津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

関東大震災と「扇海丸」

2023-07-16 | 日記
本年は、関東大震災から100周年目にあたる。都心の西郊を南北に走る山手通り(環状6号)沿いのエリアは、関東大震災や
東京大空襲の被災者が移転し、急速に市街地化された地域。東京都作成の『総合危険度ランク』図で、都心をドーナツ状に
囲む災害危険度の高い地域は、木密地域(木造住宅密集地域)に重なり、災害に強い街作りが急がれている。
また、東京の「山の手」は、中小河川が台地(下末吉面や武蔵野面)を開析し、起伏に富んだ地形をしている。裏通りを彷徨
うと、しばしば、廃レンガ塊を積んだ擁壁に行き当たる。震災や空襲で壊滅した都心部のがれき撤去と、急ごしらえの宅地造
成に、倒壊した建物のレンガ塊を再利用したものだろう。安山岩や花崗岩を加工したケンチ石を用いず、廃レンガ・コンクリ
ート塊を用いた擁壁積みを「ガンタ積み」と言い、地元を中心として、東中野、笹塚、下北沢、代々木上原のそこかしこに、
点々と残っている。
ガンタ積み擁壁に行き当たると、レンガを焼いた窯の「刻印」を探し、記録している。つい先日も、再開発により、廃レンガ
塊を用いた擁壁が消滅した。そこは、「日本煉瓦製造会社」(深谷市)製造を示す「上敷免製」という刻印を、読み取れる場
所であった。考えようによっては、100年前の災害廃材再生品が、よくぞ、残っていたものである。



関東大震災を記録した絵葉書も、多数、発行されている。震災直後に、大阪で刷られた新聞紙面には、関東大震災の絵葉書販
売の広告が見える。「報道絵葉書」の最たるものと言えよう。大火による広大な焼跡や、崩れた凌雲閣。焼けてフレームだけ
になった路面電車。駅に集中する人々や、夥しい焼死体まで、絵葉書になっている。キャプションは手書きで、印刷・発行を
急いだと判る。日露戦争戦勝を契機とした絵葉書ブームがなければ、現在の私たちは、カメラが一般に普及していなかった時
代の覗き窓を、持たなかったろう。
東京港に来港した救援船も記録され、四隻を確認した。内、二隻は大阪商船の煙突マーク、もう一隻は「鉄道省」のように見
える。印刷は荒く、船名は潰れて読み取れない。これら汽船の船名は、一体、何だろうか。

関東大震災直後、大阪港から救援物資を海上輸送した「扇海丸」については、山田廸生氏が「ラメール」誌の「名船発掘」で紹
介され、日本クルーズ&フェリー学会のアーカイブで読むことができる。「扇海丸」の船歴やエピソードは、とても興味深い。
山田氏は、関東大震災と阪神大震災の史実から、港湾都市が被災した場合、船舶による海上輸送が強力であると結ばれている。

関東大震災当時の東京港の様子を、『東京港史』(S37刊)は次のように記している。

当時の東京港は港湾修築の消極性がわざわいして、港湾施設が貧弱で、本船接岸設備は皆無であり、わずかに芝浦方面に
日之出桟橋が存在していたのみであった。このため、千トン乃至二千トン級の救援船が、芝浦沖の狭あいな航路に危険を
冒して入港し、満潮を利用して碇泊し、干潮時には待避しながら、多数の船舶が非常荷役を強行した。この有様が東京に
港湾施設整備の必要性を痛感させる動機となった。


震災発生時は、東京に本船接岸施設は皆無であった。かろうじて、現在の日の出ふ頭の位置に、「亀腹」と呼ばれる小型船用物
揚げ場があった。救援物資の荷揚げ時の絵葉書で、汽船は接岸しているように見えても、よく見ると、艀や筏を船体と陸岸の間
に挟んでいる。北海道庁の物資輸送要項には「汽船は吃水16尺以下とす」とある。換算すると「3.636m」でしかない。
また、雑誌『港湾』には、「芝浦地先....澪筋水路は僅かに十六、七尺に過ぎずして極めて少数の船舶の外は陸揚場近く係留
することを得ず、遠きは芝浦より六、七海哩、近きも三、四海哩の羽田沖に在り」と記録されている。当時の港湾設備の状況や、
芝浦で撮影された汽船が1000G/T内外の理由も、理解できよう。岸に近づき、荷役を行ったのは「極めて少数の船舶」でしかなか
った事を念頭に、関東大震災を記録した絵葉書から、汽船を捉えたものを見てみたい。



大阪商船の煙突マークを付けた汽船は、二隻記録されている。二隻はとてもよく似ている。船名は潰れているが、左側が「扇海丸」
である。凹甲板部分に「扇海丸」はブルワークを備えるが、右側の船はハンドレールである。







最初に掲げたのは、『播磨造船所50年史』に掲載されている「扇海丸」の船影。凹甲板部にブルワークの付くことが判る。
下が東京港における扇海丸の荷揚げ風景である。船尾の船名は潰れているが、中央の文字は、輪郭から「海」と見える。
『キャパシティプラン集』からも、写真は同船と確認できるが、船名の読み取れる、鮮明な写真の発見が待たれる。
関西から関東へ向かった救援第一船は、大阪商船「志かご丸」。神戸港に停泊していた同船を大阪港へ回航し、救援品を積込み、大
阪発2日午後2時であった(午後3時の記録もある)。同船は、翌3日午後9時半に横浜港外へ投錨した。
時間的に第二船となるのは、神戸港に停泊中の日本郵船「山城丸」。2日午後4時に抜錨、全速力で東航し、翌3日夜、「救護第一船
として横浜港へ入港」と記録される。
大阪発の第二船(阪神発第三船)となった「扇海丸」は、「折柄大阪にて、芝浦行荷物積載中なりし」という状況であった。同船は、
大正12年8月10日に大阪商船が開設した東京九州線に投入されていた。救援米や缶詰等340噸を積み、2日午後6時に大阪を発ち、芝浦
へ直航。翌々日の4日夕刻、第一船として芝浦へ入港した。同船事務長によると、救援品を荷揚げしようにも、東京港には艀船も荷役
人夫もなく、当惑した本船側は、付近から木材を集めて筏に組んで艀に代え、在郷軍人や青年団の手により、荷役作業を行った。定期
航路船として、三角港で東京港向けに積載した米2,500噸は、内務省によって徴発された。東京湾内は重油の海と化していて、少々の
風浪では海水面が見えず、芝浦付近は硫黄臭が強かったと、証言している。災害時の「匂い」の記録は、なかなか伝わらない。
「扇海丸」は予定より一日早く、12日午前10時、被災者174名を乗せ、大阪港へ戻った。以上のことから、「扇海丸」が芝浦に在港し
たのは、4日夕刻から10日正午までの間であると判った。



この大阪商船の貨物船は不明。当初、「扇海丸」と同一船と考えていたが、よく見ると、前述したとおり、ブルワークや船橋部の形状
が異なっている。本船と陸岸の間に、船尾が円形の艀を挟み、避難民を乗船させている。
この写真が撮られた時、芝浦には最低三隻の汽船が接岸していたと見られる。「扇海丸」の前方に見える大阪商船マークの煙突は、こ
の汽船か。救援物資輸送船記録と、『大阪商船事業参考書』借入船一覧表を対比しても、よくわからない。
さらにこの船の前方にも、塗り分けたフッドを備えた汽船が接岸している。





これは『大阪商船事業参考書』「大正12年上半期」(上)、「大正12年下半期」(下)の、期末現在借入船一覧表である。煙突マークを纏
っていることから、社船、もしくは借入船一覧表に記されている一隻とみられる。掲載船名をもとに、『キャパシティプラン集』から「ブルワ
ーク無し、船尾側1ハッチ、後部マスト船尾側」と絞っていくと、「津軽丸」が浮かんでくるが、この段階で、同船との断定は避けたい。



これは「津軽丸」のキャパシティプラン。



この汽船の煙突マークは、「工」に見えるが、鉄道省は橙色地に黒なので、白抜きのこのマークは、別会社であろうか。船名は三文字。
新聞記事には、鉄道省命令船として「三天丸」を大阪から東京へ差し向け、枕木材や杉板など、鉄道復旧資材を輸送したと記録される。
『キャパシティプラン集』から同船を確認したところ、三島型であり、写真の船とは異なると判った。



この船は、「第四犬島丸」と見られる。『東京港史』(S39刊)P159にも、船首部の入る写真が掲載されている。船名は潰れて不鮮明
ながら、かろうじて「第四」が判別でき、次の文字は「大」に見えるが、「犬」ではないか。大阪築港用石材運搬船として建造された
この汽船は、独特な船首形状を有する船尾機関型貨物船。震災当時は、雑賀繁松の所有。目を通した史料に、この船名は見い出せなか
った。記録には、「地方長官の徴発による物資輸送商船は続々品川湾に来着し、其の最も輻輳したる時は商船のみにて7、80隻を越え」
とある。しかし、『震災録』には、その数に対応する船名は、記録されていない。

改めて、明治期~大正期の東京築港史に触れてみるが、『東京港史第一巻(通史[総論])』(H6刊)には、前述の「亀腹」に係留される
「眞隆丸」の絵が掲載されている。この亀腹は、隅田川口改良第一期工事として、明治44年に竣工した。この工事を、東京築港とせず、
あえて隅田川口改良としたのも、「横浜への配慮」があったと云われている。
明治18年の「品海築港計画」も、大正9年の「東京築港大計画」も、大臣決裁や国の委員会段階で、必ず神奈川・横浜側の猛烈な反対運
動に遭っている。
救援物資荷揚げは、東京築港を前進させる契機となったが、震災発生3ヶ月前の大正12年6月7日、近海郵船の受命する東京府命令小笠原
航路「大隅丸」は、様々な困難を克服し、芝浦沖へ入津した。この小笠原航「大隅丸」の東京荷役が、救援物資荷役の先鞭を付けたこと
は、記憶に留めたい。
『東京港史第三巻(回顧)』(H6刊)に掲載の、元近海郵船社長伊藤正治氏の「黎明期の東京港の思い出」は、3ヶ月の時間の空白を埋
める、大変貴重な記録となっている。かくして東京港は、昭和16年5月20日、開港の日を迎えた。



この船影は、亀腹沖を霊岸島へ向かう東京湾汽船「保全丸」。キャプションには「竹芝館より見たる芝浦海岸の眺望」とある。明治末期
から大正初期にかけての光景。

ゴールデンウィーク中のある一日、自宅から東武野田線「運河駅」まで、約40㎞を歩いた。GoogleMapで歩行最短ルートを調べ、そのル
ートを軸に、気の向くままの徒歩行となった。目的の一つは、大宮台地最南端の安行台地。赤羽駅北方で下った武蔵野面を考えると、と
ても下末吉面とは思えない、沈降ぶりを実感する。途中、偶然渡った峯分橋は、趣ある朱塗りの橋だった。また、意識して初めて、元荒
川、古利根川、中川など、大宮台地東方を流れる大河川の、合流地点を眺めた。江戸川に架かる玉葉橋を渡って野田市域に入り、薫風に
吹かれながら運河沿いを散策、「通運丸」に思いを馳せた。8時間20分で運河駅に到達し、東武野田線10000系クハ11631に乗車。5000型
以来の野田線乗車であった。
頭から離れなかったのは、震災直後にこの付近で起きた福田村事件。香川県三豊郡を旅立った薬行商の一団は、9月6日、商いをしながら
この地域にさしかかったところ、福田村自警団に取り囲まれ、「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」というだけの理由で、15名中9名
が惨殺され、遺体は利根川に流された。
「扇海丸」が芝浦で、救援物資を荷揚げをしていた丁度その頃、東京の後背地で、このような事件が発生していた。

