掲げてある。彼は乗り鉄の切符コレクター。国鉄
合理化により、無人駅化される全国のローカル線各駅へ、硬券入場券を求めに歩いていた。そんなM君も既に鬼籍に入っ
てしまった。
この度、手にした「一枚のキップ」から謎の船社名を知り、残された古絵葉書の船影の、船名特定に至った時、切符
に情熱を注ぎ、国鉄キャンペーンをジョークで笑い飛ばしていたM君を想った。



その切符には「サ」をデザインしたと思われる社旗がスタンプされていた。会社名は奥藤(オクトウ)汽船合資会社。佐藤国
汽船の社旗と良く似ている。かねてより、この煙突マークを纏った小型客船を数隻、古絵葉書上に確認していた。鮮明
な「都丸」を見た時には、撮影地から奥藤汽船の可能性を考えもしたが、同社の在籍期間は1913(T2)~1917(T6)と
短く、船社特定は保留していた。

坂越の奥藤家は古い定住伝承を持つ旧家で、江戸期より酒造業や廻船業を営んだ。坂越は「船どころ」として知ら
れ、船ぶねは、江戸期には塩の買積や城米輸送など、北国・西国航路に活躍し、明治期になると塩の買積を主とす
る東京への塩廻船となった。1857(安政4)生の奥藤研造は廻船業で利益をあげ、その財力をもって耕地や塩田を集積
し、電灯会社、汽船会社も興した。数行の銀行役員に名を連ね、自ら奥藤銀行も設立するなど、氏の経営手腕により
奥藤家は赤穂郡最大の地主となり、ミニコンツェルンを形成した。奥藤家の廻船経営最盛期はM20~30年代にかけてという。
塩廻船の終焉はあっけなかった。1905(M38)塩専売制が実施され、翌年には官費輸送が開始された。買積船は成り
立たなくなり、坂越の塩廻船業者は業態転換を迫られ、奥籐家は廻船業を廃業した。船名録から奥藤研造所有帆船
を見ると、M43版掲載は3隻、M44版2隻と減少し、M45版掲載「万全丸」を最後に姿を消している。
一方、1912(M45).02奥藤汽船合資会社を設立した。『赤穂市史』に「大阪・坂越航路の営業権は、姫路汽船会社か
ら奥藤汽船会社へ譲られ、以後は奥藤汽船会社の播州丸'(ママ)と新和歌浦丸(1915年からは千代丸)が就航すること
になった」とある。陸上交通の整備による船客減少に歯止めをかけるため、奥藤汽船は大阪・坂越航路を日生港へ
延長すると共に、相生港や木場港への寄港も開始したが、1918(T7)営業を停止した。

大阪~坂越の定期航路は『赤穂市史』『姫路市史』『網干町史』等によると次のとおり。一部、誤記誤認もある。
1883(M16)大阪の和合社により航路開設。外輪船「明龍丸」就航。
1885(M18)大阪商船会社の「佐渡川丸」就航。
     この頃、岩崎商社(坂越)の「第一赤穂丸」「第二赤穂丸」就航。
1888(M21)姫路汽船会社の「第一姫路丸」就航。
1889(M22)大阪商船と姫路汽船の競合は妥結し、「新和歌浦丸」「第一姫路丸」就航。
1912(M45)姫路汽船は奥藤汽船に営業を譲渡。「第一姫路丸」の代船として「播洋丸」「新和歌浦丸」の
     二隻にて営業。




