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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

観光航路への転換

2018-10-29 | 東京湾汽船
1927(S2)年12月15日開催の東京湾汽船臨時株主総会において、渡辺六郎社長、稲木重俊常務は辞任し、代って
中島久万吉社長、林甚之丞常務が就任した。経営陣の交代により、観光事業を中心に据えた「客主貨従」方針が
打ち出され、併せて老朽船整理や月島工場閉鎖を決定した。4月開催の役員会において、9隻3800トンの新造計画や
29隻体制の配船計画、及び大島・下田の観光開発が決定された。これを「第一期拡張計画」といい、ローリングを行
いながら実施に移されることとなった。8月22日開催の役員会では、8隻の新造計画を承認し、具体案として発表
した。
8隻の新造船とは、「菊丸」「桐丸」「紅梅丸」「藤丸」「萩丸」「榊丸」「柏丸」「小桜丸」である。全てディー
ゼル船となり、船種は純客船、貨客船、貨物船にわたった。ただ、過渡期の故か、船尾の形状はクルーザースタンとカウンター
スタンに分かれる。
「松島丸」の項で記したとおり、改革は短期の内に着手・実行された。在来船を改装した「櫻丸」「橘丸」の投
入から、フラッグシップとなった「菊丸」登場までの間、大島・下田航路はどのように変転したか、残された時刻表か
ら運航ダイヤを確認してみたい。



これは『1927(S2)年6月時刻表』に掲載された伊豆諸島航路時刻表。八丈島航路と沼津~神津島航路は省いてい
る。大正中期より、「東京発大島行(及び大島経由)」船便は、「1の日、3の日、5の日、8の日」というパターンで
設定されている。6月の東京出港日時は次のとおり。
 6/01.03.11.13.21.23(大島波浮行)20:00発
 6/05.15.25(神津島行)20:00発
 6/08.18.28(伊東行)20:00発
 6/11.27(三宅島行)20:00発
11日には、大島元村に寄港する船便二隻(波浮行と三宅島行)が同時出港している。
『伊豆大島の事情』(T06.11)によると、東京湾汽船の航路は「補助、協定航路を併せ一ヶ月約十二回乃至十三回
の交通あるに至つた」。観光航路化された後の大島航路の隆盛を考えると、1928(S3)年3月まで、旧態依然の運
航パターンであったことを不思議に思う。



大島下田航路の観光転換にあたり、当面、観光船としての使用可能な船は「櫻丸」「橘丸」だけであり、両船を
改装の上、白塗装化した。パンフレットによると、「船内設備を最も家族的に最も社交的に改むると共に、等級廃止と
運賃値下げに会社の利益を度外視する程のデモクラテイツクな改革を断行しました」とある。等級を廃止してモノク
ラスとし、新たに一室貸切の「特別室」を設けた。
これは大島元村沖に停泊する「櫻丸」(左)と「橘丸」。白塗装となった両船を投入した1928(S3)年4月ダイヤ改正
は、大島航路に「日航便」を設定するという、画期的なものであった。これまで、「日航便」という呼称を漠然
と捉えていたが、「毎日就航」を意味する。『読売新聞(S4.04.05)』は、日航初日を次のとおり報じている。

大島へ 日航の初旅 ~春二日の海遊び~
一日午前八時京橋霊岸島を離れた汽船橘丸(四〇〇噸)は私達一行を乗せて椿の香薫る伊豆大島に向つた。
東京湾汽船の東京大島間日航を開始した初航海である。薄曇の空模様は風に小雨を混へ城ヶ島沖に差かかつ
た頃から稍揺れたが豫定の如く午後二時過ぎ大島元村に着いた。
海岸には『祝日航』のアーチが設けられ小学生や青年団が国旗を振つて歓迎した。


このダイヤ改正以降、東京湾汽船は実に多くのパンフレット(時刻表)を製作し、配布・宣伝に務めた。まるで春
を待った花々が一斉に咲き誇るかのような、百花繚乱の様相となる。なかでも黄色い表紙の「東京湾汽船航路案
内」は、数回、改訂版が刷られた。時刻表には、特徴的な円形の日曜表が添えられている。





これが記念すべき1928(S3)年4月の運航ダイヤ。東京湾汽船の改革は、ここからスタートした。従来の運航スケジュール
と異なるのは、東京を毎日08:00に出港すること。
下り(毎日)
 東京 08:00発
 大島 14:30着、15:00発
 熱海 17:30着、17:50発
 網代 不定期寄港
 伊東 18:40着、18:50発
 八幡野 不定期寄港
 稲取 20:30着、20:40発
 下田 21:40着
上り(毎日)
 下田 07:30
 稲取 08:4008:50
 八幡野 不定期寄港
 伊東 10:3010:50
 網代 不定期寄港
 熱海 11:4012:10
 大島 14:4015:10
 東京 21:40



早速、4月10日にダイヤ改正を行っている。攝陽商船から「松島丸」を用船し、三隻体制化したのはこの時。改正の
相違点等は次のとおり。
① 往航復航とも伊東寄港を増やし、伊東の利便性を高めた。
② 毎土曜夜と祭日前夜に、大島行夜行便を設定した。
③ 日曜祭日に限り、東京発08時大島行を休航とした。
この改正ではパンフレットは刷られず、改正時刻表は紙貼りされ、夜行便の案内には赤色のスタンプを用いている。他のパ
ンフレットにも、同じスタンプが散見される。
下り(毎日。但し日曜祭日休航)
 東京 08:00発
 大島 14:00着、14:30発
 伊東 16:30着、16:40発
 熱海 17:20着、17:40発
 網代 不定期寄港
 伊東 18:20着、18:30発
 八幡野 不定期寄港
 稲取 20:10着、20:20発
 下田 21:20着
上り(毎日)
 下田 07:30着
 稲取 08:40着、08:50発
 八幡野 不定期寄港
 伊東 10:30着、10:40発
 網代 不定期寄港
 熱海 11:20着、12:05発
 伊東 12:45着、12:55発
 大島 14:55着、15:25発
 東京 21:20着
夜行便下り(毎土曜と祭日前日)
 東京 22:00発
 大島 04:00着
夜行便上り(毎日曜と祭日)
 大島 16:00発
 東京 22:00着



6月以降の日曜表が添えられた時刻表には、夜行便も印刷されている。時刻等に変化なし。

次に行われた改正は10月1日であった。改正年月は『鉄道時刻表』から確認した。10月1日改正ダイヤを掲載した「南
豆温泉巡り」という、伊豆半島の温泉を紹介したパンフレットから読み解いてみた。





10月1日改正で運航ダイヤは激変し、伊豆半島観光に重点を置いたものとなった。「櫻丸」「橘丸」を用いた直行遊
覧船は週3便の設定で、東京~大島~下田~稲取~伊東~熱海~東京という、三角ルートに変更された。
このパンフレットでは「櫻丸」「橘丸」を「東京下田直行遊覧船」と記し、在来船を「東京大島間普通船」としている。
相違点等は次のとおり。
① 東京下田直行遊覧船は、毎週月水土21:30発(夜行)となった。
② 直行遊覧船の大島寄港は、往航(下り)のみとなった。
③ 大島行普通船は火木金日に設定され、辛うじて「日航」を確保した。
④ 大島から東京への復航(上り)は、普通船の水木土日のみとなった。
④ 熱海における鉄道連絡の便を図るダイヤとなった。
下り(月水土)
 東京 21:30発
 大島 04:30着、05:00発
 下田 07:30着
上り(火木日)
 下田 16:30発
 稲取 17:50発
 伊東 19:45発
 熱海 20:30着、21:00発
 東京 04:30着
このダイヤ改正による東京~大島~下田航路(週3便)は一隻運用でこと足り、もう一隻は熱海~下田(毎日)に充
当し、伊豆半島東岸の温泉地へのサービスを厚くしている。
熱海下田航路(毎日)
 下田 08:00発
 河津 08:55発
 稲取 09:25発
 八幡野 10:10発
 伊東 11:25発
 網代 11:55発
 熱海 12:15着、12:30発
 伊東 13:20着、13:30発
 熱海 14:20着、15:40発
 網代 15:55発
 伊東 16:25発
 八幡野 17:40発
 稲取 18:15発
 河津 18:45発
 下田 19:30着
因みに、熱海への鉄道延伸は人車鉄道、軽便鉄道を経て、国有鉄道延伸による熱海駅開業は1925(T14)年3月25日。
熱海電化開業は1928(S3)年2月5日であった。



昭和4年1月以降の日曜表の添えられたパンフレットは、不思議なものであった。本印刷の時刻表の上には、昭和4年1月
改正という貼紙がされている。その、貼紙下の本印刷がこの画像。
大島航路の時刻表のため、赤字で記された「遊覧船(櫻丸、橘丸)」は、往航しか記されていない。欄外には、注
意書として「東京発毎週月水土の大島経由下田行きの復航は大島を経由せず」とある。
当初、この時刻表の意味するところが理解できなかったが、10月1日改正ダイヤと判った。このパンフレットを刷った時点
において、年明け後も10月1日改正ダイヤの使用を計画していたのだろう。急遽、4年1月改正ダイヤを貼紙し、配布し
たものと判った。