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ストンボ「金札」

2022-07-30 | 日記
三年前の2019年、品川駅の工事現場から、明治初期に築造された高輪築堤の一部が出現し、橋台部も見つかった。汐留
地区再開発の際にも、転車台や鉄道工場の遺構が発見され、ゆりかもめ車窓より、興味深く眺めた覚えがある。
明治の初め、鉄道開業前の東京横浜間・大阪神戸間に、蒸気船による航路が誕生した。前者では「稲川丸」「弘明丸」が
有名で、「シティ・オブ・エド」の汽罐爆発事故は、当時の人々に記憶された。この航路には、他にも鉄船「奮迅丸」も
使用された。この船は熊本藩の輸入した蒸気船の後身で、後に「徳島丸」を経て、廃船殻再生の上、「効鉄丸」に生まれ
変わった。この航路に使用された蒸気船は、1872(M5)年の新橋横浜間鉄道の開業後、東京湾内航路には転用されなかった
ようだ。

一方、大阪神戸間航路に就航した蒸気船の一部は、1874(M7)年の大阪神戸間鉄道の開業前から、瀬戸内各地に航路を延伸
させている。当初、蒸気船を所有・運航したのは、「藩」や我が国に進出した外国商社であり、藩船や外国商社所有船は、
次第に国内資本家の所有船となっていく。当時、「内航」に従事した外国商社船は、外国籍船として運航されている。

『日の丸船隊史話』には、次のとおり記される。
「フヒッツゼラルド・エンド・ストローム会社の建造した無事丸・芙蓉丸(90呎木造客船)は阪神の交通に用いら
れ、両地間を1時間45分で走り好評を博した。此阪神航路は右両船の後、金札丸、往返丸、ライジングサン、バール
ングの4隻(上海トンブリ所有)を輸入使用したと言う。」


神戸開港文書に収められている大坂通船の記録[1871(M4)年]を見ると、船名等は次のとおり。
年月は陰暦。辰=元年、巳=2年、午=3年、未=4年。
米国「ヲーヘンマル船」 90噸 テレシング 午12月16日入港
米国「キンサツ船」   20噸 テレシング 牛12月16日入港
米国「ライシングサン船」90噸 テレシング 未 正月2日入港
米国「バールング船」  60噸 テレシング 巳10月22日入港
孛国「コロン船」    24噸 キニッフル  →M4に大阪開商会社「起商丸」改名
福山藩「快鷹丸」    50噸 午2月より
新屋次郎助(兵庫町人)「鷲丸」50噸 午7月晦日入港
高鍋藩「千秌丸」       午閏10月10日入港
佐賀藩「秋芳丸」    58噸 午11月より
徳島藩「戊辰丸」    5噸  午12月24日入港
大坂開商会社「起商丸」 10噸 午12月27日入港   ←元キニッフル「コロン」
徳島藩「富商丸」    5噸  未 正月14日入港  →阿州徳島綿屋彦兵衛
鳥羽藩「飛燕丸」    20噸 未 正月20日入港  →志摩屋羽左衛門
播磨屋久兵衛「勢鷹丸」 20噸 未2月3日入港   →大坂町人播磨屋久之助
徳島藩「己巳丸」    18箇6合 未2月6日入港  →阿州徳島長尾最兵衛

テレシングは「テレジング商会(日支貿易商会)」、キニッフルは「クニフラー商会」とみられる。個人名ではない。
福山藩「快鷹丸」は、福山藩がレーマンハルトマン商社より購入した原名「アドレール」(鉄製)。輸入キットを組み立
てた、鉄船3隻中の一隻。但し、『明治18年汽船表』や『船名録』はハンブルグ製としている。
新屋次郎助(治郎助)「鷲丸」は、レーマンハルトマン商社より購入した原名「ハービート」で、「ヲーサカ」を経て
国内籍船「鷲丸」となった。この船は後に鉄船「大安丸」(太安丸とは別船)と改名、1880(M13)年頃抹消され、『明治
14年船名録』には掲載されない。輸入キット組み立ての、鉄船3隻中の一隻。
高鍋藩「千秌丸」は「千秋丸」の誤り。幕府運輸船とは別船である。本題から外れるので、以下数隻を端折りたい。
最後の徳島藩「己巳丸」は「己巳鵰」の誤りで、同船は後に「凌波丸」(船舶番号40)となった。この船は神戸で建造され
ている。

大阪神戸間に就航した蒸気船は、1874(M7)年の大阪神戸間鉄道の開業後も、阪神と瀬戸内海各地を結ぶ航路に就航し、
大阪の玄関口として、川口波止場の賑わいは続いた。
明治初期に撮影された大阪川口波止場の光景を、鶏卵写真から眺めてみたい。







蒸気船による航路の開設された頃の状況を、神戸、大阪両地の地誌は、次のとおり記している。

「貿易の開かるると共に、最も不備を感じたるは、交通運輸の機関なり。此に於て海上の運搬は、早くも従来の
檜垣船、樽船、猪牙船に加ふるに、汽船の航行を以てせんとする者出で来り、元年四月汽船「ストンチ」は、日
々午前八時に大阪に奔り、午後五時に大阪より来る。其目的とする所は、全く一般の旅客と、普通の貨物積載に
ありて私人営利の計画に出づ。 (略) 一般の旅客、普通の貨物が、汽船に由て兵庫大阪及び大阪横浜間に回
漕せられたるは、蓋し此時を以て嚆矢と為すなるべし。」

『神戸開港30年史』(明治31年5月刊)

「明治二年の春、米国商館「ワッチ」の所有船往返丸及び外人某の所有船「千里馬」は相共に大阪神戸間の運転
を始め、自己商館の物資を運搬する傍、商業的行為を以つて一般交通の旅客を搭載し、往返丸は安治川を遡行し
て旧安治川橋下流に碇繋せり、是れ大阪に於ける純然たる商船開始の濫觴にして、又、汽船が安治川を進航せし
嚆めなりとす、 (略) 明治三年に至りては徳島丸及び照天丸の二隻新たに摂津阿波間を航行し、阪神間には
己巳鳩(後、凌波と改称す)快鷹丸(福山藩船)通計丸、金札丸等の諸船前後して航業を開始し、早く巳に競争
の傾向を来たし、神速丸、勢鷹丸、鷲丸等亦相次いで現はれき、」

『大阪府誌』(明治34年刊)

運航開始時期や船名にに違いが見える。『神戸市史』は明治元年4月「汽船ノ阪神間航海開カル」としている。神戸側の
記録にある「ストンチ」は、明治6年に日本籍となった2噸2馬力の「ストンポーチ」なのか。それとも「スチームボート」
が転化したという「ストンボ」のことなのか。『神戸海運50年史』には、明治3年「ストンボ」運河丸が辨天浜に打ち上
げられた件が記されている。ここでは「ストンボ」は、船名ではなく総称のようだ。

橋本徳壽『日本木造船史話』は、次とおり記している。
「明治元年西暦1868年4月には、神戸大阪間に小蒸気船で、貨客運送を始めた者があった。また、同じ月に大阪
運上所の汽船浪速丸が大阪横浜間の飛脚船をはじめた。また6月には横須賀造船所の横須賀丸が旅客を専門とし
て、毎週3回横須賀横浜間の飛脚船をはじめた。また同じ年の8月には神奈川丸が横浜東京間の往復をはじめた。
これらの蒸気船を当時はストンボ(スチーム・ボートの訛り)と呼んで評判になり、錦絵の材料にもなった。」


「金札」という船名を読み取れる画像に接し、3枚目の鶏卵写真に見える小外輪船の船名が判明した。上甲板を外側に張り出
し、外輪部を外板より内側に設けているため、スッキリした外観である。その外輪覆部分に「船名額」と見られる板が取り付
けられているものの、読み取れない船名にもどかしい思いをしていた。判ってみると、確かに、文字の輪郭は「金札」と相似
だ。明治のごく初期、阪神間に就航したストンボ「金札(キンサツ)」の船影が特定された瞬間だった。







「金札(キンサツ)」の建造地は判らない。日支貿易商会が運航し、上海トンブリ所有という記録等から、建造地は上海なのか。
「金札」の係留される背後には、寄棟造の、テラスを持つ特徴的な建物がある。これは、鶏卵写真二枚目に見える建物と同じで、
大阪運上所構内に設けられたという川口傳信局。局舎内に、二名の人物が見える。
「金札」の船上にも、欧米人とみられる人物の姿がある。錨を格納する位置や、船楼甲板上のボートの向きから、左側が船首で
ある。人物の右上方、銭湯の「湯気抜窓」のようなところが操舵室か。キセル型ベンチレーターも付いている。要目表には1檣
とあり、鶏卵写真の右手船尾側に見えるマストは、背後の汽船のものと見られる。
同船は明治10年に米国テレジング商会より大阪の平尾喜平治(岡山出身)が購入し、「置郵丸」と改名。初めて日本籍となった。
丁度、西南戦争の時期にあたる。
しかし、改名(購入)から一年で、「置郵丸」は名簿から消滅する。当時、数少ない鉄船であり、船体寸法の似た船を後年の版
に捜したが、見当たらない。再び海外へ売却されたのか。はたまた、海難に遭って失われたのか。記録された要目は次のとおり。
置郵 鉄製 外輪船 馬力22.5 噸数51 長63.62尺 巾15.51尺 檣1本

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2隻の「電信丸」

2021-03-29 | 尼崎汽船部
電信丸については2012年に書いた。新たに判明した事柄を含め、改めて書き直してみたい。

「電信丸」という長寿船のことは、山田廸生氏が『船の雑誌』に書かれた「電信丸のこと」を読んで知った。二学年合同の小笠原中修学旅行の際、
竹橋の書店で求めた『船の雑誌』3冊は、帰路の椿丸船中で目を通した。
「電信丸」は明治初期における国内建造の鉄船で、驚くべき長命を保ったことや、その建造経緯は謎に包まれていること等、本当の面白さや海事史
上の位置を理解したのは、かなり後になってから。「電信丸」への興味は、汽船導入期への関心を深め、尼崎伊三郎・尼崎汽船部の史料調査へ繋が
っていった。
東京港で船の仕事に就いてから、「電信丸」建造の地とされる「築地波止場跡」を毎日望み、その都度、誕生の経緯の不思議を考えることになった。
しかし、なかなか「電信丸」は姿を見せてくれなかった。先頃ようやく、築地で建造された証拠史料を確認した。
史料を確認した翌朝、早めに自宅を出て、「はとば公園」に立ち寄り、この地で148年前に建造された「カーベ号」に思いを巡らせ、建造に従事し
たセヱシイル氏へ、「確かにここで造ったと、ようやく判ったよ」と語りかけた。





