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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

「山」の有り無し

2012-01-09 | 28隻組
28隻組のトップを切って登場したのは、東海汽船「あけぼの丸」「黒潮丸」。共に1947(S22).06.30に竣工
している。一方の殿は、1948(S23).12.20竣工の「高雄山丸」となった。輸送需要の変化により、貨物船
として竣工した3隻の内の一隻である。

1946(S21).10.30 GHQは小型客船28隻、3万3000総トンの建造を許可した。最高速力は15ノット以下に制限。

この計画に於ては、各業者の経営能力と予定航路の必要性の有無を検討して建造割当が行はれ、
造船所の選定は船主の自由意志に委ねられた。これらの船舶は当初船客を中心とする貨客船と
して許可されたものであつたが、その後石炭、輸入又は放出物資の荷動漸増に伴い、貨物船腹
が払底したゝめ一時建造中止の事態となり、貨物積載量を増加して設計変更を行い、漸く工事
再開となつた。このため竣工が相当に遅延する間に、鋼材その他の資材費・工費・労賃等の値
上りによつて船価は著しく昂騰し、契約船価での工事継続は事実上不可能となり、建造資金の
調達は頗る困難となった。


これは三井船舶『創業80年史』の一節で、船名こそ記されていないが、後段は「高雄山丸」を指していると
思われる。『創業80年史』『三井船舶株式会社社史』のどちらにも、「高雄山丸」は西海汽船の割当船で、
同社が宝永汽船と協和汽船に分離したため、宝永汽船の割当船となり、これをさらに三井船舶が継承して
建造したことが記されている。
しかしながら、問題は西海汽船の分離ではなく、宝永汽船が直面した建造資金の調達であり、このことに
より、三井船舶の建造継承に至ったと思われる。

28隻組の経歴は編纂会『28隻組』に纏められているが、そこでも触れられていない、驚くべき史実があった。
何と、「高雄山丸」は、「高雄丸」として進水していたのである。どの時点で「山」が付されたのか、判らない。
「高雄丸」として登簿されたなら「改名」と云えようが、どのような経過を辿ったのか。
1953(S28)発行の三井造船『35年史』の年表には、「昭和23年10月 9日三井船舶株式会社注文貨物船高
雄山丸進水す」とあり、本文中の一覧表にも「注文主 / 三井船舶」とある。
1948.06に起工し、12.20三井船舶らしく「山」が付いて竣工したが、発注は西海汽船が行ったことは確かで
あり、10.09の進水時は「高雄丸」であったことも、ご覧のとおりなのである。









「若草丸」の項でも記したが、「高雄山丸」は1950年代当初の沖縄航路で活躍した。「若草丸」同様に、
沖縄定航就航記念絵葉書が残っている。社史には「当初主として沖縄航路に就航、その後は小樽/京浜航
路、釧路/京浜航路等の定期船として使用した。1957年に主機換装、1959.09富士汽船に売却。」とある。





1948年に三井船舶が三井造船玉野製作所で建造した3隻は、何れも海軍海防艦のストックエンジン艦本22号10型を
装備していた。28隻組「十勝山丸」「高雄山丸」、D型続行船「天塩山丸」の各船である。

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沖縄航路の「若草丸」

2011-10-10 | 28隻組
「若草丸」(60544 / JQOA)1122.08G/Tは、1947.12.13日立因島で進水した。28組1000G/T型唯
一の三島型。建造時要目で目を引くのは主機で、旧佐世保海軍工廠製を載せている。艦艇用とし
て製作された機関であろう。明細書は1973版から保安庁船も掲載され、主機は「海軍22号10型」
D2100PS×1となっている。



日本内航客船資料編纂会『小型客船28隻組』(以降編纂会『28隻組』)掲載のビルダー提供画像は、
船橋楼のみ白塗装。この大阪商船発行の絵葉書は、同じ版を用いてる。公式試運転時と思われる。



