28隻組のトップを切って登場したのは、東海汽船「あけぼの丸」「黒潮丸」。共に1947(S22).06.30に竣工
している。一方の殿は、1948(S23).12.20竣工の「高雄山丸」となった。輸送需要の変化により、貨物船
として竣工した3隻の内の一隻である。
1946(S21).10.30 GHQは小型客船28隻、3万3000総トンの建造を許可した。最高速力は15ノット以下に制限。
この計画に於ては、各業者の経営能力と予定航路の必要性の有無を検討して建造割当が行はれ、
造船所の選定は船主の自由意志に委ねられた。これらの船舶は当初船客を中心とする貨客船と
して許可されたものであつたが、その後石炭、輸入又は放出物資の荷動漸増に伴い、貨物船腹
が払底したゝめ一時建造中止の事態となり、貨物積載量を増加して設計変更を行い、漸く工事
再開となつた。このため竣工が相当に遅延する間に、鋼材その他の資材費・工費・労賃等の値
上りによつて船価は著しく昂騰し、契約船価での工事継続は事実上不可能となり、建造資金の
調達は頗る困難となった。
これは三井船舶『創業80年史』の一節で、船名こそ記されていないが、後段は「高雄山丸」を指していると
思われる。『創業80年史』『三井船舶株式会社社史』のどちらにも、「高雄山丸」は西海汽船の割当船で、
同社が宝永汽船と協和汽船に分離したため、宝永汽船の割当船となり、これをさらに三井船舶が継承して
建造したことが記されている。
しかしながら、問題は西海汽船の分離ではなく、宝永汽船が直面した建造資金の調達であり、このことに
より、三井船舶の建造継承に至ったと思われる。
28隻組の経歴は編纂会『28隻組』に纏められているが、そこでも触れられていない、驚くべき史実があった。
何と、「高雄山丸」は、「高雄丸」として進水していたのである。どの時点で「山」が付されたのか、判らない。
「高雄丸」として登簿されたなら「改名」と云えようが、どのような経過を辿ったのか。
1953(S28)発行の三井造船『35年史』の年表には、「昭和23年10月 9日三井船舶株式会社注文貨物船高
雄山丸進水す」とあり、本文中の一覧表にも「注文主 / 三井船舶」とある。
1948.06に起工し、12.20三井船舶らしく「山」が付いて竣工したが、発注は西海汽船が行ったことは確かで
あり、10.09の進水時は「高雄丸」であったことも、ご覧のとおりなのである。
「若草丸」の項でも記したが、「高雄山丸」は1950年代当初の沖縄航路で活躍した。「若草丸」同様に、
沖縄定航就航記念絵葉書が残っている。社史には「当初主として沖縄航路に就航、その後は小樽/京浜航
路、釧路/京浜航路等の定期船として使用した。1957年に主機換装、1959.09富士汽船に売却。」とある。
1948年に三井船舶が三井造船玉野製作所で建造した3隻は、何れも海軍海防艦のストックエンジン艦本22号10型を
装備していた。28隻組「十勝山丸」「高雄山丸」、D型続行船「天塩山丸」の各船である。
している。一方の殿は、1948(S23).12.20竣工の「高雄山丸」となった。輸送需要の変化により、貨物船
として竣工した3隻の内の一隻である。
1946(S21).10.30 GHQは小型客船28隻、3万3000総トンの建造を許可した。最高速力は15ノット以下に制限。
この計画に於ては、各業者の経営能力と予定航路の必要性の有無を検討して建造割当が行はれ、
造船所の選定は船主の自由意志に委ねられた。これらの船舶は当初船客を中心とする貨客船と
して許可されたものであつたが、その後石炭、輸入又は放出物資の荷動漸増に伴い、貨物船腹
が払底したゝめ一時建造中止の事態となり、貨物積載量を増加して設計変更を行い、漸く工事
再開となつた。このため竣工が相当に遅延する間に、鋼材その他の資材費・工費・労賃等の値
上りによつて船価は著しく昂騰し、契約船価での工事継続は事実上不可能となり、建造資金の
調達は頗る困難となった。
これは三井船舶『創業80年史』の一節で、船名こそ記されていないが、後段は「高雄山丸」を指していると
思われる。『創業80年史』『三井船舶株式会社社史』のどちらにも、「高雄山丸」は西海汽船の割当船で、
同社が宝永汽船と協和汽船に分離したため、宝永汽船の割当船となり、これをさらに三井船舶が継承して
建造したことが記されている。
しかしながら、問題は西海汽船の分離ではなく、宝永汽船が直面した建造資金の調達であり、このことに
より、三井船舶の建造継承に至ったと思われる。
28隻組の経歴は編纂会『28隻組』に纏められているが、そこでも触れられていない、驚くべき史実があった。
何と、「高雄山丸」は、「高雄丸」として進水していたのである。どの時点で「山」が付されたのか、判らない。
「高雄丸」として登簿されたなら「改名」と云えようが、どのような経過を辿ったのか。
1953(S28)発行の三井造船『35年史』の年表には、「昭和23年10月 9日三井船舶株式会社注文貨物船高
雄山丸進水す」とあり、本文中の一覧表にも「注文主 / 三井船舶」とある。
1948.06に起工し、12.20三井船舶らしく「山」が付いて竣工したが、発注は西海汽船が行ったことは確かで
あり、10.09の進水時は「高雄丸」であったことも、ご覧のとおりなのである。
「若草丸」の項でも記したが、「高雄山丸」は1950年代当初の沖縄航路で活躍した。「若草丸」同様に、
沖縄定航就航記念絵葉書が残っている。社史には「当初主として沖縄航路に就航、その後は小樽/京浜航
路、釧路/京浜航路等の定期船として使用した。1957年に主機換装、1959.09富士汽船に売却。」とある。
1948年に三井船舶が三井造船玉野製作所で建造した3隻は、何れも海軍海防艦のストックエンジン艦本22号10型を
装備していた。28隻組「十勝山丸」「高雄山丸」、D型続行船「天塩山丸」の各船である。