築地波止場の対岸は、東京湾汽船月島工場の跡地。また、波止場北側は川崎造船所発祥の地。

明治初期、船名の重複期間は無いものの、「電信丸」は2隻存在した。セヱシイル氏の建造した「電信丸(カーベ号)」は2隻目。先ず、1隻目の
「電信丸」から史料を追ってみたい。
最初の「電信丸」は工部省電信寮に所属した。『海底線百年の歩み』によると、本邦最初の海底線は、1872(M5).08関門海峡に敷設された。この
敷設には、蒸気船は使用されていない。敷設は、「団平船2艘を舫い、これに板を渡し、その上に海底線を積み込み・・(略)・・曳船として和船
10数艘を傭って、舫った2艘の団平船を曳かせ」て施工した。
敷設後、重錘取付箇所に障害が発生し、翌1873(M6).10に第2海底線を敷設した。施工は、弁天沖に埋没している太くて丈夫な浅海線を、莫大な労
力と時間をかけて取り出し、前回とほぼ同様に団平船3艘を舫い、これを小蒸気船「電信丸」に曳かせて行った。
一方、津軽海峡への海底線敷設工事は、大北電信会社に委託され、1974(M7).10竣工。工事に先立ち、1872(M5).12には、御雇外国人の電信丸船
長「エドワルト・ウィルソン・ハスウェル」等を派遣し、海底線敷設線路を測量した。「電信丸」も津軽海峡へ航海したとみられる。
同書巻末には海底線敷設船一覧が掲載され、その最上段に記載の「電信丸」は、工部省所属、「1872(M5).08~1874(M7).04/1年10月間稼働」
とある。この電信寮「電信丸」稼働期間中に、「カーベ号」は建造されている。



これは1896(M29).01.03撮影の「馬関海峡海底電線沈布之図」。大阪商船ファンネルマークの小型汽船が、「合いの子船」と共に写っている。船名は読み
取れない。「電信丸」を用いた敷設も、こんな光景だったろう。

政府は1870(M3)に東京~長崎間の電信線架設を決定し、技術者や機械物品を欧州に求めた際、電信寮「電信丸」は、欧州で建造されたと思われる。
5年後の1875(M8).02に、電信寮は「電信丸」を競売に付した。『横浜毎日新聞』掲載の広告は次のとおり。
  一 内仕掛蒸気船  一艘
       但 船号 電信丸
  一 馬力      80
  一 噸数     151
  一 端船三艘 其附属船具一式
船質に関する記載は無いものの、「電信丸」の馬力と噸数が明らかになった。セヱシイル建造「電信丸」とは、要目の異なる別船と判る。
その後、電信寮「電信丸」はどうなったか。大胆な推測をしてみたい。M9汽船表に掲載の「静岡丸」(1876(M9)に外国人から購入)の要目は、
それに近いと判った。
     競売広告   M9汽船表   M18汽船表   M20 船名録
船名   電信丸    静岡丸     静岡丸     静岡丸
船質   -      鉄       鉄       鉄
推進器  内仕掛    暗車     螺旋      -
馬力   80      75     名60 実240  公60
噸数   151     150     283.6     総457 登283
長    -      141.5    142.1     142
製造地  -      -      不明      蘇格蘭
製造年  -      -      不明      不詳

電信寮「電信丸」は外国人が落札し、1876(M9)茶商山崎彌七(静岡)に転売され、「静岡丸」と改名されたのではなかろうか。1881(M14)静隆
社の設立に際し、山崎は発起人の一人となり、「静岡丸」は同社所有となる。同船は横浜~清水に就航し、1886(M19).05「三浦丸」と観音崎沖
で衝突して失われた。因みに、『M20船名録』に記された建造地は「スコットランド」。

「電信丸」347 / HBLMは、『M26船名録』に1873(M6).02建造、製造地名「東京築地柳原町」、造船工長「セイガイ」、前名「コウベマル」と
記される。これまでは、このあたりまでしか判らなかった。
この「電信丸」は、M10汽船表に外国人からの買入船として初記載される。築地建造という『船名録』の記録と、一体どのように整合するのか、最
初は理解できなかった。
その後、「電信丸」について、山田廸生氏が『海事史研究74号』(2017.11)に研究を発表された。この論文により、1877(M10)、ドイツ商人キ
ニフルから「カーベ号」を購入した古野嘉三郎は「電信丸」と改名。その旗章を大阪府へ届け出たと、明らかになった。
この「届け出」年は、汽船表の「外国人からの買入」年と一致する。「電信丸」は建造から1877(M10)まで、日本籍に無かった。このことは、日
本籍にあった船を外国人が購入し、再度、日本人が購入した「静岡丸」のような場合、同様の扱いになったことだろう。

「カーベ号」に関し、新たな史料「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12083333200、東京地所貸借関係雑件(B-3-12-1-44)(外務省外交史料
館)」を確認した。この発見により、「電信丸」の前身「カーベ号」は、東京築地で建造されたという、確たる裏付けを得た。
1873(M6).05、「セヱシイル」は独逸国領事「ヱム・マリテン・ヘール」を通じ、「船打立」のため、築地税関所属地を借用したい旨を申し出た。
辨事局、考法局の協議を経て、東京府知事大久保一翁は、(業務に)「差支えの無い」税関波止場北側地所200坪を、6月より5ヶ月間、「船打立」
用として貸し出す旨の回答をした。地代は1ヶ月につき坪2銭5厘。竣工を10月頃として、借地期間を設定したと考えられる。
「カーベ号」の建造は、臨時的な借地であったことや、5ヶ月という建造期間から、大阪川崎新田で建造の3隻と同様、キット組立船と思われる。
旧石川島修船所跡地を借受けた平野富二は、1876(M9).10.30に石川島平野造船所を創立し、同所による鉄船建造は、1887(M20)軍艦「鳥海」が
最初であった。また、川崎正蔵は、「カーベ号」の建造された同じ地所(波止場北側)を借受け、川崎築地造船所を設けたのは1878(M11).05.06。
同所は閉鎖まで、鉄船を建造していない。



明治16年測量同19年製版同20年8月26日出版の参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図(第三号南東部)」を確認すると、川崎造船所の敷地に斜
路がある(着色は筆者)。三島康雄著『川崎正蔵の生涯』は、築地波止場の船溜りを「池」とし、この周囲に船台があったと推測されているが、船
台は斜路に設けられたと思われる。
1877(M10).03.15「カーベ号」は東京から神奈川へ寄港した。03.17付『横浜毎日新聞』は、ドイツ人所有「神戸丸」は、米人フラチア(?)氏を船将(船
長か?)として、「神戸へ売船に行く」と報じている。
同船は03.27神奈川を出港し、午後7時浦賀へ入港。同船の動向は、税関や海軍に怪しまれ、ドイツ国商人キニッフル所有「神戸号」として、偵察を
受けている。時は「西南の役」のただ中。「乗組員ごと、船を鹿児島へ売り渡すのではないか」との憶測もあったようだ。翌03.28午前8時、神戸へ
向けて浦賀を出港。この後、6月迄に古野嘉三郎が購入し、「電信丸」と改名した。

判る範囲で「電信丸」の改装・改造を記すと次のとおり。
 1888(M21)汽機換装(二連成2基)。
 1908(M41)汽機換装(三連成2基)。併せて船体延長。
 1934(S09)主機換装(日本発動機製焼玉機関1基)。
 1952(S27)主機換装(木下鉄工所製焼玉機関1基)。併せて船尾機関型改造。
 1953(S28)「甲栄丸」と改名。
 1957(S32) 行方不明となる。

「電信丸」は絵葉書にも記録されている。


安治川右岸の大阪中央卸売市場に、入船で接岸している姿。
1931(S06)開市場から1934(S09)主機換装までの間の記録。


今治港における記録で、日本発動機製焼玉機関へ換装後の姿。
「9.3.30今治築港竣工記念」という記念印のあることから、主機換装は1934(S09)年
の年明け早々であったと判った。(前年中に着工か。)


これは黒川裕直著『新居浜港を中心とした海事史話』から使用させていただいた。
船尾機関型改造後の姿で船名は「電信丸」。非常に貴重な記録である。
この改造にあたり、主機は木下鉄工所製に換装された。

あらためて、『日本近世造船史』から、鉄船に関する頁を見てみたい。

明治4年、新潟税関が、佐渡国夷港に於て建造したる新潟丸(長82尺、幅17尺、深6尺、総噸数64、公称馬力10)は、我国に於ける最初の
鉄船なるものの如し。然れども、同船は其設計を海外に仰ぎ、本邦に於ては、単に其組立を為したるに過ぎざりき。
同5年、大阪川崎新田に於て製造したる興讃丸(総噸数121、公称馬力17)は、普通貨客の運漕に従事する目的に出でたり。蓋し是れ内国鉄
製商船の嚆矢なりとす。
同6年、東京築地に於て神戸丸(後電信丸と改む、長118尺、幅18尺5、深14尺6、総噸数251)と称せし旅客汽船を建造し、大阪を基点とし、
瀬戸内海交通の用に供せり。本船は、鉄製なると、速力の軽快なりしとによりて、当時世人を驚嘆せしめたりと言ふ。
明治の初、「レーマン、ハートマン」商会は、独逸より小鉄製汽船三隻の船材を輸入し、大阪に於て之を組立て、「アドラー」「ワショー」
及「ペルリン」(後福山丸と改む)と命名せりと言う。
明治14年、阿波国徳島に於て、効鉄丸と名づけられたる108噸の鉄製汽船を製造せりと言う。爾来鉄船の製造せられたるものあるを聞かず。


「興讃丸」については、重複して記されている。「新潟丸」及び「アドラー(→快鷹丸)」「ワショー(→鷲丸)」「ペルリン(→興讃丸)」は、
鉄材を輸入した国内組立船。「ペルリン」の「福山丸」改名は、確認できなかった。1882(M15)青森県沖で遭難の「福山丸」は、横須賀造船所建
造の別船。また、「効鉄丸」は先に記したとおり、熊本藩「奮迅丸」の後身、「徳島丸」の船殻を流用再生したもので、国内建造の鉄船ではない。

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ある日の宇野港

2019-04-14 | 日記
1910(M43)年6月12日、岡山駅と宇野駅を結ぶ宇野線が開業した。宇野~高松航路は同日開設され「玉藻丸」「兒
島丸」を岡山(三蟠)~高松及び尾道~多度津航路から転用し、就航させた。



この絵葉書の光景は、宇野港の鉄道連絡桟橋を捉えたもので、「並行型浮桟橋」に着桟しているのは「兒島丸」。
左側の島影は葛島、右側の山塊は新浜造船所裏手の中山隧道のある山。この桟橋風景は、『鉄道連絡船細見』P75
の「A図」に一致する。撮影者の後方に宇野駅はある。同書によると、1910(M43).06~1924(T13).04の間の光景。
キャプションは「宇野築港と連絡船」としか記されていないものの、沖合には2隻の国鉄船の姿がある。新たに整
備された宇野港に、初めて入港した大型汽船と連絡船と絡め、意識して3隻を撮影したと思われる。
何と、沖合の2隻の汽船は「阪鶴丸」(左)と「第二阪鶴丸」(右)であり、これは1912(M45)年3月の光景と理
解した。



阪鶴丸 10154 / JWVF 775G/T、鋼、1906(M39).05、大阪鉄工所、187.0尺 [M45版]
                              「1尺」曲尺=0.3030303m



第二阪鶴丸 11081 / LFKS 864G/T、鋼、1908(M41).04、大阪鉄工所、187.6尺 [M45版]
                              「1尺」曲尺=0.3030303m

『宇高航路50年史』や『宇高連絡船78年の歩み』には、「阪鶴丸」姉妹の宇高航路助勤の経緯が記されている。
前者より引用する。

明治45年には金比羅宮三百年祭が大々的に催され、このため全国から集まる参拝客はあとをたたず、宇高
航路を通過する団体客は著しい数にのぼった。
この団体客を輸送するため、舞鶴から阪鶴丸・第二阪鶴丸の派遣を受け68回にもおよぶ臨時運航を行ない、
約6万人の団体客を輸送し、航路年間輸送量の4分の1強を占める実績をあげた。