昭和4年1月改正ダイヤは、後の東京~大島~下田航路の基本を確立した。集客の季節変動を織り込みつつ、航路やダイ
ヤを設定した試行錯誤の結果であろう。相違点等は次のとおり。
① 大島下田直行遊覧船は、往復とも東京~大島~下田となった。
② 大島行下りは「日航」を確保したが、東京行上りは火水木土日の5日。
③ 熱海下田航路の改変は無く、「櫻丸」「橘丸」を投入したと見られる。
下り(月水土)
 東京 21:30発
 大島 04:30着、05:00発
 下田 07:30着
上り(火木日)
 下田 12:00発
 大島 14:30着、15:00発
 東京 21:30着



昭和4年4月11日改正ダイヤを掲載したパンフレットは、東京下田直航遊覧船を「純客船」と表示している。若干の時刻改
正が行われている。
欄外の東京下田直航遊覧船出港日の下に、赤文字で「七月一日ヨリ毎日出帆」とある。また、「東京大島貨客船発
着時刻東京毎日午前八時出帆」と記されるとおり、大島行貨客船が日航化され、8時出港になった。
下り(純客船。月水土)
 東京 21:30発
 大島 04:30着、05:00発
 下田 07:30着
上り(純客船。火木日)
 下田 12:00発
 大島 14:30着、15:00発
 東京 21:00着
熱海下田航路(純客船。毎日)
 下田 08:00発
 河津 08:55発
 稲取 09:25発
 八幡野 10:10発
 伊東 11:25発
 網代 11:55発
 熱海 12:15着、12:30発
 伊東 13:20着、13:30発
 熱海 14:20着、14:40発
 網代 14:55発
 伊東 15:25発
 八幡野 16:40発
 稲取 17:15発
 河津 17:45発
 下田 18:30着



「菊丸」の登場した1929(S4)年7月パンフレットは、東京湾近海の海水浴場を紹介す内容で、初めての左書きパンフレットと
なった。7月1日改正ダイヤの相違点等は次のとおり。
① 東京~大島~下田航路は毎日一往復となった。
② 使用船は「菊丸」と「櫻丸」に限定。
③ 7月10日~8月末日まで、富岡海水浴場行き納涼遊覧船を運航。
東京より(毎日)
 東京 21:30発
 大島 04:30着、05:00発
 下田 07:30着
下田より(毎日)
 下田 12:00発
 大島 14:30着、15:00発
 東京 21:30着
納涼遊覧船(07/10~08/31)
 東京 12:30発
 富岡 14:30着、17:00発
 東京 19:00着



菊丸 34534 / TSPD 756G/T、鋼、1929(S4).04、三菱造船(神戸)、180.1ft(呎)[S05版]
これは『三菱造船神戸造船所製品カタログ』に掲載の「菊丸」の画像。続いて改装前の「櫻丸」「橘丸」。[ ]内は
初出船名録。



櫻丸 28874 / SLCH 397G/T、鋼、1922(T11).05、浦賀船渠(浦賀)、145.0ft(呎)[T12版]



橘丸 29428 / SNBL 392G/T、鋼、1923(T12).05、大阪鉄工所(大阪)、145.0ft(呎)[T13版]
toshi@maru氏に史料のご協力をいただきました。お礼申し上げます。

「松島丸」のこと

2018-06-10 | 東京湾汽船
1889(M22).11.15創立の東海汽船(もと東京湾汽船)は、来年、130周年を迎える。同社は時代の変化や社会の要
請に呼応し、その都度、内部改革や船隊整備を行っている。東京に本拠を置き、首都圏を集客地とする東海汽船の
動きはダイナミックであり、その歴史は興味深い。今回は、社史を読んで船名の判明した、古絵葉書に記録された汽船
のことを記したい。





これは、40年位前にアベノスタンプで購入した絵葉書。記録された小型汽船の船名は、残念ながら読み取れない。右側
のキャプションには「大島観光記念」とあり、左下に「明治製菓写真班撮影」とある。裏面には、明治製菓の社章と社
名が印刷されている。市販された絵葉書では無いようだ。ほぼ中央に捉えられている船影は小さく、印刷も粗い。
史料価値は無かろうと、一度は流してしまった。ただ、キャプションの「大島」が気になり、再び探し出して購入した。
大正後期から昭和初期の頃、東京湾汽船のフラッグシップは「櫻丸」「橘丸」であり、このようなスタイルの汽船は在籍して
いないことも、首を傾げた理由であった。

第一次大戦の戦後不況や、震災復興に係る不良債権の増加により金融不安の広がるなか、「東京渡辺銀行が破綻し
た」という片岡蔵相の失言(1927(S2).03.14)により金融恐慌が発生し、東京渡辺銀行は破綻した。同行より役員
を迎え入れていた東京湾汽船は、経営陣の刷新を行う必要に迫られ、1927(S2).12.15開催の臨時株主総会において、
中島久萬吉取締役社長、林甚之丞常務取締役体勢となった。中島・林体勢のもと、東京湾汽船は短期間に大改革を
断行する。

社史によると、海運界に初めて身を置いた林甚之丞常務は、大阪商船紀州航路の乗船・視察から行動を開始した。
当時のパンフレット等から、恐らく勝浦急行線の新鋭船「那智丸」「牟婁丸」に乗船したと思われる。旅程等は記録さ
れてないが、1927(S2)年12月後半の、歳末に旅している。
林常務は、続いて年明け早々の1月2日から5日にかけ、「橘丸」に乗船した。社史によると、視察は「会社創立40
周年(1929=S4)を間もなく迎えるに当たって、会社無限の資財たる300万府民を対象に会社の営業方針の転換を
胸中に納め」ての視察で、「下田、大島、熱海、伊東、三崎、館山等を視察して大いに感ずるものを得た。とりわ
け大島では胸中の意を強くした」という。

二回の視察により打ち出されたのが、いわゆる「貨主客従」から「客主貨従」への経営方針の転換であった。航路
の見直しと共に、老朽船処分、新船計画、月島工場廃止等を行い、当面の策として「櫻丸」「橘丸」を純客船へ改
装した。白塗装となった両船は、4月1日から大島・伊豆航路に投入された。
改正直前の、1928(S3)03時刻表は確認出来ないものの、1927(S2).01時刻表から東京発大島行きを見ると、次の
とおり。月間13便設定され、全便とも東京霊岸島発20時(午後8時)となっている。(数字は出港日)
東京→大島各港(波浮行)01、03、11、13、21、23
東京→大島各港→神津島行05、25
東京→大島各港→伊東行08、18、28
東京→大島元村→三宅島行11、27

改装成った「櫻丸」「橘丸」を投入した1928(S3).04.01ダイヤは、実に画期的であった。パンフレット等によると、大島
経由下田行き観光便は毎日出港となった。具体的には、往航は東京霊岸島午前8時発、復航は下田午前7時30分発と
いうもの。寄港地は、「東京~大島~熱海~網代(不定期寄港)~伊東~八幡野(不定期寄港)~稲取~下田」。
パンフレットには「東京下田間の毎日定期(両地より発航)」「会社の優秀船たる『さくら』『たちばな』の姉妹船を
此航路に向け、しかも船内の設備を最も家族的に最も社交的に改むると共に、等級廃止と運賃値下げに会社の利益
を度外視する程のデモクラティックな改革を断行」とある。
国府津より延伸した国鉄熱海線の熱海駅は、1925(T14).03に開業している。当初ダイヤの熱海港発着時刻は「下り下
田向け17:50発」「上り下田より11:40着」と設定され、下田への乗船客は、熱海集客を目論んだと見られる。
早くも4月10日にダイヤ改正を行い、毎土曜夜と祭日前夜に、東京22時発大島行特別夜航を増発した。ただし、日曜
祝日の午前8時発大島行は休航となる。
1928(S3).04.01ダイヤ改正から翌年07.01「菊丸」投入までの間、非常に多くのパンフレットが配布され、刻々変化する
運航ダイヤを知ることが出来る。ただ、この間の変化の経緯は省略する。
当時、「櫻丸」「橘丸」に見合う予備船は無く、毎日二隻でこのスケジュールをこなすには無理があり、社史によると
「攝陽汽船(ママ)から松島丸(約500噸)を用船」してこれを補った。大島観光航路開設当初は乗客数1日10人以下とい
う日もあり、宣伝に努めた結果、東京~大島への観光客は徐々に増え始めた。
1928(S3).08.22の役員会において、8隻の新造計画と、8隻の老朽船処分が決定たことから、用船「松島丸」は同
年9月に返船した。
返船理由は明確に記されないが、廃船予定一覧表によると、同船の経費は最も高額。また、集客も一段落したので
はないか。日付は不明だが、「櫻丸」「橘丸」限定の観光航路は「東京→大島→下田→半島沿岸→熱海→東京」と
変化し、大島寄港は往航のみとなった。さらに、観光便は東京発「月水土」の週3回となり、出港時刻も21:30とい
う夜行に戻った。「火木金日」にも大島行は設定されているものの、従来の波浮行、神津島行、伊東行を加えて毎
日就航とし、「松島丸」用船を解消した。東京湾汽船の「松島丸」用船は、5ヶ月ばかりであった。

大島で記録された船影は「松島丸」に相違ないと見られるものの、裏付けを得られないかと考えていた。資料に船
影を探したところ、不鮮明ながら、『鳴門市史』にそれらしい船影を見つけた。キャプションには「眉山丸」とあった。
しかし、この船影は「眉山丸」ではない。





画像を比較すると、ポールドの位置や船橋楼甲板のブルワーク形状などから、同一船と判る。『鳴門市史』は異なる船名
を記していても、攝陽商船(鳴門で記録)と東京湾汽船(大島で記録)を結びつける船名は「松島丸」しか無い。
この画像により裏付けを得られたと考えている。