大阪商船開業年(M17).10.01改正の航路一覧及配船表によると、坂越へ寄港するのは「第十四本線」と「第四支線」。

奥藤汽船所有船は船名録(M45版~T6版)に計6隻を確認できる。
第壹姫路丸 1124 / HGSK、130G/T、木、1888(M21).11、前田卯之助(大阪)、1911~1912
新和歌浦丸 555 / HDLN、141G/T、木、1881(M14).06、E.C.Kirby商会(神戸)、1911~1917
播洋丸 1559 / HKPJ、278G/T、木、1895(M28).10、春木藤次郎(徳島)、1911~1916 ←第貳共同丸
都丸 9117 / JSBV、88G/T、木、1904(M37).04、(株)大湊造船所(三重大湊)、1913~1917
岡山丸 14211 / LQGJ、94G/T、木、1911(M44).03、?(広島向島西)、1914~1917
千代丸 14432 / LSCF、189G/T、木、1911(M44).04、森川貞蔵(大阪)、1912~1917

安治川口で記録された船影を、上記の「在籍年」と、「1918(T7)より仕切線1/2という仕様」に当て嵌めてみると、
朧気ながら船名が見えてくる。初めて安治川口の古絵葉書を手にした頃より、一隻毎の船名を明らかにしたいと夢
想してるが、少しは安治川口に近づいたろうか。





中央部に係留された奥藤汽船の煙突マークを纏った汽船は、「播洋丸」と見られる。二枚目の『阿波國共同汽船社史』
掲載の、「第貳共同丸」当時の煙突は短い。甲板室上部に遊歩甲板を設けた為、煙突を高くしたと思われる。



こちらは下関港における「播洋丸」。単独配船なのか、それとも用船されたのか。キャプションに続いて「大正五.二.廿一
許可」とある。1916(T5)に奥藤汽船は手放したので、最末期と見られる。

安治川口の画像には、実はもう一隻の奥藤汽船の船影がある。安治川右岸に船首を川下に向けた船が係留されてい
る。この絵葉書にも、鮮明なモノクロ画像は存在していると思うが、船名は五文字。不鮮明な画像は惜しまれる。仕切
線は1/2で1918(T7)以降の発行である。奥藤汽船に在籍した五文字船名は「第壹姫路丸」と「新和歌浦丸」の二隻。
前者は1911(M44)~1912(M45/T01)にかけての在籍であり、1918(T7)以降に印刷された絵葉書に、その画像が使い
回しされたとは考えにくい。





スタンションの形状や位置、船名の書かれたブルワークの位置や文字数も同じ。ハンドレールは設けられていないが、甲板室上に
デッキを増設している。後者の絵葉書も仕切線1/2となっていることを考えると、この船影は「新和歌浦丸」に相違ない。

「都丸」は鮮明な画像を二点残している。一枚目は奥藤汽船二隻が接舷し、停泊している。キャプションには「邑久郡教員
体育會寒霞渓遊覧記念」とあり、小豆島の撮影と思われる。二隻とも奥藤汽船の煙突マークを纏っている。船体寸法は
ほぼ同一なことから、岸側は「岡山丸」のようだ。





二枚目には煙突マークがない。奥藤汽船時代は平仮名書きとなっているが、こちらは漢字。一見、別船にも見えるが、
ポールド配置は同一と確認できる。こちらには、甲板室上の遊歩甲板は無い。この改造は奥藤汽船好みなのかもしれ
ない。キャプションには「淡の輪洲本連絡船」とある。庄野嘉久蔵所有当時は、大阪湾で使用されたのか。





坂越港を捉えた絵葉書も残っている。港内には「都丸」の姿がある。今、坂越港に旅客船航路はない。最初は「椿丸」
「藤丸」の終焉の地というだけで訪れた坂越だった。この界隈に船を追う時、必ず立ち寄る地となっている。
それにしても、この静かな入江にのあったことが信じられない。久三商店家治社長のお話を聞かせて下さった、
縁側で縫い物をしていたおばあさんは、お元気だろうか。次回は、保存された街並みを歩いてみたいと考えている。