この間の経緯を、鉄道院米子出張所の新聞広告や、『宇高航路50年史』『関釜連絡船史』『青函連絡船50年史』か
ら追ってみたい。

1912(M45)年2月29日に境~舞鶴航路は最終航を迎えた。鉄道院米子出張所による新聞広告は、紙面の破れや活字
潰れがあるものの、二月末日が最終航出港日と判る。

山陰線全通三月一日
濱坂香住間運輸営業開始
仝日ヨリ出雲今市京都間ヲ山陰線ト改稱シ大阪京都ヨリ直通列車ヲ運轉シ各等客車ヲ連結致候尚仝●ニ
阪鶴線、播但線及舞鶴宮津間、舞鶴小濱間連絡汽船●●改正又●來境舞鶴間ニ●航シタル連絡汽船ハ二
月末日限リ廃止致候
詳細ノ時刻ハ各停車場ニ掲示●之候
鉄道院米子出張所


1912(M45).02.25 「第二阪鶴丸」宇野港へ回着。
      02.27 「第二阪鶴丸」宇高航路に助勤。03.20まで。
      03.18 「阪鶴丸」宇野港へ回着。
      03.21 「阪鶴丸」宇高航路に助勤。04月末日まで。
      04.08 「第二阪鶴丸」貨物船として関釜航路に就航する。05.27まで。
      06.05 「第二阪鶴丸」青函航路に就航する。1914(T03).07.25まで。
      07.- 「阪鶴丸」阿波国共同汽船へ売却される。1916(T05).11沈没。
1914(T03).07.- 「第二阪鶴丸」阿波国共同汽船へ売却される。1916(T05).01「第十八共同丸」と改名。

この経緯から、宇野港における記録は「第二阪鶴丸」就航中のところへ「阪鶴丸」が到着した1912(M45)年3月18日
から、二日後の20日までの間と判った。風景を捉えた100年以上前の絵葉書から、撮影日を数日間に絞ることができ
るのは、とても珍しいこと。
もう一点。これは記されていないことだが、境~舞鶴航路の終末期は「阪鶴丸」1隻体制であったと判った。

以前、『「阪鶴丸」のその後』の中で、「阪鶴丸」の総トン数の変化から、改造を1910(M43)年中と記した。「阪鶴
丸」改造後の鮮明画像を掲載する『山陰線写真帖』を手にしたので、前後を対比する。改造前の通路は、カンバスを
張り、飛沫の打ち込みを防いでいるように見える。





改造前の「阪鶴丸」





改造後の「阪鶴丸」

当時より、境水道は埋立てられていると思われるが、ストリートビューで確認すると、阪鶴丸の桟橋は、山の重なり具合
や稜線から、現「境港駅」付近とみられる。

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観光航路への転換

2018-10-29 | 東京湾汽船
1927(S2)年12月15日開催の東京湾汽船臨時株主総会において、渡辺六郎社長、稲木重俊常務は辞任し、代って
中島久万吉社長、林甚之丞常務が就任した。経営陣の交代により、観光事業を中心に据えた「客主貨従」方針が
打ち出され、併せて老朽船整理や月島工場閉鎖を決定した。4月開催の役員会において、9隻3800トンの新造計画や
29隻体制の配船計画、及び大島・下田の観光開発が決定された。これを「第一期拡張計画」といい、ローリングを行
いながら実施に移されることとなった。8月22日開催の役員会では、8隻の新造計画を承認し、具体案として発表
した。
8隻の新造船とは、「菊丸」「桐丸」「紅梅丸」「藤丸」「萩丸」「榊丸」「柏丸」「小桜丸」である。全てディー
ゼル船となり、船種は純客船、貨客船、貨物船にわたった。ただ、過渡期の故か、船尾の形状はクルーザースタンとカウンター
スタンに分かれる。
「松島丸」の項で記したとおり、改革は短期の内に着手・実行された。在来船を改装した「櫻丸」「橘丸」の投
入から、フラッグシップとなった「菊丸」登場までの間、大島・下田航路はどのように変転したか、残された時刻表か
ら運航ダイヤを確認してみたい。



これは『1927(S2)年6月時刻表』に掲載された伊豆諸島航路時刻表。八丈島航路と沼津~神津島航路は省いてい
る。大正中期より、「東京発大島行(及び大島経由)」船便は、「1の日、3の日、5の日、8の日」というパターンで
設定されている。6月の東京出港日時は次のとおり。
 6/01.03.11.13.21.23(大島波浮行)20:00発
 6/05.15.25(神津島行)20:00発
 6/08.18.28(伊東行)20:00発
 6/11.27(三宅島行)20:00発
11日には、大島元村に寄港する船便二隻(波浮行と三宅島行)が同時出港している。
『伊豆大島の事情』(T06.11)によると、東京湾汽船の航路は「補助、協定航路を併せ一ヶ月約十二回乃至十三回
の交通あるに至つた」。観光航路化された後の大島航路の隆盛を考えると、1928(S3)年3月まで、旧態依然の運
航パターンであったことを不思議に思う。



大島下田航路の観光転換にあたり、当面、観光船としての使用可能な船は「櫻丸」「橘丸」だけであり、両船を
改装の上、白塗装化した。パンフレットによると、「船内設備を最も家族的に最も社交的に改むると共に、等級廃止と
運賃値下げに会社の利益を度外視する程のデモクラテイツクな改革を断行しました」とある。等級を廃止してモノク
ラスとし、新たに一室貸切の「特別室」を設けた。
これは大島元村沖に停泊する「櫻丸」(左)と「橘丸」。白塗装となった両船を投入した1928(S3)年4月ダイヤ改正
は、大島航路に「日航便」を設定するという、画期的なものであった。これまで、「日航便」という呼称を漠然
と捉えていたが、「毎日就航」を意味する。『読売新聞(S4.04.05)』は、日航初日を次のとおり報じている。

大島へ 日航の初旅 ~春二日の海遊び~
一日午前八時京橋霊岸島を離れた汽船橘丸(四〇〇噸)は私達一行を乗せて椿の香薫る伊豆大島に向つた。
東京湾汽船の東京大島間日航を開始した初航海である。薄曇の空模様は風に小雨を混へ城ヶ島沖に差かかつ
た頃から稍揺れたが豫定の如く午後二時過ぎ大島元村に着いた。
海岸には『祝日航』のアーチが設けられ小学生や青年団が国旗を振つて歓迎した。


このダイヤ改正以降、東京湾汽船は実に多くのパンフレット(時刻表)を製作し、配布・宣伝に務めた。まるで春
を待った花々が一斉に咲き誇るかのような、百花繚乱の様相となる。なかでも黄色い表紙の「東京湾汽船航路案
内」は、数回、改訂版が刷られた。時刻表には、特徴的な円形の日曜表が添えられている。





これが記念すべき1928(S3)年4月の運航ダイヤ。東京湾汽船の改革は、ここからスタートした。従来の運航スケジュール
と異なるのは、東京を毎日08:00に出港すること。
下り(毎日)
 東京 08:00発
 大島 14:30着、15:00発
 熱海 17:30着、17:50発
 網代 不定期寄港
 伊東 18:40着、18:50発
 八幡野 不定期寄港
 稲取 20:30着、20:40発
 下田 21:40着
上り(毎日)
 下田 07:30
 稲取 08:4008:50
 八幡野 不定期寄港
 伊東 10:3010:50
 網代 不定期寄港
 熱海 11:4012:10
 大島 14:4015:10
 東京 21:40



早速、4月10日にダイヤ改正を行っている。攝陽商船から「松島丸」を用船し、三隻体制化したのはこの時。改正の
相違点等は次のとおり。
① 往航復航とも伊東寄港を増やし、伊東の利便性を高めた。
② 毎土曜夜と祭日前夜に、大島行夜行便を設定した。
③ 日曜祭日に限り、東京発08時大島行を休航とした。
この改正ではパンフレットは刷られず、改正時刻表は紙貼りされ、夜行便の案内には赤色のスタンプを用いている。他のパ
ンフレットにも、同じスタンプが散見される。
下り(毎日。但し日曜祭日休航)
 東京 08:00発
 大島 14:00着、14:30発
 伊東 16:30着、16:40発
 熱海 17:20着、17:40発
 網代 不定期寄港
 伊東 18:20着、18:30発
 八幡野 不定期寄港
 稲取 20:10着、20:20発
 下田 21:20着
上り(毎日)
 下田 07:30着
 稲取 08:40着、08:50発
 八幡野 不定期寄港
 伊東 10:30着、10:40発
 網代 不定期寄港
 熱海 11:20着、12:05発
 伊東 12:45着、12:55発
 大島 14:55着、15:25発
 東京 21:20着
夜行便下り(毎土曜と祭日前日)
 東京 22:00発
 大島 04:00着
夜行便上り(毎日曜と祭日)
 大島 16:00発
 東京 22:00着



6月以降の日曜表が添えられた時刻表には、夜行便も印刷されている。時刻等に変化なし。

次に行われた改正は10月1日であった。改正年月は『鉄道時刻表』から確認した。10月1日改正ダイヤを掲載した「南
豆温泉巡り」という、伊豆半島の温泉を紹介したパンフレットから読み解いてみた。





10月1日改正で運航ダイヤは激変し、伊豆半島観光に重点を置いたものとなった。「櫻丸」「橘丸」を用いた直行遊
覧船は週3便の設定で、東京~大島~下田~稲取~伊東~熱海~東京という、三角ルートに変更された。
このパンフレットでは「櫻丸」「橘丸」を「東京下田直行遊覧船」と記し、在来船を「東京大島間普通船」としている。
相違点等は次のとおり。
① 東京下田直行遊覧船は、毎週月水土21:30発(夜行)となった。
② 直行遊覧船の大島寄港は、往航(下り)のみとなった。
③ 大島行普通船は火木金日に設定され、辛うじて「日航」を確保した。
④ 大島から東京への復航(上り)は、普通船の水木土日のみとなった。
④ 熱海における鉄道連絡の便を図るダイヤとなった。
下り(月水土)
 東京 21:30発
 大島 04:30着、05:00発
 下田 07:30着
上り(火木日)
 下田 16:30発
 稲取 17:50発
 伊東 19:45発
 熱海 20:30着、21:00発
 東京 04:30着
このダイヤ改正による東京~大島~下田航路(週3便)は一隻運用でこと足り、もう一隻は熱海~下田(毎日)に充
当し、伊豆半島東岸の温泉地へのサービスを厚くしている。
熱海下田航路(毎日)
 下田 08:00発
 河津 08:55発
 稲取 09:25発
 八幡野 10:10発
 伊東 11:25発
 網代 11:55発
 熱海 12:15着、12:30発
 伊東 13:20着、13:30発
 熱海 14:20着、15:40発
 網代 15:55発
 伊東 16:25発
 八幡野 17:40発
 稲取 18:15発
 河津 18:45発
 下田 19:30着
因みに、熱海への鉄道延伸は人車鉄道、軽便鉄道を経て、国有鉄道延伸による熱海駅開業は1925(T14)年3月25日。
熱海電化開業は1928(S3)年2月5日であった。



昭和4年1月以降の日曜表の添えられたパンフレットは、不思議なものであった。本印刷の時刻表の上には、昭和4年1月
改正という貼紙がされている。その、貼紙下の本印刷がこの画像。
大島航路の時刻表のため、赤字で記された「遊覧船(櫻丸、橘丸)」は、往航しか記されていない。欄外には、注
意書として「東京発毎週月水土の大島経由下田行きの復航は大島を経由せず」とある。
当初、この時刻表の意味するところが理解できなかったが、10月1日改正ダイヤと判った。このパンフレットを刷った時点
において、年明け後も10月1日改正ダイヤの使用を計画していたのだろう。急遽、4年1月改正ダイヤを貼紙し、配布し
たものと判った。