「松島丸」は九州汽船の発注により建造され、『船名録T9版』から掲載される。
松島丸 25335 / RNCD 433G/T、木、1919(T8).05、中井亮作(熊本鬼池)、141.3ft(呎)[T09版]
1923(T12)新興汽船籍となり、1927(S2)攝陽商船へ売却された。『船名録S6版』に掲載されないことと、海員審
判記録にも船名は無いことから、1930(S5)解体抹消されたと見られる。攝陽商船へ売却されるまでの経緯を『九州
商船社史』から拾うと次のとおり。

1919(T08).05  九州汽船「肥州丸」として進水。
1919(T08).06  「松島丸」と改名。竣工後、長崎~玉之浦・福江~奈良尾航路に就航。
1923(T12).09  九州汽船は五島汽船と共同出資で新興汽船設立。
1923(T12).10  「松島丸」を新興汽船へ現物出資。
1925(T14).07  新興汽船解散。
1926(T15).04  「長福丸」が長崎~玉之浦航路に就航。
1926(T15/S01) 「松島丸」を攝陽商船へ売却。

長崎~下五島航路に投入された「松島丸」の攝陽商船売却は、「長福丸」就航による玉突きではなかろうか。

戦時合併・分離のことなど

2016-07-16 | 東京湾汽船
東京湾汽船・東海汽船史に関心を持って以来、社史等に記された「創業期」「戦時合併・分離期」及び「戦後復
興期」在籍船の記録に、疑問を抱いてきた。
先ず、「創業期」在籍船については、時代背景や関係者の動きを知ることにより、『M23版船名録』に記載の「所
有船5隻」の意味を理解した。船名録や社史にのみ拘泥しても、謎は解けない。

次に、「戦後復興期」在籍船確認のため、戦後版「船名録」全48冊に目を通した。手許の28冊は出勤時に持参し、
残り20冊は所蔵館探しから始めた。
東海汽船の戦後船舶史には、不明点が多い。「船名録」を通覧したことにより、社史に収録されなかった在籍船
を知り、船社吸収合併の手掛かりも得た。単年版にのみ、所有船として記録された船の多いのも意外であった。
一方で、「船名録」から読み取れない定期用船や、基準日(1/01現在)から外れた所有船の存在(在籍1年未満)
も否定できない等、「船名録」の限界を感じたり、誤りにも気付いた。特に重要な「凡例」基準日の誤記には、首
を捻った。元号の変わった時期にあたり、当該年版のみ手にした場合、誤りとは気付かないことだろう。
                (誤)          (正)
① 昭和63年版 昭和62年1月1日 → 昭和63年1月1日
② 平成元年版  昭和63年1月1日 → 昭和64年1月1日
③ 平成10年版 平成9年1月1日  → 平成10年1月1日

ここのところ、東海汽船・東京湾汽船史における最後の謎となった「戦時合併・分離期」在籍船を探るため、史料
を突き合わせていた。国・機関による法令や内部規定の制定時点と東海汽船が各社合併を決議した時期(増資
完了時点ではない)の前後関係を押さえるだけで、東海汽船史に新たな視点が生まれる。また、二ヶ月間在籍し
た機帆船隊のことなど、判る範囲で記してみたい。



これは、「東京湾汽船」から「東海汽船」へ社名変更を行った前後の報告書。東京湾汽船最後の報告書は昭和
17年前半期「第106回報告書」。東海汽船としては昭和17年後半期「第107回報告書」から。因みに、手元に届い
た直近の報告書は「第191期事業報告書」。
東京湾汽船は、1942(S17).08.28開催の臨時株主総会において、「東海汽船」と社名変更を行う件を決議し、09.02
に登記を終えた。当時の社長は小田桐忠治氏。臨時株主総会における小田桐社長の発言が『100年史』に掲載
されている。

「…(略)…今次大戦の勃発に伴いあらゆる旧殻を脱し時局に対応すべく、一大進展を試みる所存でござい
ます。これには先ずもって東京湾汽船という地域的に極限された感じの致します社名を改称し、一大発展
の覚悟を表したい考えから社内に新社名を募集致しました結果、東海汽船という社名が適当…(略)…」


『60年史』によると、「東海汽船」への社名変更は、1894(M27).01の総会において俎上に上りながら、お流れとな
った経緯がある。

『80年史』によると、社名変更を行った翌年、1943(S18).03.26日南運輸を吸収合併し、「天昭丸外34隻(計35隻)」
を船隊に加え、引き続き、船社の吸収合併を進めた。しかし、「戦争による喪失船16隻」を差し引いて「1946(S21).
05現在の所有船34隻」とは、一体、どう計算したら隻数に整合性を保てるのか、理解できなかった。
偶々手にした日正汽船の社史に、疑問を解く手掛かりはあった。戦時体制下、東海汽船本社内で創立総会を
行い、分離した船社が存在した。現在の「JXオーシャン」の最前身、「日産近海機船」である。東海汽船の社史
は、何故か同社の分離を記載していない。

戦時中に合併及び分離した船社について、『80年史』『100年史』『報告書』及び他社社史の記述を整理してみ
た。特に、合併決議については『第108回報告書』に拠るところが大きい。

日南運輸
S17.12.24 定時株主総会で合併契約を承認。
S18.03.10 吸収合併により増資[第6回増資]
S18.03.26 臨時株主総会で合併完了を承認。合併手続き完了。
S18.04.17 神戸支店設置。
S18.04.29 天昭丸外34隻の移転登記完了。
船舶:天昭丸、機帆船34隻。(計35隻)

瀬戸内運輸、丸神汽船、関釜産業、内山善作(以下「四社」)
S17.11.26 臨時株主総会で瀬戸内商船現物出資による資本増加を承認。(この時点は「商船」。3/26は「運輸」)
S18.03.26 臨時株主同会に四社現物出資を付議し決定。
S18.04.30 四社現物出資により増資。
S18.05.01 尾道出張所開設。
S18.05.20 四社現物出資手続き完了、増資登記完了[第7回増資]
瀬戸内運輸:第10、第11、第12、第15、第16東豫丸。(5隻)
丸神汽船:丸神丸、第二丸神丸。(2隻)
関釜産業:平和丸。(1隻)
内山善作:陽州丸。(1隻)

忽那汽船
S18.04.13 臨時株主総会で合併を承認。
S18.07.30 増資。
S18.09.01 吸収合併[第8回増資]
船舶:勝山丸、松山丸。(2隻)

小谷汽船
S18.05.20 臨時株主総会で合併契約承認を可決。
S18.10.01 吸収合併[第9回増資]
船舶:喜代丸、南華丸、恵須取丸、泰洋丸、龍勢丸、昭和丸。(6隻)

呉穀物卸商業組合
S18.08.24 臨時株主総会。
S18.12.01 現物出資[第10回増資]
船舶:第二鮮友丸、第三鮮友丸。(2隻)

小谷杢之助
S18.05.20 臨時株主総会で現物出資による資本増加を承認可決
S18.12.05 現物出資[第11回増資]
船舶:旭丸、第二旭丸、第三旭丸、第二光丸、富士丸。(5隻)

日産近海機船
S18.05.21 東海汽船本社内において日産近海機船創立総会開催。
S18.05.26 日産近海機船創立。東海汽船より機帆船30隻(34隻?)を引継ぐ。
S18.06.01 日産近海機船営業開始。

瀬戸内海汽船
S20.03.06 新会社に関する協議会、発起人会開催。
S20.05.31 発起人総会開催。第10、第15東豫丸(2隻)を瀬戸内海汽船へ現物出資。尾道出張所閉鎖。
S20.06.11 瀬戸内海汽船設立。

年表に合併・分離を挿入してみた。これまで社史等に記されてきた経緯とは、少々異なるように見える。

S15.02.01 「海運統制令」公布。
S15.08.08 第10代社長篠本鼎退任(東武系)し、第11代社長小田桐忠治就任(日産系)。
S15.09.27 日独伊三国同盟調印。
S15.10.12 大政翼賛会発会。
S16.08.19 「戦時海運管理要綱」閣議決定。
S16.10.18 東条英機内閣成立。
S16.12.08 米英両国に宣戦布告、太平洋戦争開戦。
S17.03.25 「戦時海運管理令」公布。
S17.04.01 船舶運営会設立。逓信省は運航実務者(大型船)40社を指定。
S17.05.18 逓信省は運行実務者(小型船)18社を指定。
         →東京湾汽船は小型船運航実務者に指定される。5隻の国家使用命令を受ける。
S17.06.05 ミッドウエー海戦。空母四隻を失い戦局の転機。
S17.08.28 東海汽船への社名変更を決議。
S17.09.02 登記を終え、社名変更手続を完了。
S17.10.26 第三次ソロモン海戦。制海権を失う。
S17.11.26 臨時株主総会で瀬戸内商船現物出資による資本増加の件を承認。
S17.12.24 定時株主総会で日南運輸の合併契約を承認。
S18.01.20 「木船建造緊急方策要綱」閣議決定。
S18.03.-  船舶運営会は運航実務者を5班に編成。
S18.03.10 日南運輸の吸収合併による増資[第6回増資]。
S18.03.26 臨時株主総会で四社現物出資を付議し決定。
S18.04.13 臨時株主総会で忽那汽船合併を承認。
S18.05.20 臨時株主総会で小谷汽船及び小谷杢之助合併契約承認を可決。
S18.05.20 四社現物出資手続き完了、増資登記完了[第7回増資]。
S18.05.21 東海汽船本社内において日産近海機船創立総会開催。
S18.05.26 日産近海機船創立。東海汽船より機帆船30隻を引継ぐ。
S18.06.01 日産近海機船営業開始。
S18.07.12 海務院は「船舶運航体制緊急整備要領」発表。船舶運営会の改組、運航実務者の集約を図る。
S18.07.31 運航実務者5班制を廃止。
S18.08.15 汽船関係運航実務者を大型船22社、小型船4社に集約する。
         →東海汽船は「船舶運航体制緊急整備要領」により小型船運航実務者を解かれる
S18.08.24 臨時株主総会で呉穀物卸商業組合現物出資を付議し決定。
S18.09.01 忽那汽船吸収合併による増資[第8回増資]。
S18.10.01 小谷汽船吸収合併による増資[第9回増資]。
S18.10.02 海務院は「船舶所有者整備要領」発表。純船主の基準船腹量を決める。
        達しない場合、同一運航実務者所属の適格船主を統合。同年末までに340社を100社に統合。
S18.12.01 呉穀物卸商業組合現物出資による増資[第10回増資]。
S18.12.05 小谷杢之助現物出資による増資[第11回増資]。
S19.10.01 東海汽船の16隻が日産汽船に裸傭船される。
S20.02.23 船舶運営会の運航実務者制度廃止を閣議決定。
S20.05.31 第10、第15東豫丸(2隻)を瀬戸内海汽船へ現物出資。尾道出張所閉鎖。
S20.06.11 瀬戸内海汽船設立。
S20.08.15 無条件降伏、太平洋戦争終結。