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鉄船「末廣丸」

2014-01-03 | 尼崎汽船部
廣幡忠隆著『海運夜話』の「古船の話」の節に、尼崎汽船部に触れた個所がある。殊に「第二君が代丸」の機関の
話は面白い。

一體尼崎さんは丹念な御家風ださうでして、如何なる品物でも、之を捨賣りなどに爲さる事は無く、
総て整理して御保存になるとか承つて居ります。 ‥(略)‥ 一寸獨逸人の遣り口に似て居ます。宣
なる哉、明治十三年かに汽船業を始められてから半世紀、業界浮沈の常ならぬ中に在つて、超然とし
て獨自の建前を以て嚴たる存在を示されて居ります。が、斯様な御家風である爲め、自然造船術研究
資料たるべき船が麾下に集る事に成りまして、斯道の研究家にとつて誠に有難い事であります。


昭和7年10月5日発行の本書を初めて目にした時、大分、斜に構えた書き方だな‥と考えながらも、80年前もそうだ
ったのかと、思わず苦笑してしまった。
これまで、「徳寿丸」「正宗丸」「香取丸」など、芸予・備讃の両海域を転配されて活躍した小型客船の船影を特定し
たが、これら100~200G/Tクラスの船は、白一色に塗られていた。それらの船が現役の頃、「斯道の研究家」によっ
て残された記録はあるのだろうか。菊水丸の調査をしていたとき、新聞記事に、一隻の船の手掛かりを見つけた。

九日夜明石海峡垂水沖で佛船ポルトス號と衝突沈没した菊水丸の遭難現場には、十日午後寒風吹き
荒む中に物凄く重油流れる沈没の位置の赤旗を圍んで垂水、明石漁業組合、青年團、消防組の艀船
二十數隻が活動し、午後三時尼崎汽船末廣丸(二百㌧)が大阪から潜水夫十三名を乗せて現場に到
着神戸水上署保安丸も保安課長以下多數の課員を乗せて来塲、尼崎汽船運輸丸、白濱丸等の汽艇も
姿を見せ本式に捜索作業に入つた。






新聞記事に添えられた画像には、特徴的な船影が記録されていた。最初は、なぜ甲板が折曲がって見えるのかと
考えたが、乗降口の天井高を確保するため、上部を拡げたように見える。記事からするとこの船影は「末廣丸」。し
かし、俄には信じがたかった。「末廣丸」は、1894(M27).06建造の「鉄船」だったからだ。
再掲の、「菊水丸」捜索現場の船は、遊歩甲板上の操舵室と煙突の間に天幕の骨があり、「船運丸」「日海丸」タイプ
ではなく、また、「神恵丸」「天正丸」のような客船型にしては小型に過ぎると見ていた。



宇品港



安治川口の大阪市中央卸売市場岩壁。右手には「君が代丸」の姿がある。



新電信丸 1398 / HJVP、1894(M27).06、鉄、前田卯之助(大阪)
1922(T11)に末廣丸と改名、174→195に増トンされている。「末廣丸」を記録した絵葉書の仕様は、全て表面仕切線
1/2となっているため、果たして、「新電信丸」当時、この船影になっていたのか、わからない。
宇品港と安治川口では、操舵室の位置が異なる。1931(S6).02.10において操舵室は遊歩甲板上にあるので、宇品
港の姿が古いと思われる。しかし、この「末廣丸」の船影は、国内で建造された数少ない「鉄船」の一隻と見て良い
のだろうか。
船尾機関型に改造された「電信丸」最末期の姿を、N氏より見せていただいた。中央機関型の時代とは、かけ離れた
姿をしている。鉄製汽船の改造は、木造汽船より容易だったのか。それとも、全くの別船が、「1398 / HJVP」名義
を引継いだのか。



いずれ詳細を記してみたいと考えている尼崎汽船部全船名を記した史料。「明治二十七年六月進水」となっている。
二代目尼崎伊三郎氏の手許にあった品に相違ない。もしかしたら、氏の筆跡かも知れない。

古船に関連し、「神代丸」の新画像発見を記しておきたい。チョンジン港における記録。既述のとおり、同船はキャパシティ
プラン集からも特定されるが、画像からは船名も読み取れた。





神代丸

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