昭和4年1月改正ダイヤは、後の東京~大島~下田航路の基本を確立した。集客の季節変動を織り込みつつ、航路やダイ
ヤを設定した試行錯誤の結果であろう。相違点等は次のとおり。
① 大島下田直行遊覧船は、往復とも東京~大島~下田となった。
② 大島行下りは「日航」を確保したが、東京行上りは火水木土日の5日。
③ 熱海下田航路の改変は無く、「櫻丸」「橘丸」を投入したと見られる。
下り(月水土)
 東京 21:30発
 大島 04:30着、05:00発
 下田 07:30着
上り(火木日)
 下田 12:00発
 大島 14:30着、15:00発
 東京 21:30着



昭和4年4月11日改正ダイヤを掲載したパンフレットは、東京下田直航遊覧船を「純客船」と表示している。若干の時刻改
正が行われている。
欄外の東京下田直航遊覧船出港日の下に、赤文字で「七月一日ヨリ毎日出帆」とある。また、「東京大島貨客船発
着時刻東京毎日午前八時出帆」と記されるとおり、大島行貨客船が日航化され、8時出港になった。
下り(純客船。月水土)
 東京 21:30発
 大島 04:30着、05:00発
 下田 07:30着
上り(純客船。火木日)
 下田 12:00発
 大島 14:30着、15:00発
 東京 21:00着
熱海下田航路(純客船。毎日)
 下田 08:00発
 河津 08:55発
 稲取 09:25発
 八幡野 10:10発
 伊東 11:25発
 網代 11:55発
 熱海 12:15着、12:30発
 伊東 13:20着、13:30発
 熱海 14:20着、14:40発
 網代 14:55発
 伊東 15:25発
 八幡野 16:40発
 稲取 17:15発
 河津 17:45発
 下田 18:30着



「菊丸」の登場した1929(S4)年7月パンフレットは、東京湾近海の海水浴場を紹介す内容で、初めての左書きパンフレットと
なった。7月1日改正ダイヤの相違点等は次のとおり。
① 東京~大島~下田航路は毎日一往復となった。
② 使用船は「菊丸」と「櫻丸」に限定。
③ 7月10日~8月末日まで、富岡海水浴場行き納涼遊覧船を運航。
東京より(毎日)
 東京 21:30発
 大島 04:30着、05:00発
 下田 07:30着
下田より(毎日)
 下田 12:00発
 大島 14:30着、15:00発
 東京 21:30着
納涼遊覧船(07/10~08/31)
 東京 12:30発
 富岡 14:30着、17:00発
 東京 19:00着



菊丸 34534 / TSPD 756G/T、鋼、1929(S4).04、三菱造船(神戸)、180.1ft(呎)[S05版]
これは『三菱造船神戸造船所製品カタログ』に掲載の「菊丸」の画像。続いて改装前の「櫻丸」「橘丸」。[ ]内は
初出船名録。



櫻丸 28874 / SLCH 397G/T、鋼、1922(T11).05、浦賀船渠(浦賀)、145.0ft(呎)[T12版]



橘丸 29428 / SNBL 392G/T、鋼、1923(T12).05、大阪鉄工所(大阪)、145.0ft(呎)[T13版]
toshi@maru氏に史料のご協力をいただきました。お礼申し上げます。

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「松島丸」のこと

2018-06-10 | 東京湾汽船
1889(M22).11.15創立の東海汽船(もと東京湾汽船)は、来年、130周年を迎える。同社は時代の変化や社会の要
請に呼応し、その都度、内部改革や船隊整備を行っている。東京に本拠を置き、首都圏を集客地とする東海汽船の
動きはダイナミックであり、その歴史は興味深い。今回は、社史を読んで船名の判明した、古絵葉書に記録された汽船
のことを記したい。





これは、40年位前にアベノスタンプで購入した絵葉書。記録された小型汽船の船名は、残念ながら読み取れない。右側
のキャプションには「大島観光記念」とあり、左下に「明治製菓写真班撮影」とある。裏面には、明治製菓の社章と社
名が印刷されている。市販された絵葉書では無いようだ。ほぼ中央に捉えられている船影は小さく、印刷も粗い。
史料価値は無かろうと、一度は流してしまった。ただ、キャプションの「大島」が気になり、再び探し出して購入した。
大正後期から昭和初期の頃、東京湾汽船のフラッグシップは「櫻丸」「橘丸」であり、このようなスタイルの汽船は在籍して
いないことも、首を傾げた理由であった。

第一次大戦の戦後不況や、震災復興に係る不良債権の増加により金融不安の広がるなか、「東京渡辺銀行が破綻し
た」という片岡蔵相の失言(1927(S2).03.14)により金融恐慌が発生し、東京渡辺銀行は破綻した。同行より役員
を迎え入れていた東京湾汽船は、経営陣の刷新を行う必要に迫られ、1927(S2).12.15開催の臨時株主総会において、
中島久萬吉取締役社長、林甚之丞常務取締役体勢となった。中島・林体勢のもと、東京湾汽船は短期間に大改革を
断行する。

社史によると、海運界に初めて身を置いた林甚之丞常務は、大阪商船紀州航路の乗船・視察から行動を開始した。
当時のパンフレット等から、恐らく勝浦急行線の新鋭船「那智丸」「牟婁丸」に乗船したと思われる。旅程等は記録さ
れてないが、1927(S2)年12月後半の、歳末に旅している。
林常務は、続いて年明け早々の1月2日から5日にかけ、「橘丸」に乗船した。社史によると、視察は「会社創立40
周年(1929=S4)を間もなく迎えるに当たって、会社無限の資財たる300万府民を対象に会社の営業方針の転換を
胸中に納め」ての視察で、「下田、大島、熱海、伊東、三崎、館山等を視察して大いに感ずるものを得た。とりわ
け大島では胸中の意を強くした」という。

二回の視察により打ち出されたのが、いわゆる「貨主客従」から「客主貨従」への経営方針の転換であった。航路
の見直しと共に、老朽船処分、新船計画、月島工場廃止等を行い、当面の策として「櫻丸」「橘丸」を純客船へ改
装した。白塗装となった両船は、4月1日から大島・伊豆航路に投入された。
改正直前の、1928(S3)03時刻表は確認出来ないものの、1927(S2).01時刻表から東京発大島行きを見ると、次の
とおり。月間13便設定され、全便とも東京霊岸島発20時(午後8時)となっている。(数字は出港日)
東京→大島各港(波浮行)01、03、11、13、21、23
東京→大島各港→神津島行05、25
東京→大島各港→伊東行08、18、28
東京→大島元村→三宅島行11、27

改装成った「櫻丸」「橘丸」を投入した1928(S3).04.01ダイヤは、実に画期的であった。パンフレット等によると、大島
経由下田行き観光便は毎日出港となった。具体的には、往航は東京霊岸島午前8時発、復航は下田午前7時30分発と
いうもの。寄港地は、「東京~大島~熱海~網代(不定期寄港)~伊東~八幡野(不定期寄港)~稲取~下田」。
パンフレットには「東京下田間の毎日定期(両地より発航)」「会社の優秀船たる『さくら』『たちばな』の姉妹船を
此航路に向け、しかも船内の設備を最も家族的に最も社交的に改むると共に、等級廃止と運賃値下げに会社の利益
を度外視する程のデモクラティックな改革を断行」とある。
国府津より延伸した国鉄熱海線の熱海駅は、1925(T14).03に開業している。当初ダイヤの熱海港発着時刻は「下り下
田向け17:50発」「上り下田より11:40着」と設定され、下田への乗船客は、熱海集客を目論んだと見られる。
早くも4月10日にダイヤ改正を行い、毎土曜夜と祭日前夜に、東京22時発大島行特別夜航を増発した。ただし、日曜
祝日の午前8時発大島行は休航となる。
1928(S3).04.01ダイヤ改正から翌年07.01「菊丸」投入までの間、非常に多くのパンフレットが配布され、刻々変化する
運航ダイヤを知ることが出来る。ただ、この間の変化の経緯は省略する。
当時、「櫻丸」「橘丸」に見合う予備船は無く、毎日二隻でこのスケジュールをこなすには無理があり、社史によると
「攝陽汽船(ママ)から松島丸(約500噸)を用船」してこれを補った。大島観光航路開設当初は乗客数1日10人以下とい
う日もあり、宣伝に努めた結果、東京~大島への観光客は徐々に増え始めた。
1928(S3).08.22の役員会において、8隻の新造計画と、8隻の老朽船処分が決定たことから、用船「松島丸」は同
年9月に返船した。
返船理由は明確に記されないが、廃船予定一覧表によると、同船の経費は最も高額。また、集客も一段落したので
はないか。日付は不明だが、「櫻丸」「橘丸」限定の観光航路は「東京→大島→下田→半島沿岸→熱海→東京」と
変化し、大島寄港は往航のみとなった。さらに、観光便は東京発「月水土」の週3回となり、出港時刻も21:30とい
う夜行に戻った。「火木金日」にも大島行は設定されているものの、従来の波浮行、神津島行、伊東行を加えて毎
日就航とし、「松島丸」用船を解消した。東京湾汽船の「松島丸」用船は、5ヶ月ばかりであった。

大島で記録された船影は「松島丸」に相違ないと見られるものの、裏付けを得られないかと考えていた。資料に船
影を探したところ、不鮮明ながら、『鳴門市史』にそれらしい船影を見つけた。キャプションには「眉山丸」とあった。
しかし、この船影は「眉山丸」ではない。





画像を比較すると、ポールドの位置や船橋楼甲板のブルワーク形状などから、同一船と判る。『鳴門市史』は異なる船名
を記していても、攝陽商船(鳴門で記録)と東京湾汽船(大島で記録)を結びつける船名は「松島丸」しか無い。
この画像により裏付けを得られたと考えている。

「松島丸」は九州汽船の発注により建造され、『船名録T9版』から掲載される。
松島丸 25335 / RNCD 433G/T、木、1919(T8).05、中井亮作(熊本鬼池)、141.3ft(呎)[T09版]
1923(T12)新興汽船籍となり、1927(S2)攝陽商船へ売却された。『船名録S6版』に掲載されないことと、海員審
判記録にも船名は無いことから、1930(S5)解体抹消されたと見られる。攝陽商船へ売却されるまでの経緯を『九州
商船社史』から拾うと次のとおり。

1919(T08).05  九州汽船「肥州丸」として進水。
1919(T08).06  「松島丸」と改名。竣工後、長崎~玉之浦・福江~奈良尾航路に就航。
1923(T12).09  九州汽船は五島汽船と共同出資で新興汽船設立。
1923(T12).10  「松島丸」を新興汽船へ現物出資。
1925(T14).07  新興汽船解散。
1926(T15).04  「長福丸」が長崎~玉之浦航路に就航。
1926(T15/S01) 「松島丸」を攝陽商船へ売却。