年表にすると、事の決まった前後が見えてくる。S18.07.12に発表された「船舶運航体制緊急整備要領」により、
東海汽船は「小型船運航実務者」を解かれた。しかし、8.15時点までに呉穀物卸商業組合一社を除き、増資手続
きは未了ながら、臨時株主総会において各社吸収合併は承認済であった。また、日産近海機船は既に分離を
終えていた。
さらに、純船主の「基準船腹量」を示した「船舶所有者整備要領」の発表されたS18.10.02の前に、呉穀物卸商組
合の現物出資も決定していた。
社史には「船腹基準量を増し、適格純船主として存続するよう他社合併を急ぐ」とあるが、10.02以降戦争終結ま
で、吸収合併・現物出資の成立はあったろうか。可能性のある機帆船も存在するが、確証を得ていない。社史や
報告書に記された経緯からは、小型船運航実務者を解任された本当の理由は判らない。
「戦時合併・分離期」在籍船について、不明な点は他にもある。しかし、『戦時船名録』の編纂・刊行が無ければ、
二ヶ月間在籍した機帆船隊の手掛かりは、得られなかったろう。
試みに、「日南運輸→東海汽船→日産近海機船」と移籍された機帆船を、『戦時船名録』から探してみた。報告
書には、日南運輸より移籍された機帆船は「34隻」とあるが、33隻を見いだす事が出来た。なお、(*)印6隻には
日産近海機船へ再移籍の記載がない。『日正汽船30年のあゆみ』には「合併時のまま30隻を分離させた」とある。
「合併時のまま」との記載から、分離させたのは機帆船「34隻」だったのではないか。

曙丸、香取丸、錦城丸、高知丸、第二聖天丸
第三聖天丸、新英丸、第壱新興丸(*)、静洋丸、第一大華丸
第六大華丸、第七鷹島丸、第壱隆丸、第一土佐丸(*)、第十一號長福丸
第二豊高丸(*)、第一日南丸、第二日南丸、第五十一日南丸、第五十二日南丸
第五十三日南丸、第百一日南丸、第百三日南丸、第百五日南丸、第百六日南丸
第五號晴彦丸、第壱宏丸(*)、第六平和丸、寶惠丸、第五萬丸
第壱三國丸(*)、第弐三國丸、第三號八幡丸(*)、以上33隻。

最後に、『日正汽船30年の歩み』に掲載の吉田清氏(元専務取締役)の回顧記「日産近海機船㈱の由来」から、
一部を引用させていただく。

「…(略)… 戦局の進むにしたがって鋼船は軍に徴用されて沿岸輸送は機帆船にたよるほかないこと
となりました。
そこで船腹拡充の必要に迫られましたが、自力で資金を調達する力はなく、さりとてこれ以上日産汽
船から出資してもらうこともできませんでしたので、姉妹会社の東海汽船の株式が市場性を有するこ
とに着目しそれを利用して資金を調達すべく、昭和18年3月同社と合併したのであります。
ところがその直後、政府は、船舶公団で造る機帆船を運航させるため、専門の会社を大手の船会社
にそれぞれ1社ずつ設立させることとし、日産汽船にもその旨申し入れてきたのであります。私は、こ
の仕事は東海汽船でやるべきものであることを力説いたしましたが、当局は、あくまで別会社を希望
いたしましたので、私と平林は東海汽船を出て、旧日南運輸の社員と機帆船をもって日産近海機船
を創立したのであります。」

自社建造は13隻

2016-05-15 | 東京湾汽船
時折、仕事帰りにレバフライを求めている。古くからのお店は新佃島や月島一号地にある。レバフライは、薄く伸ばし
た豚レバーにパン粉を付けて揚げ、ソースをかけたもの。このようなお総菜のあることを、都内に住んでいても、
知らなかった。
漁師町として成立した佃島に隣接し、隅田川澪浚いの土砂を埋立てて月島(築島)は造られた。月島の隅田川
沿いには造船所や工場が立地した。月島は、それら工場に勤務する労働者や、日本橋から築地へ移転した市
場で働く人々の住む地域となった。レバフライは、安価で栄養価の高いお総菜として、そのような地域に生まれた。
レバフライ求めるたび、東京湾汽船の工場に働いた人々や、建造された汽船群を思わずにはいられない。
東京湾汽船の自社工場において建造された汽船は、大きく区分すると前期の客船型と後期の貨客船型に分け
られ、他に曳船と外輪汽船が各一隻ある。工場立地場所は判明しているものの、名称については「月島工場」と
「月島造船所」が混乱し、建造された隻数も、記録によってまちまちである。『営業報告書』から判明した事項を
交え、順に記してみたい。

まずは、自社工場のあった場所へ行ってみた。









勝鬨橋上より上流側を眺めると、右手(隅田川左岸)に「月島川水門」が見える。その水門の上流側に東京湾汽
船自社工場(造船所)はあった。M30上期営業報告書に「3月10日月島西河岸通5丁目8番地10番地12番地及仝
6丁目2番地4番地6番地総坪数840坪1合5勺ヲ本社ヘ借入タリ」とある。それぞれの番地を地図上で赤く塗って
みた。地図には「東京汽船月島工場」とある。「湾」が抜けているのは誤植である。この界隈の道路形状に大き
な変化は無く、西仲通りと西河岸通りの間の路地が「東京瓦斯会社材料置場」に突当たり、T字路になっている
のもそのままだ。



工場跡に隣接する上流側は、現在、中央区「わたし児童遊園」となっている。解説版によると、M25(1892)個人
経営渡船として開設され、M34(1901)東京市営化を決定し、翌M35(1902) 汽船曳船二隻で交互運転を開始し
た。公営となり渡賃は無料となり、M44(1911)終夜運航を開始して乗客増加に対応するも、勝鬨橋架橋による
乗客減少により廃止された。
東京市営化の決定した年から、月島の東京湾汽船自社工場において汽船は建造されている。市営化は、月
島一号地の居住者増加や通勤者に対応したことから、当時の月島の状況を窺い知ることができる。

次に、名称について考えてみたい。前掲地図にも「月島工場」とあるように、『船名録』は「月島造船所」とは
記録していない。『船名録』の造船所ページには、次のとおり記される。

M26-M35版 東京湾汽船株式会社造船所
 ・京橋区新船松町将監河岸 M18年2月設立
M36-M42版 東京湾汽船株式会社造船所
 ・京橋区新船松町 M18年2月設立
 ・京橋区月島 M35年3月設立
M43-T05版 東京湾汽船株式会社月島工場
 ・京橋区月島 M32年11月設立
T06-T15版 東京湾汽船株式会社月島工場
 ・東京市京橋区月島 M32年設立(月を省略)
S02版 掲載無し

『M36-M42版』によると、「東京湾汽船造船所」は、将監河岸と月島の二カ所にあった。月島は「M35年3月設
立」とある。『M43-T05版』は「M32年11月設立」とし、『T03版』から「2月設立」に変化する。これは、「ニ」
(横引き二本の「じゅういち」)を「2」と誤植したようだ。『T06版』より「月」は省略され、『S02版』以降、造船所
一覧は掲載されない。
『80年史』には、M32.11月島に船台2基を有する造船所が完成とある。
『100年史』には、M30.03に月島の土地を借用して造船所建設を計画し、M32.05より造船所建設工事に着手、
M32.11.04月島工場落成とある。『M36-M42版』のM35.03設立は錯誤なのか。
『東京湾汽船営業報告書』を通覧すると、M38年までは「月島工場」で統一されている。『M39年上期報告書』
において、M39.02月上旬の「第拾号通快丸を修復」の項には「月島工場」とある。しかし、M39.04.12の「鶴丸
進水式」の項より「月島造船所」と記録される。同じ版の中で変化し、その理由は記されていない。『M42年
上期報告書』には、次のとおり記される。