1950年代の在来船が収録される『日本商船明細画報(1955刊)』には、貴重な船影が多い。この
画像にはスカジャップが無い。1952頃の姿だろうか。
「若草丸」の船歴は編纂会『28隻組』に詳しい。当初、青森~室蘭航路に投入され、次いで阪神~
沖縄航路へ転用された。「小型」「荷役が困難」な事を理由に米軍から代替要求があり、3航海で
撤退した。沖縄航路運賃同盟が結成されてからも、米軍への許可申請が必要だったことを考えると、
米軍の指示は絶対だったのだろう。
1950.04.01 800G/T以上の船舶の民営移管。
 〃 .08.28 GHQ、沖縄定期航路開設許可。
1951.04.25 沖縄航路運賃同盟スタート。当初のメンバー及び定期船は次のとおり。
大阪商船  白雲丸※
三井船舶  高雄山丸※
日本海汽船 白山丸
山下汽船  金星丸
中川水産  第一照国丸※     ※28組
各社は夫々定期船一隻宛の配船権を有し、臨時船の配船を希望するときは、
定期船との関連に於いて、他の全メンバーの承認を得た上でなければ、米軍
CTSに許可申請することは出来ない。


運賃同盟の規約はとても厳しい。理由は定かでないが、中川水産は、就航前に航路権放棄申請を
行っている。



1953.11、「若草丸」は鹿児島~沖縄航路に投入された。このタトウはその案内状入れで、案内状
は次の文面となっている。

拝啓
益々ご清祥の段慶賀の至りに存上げます
陳者弊社に於きましては大島復帰による船客の激増に備へ予而より弊社に寄せられました
諸賢の絶大なる御輿望に答ふべく鹿児島~名瀬~那覇間折返へし定期航路開設を企劃致し
ておりましたが愈々来る11月10日鹿児島發建にて若草丸(1,122総屯)を配船し、月4航海
の定期運航を實施することに決定致しました 本船は12ノットの速力を以て205名の船客と
300屯の貨物を輸送致すことゝなりますが、迅速、安全、確實をモツトーとするサービスにより
必ずや諸賢の御期待に副ひ得る事を確信する次第であります
就きましては何卒従来より配船の白雲丸同様引續き御愛顧の程切に御願申上げます 敬具
  昭和28年 月 日     大阪商船株式会社




キャビンプランを見てみると、二等、特三等、三等の3クラス。二等は船橋甲板(端艇甲板)の6名×2室。
特三等は船橋楼内の2室で、定員24名。船内は厳格に区分されていたようで、赤で示したドア一枚
で、二等・特三等客と、167名の三等客が交わらないようになっている。
桃色で示した部分は「医務室」。船橋甲板前部は上等級の食堂。船橋楼内後部中央の水色部分は
厨房となっている。三等客の食事は船室で供したのだろう。船内三カ所に配膳室が設けられている。
思えば、東海汽船「黒潮丸」による小笠原航も、船楼甲板(デッキ上)にゴザを敷き、並べたテー
ブルか、狭い船室で供ししていた。



中に封入された絵葉書は不明である。最後の旅客営業が沖縄航路となったことを考えると、この
姿が最末期と思われる。



当時、琉球航路を経営した船社のパンフレットを見ると、興味深い点が数々ある。これは1955.06
現在の大阪商船パンフレット。食管制度が生きていて「1食1合」の米を持参して乗船することとなっ
ている。炊飯は無料、副食費は運賃込みと記されている。当時、既に奄美群島は復帰していたも
のの、同一船に混乗するからだろうか、次の文言があり、興味をそそられる。

奄美大島・名瀬行きのお客様へ
奄美大島の名瀬迄は当航路で御自由に御渡航が出来ます。この場合、身分証明書及び入国
許可書、予防注射証明書等は勿論不必要ですから、簡単に乗船出来る訳です。但し手続き
等はたとえ簡便であっても、一応外国航路の性質を帯びておりますから手廻り品始め手荷
物については乗船港により税関旅具検査が必要です。従ってその点、普通の内地航路の取
扱いと多少違っております。




那覇の泊港で記録された若草丸の姿が数点残っているが、これはその一枚。現在「フェリー粟国」
が接岸する位置である。右手に見えるのが税関と監視詰所か。
我が国の南極観測参加は、第三回国際地球観測年の一環として決定され、観測船には砕氷構造を
持つ海上保安庁「宗谷」と国鉄「宗谷丸」が候補に挙がり、「宗谷」に絞り込まれた経緯がある。
その燈台補給船の後継船として、「若草丸」に白羽の矢が立った。
「若草丸」はS30年度予算予備費で大阪商船から購入(7,100万円)、1956.01.12引渡を受けた。
改装の後「若草」と改名、4月より燈台補給船業務を開始した。