長崎~下五島航路に投入された「松島丸」の攝陽商船売却は、「長福丸」就航による玉突きではなかろうか。

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由良川航路史をたどる

2018-03-04 | 日記
阪鶴鉄道の開設による日本海側鉄道連絡航路史は、本来なら「由良川水陸連絡航路」(以下「由良川航路」)から
記したかった。しかし、由良川航路の記録は少なく、記されていてもその内容は異なり、全貌は把握しがたい。
由良川で思い出されるのは、2004(H16).10.20に発生したバス水没事件。台風23号により増水した由良川の堤防が
決壊し、国道175号線を走行していた観光バスが巻き込まれた。乗客・乗務員37名はバス屋上に避難し、翌21日朝
になり、約10時間ぶりに全員無事に救出された。
洪水を起こす由良川も、渇水期の水量は少なく、航路上流側の汽船運航は、苦労したらしい。水量に応じ、汽船は
運航区間を変えたことから、その記録は統一を欠き、由良川航路史を判りにくくしている。
本稿で触れる期間は、由良川航路開始と記録される1901(M34).12.01から、福知山~舞鶴間の鉄道が開通し、由良
川航路の閉航された1904(M37).11.03までの経緯を主とし、さらに、早々に転用された「第二由良川丸」の、抹消
された1906(M39)某日までの経過である。
由良川航路閉航後、「第一由良川丸」が記録に現れるのは、1909(M42).08開設の宮津湾内航路に投入されたことの
み。翌1910(M43)に「旭丸」に代替された。1922(T11)の抹消に至るまで、その間以外の動向は判らない。



由良川航路と由良川丸2隻は、文献にどのように記録されたか、順に確認したい。『日本近世造船史』(1911)は、浅
吃水船の項に次のとおり記している。
第一由良川丸 阪鶴鉄道由良川上流
第二由良川丸 阪鶴鉄道由良川下流


『日本鉄道史』(1921)は、由良川航路開始日のみを記している。
34年12月1日ヨリ福知山由良間ニ由良川ニ依リ貨物運搬ノ為定期運航ヲ開始ス

『日本鉄道連絡船史』(1948)は、次のとおり記している。
(略)‥由良川の水運を利用して、宮津及び舞鶴方面との旅客並びに貨物の連絡運輸を企てることを決議
し、ここに傍系会社由良汽船商社を起し、大阪鉄工所にて浅喫水船第一、第二由良川丸を建造し、明治
34年12月よりこの水運連絡を開始した。‥(略)‥
福知駅(福知山)前より市内を貫流する由良川の川岸、蛇ケ鼻乗船場までは、旅客は人力車により貨物
は軽便軌道を敷設して手押車で運送し、蛇ケ鼻より国境を越え、丹後に入った最初の町、河守までは川
舟で、河守より由良まで、上流は第一由良川丸、下流は第二由良川丸によって輸送した。途中藤津に客
荷扱所を設け、同地より舞鶴方面と連絡し、又由良町よりは宮津方面に連絡した。これら連絡地点より
両方面へは人力車で旅客を送迎した。


『鉄道技術発達史』(1958)は、由良川水陸連絡航路を1902(M34).12開航、1904(M37).11.03閉航とした上で、次
のとおり記している。
阪鶴鉄道は大阪、舞鶴間の交通を目的として建設を開始したが、京都鉄道で建設中であった福知山・舞
鶴間の線路の工事が遅延して開通しないので、福知山を貫流する由良川の水運を利用して、宮津と舞鶴
方面との連絡を企図し、駅から川岸蛇ケ鼻乗船場までは、旅客を人力車で貨物をトロッコで運送した。
この水路は途中藤津で舞鶴方面と連絡し、終端由良町では宮津方面と連絡した。


『速水太郎伝』(1939)には、次のとおり記される。
翁(速水)の発案にかかり成功したものは明治34年3月福知山宮津間の水運を利用したことである。これ
が為め翁は連絡用の鉄船二隻を建造した。‥(略)‥由良川は源を丹波の大江山に発した急流で、水も深
いがまた處によると浅い砂利の水床が多く、これが為め随分途中困難をみたが、翁の熱心とその着眼の
よい創意によって、鉄製連絡船は見事に成功した。


由良川丸二隻は、1902(M35)の竣工時「速水太郎所有」として登簿された。速水の取締役就任は1904(M37).10であ
り、当時、「役付」ではなかった。
構想と現実との間で変転した、航路と二隻の船を、記録からたどってみよう。

1901(M34)年

舞鶴を目指す阪鶴鉄道は、速水太郎が中心となり、応急策として由良川航路を企画した。舟運事業は直営とせず傍系
会社を設立した。裏付けは得られないものの、由良川航路運航開始は『日本鉄道史』(1921)の記録から1901(M34).
12.01。当時、二隻の由良川丸は未登場で、貨物運搬を目的に、川舟を用いて福知山~由良間定期運航を開始した。
『速水太郎伝』にある1901(M34).03は、総会決議日か、傍系会社設立日ではなかろうか。これも裏付けは得られな
かった。
傍系会社名は、「由良汽船」「由良汽船商社」など、史料によって異なる。最も遡れる史料とその社名は『阪鶴鉄道
名所案内』(1902[M35].10刊)と業界紙の記す「由良船舶商社」が正確と考えている。

1902(M35)年

この年、由良川丸二隻の登場をみた。登場に先立つ03.01に「舞鶴福知山間の運輸」として、次の記事がある。
阪鶴鉄道にては大阪舞鶴間の運輸速達に付き由良川沿道鉄道線路の通ぜざる上流に曳船業を開始し鉄
道との連絡を図る筈にて福知山より藤瀬間に汽船二艘(一は喫水の浅きもの一は喫水の深きもの)を
浮べ福知山より河守までは喫水の浅きもの夫れより下流は喫水の深きものを使用することとし上流の
分は二十人乗、下流の分は四十人乗の鉄船とする計画


両船の登場経過を紙面より拾うと次のとおり。
05.08 大阪鉄工所にて「第一由良川丸」進水式。桜宮まで試運転。
 ?  貨車に積載し、由良川へ鉄道輸送。
06.01 河守由良間の航通を開始する。
 ?  大阪鉄工所にて「第二由良川丸」竣工。
06.03 尼崎へ廻航。
 ?  尼崎より由良川へ鉄道輸送。
07.22 福知山音無瀬川にて試運転。

先に記した『日本鉄道連絡船史』(1948)で特異なのは、福知山~河守間は川舟にて運航したとする点。しかし『福知
山鉄道管理局史』(1973)には、「福知山の音無瀬橋の桟橋から蒸気船は出た」という国鉄OB氏の証言も掲載される。
全期間を通じ、河守起点とはならなかった。
航路短縮の裏付けは、『大阪朝日新聞』(1902{M35}.06.10)から得られた。この時は「第二由良川丸」未登場で「第
一由良川丸」一隻の運航。それも運航開始直後の報道である。
阪鶴鉄道株式会社の企業に係る福知山、由良間の航通汽船はこの頃加佐郡河守、藤津間のみの航通に
止め福知山河守間は一時之を休止せしが今其原因を聞くに福知山河守間は其距離僅に三里許なれど中
間には数箇所の浅瀬ありて減水の時に至りては小舟だに航通困難にして設令之を浚渫し一時航通し得
るに至れども少量の出水にすら水勢を変更し到底浅瀬を防止し得ざるを以て其方法を案出するに至る
迄余儀なく事の茲に至りし次第なりといへり(八日発)


この記事から、1902(M35).06.08時点における「第一由良川丸」の運航は、河守~藤津間と判った。06.01に汽船運
航を開始した由良川航路は、順調なスタートとはならなかった。
『朝日新聞京都付録』(1902[M35].07.05)には、次の記事がある。
阪鶴馬車は由良川丸と競争せんと計画にて来る七日より再び宮津福知山間を通ひ賃金も二十銭余を低
減する由


記事にある「阪鶴馬車」は、阪鶴鉄道の傍系会社ではない。1900(M33).02に多紀三業、京都丸二運送店、三丹馬車
運送会社の三社協議により設立された「阪鶴馬車運輸」を指す。福知山から宮津や舞鶴へ向かう時、幾度も乗換えを
要する由良川航路より、鉄道終着駅から目的地へ直行する馬車の利便性は高かったと思われる。

田中敦著『「阪鶴鉄道唱歌」について』によると、同唱歌を収めた冊子は、1902(M35).11に発行された。田中氏は
「本件唱歌では、福知山で汽車を降り(39番)、人力車に乗って天津まで(41ないし44番)、さらに、天津から由良
まで川船(45番)、由良から宮津・天の橋立を経て舞鶴までは馬車と船(46番以降)を利用した唱歌となっている」
と記している。また、唱歌原稿の史料から、「本件唱歌は、構想が温められてから、三日間で一気に進められたこと
がうかがえる」とある。三日間とは、1902(M35).08.15~17を指す。
由良川航路は、運航開始直後は河守発着であったが、約二ヶ月後の8月には、河守より福知山に近い天津発着となった。

『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル概況』によると、1902(M35).09末における由良川航路は次のとおり。
由良川ニハ速水太郎ノ所有ニ係ルモノ二艘此総噸数35噸26アリ専ラ旅客ヲ搭載シ福知山、由良間ヲ往
復スルヲ目的トシ特ニ阪鶴鉄道ト聯絡ヲ結ヒ交通ノ便ヲ與フルモノノ如シ


福知山~由良間に使用される船舶は旅客船二隻とあり、合計の総トン数は35.26噸、一ケ月航海回数は120回とある。
使用船舶は次のとおり。
第一由良川丸 8.91噸 速水太郎 旅客 月間航海回数60回
第二由良川丸 26.35噸 速水太郎 旅客 月間航海回数60回


運航開始後、一時的に河守及び天津発着とした航路も、9月末には福知山発着となっている。しかし『近世造船史』に
記録されたような、上流、下流を二隻で分担する期間は半年も続かなかったと、後に引用する新聞記事から判った。

二隻の船影と、『船名録』に記録される建造年月と所有者・要目の変化を記しておく。
「長」は未換算の数値(1尺=0.3030303 m)。



第一由良川丸 (不登簿) 船質:木、1902(M35).04、建造地:大阪、43.20尺 [M36版]
  M36版 速水太郎 8G/T
  M37版~M40版 速水太郎 8G/T
  M41版 速水太郎 8G/T
  M42版 帝国鉄道庁 8G/T
  M43版 大蔵省 8G/T
  M44版~T10版 大蔵省 8G/T
  T11版 大蔵省 8G/T
  T12版 掲載なし(T11年中に抹消)
「第一由良川丸」は、最後に掲載された『船名録T11版』まで、不登簿船の項にある。変化は所有者のみ。ただ不思
議なことに『近世造船史』は「鋼船」としている船質が、『船名録』は「木」とある。船影は『近世造船史』に掲載
のもの。



第二由良川丸 8391 / JDFH 船質:鋼、1902(M35).07、建造:大阪鉄工所(福知山)、62.80尺 [M36版]
  M36版 速水太郎 双螺旋 26G/T
  M36付録 速水太郎 26→30G/T 「積量変更」の記載あり
  M37版 阪鶴鉄道 四螺旋 30G/T
  M38版 阪鶴鉄道 四螺旋 30G/T
  M39版 阪鶴鉄道 四螺旋 30G/T
  M40版 掲載無し(M39年中に抹消)
「第二由良川丸」は、建造地を福知山としている。これは、湖沼畔で再組立てされた船舶によくある例。船影は『大
阪鉄工所アルバム』に掲載のもの。