六月二十一日 従来本社構内ニ在リシ工場ヲ月島造船所ニ合併シ月島工場ト改稱セリ

建造船の進水時に当てると、「鶴丸」「明石丸」「朝日丸」の3隻は「東京湾汽船月島造船所」建造となる。

13.01.26のブログ「月島工場の貨客船」に、「『100年史』をベースに『件名録』『船名録』にて補正すると、月島
工場建造船は14隻。」と記したが、新たな史実が判明して13隻に訂正する。
『船名録』を見る限り、「勝山丸」は明らかに東京湾汽船建造船と考えていたが、『営業報告書』によると、竣
工前の船体と汽罐を購入し、汽機を芝浦製作所へ発注し、完成させた船だったのである。
『M34年上期報告書』には、次のとおり記されている。

一 四月六日小川市太郎並ニ原重之ノ両氏ヨリ新造中ノ汽船船体及ビ同用新罐一個
  購入ニ付契約ヲ締結シ且ツ之ニ用ユル汽機ハ芝浦製作所ヘ注文セリ
一 四月廿九日新造中ノ汽船ニ左ノ通リ夫々命名セリ
   東洋丸(浦賀船渠株式会社ヘ注文中ノ分)
   房総丸(本社月島工場ニテ製造中ノ分)
   勝山丸(小川原両氏ヨリ購入ノ分)


「勝山丸」は、最終的に将監河岸もしくは月島の自社工場にて組立を終え、完成させたなら、「東京湾汽船製
造」とするのも、誤りとは言い難い気もする。
「勝山丸」について、武田泰氏は『北上川の汽船時代』に「同船は純トンが少なく実用性が劣っていたため東
京湾汽船が手放したと考えられます。」と記しておられるが、氏の推測どおり、自社設計で無かったことによ
る、使用にそぐわない船だった見られる。



それぞれの資料に記された事項を一覧にすると、この表のとおりとなる。社史二冊から「高砂丸」が省かれた
のは二代目との混同があったからか。「静岡丸」については省かれた理由が判らない。月島工場製は◎印を
付した13隻。
備考欄に記した年号は、明治年間に東京湾汽船籍を離れた船とその年号。■印は船影の特定された汽船。
冒頭で「前期の客船型と後期の貨客船型」と記したが、「房総丸」と「日の出丸」の船影は未見であり、船影の
特定されている「鶴丸」「芙蓉丸」「保全丸」の三隻も、それぞれ特徴がある。①~⑤は、安定した命令航路運
営のため、伊豆諸島・伊豆半島航路用に建造されたと考えられる汽船。
船影の特定されている画像から「愉快丸」と、三陸汽船に譲渡された船名不明船を紹介する。



愉快丸 12208 / LKBG M42.07 199G/T 東京湾汽船(東京)
橋を潜らねばならない河川航行の船と違い、屋上に独立した操舵室を設けており、外輪汽船としては、実に堂
々としたスタイルをしている。マストや煙突も起倒式ではなく、本格的なものを装備している。仙台湾~北上川水系
の一部外輪汽船も、末期には独立した操舵室を持つスタイルに改造されている。



釜石港で記録された三陸汽船の小型汽船。スタイルは「鶴丸」「保全丸」に共通する客船型。M44(1911)三陸汽船に
譲渡した汽船中、自社工場建造船「房総丸」「日の出丸」「朝日丸」の何れかと思われる。右はキャッチャーボート。

生まれは「東湾八郎丸」

2015-05-06 | 東京湾汽船
時折、職場にお立ち寄り下さる東海汽船OB氏は1960年代後半のご入社という。その当時、ハイシーズンの勝山へ応
援に入ったお話を伺った。
房総西線千倉電化(1969(S44).07)や道路整備の進展などから、船便を利用しての海水浴客は減少し、夏期の
内房航路は1970(S45)を最後に休航した。
OB氏の応援に入った頃の勝山には、既に飛行塔や観覧車は無かったという。「橘丸」等の客船は、勝山港に「出
船」で接岸した。岸壁に接するのは船体後部のみで、オモテの係船索を岩礁のビットに掛けるご苦労や、島から持ち
込んだバスで船尾の係船索を引き、クラッチを焼き切りそうになったことなど、思い出話を伺った。勝山地区レジャーランド
化の先鞭を付け、地下足袋町長として有名な平田未喜三氏も、毎朝、姿を見せていたという。

『鋸南町史』は勝山の観光施設整備について「この近くの浮島に、昭和10年ころ、平田未喜三が始めて観光施
設を設置したのが最初」と記している。後に平田氏は、浮島の対岸にスポーツランドや水族館を設けた。続いて「昭
和28年3月になると東海汽船は町内の観光資源の豊かさに着目し、平田朗・未喜三と共同経営により、岸壁を構
築し、ヘルスセンター、頼朝荘が建設され、多くの遊戯施設が造られて、房州地方における一大遊園地に発展しました」
とある。





いかにも昭和の味わいのパンフレットは、本社所在地・乗船場所共に月島としている。『100年史』から発行年を探っ
てみたところ、竹芝船客待合所の使用は1953(S28).08.15、本社の銀座移転は1954(S29).09.01であることから、
勝山地区レジャーランド化のごく初期(1953?)に印刷されたものと判った。『100年史』には次のとおり記されている。

戦後、要塞地帯としてのヴェールを脱いだ東京湾内唯一の海洋公園たる千葉県
勝山鋸南地区の観光開発に当社は着目し、地元町村の絶大なる協力を得て、
27年初めより開発計画を立て夏期海水浴場としてオープンするため、休憩所、
脱衣所、売店、貸ボート、カヌー、水族館その他の諸施設を夏前に整備すること
とした。7~8月の間は東京~勝山海水浴航路を運航し、秋には観光定期船
を就航させた。更に、28年に勝山と保田の中間に在る亀ケ崎を「パールアイランド」
と呼称し、真珠の養殖や海女による海水の水槽内で魚の餌付け実演を行う
等多様な施設を次々と整備し、宣伝誘客に努めた。
28年勝山町平田未喜三町長と契約し、勝山港内に定期船用の桟橋と船客待
合所の建設資金を寄付し、これの専用使用権(30年間)を取得灯標等桟橋関
連施設の整備を行った。また、海浜付近一帯に亘り子供用の遊戯施設やクジ
ャク、猿等の小動物園を設けたスポーツランドを造り、その背面に聳える大黒山に
は山頂行きのエレベーターを設置した他、山裾の岩屋を利用した水族館も建設し
た。


『80年史』は「1953(S28).03千葉県勝山地区に観光開発を行う。岸壁、遊園地、水族館、ヘルスセンター、頼朝荘を順
次建設。」とだけ記している。パンフレットに掲載された案内図を見てみたい。







地図には「勝山丸」という船名が、舟形の記号と共に記入されていた。東海汽船に「勝山丸」という船名は在籍
していない。海水浴場の演出効果を高めるため(?)、漁船でも陸揚げしていたのだろう‥と考えていた。





「勝山丸」は突然に姿を現した。用途は判らないものの、舷側と船尾に階段を設け、砂浜から船内に入れるよ
うになっている。浜辺の演出効果だけではなく、実用されていたと判った。そしてその船影から、「勝山丸」は
「鶴丸」の船体を流用していたと判明した。左手に見える船は、パールアイランドとターザン島を結んだ遊覧船らしい。



「鶴丸」(2代)は貨物船改造の貨客船。船名の読み取れる「鶴丸」の画像は、一枚見つかっている。絵葉書の仕
様から1933(S8)以降の記録と見られる。貨物船当時、旅客定員を取っていたかは、判らない。
鶴丸 36228、44G/T、木、1930(S5).09、下田船渠

「鶴丸」の前身は「東湾八郎丸」と云い、1933(S8)に改名されている。この時点で貨客船に改造されたとみられ
る。小型貨物船の故か、東湾○○丸10姉妹(この場合兄弟と言うべきか?)の船影は、1930(S5)建造にもかか
わらず、『80年史』掲載の画像以外に見当たらない。『100年史』には次のとおり記録されている。

昭和3年の第1期新船建造計画8隻の中には貨物船は2隻のみで、ディーゼル
貨物船が不足のため5年に第2期新船建造計画を策定し、ディーゼル貨物船の
建造を決めた。
‥(略)‥
これらの貨物船は林専務による海上トラック構想に基づき建造、購入されたも
ので速力アップに重点をおいたため船体の割に機関部が大きく、船倉は小さ
いが甲板上に貨物が多く積めるようになっており、また、喫水を浅くして伊
豆及び房州の何処の漁港にも入港出来て、積込みも容易であり、東京の
魚河岸に直接運び込み着岸出来るという特色を持たせて、話題となった。


10姉妹のネーミングは異色かつ秀逸と考えている。太郎から六郎の6隻は藤永田造船所建造の鋼船。「太郎・次郎」
と「三郎~六郎」の2タイプそれぞれが同型船。下田造船所建造の「七郎・八郎」は同型の木造船。「九郎」「十郎」
は買収した木造船であった。
社史によると、戦後の1948(S23)には浦賀~竹岡航路に就航。1951(S26).02.01付『現況』によると、浦賀~金谷
航路に「花丸」と共に就航している。この時点の「鶴丸」旅客定員は三等82人となっている。1952(S27).04.01の
東京湾輸送設立の際、湾内横断航路と共に西伊豆航路は譲渡され、「鶴丸」は沼津~松崎航路に使用された。
『S30船名録』まで東海汽船所有と掲載され、『S31船名録』から抹消される。船名録で追う限り、東京湾輸送に
は移籍されていない。『戦時船名録』を確認したところ、1955(S30).09.07付抹消であった。

