津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

房総遊覧四泊五日

2014-03-31 | 日記
成田山年参講「水魚会」の『房総遊覧記念寫眞帖』は、1926(T15).05.11に甲府を発った一行の房総旅行の記
録冊子で、参加者に配布された。成田山年参講と云っても、新勝寺以外の寺社仏閣も訪れ、銚子、小湊まで足
を伸ばして観光している。冊子の巻頭には貝原益軒「楽訓」の一節を掲げてある。

旅行して他郷に遊び、名勝の地、山水のうるはしき佳境にのぞめば、良心を感じおこし、鄙吝(ヒリン)を
あらひすゝぐ助となれり、是も亦、我が徳をすゝめ、知をひろむるよすがなるべし。又いひ知らぬ霊境
にゆきて、見なれぬ山川のありさまを見て、目をあそばしめ、其里人にあひて、其風土をとひ、あるは、
おくまりたる山ふところに、岩根ふみてたづね入り、もとより山水の癖ありて、山夢に入ることしりな
る人は、心をとめて歸る事を忘れぬ。あるは海べた山遠き眼界ひろきながめは、萬戸候の富にもまさ
れり、又其里におひ出でたる名産の異なる品を見て其味をこゝろむるも、いとめづらしく心慰むわざな
り、すべて勝地にあそびて、見きゝせしこと、唯一時の耳目を悦ばしむるのみならず、いく年へぬれど、
其時見聞せしありさま、老の後まで、をりをり思ひ出られて、恰も其時見聞せし思ひをなして楽しむべ
し。是を以て、世にめでたき事を思ひでと言ふも、うべなるかな。


旅程表によると、甲府を5:14amに出発して14:02pm成田着。宗吾霊堂に参詣し成田泊。
2日目は4:00amに宿を発ち、不動尊参拝並びに大護摩修行と坊入の祝宴。鉄道で佐原へ移動して香取神宮参拝。
佐原川口港より汽船に乗船し、大船津着。鹿島神宮参拝。再び汽船にて利根川を下って銚子着。
3日目は飯沼観音参詣、犬吠岬燈台見学の後、役員慰労の宴。興津町へ移動する。
4日目は誕生寺参詣、鯛の浦を見学し、勝浦より鉄道で両国へ。
5日目(05.15)朝、両国の旅館で解散。
旅は参拝や宴会など盛り沢山の強行軍。交通機関は列車、電車、汽船、自動車、馬車を利用し、それだけでも
楽しい旅となりそう。



この冊子に驚かされたのは、通運丸船内写真の掲載されていること。『川の上の近代』に船内の画はあるもの
の、船内写真は初めて見た。キャプションに「利根川下り船中の宴」とある。男性二人は猪口を手にし、中央に一
升瓶が見える。
天井の垂木はむき出しになっていて、握り棒4本の取り付けてあるのが見える。揺れる船内を、これを伝って移
動したと思われる。棟木(?)をセンターとすれば、女性の座る位置からして、客室中央に通路は無いようだ。
窓には十字の桟が付く。この画像からは、客室は前部か後部か、判らない。
夜間航行時の船内の明るさは、どんなものだったのだろうか。人々のざわめきや、パドルの水面を叩く音はどう
聞こえたのか。色々、想像を逞しくさせてくれる、貴重な画像である。



通運丸の船影も記録されている。甲板室上に見える人は、水魚會の団旗を掲げている。撮影日は1926(T15).05.12。
荒涼とした風景の中の桟橋に繋留されている。船名と撮影場所は判らない。キャプションには「利根川遊覧船にて鹿
島に向ふ」とある。斜めに設置された縁石は年月経たように見えず、1921(T10)完成の横利根閘門の近辺か。船
影は「東京通船」時代にあたる。

東京通船は1919(T8).11.30創立総会を開催。12.08設立登記を完了し、12.16内国通運より事業を継承した。船舶
の所有権は、12.30移転登記を完了した。
松村安一『利根川汽船交通の変遷』には、「‥(内国通運の経営刷新は)‥時期がおくれて日露戦争の好況を
逸し戦後の不況の中で進められた。不況は経営陣の責任ではなかったが、この時期に内国通運会社は一部の野
心家に乗取られて汽船業が譲渡され‥」「今日からみれば結果的には内国通運の廃業は経営的に適当な時期で
あったと考えられる」とある。