1903(M36)年

年初の新聞に「由良川汽船航路拡張」という記事が掲載されている。由良船舶商社には、従来の由良川航路の他、由
良舞鶴間の航路を開く計画があり、既に「第二由良川丸」の改造に着手し、一月上旬より運航を開始するというもの
(1.03付)。
また、続報として、由良より舞鶴及び餘部港までの新航路も開設し、「第一由良川丸(ママ)」を投入。1月19日に航海
式を行い、旧藩主牧野子爵邸において祝宴を開いたという(1.24付)。
由良から舞鶴・余部港へ、浅喫水船を転用した航路開設には無理があり、誤報と思われる。近い将来、沿岸航路を開
設する計画が、祝賀会において披露されたのだろう。いずれにせよ、前年1902(M35)暮、「第二由良川丸」改造は着
手され、転用する航路開設の祝賀会が開かれている。
続いて「阪鶴鉄道の連絡航路」と言う記事には、「第二由良川丸」の舞鶴軍港航海の件は、既に「其筋」より航行許
可を得て、1月26日から舞鶴商港(通称西舞鶴)より同軍港(通称東舞鶴)への航海営業を開始したとある。舞鶴軍
港の航行は、通常、鎮守府の許可を得るのに二日間位を要するが、「第二由良川丸」は、許可を得ているため45分に
て航行し、東西舞鶴間の航通に便利をもたらしたと報じている。福知山~西舞鶴間は、既に馬車による交通が開設さ
れていて、当分の間、「第二由良川丸」を東西舞鶴間の区間航海に充当し、一日三往復させるという(01.31付)。

「第二由良川丸」の改造は、一体、何を行ったのか。
『船名録M36付録』には「積量変更」と記載され、総噸数26→30、登簿噸数14→16と変化する。『船名録M36版』
(M35.12.31現在)と『船名録M37版』(M36.12.31現在)を確認すると、推進器は「双螺旋」から「四螺旋」へと変化
する。

『明治36年1月時刻表』の阪鶴鉄道広告頁に「舞鶴連絡汽船は福知山舞鶴間三時間にて達すべし」とある。福知山と
舞鶴又は宮津との間には、毎日数回、鉄道に接続して運航する汽船と馬車があり、切符は福知山駅待合所で販売する
旨を記している。舞鶴連絡汽船は、次の各列車に接続した。
下り 京都発07:45→福知山着12:54
上り 福知山発13:30→大阪着14:45

『福知山鉄道管理局史』(1973)は、「第二由良川丸」の舞鶴湾内定期航路(西舞鶴~平)に関し、1903(M36).09.26
付『阪鶴鉄道社報』に掲載の「運航時刻改定」に触れている。地図を確認したところ、「平」という地名は「西大浦」
と重なり、後に触れる「中田」も近い位置にある。

『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告第二回』(1903[M36].12末)は、速水太郎所有汽船が宮津敦賀沿岸(舞鶴
湾)及び由良川航路に就航するとあり、特に後者に関し、次のとおり記録している。
由良川筋ニハ速水太郎所有ニ係ル小汽船一艘アリ此総噸数8噸ニシテ福知山、由良間ヲ航通シ其目的
タルヤ阪鶴鉄道ト聯絡セシムルニアリテ常ニ旅客ノ交通及雑貨ノ運搬ニ従フモノトス然レトモ同航路
ハ水運ノ便ニ欠クル所アリ洪水又ハ減水ニ際會セハ臨時休航スルコトアリト云フ

「第一由良川丸」は「福知山~藤津~由良」間を月間30就航し、旅客6,409人を運んだ。摘要欄に「夏季洪水又ハ減
水ノトキハ休航スルコトアリ」と記される。別項の「河川航通汽船ノ概況」には、由良川航行汽船は「第一由良川丸」
一隻とし、次の記載がある。
汽船航通スルハ由良ヨリ福知山ニ至ル航程約九里十三丁ニシテ毎年夏季七、八月ノ交ハ河水涸渇シ最
浅一尺以下ニ及ヒ全区間半ハ航行シ難シ故ニ此場合ハ由良ヨリ上航シ得ル所マテニ止メ旅客ハ接続船
ヲ以テ福知山ヨリ下航セシム又之ニ反シ増水十尺ヲ越ユルトキハ橋梁等ニ支ヘラレ若クハ急流ノ為メ
休航アルヲ免カレスト云フ
右汽船(第一由良川丸)ハ由良ヲ起点トシ同地ヨリ上リハ約六時間福知山ヨリ下リハ約四時間ヲ以テ
各目的ニ達スルモノニシテ毎日一回往復セリ

また、「第二由良川丸」は「東舞鶴~西舞鶴」間を月間90就航し、旅客14,105人を運んでいる。鉄道連絡航路には当
たらないものの、由良船舶商社は「第二由良川丸」を用い、東舞鶴~西舞鶴航路を経営した。その航路は、いつの頃
からか、西舞鶴~中田航路と短縮された。

1904(M37)年

この年の記録は、『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告第三回』(1904[M37].12末)から確認するしか無い。
「第一由良川丸」は「福知山~天津~河守~藤津~由良」間に投入され、航海数は年間360回設定、旅客1,653人を運
んでいる。11月閉航にしては、旅客数は余りに少ない。備考欄に「37年6月25日ヨリ修繕中」とある。年末における
統計書という性格を考えると、「第一由良川丸」は、修繕中のまま閉航を迎えたと見られる。
「第二由良川丸」は「西舞鶴~長浜~浜村~中田」航路に使用され、航海数は年間1,008回設定、旅客13,311人を運
んでいる。こちらも、備考欄に「37年9月28日ヨリ修繕中」とある。「第二由良川丸」は、抹消された1906(M39)某
日まで、舞鶴湾航路に活躍したのだろうか。また、記録に現れない「第一由良川丸」も、一緒に使用されたのか。
1904(M37).11.03官設鉄道の福知山~綾部~新舞鶴(現:東舞鶴)が完成すると、阪鶴鉄道は開通区間を借受け、直
通運転を開始した。由良川航路は目的を達し、閉航された。
『速水太郎伝』(1939)は「見事に成功した」とする由良川航路も、新聞記事の表現を借りると「不成績に終わった」。

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瀬戸内海航路図絵

2018-01-08 | 日記
地形図にしろ住宅地図にしろ、地図を見ていると時の経つのを忘れる。カラフルな路線図には、特に弱い。幼い頃、
ぱたぱた折り畳める鉄道路線図を親から貰い、どこへ出掛けるにも持参していた。それは、日本列島を無理矢理変形
させて紙面に押し込み、色とりどりの国鉄路線を配し、情報として路線名や名所旧跡、民鉄路線も記されていた。当
初の地図はぼろぼろになり、それでも補強して眺めていたが、紛失してしまった。後に、少し後の時代の地図を入手
した。



当時、よく乗った70形の「スカ線」は、東京駅終着だった。しかし、横須賀線という路線は大船までということを、
この路線図から知った。運転系統名と路線名の違いである。東北本線を二回跨ぐ仙石線や、うねうね続く駅の多い飯
田線、九州や北海道の短い盲腸線の意味や歴史は、後になって理解した。
毎年発行される都営バス「みんくるガイド」は、日頃からバッグにしのばせている。三万二千分の一の地図に情報を詰
め込むため、路線の集中する地点では、道路幅は260mになってしまうあたりが面白い。

最も秀逸と思われる航路図は、大阪商船の「瀬戸内海航路図絵」。手許には青表紙版と赤表紙版の二種類があり、描
かれた航路も多少異なっている。何れも鳥瞰図絵師として名高い吉田初三郎の作品。航路図としての情報のみならず、
島々や名所旧跡も詳細に描かれ、その美しさは見飽きない。ただ、惜しむらくは印刷年の記されないこと。大正末期
と考えてはいたもののはっきりせず、この正月休みに時代考証してみた。参照したのは大阪商船『50年史』と『事業
参考書』。







青赤両版とも、表紙内側に「台湾航路大改善」として「蓬莱丸」の写真を掲げている。社史231Pには「十三年六月よ
り蓬莱丸、翌七月より扶桑丸を加え笠戸丸と共に就航せしめ‥(略)‥昭和二年四月笠戸丸の代りに瑞穂丸‥」とあり、
1924(T13).07から1927(S2).04という、ごく限られた期間と判った。
両者で大きく異なるのは、青表紙版に阿弗利加航路は無く、赤表紙版には記されていること。これも社史352Pには、
1926(T15).03阿弗利加東岸線を開始したとある。
また、青表紙版に無く、赤表紙版にある高雄大連線は、1926(T15).04に開始している。
青表紙版に記載の瓜哇盤谷線は1926(T15).03廃止されている。また、基隆新嘉坡線と表記される航路は南洋線(乙線)
は、1925(T14).05盤谷止めとなっている。
これらのことから、青表紙版は1924(T13).07から1925(T14).05の間、赤表紙版は1926(T15).04から1927(S2).04
の間と絞り込まれた。
ここまでは、遠洋・近海航路改廃年から検証を試みたが、この航路図絵の製作目的は瀬戸内海航路の案内。青赤両版
において最も異なるのは、燧灘と周防灘。黄色と茶色の航路が入れ替わっている。左側上下は青表紙版、右側上下は
赤表紙版を配し、対比してみたい。この航路図は、「南」を上、「北」を下、左手に大阪、右手に九州を描いている。





黄色と茶色の航路は、M41.03.02開設の「四国経過大阪門司線」を表している。『大正13年下半期事業参考書』には、
次のとおり記される。

甲便  神戸、高松、坂出、観音寺、川ノ江、三島、新居浜、西條、壬生川、今治、高浜、宇島  二隻
    隔日一回 高松ハ往航、坂出、宇島ハ復航ノミ寄港ス
乙便  神戸、高松、坂出、今治、北條、高浜、郡中  二隻
    隔日一回 高松ハ往航ノミ寄港シ毎航若松ニ延航ス           (大正13.12.31調)


左側上下の航路図は、甲便は黄色、乙便は茶色により、この当時の航路を描いている。『50年史』には、1924(T13).09
以降、甲便のみ三津浜に寄港したとある。このあたり、社史と事業参考書は矛盾するが、青表紙版の甲便(黄色)は三津
浜を結んでいる。当時の投入船は甲便(大阪発偶数日)は龍田川丸、緑川丸。乙便(大阪発奇数日)は高神丸、富士川丸。
社史によると、「四国経過大阪門司線」は1925(T14).04.18甲乙両便とも若松へ延航し、「大阪若松線」と改称された。
社史には記載されないが、大正15年上半期において航路改変が行われている。『大正15年上半期事業参考書』には「大阪
若松線」は次のとおり記される。

甲便  神戸、高松、坂出、観音寺、川ノ江、三島、新居浜、今治、北條、高浜、宇島、門司  二隻
    隔日一回 高松ハ往航、新居浜は復航ノミ寄港ス
乙便  神戸、高松、坂出、新居浜、西條、壬生川、今治、高浜、三津浜、郡中、門司  二隻
    隔日一回 高松ハ往航ノミ寄港ス                   (大正15.06.30調)


赤表紙版は、青表紙版に修正を加えたと見られる。大正15年上半期における航路改変により、用いられた色は反転し、甲便
は茶色、乙便は黄色となっている。社史によると、当時の投入船は、甲便は緑川丸、高神丸。乙便は富士川丸、利根川丸。

吉田初三郎描く「大阪商船瀬戸内海航路図絵」は、それぞれ次の年代と絞られた。
青表紙版:1924(T13)年9月~1925(T14)年5月の間。
赤表紙版:1926(T15)年4月~1927(S2)年4月の間。
あらためて、じっくり眺めた航路図は、誠に詳細に描き込まれていたと再認識した。青表紙版(左)の甲便(黄色)は、周
防灘においてトライアングルを描くが、これは事業参考書の但書を裏付け、また、赤表紙版(右)の新居浜沖における甲便(茶色)
も、また、同様である。