10姉妹で最も長命を保ったのは「東湾太郎丸」。1932(S7).11.14に襲来した台風により爪木崎で座礁大破したが、
1933(S8).09.16貨客船「高砂丸」(2代)として再生、新たな船舶番号を付与された。大久保正一船長の著作『伊
豆七島の特殊な悪条件』には、「高砂丸十年の思いで」として、10年間もの長きに亘って船長として乗船され、
1970(S45).01月、へ無事に送り届けた思い出が綴られている。





先日、「小原謹一郎碑」調査に館山を訪問した帰途、勝山へ立ち寄った。パンフレットに「大遊園地」とある飛行塔
のあったと思しき一角は、予想以上に狭い。水族館跡地手前には、そのことを記録する看板が立っていた。
1961(S36).07-08月に266.7千人の輸送実績を記録した勝山航路。佐久間川河口周辺にレジャーランドがあったと
は想像つかず、夢幻泡影といった趣の勝山だった。

「天城丸」と「天龍丸」

2014-05-08 | 東京湾汽船
昨年より、東海汽船グループには新造船の登場が相次ぎ、6.27には「橘丸」登場も控えている。東海汽船(東京
湾汽船)史を概観する時、期間の長短はあるものの、幾度かの新造船導入期のあったことに気付く。その最初
は1897(M30)。東京湾汽船にとって初の新造船4隻の登場を見た。
東京湾汽船は1889(M22).11.14創立総会を開催し、翌日より営業を開始した。当時の在籍船は同年末において
25隻。厳密に云えば11.15に20隻で創業し、12.05に5隻加わり、25隻になったと見られる。12.05に出資された
5隻には、創業時からの所有船とされる「館山丸」「天津丸」も含まれる。
創業6年目の東京湾汽船に、思わぬ増収がもたらされた。『M28下期報告書』に「横須賀航路ハ引續キ好況ニシ
テ殊ニ収容軍艦鎮遠號從覧ノ爲メ著シク収益ヲ増加セリ」とある。『65年史』には「軍艦(鎮遠)見物の旅客輸送は
連日空前の殺到を見るに至り思わぬ大増収を得たのである。会社はこれを機会として倍額増資(ママ)をはかり‥(略)
‥スクリュー船を建造することになった」とある。『80年史』によると5日間で2万人もの東京市民を輸送している。
『100年史』には「日清戦争当時の当社所有船は‥(略)‥小型船のみで、他の汽船会社の如く運賃高騰による海
運ブームの恩恵に与ることはなかった‥」ものの、1895(M28).08.05から5日間、「鎮遠」見物に向う東京市民の交
通手段として「霊岸島、芝浦、品川から10余隻の船で輸送にあたったが、それだけでは捌ききれず五大力船を曳
航して運ぶという思わぬ恩恵に与った」とある。
1896(M29).01.05株主総会において、初の増資(15万円)が決定され、資本金は40万円となった。





上は「鎮遠」の甲板とされる画像。
下は横須賀港に停泊する東京湾型貨客船。「鎮遠」見物から時代は下り、明治末期に記録された画像。フォアマスト
に東京湾汽船の赤十字旗を掲揚している。「第拾参号通快丸」に比べると大柄に見える。若干高い操舵室と、そ
の後部の甲板室の間にはフォアマストが立ち、補助帆を張った名残のブームが斜めに見えている。上甲板後端部にコン
パニオンを設け、船尾の第二甲板後端部の稜角から鈍重な印象を受ける。画像から割出した「長さ」(Lr)は約28m。

増収により計画された、最初の新造船4隻組の登場経緯を、日付を追って確認してみたい。
1896(M29)
03.15石川島造船所と、汽船二隻の新造契約を締結。
05.13石川島造船所へ発注の新造汽船に係る製造方監督願書を、同所と連書で東京司検所へ提出。
09.29汽船二隻の新造を、大阪の岡崎栄治郎・梶原午之助2氏へ発注を決定。社員を大阪に派遣して契約を締結。
10.21石川島造船所にて建造中の二隻を「第一東海丸」「第二東海丸」と命名。
11.24石川島造船所にて「第二東海丸」進水。
12.02同所にて「第一東海丸」進水。
1897(M30)
01.21「第一東海丸」試運転。
01.27「第二東海丸」試運転。
02.10「第一東海丸」を受取り、11日房州向け初航海。
02.12「第二東海丸」を受取り、14日房州向け初航海。
03.15梶原造船所にて建造中の二隻を「天城丸」「天龍丸」と命名。
03.20梶原造船所にて「天城丸」進水。
05.16同所にて「天龍丸」進水。
07.27大阪にて「天城丸」試運転。
08.04「天城丸」東京回着。
1115大阪にて「天龍丸」試運転。
1120「天龍丸」東京回着。

岡崎栄治郎とは、大阪で木綿商を営み、市内は今宮に商業倶楽部を設立した者と思われる。どのように関わった
かは判らない。

東京湾汽船の伊豆航路は、喫水の深い「館山丸」「天津丸」を用い、1891(M24).01より月12回の運航を開始した。
東京~熱海に9時間、熱海~網代~伊東~稲取~見高~下田に10時間を要し、駿足の大型船の登場が待たれた。
上記のとおり、「東海丸」姉妹は房州航路、「天」姉妹は伊豆航路に投入された。船腹の充実した1897(M30)は、
航路開拓のなされた年となっている。
05.17「高島丸」は半田へ初航海し、05.25東京帰港。(尾州航路)
06.02「高島丸」は三陸地方へ初航海し、06.11東京帰港。(三陸航路)
06.18「大の浦丸」も三陸地方へ初航海し、06.26東京帰港。
伊豆航路は新船投入により、東京を朝6時に発つと夕刻には下田へ入港出来るようになり、当初は両港より毎日
出帆している。直後に減便している理由は、無配転落と同じと思われる。
1898(M31).03.29より3回/月、伊豆航路の新島延航を開始した。M31上期においては、伊豆航路は12回/月と記
録され、下期は24回/月となっている。09.08小田原寄港を開始した。『100年史』は「天城丸と天龍丸の当時とし
ては大型で、高速の船が伊豆航路に就航して、漸く伊豆七島への進出も可能となり‥」と記している。

1900(M33).12.15東京商船学校の練習船「月島丸」は大島沖にて沈没し、不明者捜索に「天城丸」を派遣。
1911(M44).08.27 / 21:20「天龍丸」は旅客及び貨物を搭載し東京より下田へ出帆。
1916(T05).08.24 / 18:40「天城丸」は鉱石約1900俵を搭載し河津より東京へ出帆。
1917(T06).08.17 / 13:22「天龍丸」は旅客及び貨物を搭載し八丈島へ向けて東京霊岸島河岸を抜錨。
1924(T13).04.15 / 19:40「天龍丸」は雑貨及び魚類を搭載し伊東より東京将監河岸へ出帆。
1924(T13).09.16 / 18:30「天城丸」は貨客及び郵便物を搭載し下田より沼津へ出帆。



明治中期建造船の形態を留めながら、東京湾汽船フリートらしからぬ船影を、大正後期の絵葉書に見ていた。上甲
板に甲板室があり、その上部にブリッジを設けている。フォアマストは前部上甲板に立つ。目にした当初、このようなス
タイルなのに、何故、伊豆大島において記録されたのか首を捻った。その船影に付されたOB氏のメモには「天城丸」
とあった。伝馬船の腹に書かれた船名も「東? 天城丸」と読めそうだ。しかし、半信半疑で断定を避けてきた。
1928(S3)より推進された客主貨従方針により、「天城丸」は01.30廃船処分された。この年、「天龍丸」は島航路
(東京~大島~各島~御蔵島)に使用されている。続いて決定された第一期拡張計画において「天龍丸」は廃船
となり、1930(S5).01.31売却された。同年末までに抹消されている。





この画像により「天城丸」は特定された。OB氏のメモは正鵠を射ていた。キャプションに「月島商船学校附近」とある。
天城丸 1682 / HLCP、168.79G/T、木、1897(M30).07、梶原午之助(大阪)
天龍丸 1709 / HLFK、168.79G/T、木、1897(M30).11、梶原午之助(大阪)
石川島造船所で建造された二隻の「東海丸」は、「東京湾型」と思われる。石川島造船所製品カタログ掲載の「蓬
莱丸」(1894)に近い姿ではないか。

小野正作氏の個人伝記『ある技術家の回想』に興味深い記述がある。氏は大阪鉄工所にも勤務し、船名録には
「御代島丸(初代)」の造船工長として記録されている。
小野工業事務所時代の1897(M30)に、東京湾汽船社長櫻井亀二氏が小野氏を訪ねてきたという。当時、東京湾
汽船は梶原造船所に「天城丸」「天龍丸」の建造を、機械類は木村鉄工所に発注していた。小野氏が東京で手掛
けた「天津丸」のベアリングの出来が良く、東京湾汽船社内で評判になっていると云う。櫻井氏としては、機器につい
ては小野氏に発注したかったが、社員が事前に発注してしまっているので、「クランクベアリング」と「メインシャフトベアリング」
だけは、小野氏に技術指導を願いたいという用向きであった。いかにも技術者らしいやり取りの後、木村鉄工所
で完成させて納入している。この項の最後に「‥入念ニ仕上ケヲサセテ機械ヘ取付ケテ後試運転モ無事ニ済ンテ
東京ヘ回船セシカ其後同氏ニ面会ノ機会カ無カツタノテ「ベアリング」ノ結果ヲ知ル事カ出来ナカツタカ何ノ沙汰モ聞
カナカツタカラ好結果テアリシト思フ」と結んでいる。
「天城丸」「天龍丸」は共に30余年活躍した。小野氏の関わりもあり、優れた船に仕上がっていたことも、姉妹で
長きに亘る活躍をした理由の一であろう。