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「若草」に再会

2011-10-01 | 28隻組
おお、「若草」だ! 観音崎燈台に展示の油絵に気付いた時、久しぶりに彼女に再会したかの
ような、懐かしさがこみ上げてきた。原画はここにあったのか。



28隻組の終末期、その数隻にしか接することができなかった者にとって、船内に足を踏み入れる
ことのできた「若草」は、思い出深い一隻だ。
1973(S48)暮のこと、父島から戻る定期船の出迎えか、船見散歩だったのか、はっきり覚えてない
ものの、竹芝から芝浦の東海汽船船溜りにかけて、岩壁を歩いた。日の出には「若草」「拓洋」
が並んで接岸していた。「若草」を至近で眺めるのは初めてなので、船体の造りを観察していた
ところ、船上の海上保安官は「乗って来いよ」と声を掛けてくれた。
当時、現場の方々は、気軽に子供に接して下さった。国鉄電車区も港湾も、拒まれた覚えがない。
「若草」の船橋楼内は、客船時代と大きな変化は無いようで、薄暗い廊下に面し、並んだニス塗り
の扉が重厚感を醸し出していた。船橋甲板の木甲板は、美しかった。間近に眺めた太い煙突も、コン
パスマークの後ろに、「大」を想像した。船内には数時間、居心地良く、入り浸らせていただいた。
「若草」は解役後、しばらく東京港内に係船されていたものの、知らぬ間に、姿を消してしまった。

1977(S52)秋、東海汽船「椿丸」は解徹のため、赤穂に向かうとの情報が、編纂会報に載った。この
界の先輩菊池氏の投稿だった。「椿丸」は八丈航路や父島航路で幾度となく乗船し、思い出詰まっ
た船である。その最期の姿を一目見たいと、大垣夜行と新快速を乗継ぎ、坂越に向った。姫路で乗
換えた赤穂線電車は、名残の日も近い岡転の80形だった。
アポ無し訪問だったにもかかわらず、久三商店社長家治久英氏は、大変親切に応対してくださった。
遠路、船を追いかけて来たことを労ると共に、名刺を渡された。10代後半の当時、実は、人生初め
て頂いた名刺が、氏からのものだった。今も大切に残してある。
事務所では、色々と、解体船の話を聞かせて下さった。必死の形相だったのかもしれない。そんな私
を諭すかのように、「また、ナベ釜になるんだよ」と語って下さった一言が、とても心に残ってる。
「椿丸」の手前には、船楼も撤去され、上甲板むき出しの解体船があった。船名を伺ったところ、
なんと「若草」だった。図らずも、28隻組同士、で舷を接したのだ。「若草」の甲板を歩き
回ってから、解体未着手の「椿丸」の舷門をよじ登った。帰路、「椿丸」を振返りながら、坂越の街
を歩いている時、金属くずを満載したトラックが、脇を走り抜けて行った。







これは、燈台補給船として再登場する際、配布された絵葉書である。発行から、既に50年以上が経過
した。1956(S31).1月、海上保安庁は大阪商船「若草丸」を、「宗谷」に代わる燈台補給船として購入。
タトウの内側には、次の文言がある。

燈台補給船とは
燈台事業88年の間広く世に親しまれている「燈台補給船」は南冥の孤島、北辺の
岬端にある燈台へ種々の航路標識用物資、器材及び医療品等の補給に従事し、
その間航路標識の性能試験を行ったり職員の服務規律並びに健康管理に従事し、
燈台職員及びその家族にとっては海のサンタクロースと愛称されています。


先日、所用で男木島に渡り、古くからの宿に投宿した。年輩のご主人は、代々おつきあいして来た
燈台長の話や、映画ロケの話をお聞かせ下さった。1957(S32)に封切られた映画『喜びも悲しみも
幾年月』には「若草」が登場する。備讃の海で、また、「若草」を想った。宿の窓からは、備讃瀬戸
航路を行き来する船の灯火を、間近に眺めることができた。宿は1926(S1)の創業という。この窓から、
尼崎汽船部の船ぶねや、別府航路歴代の名船を、眺めることもあったろう‥。そんなことを考えなが
ら眠りについた。
翌朝立った男木島灯台は無人化され、花々が咲き乱れていた。灯台の資料室には、「若草」の写真も
展示されていた。彼女が終焉を迎えた坂越の港は、遠くに見える小豆島の、その向こう側にある。

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