1926(T15).05に記録された可能性のある船を『T15船名録』『川の上の近代』から確認すると、該当するのは
次の13隻。
第壹号通運丸 4218 / JBNW、59G/T、木、1890(M23).09、内国通運(深川)
第貳号通運丸 4191 / JBNH、68G/T、木、1892(M25).11、内国通運(深川)
第四号通運丸 4178 / JBMO、77G/T、木、1890(M23).03、内国通運(深川)
第五号通運丸 6475 / JBPR、49G/T、木、1899(M32).03、内国通運(深川)
第六号通運丸 4217 / JBNV、69G/T、木、1894(M27).02、内国通運(深川)
第八号通運丸 4173 / JBMH、74G/T、木、1893(M26).07、内国通運(深川)
第拾四号通運丸 4190 / JBNG、57G/T、木、1897(M30).02、内国通運(深川)
第二十八号通運丸 17317 / MNPT、84G/T、1914(T03).08、?
第二拾九号通運丸 6514 / JPHT、67G/T、木、1900(M33).10、井上徳次(栗橋)
第三十三号通運丸 6519 / JPHW、74G/T、木、1900(M33).12、内国通運(深川)
第三十四号通運丸 8525 / JQDM、53G/T、木、1902(M35).05、石川島造船所(石川島)
第三十五号通運丸 8776 / JRFS、83G/T、木、1903(M36).04、内国通運(深川)
第三十九号通運丸 11583 / LHCG、36G/T、木、1908(M41).10、内国通運(?)
この中には船影を特定し、除外可能な船も含んでいる。



二社連名のパンフレットも残っている。銚子汽船との共同運航を思わせる内容となっているが、東京通運『第23期
営業報告書(S5)』には「‥前期に引続き銚子汽船会社との抗争止ます依然として荷客の争奪戦に没頭するを
余儀なくせられたる為め‥」と記され、激しい競合を垣間見ることが出来る。
このパンフレットは松村論文に「‥(創立の)3年後には銚子汽船系の役員四名と入れ代えて経営にあたった。‥」
とある、1922(T11)頃のものと思われる。



1926(T15)鹿島参宮鉄道は浜まで延伸し、1927(S02)「参宮丸」「鹿島丸」を新造して浜~鹿島大社間の運航を
開始した。
参宮丸 32889、25G/T、木、1927(S02).04、岡田造船所(東京)
後に東京通船の経営陣も水郷遊覧汽船を設立し、「さつき丸」「あやめ丸」を新造した。







1928(S03).11.30東京通船は定款変更を決議し、12.07東京通運と社名を変更した。東京通運の1929(S04).02付
史料には、新航路開設に係る収支予算書や航路図と共に、会社整理を進める苦しい事情を記した書面も添付さ
れている。
新航路とは「京橋区築地魚河岸ヨリ大河ヲ遡航千住大橋ニ至ルモノヲ根幹トシ別ニ盬入ヨリ分岐シテ鐘ヶ淵ヨ
リ綾瀬川沿岸ヲ縫航シテ東京府南安達郡花畑村ニ至ルモノヲ連絡支線トスル」を云う。
この時はまだ、利根川航路も運航されている。意外に思えるのは、両国から江戸川に入るのに、小名木川を経
由しないこと。隅田川を南下し、派流より洲崎沖を東航して放水路に入る航路と、北上して堀切から放水路に
入る航路の二本が記されている。何れも新川を経由し、妙見島の北方で江戸川に入るコース。

一方、深川高橋を起点とする浦安行徳航路は、1929(S04)秋に競合する葛飾汽船を併合し、1930(S05)東京通運
より船舶や航路権等を分離の上、葛飾汽船に合併させ、東京汽船を設立した。譲渡された船舶に外輪汽船は無
い。譲渡された航路には、浦安行徳航路の他、「隅田川新航路営業権」「お台場航行権」も含まれている。
市販の時刻表に全ての航路が記されたとは思えないが、断片的な記録から推測するに、東京通運が上川航路か
ら撤退したのは1929(S04)、下川航路から撤退したのは1934(S09)頃と見られる。



これは1927(S02).06の時刻表。両国の出発時刻は上川航路17:00、下川航路16:00となっている。

成田山と云えば、思い浮かぶは「快速成田号」。新勝寺大本堂の落慶記念大開帳に際し、1968(S43).03.28~
05.28の間、平日2往復半、休日6往復、新宿~成田間に運転された。成田線(千葉~成田)は03.26に電化開業し
たばかり。車両はスカ線での役を終え、10.01両毛電化に充当予定の70形。
先輩からいただいた写真に、秋葉原を通過するヘッドサイン付76037の姿を確認した。見に行くことのままならぬ頃、
「快速成田号」はほんの短期間、幻のように走った。
1979(S54)の学校帰り。偶々通った新宿駅北通路の鉄道部品即売会を覗いてみた。そこに「快速成田号」のヘッド
サインはあった。ポケットを探ったところ、別な目的に充てる五千円があり、後先考えず手に入れた。今も北通路を
通ると、驚いて立ち尽くしたことを思い出す。



学生当時、アルバイトを重ねても旅に新幹線は使えなかった。1980(S55)の夏休み、ヘッドサインを抱えて345Mに乗っ
た。さすがのボクも恥ずかしかった。福山駅ホームでは、運転士さんはヘッドライトを点灯して下さった。これはあり得な
い300番台「快速成田号」の勇姿。「快速成田号」の思い出は、岡フチの皆さんへの感謝の気持ちと共にある。

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