「小櫻丸」を確認

2013-04-28 | 東京湾汽船
S13(1938).09.01、東京は22年ぶりの猛烈な台風に見舞われた。伊豆諸島東方海上を北上した台風は、三浦
半島南端附近に上陸。進路を北に変え、午前三時頃、八王子、立川付近を通過した。東半円に入った東京を
暴風雨は襲い、河川は氾濫した。当時、台風に固有名は無く、戦後は米国式女性名を経て、発生番号が付さ
れたのは講和条約発効の後と云う。
号外は「颱風暴虐の跡!」「省電・郊外電車不通」「江東方面一帯水浸し」等の見出しを掲げている。紙面には、
遭難もしくはその危機下にある船として、横浜港内の「テトラル号」「國川丸」「大徳丸」、城ヶ島の「空知丸」「羽
黒丸」、川崎港の「海龍丸」を報じている。同年09.03「同盟ニュース」によると、東京港芝浦岸壁に打ち付けられた
小型客船もあった。





魔風狂ふ戰慄の一夜 關東一帯を襲ふ烈風の咆哮
厄日二百十日の凄まじい魔風は一日午前零時から咆哮を始め、烈風秒速三十一個目のすさまじさを
示し、加へて雨のために街路はクリーク化し緑の街路樹は横倒し塀は突伏し交通機関は完全に杜絶
し関東一帯は停電断水の中に戰慄の一夜を明した。廿二年振りのこの颱風の惨害は夜明けと共に全
く惨憺たる状態を示してゐる。寫真は芝浦岸壁に打ちつけられた汽船と宮城前のお濠端に倒れた街
路樹。


岸壁に打付けられた汽船は「小櫻丸」。初めて現れた船影に、ページを捲っていた手が止まった。湾内航路用に
建造された100G/T型のこの船は、どんな姿をしていたのか、想像逞しくしていた。
上甲板の船尾両舷に、出入口とトイレと思われる甲板室を設けている。甲板室は塗り分けられ、前方に続くブル
ワークは機関室の周りに無い。舷側に達する大きな操舵室が目を引く。
意外に思ったのは船名の書き方。「小櫻丸」1929(S4)は左書きであった。昭和ひと桁の頃の代表船は、「菊丸」
1929(S4)右書き、「葵丸」1933(S8)左書き、「橘丸」1935(S10)左書きとなっている。「菊丸」と同年の建造にも
かかわらず、異なっていた。



小櫻丸 34538 / TSPJ、98G/T、木、1929(S4).06、金指造船所(貝島)
土肥港に於いて記録された画像から、船名は読み取れない。しかし、この小型客船は同盟ニュースの「小櫻丸」
と特徴が一致する。彼女は西伊豆航路にも投入されていた。船体色はS13(1938)と異なっているのが判る。上
甲板後部の甲板室は塗り分けてなく、ブルワークと見ていた個所はハンドレールだ。操舵室下部は波浪の打込みを防
ぐためカンバスを張っている。同じ足場から「萩丸」「藤丸」も撮影されている。
「小櫻丸」に関し、社史は次のとおり記している。

小桜丸は4年7月に清水・金指造船所で竣工し、横須賀~金谷~小久保~横浜を結ぶ房相連絡航路
に就航した。房相間の航路は房州航路の一部として明治時代から運航されたが、旅客輸送を目的
に観光開発を盛り込んだ航路が開始されたのは新経営陣になってからである。この航路は館山航空
隊と横須賀海軍基地間に往復する乗客が多く、実用航路としても東京湾横断航路は必要であった。


その後、1931(S6)横須賀~大貫~横浜の三角航路の開設をみて、同年06.30「千鳥丸」を投入。「小櫻丸」は同
じ航路に就航していた「梅丸」と共に東京横浜電鉄の要請による貸船後、「梅丸」1939(S14).07.20、「小櫻丸」
同09.01日に売船、引渡したとある。

先日、所用で静岡県立図書館を訪れた。自治体史の書架にあった伊豆諸島町村史には、一瞬、戸惑った。考え
てみれば、M11(1878)静岡県から東京府へ移管されている。『金指造船所六十年史』も手に取ってみた。
「函嶺丸」の好評を聞いた東京湾汽船は「榊丸」「柏丸」「小櫻丸」「萩丸」「藤丸」の5隻を相次いで発注し、この
5隻は、昭和4年3月、4月、6月と引き続いて進水したとある。「小櫻丸」のみ木造となったのは、何か理由でも
あったのか。
同書には、小笠原島民について触れた個所がある。戦後、金指造船は漁業経営を手掛けるにあたり、御前崎の
高塚氏の手配により、疎開した漁民から漁船への乗船希望者を募っている。後に、小笠原島民の設立した「小
笠原漁業株式会社」は、同社に鰹漁船を発注し、1955(S30).05「第一小笠原丸」は竣工した。
清水市には、小笠原疎開者の集中して住んだ町もあると、同市から母島に帰島した方から伺ったことがある。

今回、同館所蔵図書から「愛鷹丸」の船影も確認することができた。収穫多い静岡行きとなった。

「賀茂丸」と「清澄丸」

2013-03-21 | 東京湾汽船
下田は海上交通の要衝にあり、良好な泊地や薪水補給機能を持つことから、地方都市ながら
歴史の表舞台に登場する。東京湾汽船~東海汽船史においても、汽船の基地や観光開発の
地となり、多くの乗組員を輩出してきた。社史には「下田船渠」の社名も見える。

『65年史』によると、1925(T14)下田船渠が創立されるにあたり、月島工場の施設をあげて
下田船渠に移された(譲渡した)とある。
『80年史』には、1908(M41)下田船渠の再建に協力するため、当社専属の船舶修繕所として、
20年間の長期使用契約を結んだと記される。1907(M40).05.25東京府と「伊豆諸島定期航海
契約書」締結の後、下田港への寄港数は増加し、船舶基地の重要性は増した。1925(T14)下
田出張所を廃し、同所備品等を下田船渠へ譲渡したとされる。
『100年史』の下田船渠に関する項を要約すると、1898(M31)澤村久右衛門らによって下田船
渠合資会社は発足したものの、経営は厳しかった。その後、伊豆諸島航路の発展に伴い下田
を基点とする船も多くなり、その修繕は下田の造船所を利用するようになった。1908(M41).
01.27下田船渠と20年間の長期使用契約を結び、当社専用の船舶修理工場として使用契約を
締結した。1920(T09)二代目澤村久右衛門が社長に就任し、使用中の工場とは別に造船所を
増設し、当社もこの新造船所に新船建造を発注した。新造船所の円滑な経営が進むにつれ、
1925(T14).07.30下田出張所及び使用工場での修理業務を廃止し、工場を返還すると共に同
所の備品、器具、機械類を下田船渠に譲渡した。

1908(M41)と1925(T14)に、東京湾汽船と下田船渠の関わりは変化した。その間、下田におい
て建造された東京湾汽船所有船を一覧にすると次のとおり。社史に記される「下田丸」の詳
細は不明。

尾張丸   15993 / MFPT、182G/T、木、1913(T02).01、澤村久右衛門
日の出丸  22897 / RCMF、408G/T、木、1918(T07).05、澤村久五郎
賀茂丸   27707 / SDTF、263G/T、木、1920(T09).10、東京湾汽船造船部
西豆丸   28122 / SGMV、129G/T、木、1921(T10).06、澤村久右衛門
州ノ崎丸  28672 / SJTP、126G/T、木、1922(T11).01、澤村久右衛門
たいぶさ丸 29051 / SLQG、177G/T、木、1922(T11).11、澤村久右衛門
清澄丸   29420 / SMWV、177G/T、木、1923(T12).06、澤村久右衛門
下田丸  <詳細不明>  39G/T、  1920(T09).12

下田船渠『七十年のあゆみ』(S43.12)に記された内容は、東海汽船社史とは若干異なる。主
要事項を記すと次のとおり。

澤村家は天明年間より下田港で造船業を経営した。造船場は稲生沢川中洲にあった。
1880(M13)澤村久右衛門(初代)は和洋折衷「航静丸」建造。
1886(M19)同上は汽船「第二豆海丸」建造。
明治20年代に造船場は稲生沢川中洲から弁天に移転。
1898(M31).09.22下田船渠合資会社設立。
1900(M33).10.25石造200㌧ドック完成。
1902(M35).10.31下田船渠株式会社に改組。ドックを貸して入渠料を得るのを目的とし、造
     船設備は持たなかった。社長澤村久右衛門は、会社とは別に造船業と海運業を営
     んでいた。
1903(M36)入渠船は僅かに4隻。
1908(M41).01.26より20年間、東京湾汽船にドックを賃貸することとし、年1300円の賃貸料
     を得て株主に年8分の配当を実施。
1918(T07).01.26澤村久右衛門(初代)は社長を辞し、長男久五郎が2代社長に就任。
1919(T08).08.08澤村久五郎逝去。
1920(T09).01.26久五郎の長男義太郎は久右衛門を襲名し3代社長に就任。
東京湾汽船は、所有船の大型化に伴い、200㌧ドックを500㌧に延長するよう、下田船渠に
要請。両社交渉の結果、澤村社長は新会社を設立することとなる。
  1. ドック拡張資金は東京湾汽船が負担する。
  2. 残存賃貸借期間は契約を解除する。
  3. 新会社は一貫作業の造船業者となる。
  4. 新会社は下田船渠株式会社(旧)のドックを引取り、澤村造船所を無償で継承する。
1925(T14).09.22下田船渠株式会社(新)設立。社長に澤村久右衛門(二代)就任。

この経過に建造船を当て嵌めると、「尾張丸」は初代久右衛門、「西豆丸」以降は二代久右
衛門の経営する澤村造船所となる。下田における建造船に次の事項は関係する。
1915(T04).09  月島工場最後の建造船「静岡丸」進水。
1923(T12).09.01 関東大震災にて月島工場全焼。
東京湾汽船による要請は、借受けた船渠が手狭になったこともあるが、関東大震災による月
島工場の被災、鋼船への切替え、体制のスリム化等、様々な要因が推測される。



「賀茂丸」は『明細書』に「東京湾汽船造船部」建造とあり、『Lloyd's Register』も同様。
畏友T.I氏とは、「下田船渠(旧)より借受けた船渠にて、月島工場で培った技術力をもって
自社建造した船」と話し合っている。当時の下田船渠(旧)は施設の所有者にあたり、建造
の当事者とはなり得ない。
この船名もOB氏の特定による。メモには船名と共に「昭和4年」と記されている。記録された
風景のどこかに、撮影年を特定する根拠があると思われる。今では、昭和初期の証言を得る
ことは難しくなった。当時の旅客部長氏にご仲介いただき、OB氏のお手を煩わせた。その頃、
社内には100年史刊行の機運があり、編纂に関係していたお一人と伺った。お名前を記して
おかなかったことが悔やまれる。



「賀茂丸」は1931(S06)に千葉伝蔵(函館)に売却された。『日本汽船名簿』(S13.06末現在)に
見る「賀茂丸」は貨物船となっている。『戦時船名録』によると、最後は日本製鉄の曳船と
なり、「42.2.9不明沈」とある。



波浮港における「清澄丸」。画像から船名を読み取れる。『件名録』には「SEICHO MARU」と
ある。姉妹船「TAIBUSA MARU」は鏡ヶ浦北縁の「大房岬」から、こちらは天津の後背地にあ
る「清澄山(キヨスミヤマ)」から採られたと思われる。山麓にある古刹「清澄寺」は「セイチョウジ」と
云う。『船名録』『レヂスター』は「き」の項に船名を記しているから「KIYOSUMI MARU」か。



「清澄丸」 前掲と同様、船名を読み取れる。同日と思われる。



船名は4~5文字のため、姉妹船「たいぶさ丸」と見られる。



「西豆丸」もOB氏の特定による。西伊豆の土肥港における記録。

月島工場の貨客船

2013-01-26 | 東京湾汽船
100周年(1989)の前と記憶にあるから約四半世紀ほど経過した。東海汽船OB氏に、絵葉書に記録され
た船名の特定をお願いした。
大正中期から昭和初期の発行と見られる伊豆大島の絵葉書には、古めかしい、似たスタイルの貨客船が
数多く記録されている。もとより船名の読み取れる画像はなく、メモとして付された紙には、「高砂丸」
「大正丸」「静岡丸」等の船名が記されていた。それら月島工場の建造した船影は未見のため、参考
としてメモを拝見した。
糧秣廠沖に停泊する「高砂丸」を見て、島側で同船を捉えた画像はないか、気になった。OB氏による
船名特定も、再検証してみる必要あり‥と思い至った。





「高砂丸」に良く似た船影は、あっけなく見つかった。四半世紀前、OB氏によって付されたメモは、
正鵠を得ていた。この、大島元村沖を捉えた画像の右手は初代「橘丸」。メモには左に見える船影に
「静岡丸」とあった。「静岡丸」は、月島工場最後の建造船となった船。上の「高砂丸」と対比すると、
とても似ていることに気付く。
この「静岡丸」とされた船影には、船橋楼にポールド2個がある。次の画像は国府津で捉えられたもの。
同じ船と思われる。共に後部オーニング?部分の巾が太い。





二枚目の波浮港で捉えられた船影は、船橋楼のポールドは2個であるが、第二甲板のポールドは1個と
なり、別船と判る。さらに、後部オーニング?部分の巾は細くなる。
月島工場建造貨客船と思われる5隻は、残された画像を見る限り、夫々特徴を備えている。相違点
から船名を探ることは困難か? 少しでも彼女らに近づくために、建造順に相違点を挙げてみたい。

                       綱具、3等舷窓、2等・3等(/室数)
高砂丸 15264、M45.07、171G/T、スループ、 16、   8/1、 95/4
大正丸 16315、T02.05、182G/T、スループ、 14、   6/1、 124/1
三宅丸 17034、T03.05、193G/T、無し、   8、   6/1、 62/3   →スループ
相模丸 17749、T03.11、178G/T、無し、   18、   6/1、 112/5   →スループ
静岡丸 18463、T04.09、194G/T、スクーナー、 13、   8/1、 96/4    →スループ
このデータは『汽船件名録8版』(T12.03)による。綱具は『船舶明細書』(S05.04)においては全船共
スループになっている。唯一、3等の舷窓数は手掛かりとなりそうだ。それにしても『汽船件名録』に
画像の無いことは惜しまれる。

数年前、上京された大島在住のU氏を島嶼会館にお訪ねし、お話を伺う機会を得た。長く行政職に
あり、地域のリーダーとして活躍された氏はこよなく船を愛し、話の端々には、大島航路船への愛着
が滲み出る。学徒出陣の際に乗船された「芙蓉丸」のことや、観光ブーム絶頂期に登場した「葵丸」
のこと等、お聞かせいただいた。また、「大正丸」「祝丸」二隻のポールドの周囲は、黄色く塗られて
いたと伺った。島の生活は船と共にあり、その船を、興味の対象として見ていた方の、昭和初期に
関する証言は、貴重かつ重要である。
黄色く塗られた理由は、識別を容易とするためか。外観の似た船がいたということになる。



この船影は月島工場スタイルであり、明らかに、船橋楼の腰より上は塗られている。前掲の波浮港の
画像とは、船尾のコンパニオンの形状に違いが見られる。
船名特定はおあずけとなるものの、1907(M40).5.25東京府と締結した「伊豆諸島定期航海契約書」
を遂行するため、月島工場において建造され、順次、伊豆諸島及び伊豆半島沿岸航路に投入され
た貨客船群が見えてきた。

M資金の海

2012-12-21 | 東京湾汽船
軍需物資として保管されていた膨大な貴金属や宝石類は、戦後、GHQによって接収され、戦後復興
や賠償金に充当されたと云う。それら財宝はGHQのMurcutt少佐が管理したことから「M資金」と呼ば
れ、後に数々の詐欺事件を惹起することになる。
1946(S21).04.06、越中島の陸軍糧秣廠付近の海中に沈められていた金、白金、銀のインゴット約6.5㌧
が米軍により発見、引揚げられた。
『追跡・M資金~東京湾金塊引揚げ事件』によると、「第四ドックに埋められた」「糧秣廠には物資
の積み下し、搬入の利便を考えて内堀があり、湾内に入って来る船が横づけされるように作られて
いた。ここは第四ドックと呼ばれ…」とある。gooの1947(S22)空中写真を見ると、大横川から糧秣廠
構内に向け、掘割が見える。第四ドックはここなのか。ただ、「湾内に入って来る船が横づけ」とは少
々大仰で、せいぜい「艀」と思われる。



糧秣廠付近に隠匿された貴金属の話は余りにリアルなことから、花の季節、大川端や石川島に出掛
けると、花を透かして眺める水中に、インゴットの幻を見るかのような気になってしまう。隅田川派流に
浮ぶ「晴海屋」の後方は相生橋北詰あたり。糧秣廠跡はその左手側となる。
「晴海屋」136711、37G/T、FRP、1994(H6).12、タカギ
木造和船を模した小型客船“屋形船”は、ここ数年間で精力的に記録したものの、主体はJCI船の
ため、未だ、全貌は掴めない。このスタイルは東京湾内独特で、様々なバリエーションを確認している。伊勢
湾方面の造船所の手掛けた船が多い。



東京湾汽船~東海汽船に「高砂丸」は二隻在籍した。この初代「高砂丸」は、糧秣廠を記録した絵
葉書の一枚に写し込まれている。発行は「陸軍糧秣本廠」、キャプションには「隅田川ヨリ全景ヲ望ム」
とある。船首部から操舵室付近までなのは、鮮明な画像だけに惜しいところ。東京湾汽船月島工
場による建造船の一隻。
「高砂丸」15264 / MBDL、171G/T、木、1912(M45).07、月島工場
『100年史』をベースに『件名録』『船名録』にて補正すると、月島工場建造船は14隻。外輪船「愉快丸」
や不登簿の発動機船「明石丸」を除外すると、主に前半は客船型を、後半は貨客船型を建造している。
1907(M40).05.25、東京湾汽船と東京府は「伊豆諸島定期航海契約書」を締結し、東京府の命令に
より、東京を起点に、1. 三宅島線、2. 神津島線、3. 御蔵島線、4. 大島線を開設した。
社史には「(M38の倍額増資により)競争会社の船を購入し、39年12月には祝丸(200屯)が浦賀船渠
で竣工して御蔵島航路に初航海を行い、ここに東京府や各島の期待に応え得る当社の体制も徐々に
整っていった」とある。在籍期間表を確認すると、貨客船型5隻は1912(M45)~1915(T4)にかけて登場し、
老朽化した買収船を置換えた。離島航路の充実を図るため次々に建造されたと見られる。