大阪商船の起点となった大阪港は、このように描かれている。大きな長円の中に「大阪商船會社」と記され、中央下の円
には「天保山桟橋」、右上には再び「大阪商船会社」とある。こちらは安治川口を表している。ぎっしりと描き込まれた
14本の航路は、同社の隆盛ぶりを誇示しているかに見える。その描かれ方は、「みんくるガイド」の江東区明治通りや、
王子付近の北本通りを思わせる。
本来なら、安治川口起点の航路を下側に描きたかったのではないか‥と思われる。しかし、交差する線が多くなることか
ら、このような描き方に落ち着いたのだろう。



昨年暮れ、この絵図に描かれている島にお住まいのI氏より、ご自身の栽培された「石地(いしじ)」というみかんをお送
りいただいた。口に含んでみたら、まるで「みかんの缶詰」のよう。その糖度の高さに驚いた。倉橋島の石地さんの発見
した枝変わりという。I氏は高速船艇に造詣深く、関東にお住まいの頃、建造所毎の特徴や船艇流転の旅路を、夜明かしで
熱く語って下さった。この海域の高速船艇全盛期、通学に利用していたという氏ならではの話である。

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謎の解けた「効銕丸」

2017-12-17 | 日記
明治初期における汽船導入や造船技術の伝播は、如何に進んだのか。また、市井の人々は、日常生活の近くに
現れた汽船をどう捉え、その視線の先にどんな世界が広がっていたのか、それを知りたいと考えている。

『日の丸船隊史話』は「初期の國産鐵製汽船」として、「新潟丸」「興讃丸」「電信丸」に続き、「効銕丸」について次
のとおり記している。

‥明治14年阿波の徳島では効鐵丸と云う百八噸(登簿噸数)の鐵船が出来た。‥(略)‥但し効鐵丸は
大阪商船會社史中の船舶表には船質を木としてある。或は鐵骨木皮であつたかも知れない。


「効銕丸」を「鉄」製とした記録の内、最も遡れるのは『明治18年汽船表』(M18.01.01現在)。製造年月及び地名を
「明治14年4月、阿波国名東郡福島」と記している。当時の所有者は小川榮五郎(長崎県茂木)、航路は「島原、
博多、鹿児島」とある。果たして当時の徳島に、鉄船建造を可能とした条件は整っていたのか。資材を輸入し、徳
島で組み立てたのか。鉄船を建造する技術者はいたのか。そもそも何故、徳島なのか。長い間の疑問であった。

大阪商船創立の前、瀬戸内海方面における汽船導入の記録は断片的で、謎に満ちている。淡路島沖で発生した
「第三徳島丸」焼失事故を知って以来、折に触れ、徳島地方で発行された新聞を読み進めた。すると、地方史や
海事年表に採り上げられない、阿攝航路史の経過を知った。なかでも嬉しかったのは、「効銕丸」の謎解明に至
ったこと。

明治10年代初め頃、徳島に「徳島舎」はあった。汽船会社より汽船問屋が相応しかろう。徳島舎の発足は詳らか
ではないが、徳島舎の扱った「徳島丸」という汽船は、1875(M8)から記録される。その頃から営業していたのでは
ないか。1878(M11).6月に阿攝航路に就航した船名と船主は次のとおり。
徳島丸 諏訪善作(勝浦郡中田村)
大宮丸 宮崎忠二(名東郡船場町)
通天丸 長尾最平(名東郡助任町)
萬幸丸 日野徳太郎(名東郡南新居村)



徳島舎は、「第三徳島丸」を建造するにあたり、1878(M11).06新聞広告を掲載する。広告は「最早一艘にては御
便利の至りと申し上げ難く」「堅固にして能く走る新艘を製作」すること、及び新船(第三徳島丸)は「今般神戸工
作寮へ依頼」すると記している。新船建造にあたり、「第二第三を相設け」ること、及び「第一号は第三号落成の
後に製作すべし」とあり、広告時点で、旧来の「徳島丸」は「第二徳島丸」と改名している。
ところが「第三徳島丸」は、徳島から大阪へ向かう処女航海の途上、1878(M11).10.28夜、淡路島仮屋沖にて焼
失・沈没事故を起こし、70数名の人命が失われた。船体構造や機器完成度の低い事、また、操作・操船の未熟
さなどから、当時、汽船の爆発、焼失、衝突、座礁事故は頻発した。

新聞報道や風聞により、悲惨な汽船事故は知れ渡り、汽船の信頼は失墜する。この頃、西洋形風帆船を用い、
阿攝航路を開設するという記事や広告も現れる。新聞は「甚ダシキハ汽船ニ乗ルヲ以テ死地ニ就クカ如クニ思ヒ
上坂スル時ハ撫養ヨリ和船ニ乗シテ淡路ニ渡リ淡路ヨリ攝津ニ渡ル者モアリタリ」と記している。これが当時の徳
島の状況である。地域によって差はあろうが、この辺りの市井の人々の感覚に関心を抱いている。

1879(M12)中の新聞保存は少なく、5月の「第三徳島丸」船体引上成功後の、阿攝航路の経過は良く判らない。
「第三徳島丸」を失った徳島舎は、建造記録等から、「第一徳島丸」は登場させられなかった。
しかし、「徳島丸」から「第二徳島丸」への改名は行われたと見られる。新聞には、「第二徳島丸」(もと「徳島丸」)
が大阪へ入港し、先行の「第三徳島丸」が入港していないと判り、その異変(焼失事故)に気付いたと報道される。



大事故の発生や夜間航海の禁止により、個人船主は合同へと動いた。船場会社の明確な創立年月は判らない
が、恐らく1879(M12).8~9月頃。徳島舎は汽船問屋と見られるが、船場会社は株主を募っている。同社は1879
(M12).12.04船名改称広告を掲載した。
徳島丸→末廣丸 (徳島丸は第二徳島丸)
大宮丸→大和丸
萬幸丸→太安丸
続いて1880(M13).01.05には、「巳卯丸」「鵬勢丸」の登場を広告している。

船場会社創立翌年1880(M13)には、阿攝航路を独占した同社への風当たりは強くなる。3月の新聞紙面には「全
く航海の権は船場会社にあるより乗客にも充分満足するの取扱を欠く」と云う、巷間の不満が掲載された。「上等
の切符を購求して乗船しても点燈もなければ火鉢も無く屡々請うて火鉢を借り漸く暖を取る」「船場会社は恰も官
廳の如く役員は宛ながら官吏に優る権ありとの評判」とまで書かれる有様。

それらの記事は伏線だったのか、1880(M13).5月に地元徳島で太陽会社、10月に撫養会社は設立された。一方、
船場会社も体質改善に取り組み、福島において「末廣丸」更新(船体新造)に着手する。以下、新聞記事を引用
する。

名東郡福島町築地にて新製に取掛り居りし船場会社の汽船は末廣丸と名付け最早船體出来上りたれば
舊末廣丸の機械を据へ近日に落成を告くるよし (M13.07.25)

末廣丸の造船長は名東郡安宅村士族岡田六郎氏にして造船の術に長け壮年の頃より其業に従事し曾て
職を東京赤羽根工作局に奉し其後神戸工作分局へ出張し其道を究めたるゆへ該社の依頼を受け此工事
を為せしとぞ (M13.07.30)

船場会社の鉄艦末廣丸は今度木製に改造し其機関の据入れ出来たれば巳前の船体を船場町富強社に
て千円に購ひ入れ帆前船に造り換へ北海道より干鰯運送の用に供せん (M13.08.25)


新末廣丸の機器は、旧船の流用であった。また、末廣丸の旧船は鉄船、新船は木船となったと判る。船殻は売
却され、当初は干鰯運搬の貨物船と計画した模様だが、最終的には肥物商四宮廣二の所有となり、阿攝航路に
使用されることになった。

其巳前の船体を肥物商の四宮廣二氏が買い受けて此頃頻りに造作し神戸より極上等の機関を買入れ之
れを用いて阿攝間の航海をなさんと目論見居らるるよしなれど前にもいつる如き古船の殻に如何程結構
な器械を入れるとも指したる功はあるまじく歯落ちて唇寒しの歎あるに至るならんか (M13.12.02)


ひどい書かれようである。しかし、こう書いた記者も、翌年の1881(M14).05.11徳島大工町長酡楼で開催された同
船祝賀会に招待され、ちゃっかりと「社員両名席末に列し」、紙面には「船体は至極堅牢」「実地の航海をするに
至らば他船に優るあるも決して劣るとあるまじ」とまで書いている。



四宮廣二の購入した船殻は、1880(M13).12末に「効銕丸」と命名された。新聞には「船場町五丁目四宮廣二氏が
所有船効鉄丸は旧の徳島丸に大修繕(おおつくろい)を加へ殆ど新造同様のものにて鉄船に仕立て」とある。

1881(M14).02.12「効銕丸」は機器据付けのため、船場会社「巳卯丸」に曳航されて大阪へ向かった。同じ福島に
て建造された阿波国共同汽船「徳丸」が、1887(M20).12「阿津丸」に曳航されて神戸へ向かったことと同様、当時、
徳島にて機器を取付け、汽船を完成させることは不可能だった。

「効銕丸」は1881(M14).05.11船内縦覧と祝宴を終え、翌々日の13日大阪へ向けて処女航海の途に就いた。広告
や記事によると、航海路線は「阿攝間及び大阪より広島へも航海する序で神戸、岡山、高松、丸亀、多度津、鞆
浦、尾道等へ立ち寄り時宜によりては九州地方へも行くよしなり」。

船舶番号579「効銕丸」を初めて掲載する船名録は、『M15版』(M15.05刊)。大阪の平瀬藤太所有となっている。
同版は船舶番号136「末廣丸」も掲載している。抹消手続きが遅れたのか。また、船舶番号385新「末廣丸」さえ
重複掲載している。
1884(M17).05創立の大阪商船社史によると、「効鉄丸」は南方一郎より出資され、配船表に「後備船」とある。
ところが、船名録『M18版』(M18.10刊)には小川榮五郎(長崎)所有として掲載され、冒頭に記した『明治18年汽
船表』(M18.01.01現在)及び船名録『M20版』(M18.12.31現在)も同様。この点をどう考えたら良いのか。
東京湾汽船も、創立後の船名録『M24版』(M22.12.31現在)において、東京湾汽船名義船と合同前船主名義船
が混在する。その謎は解明したが、大阪商船に関しても、何らかの理由が存在すると考えている。



これは大阪商船1884(M17)10.01配船表。『大阪商船社史』によると、「効銕丸」は1887(M20).05水谷孫左衛門に
売却される。同年06.15付新聞には「四日市武豊間の航海」として、次の記事がある。

三重県下伊勢国四日市の人水谷孫左衛門といへるは此度大坂商船會社より汽船効鉄丸を買入れ四日市
武豊間即ち伊勢の内海に一航路を開くといふ


『船名録』に見る「効銕丸」の所有者の変化は次のとおり。
船名録『M21版』(M19.12.31現在)大阪商船会社
船名録『M22版』(M20.12.31現在)前田利助(熱田)
船名録『M23版』(M21.12.31現在)共立汽船会社(熱田)
船名録『M24版』(M22.12.31現在)から抹消される。

では一体、鉄船「効銕丸」の最前身にあたる「徳島丸」の素性は何だったのか。
当時の記録を確認したところ、何と、「徳島丸」は熊本藩の購入した「奮迅丸」の後身と判った。同船は『日の丸船
隊史話』巻末の「幕府並ニ諸藩艦船要目表」にも掲載されている。熊本藩「奮迅丸」の前身は、1865英国建造の
「Fairy」(鉄製暗車船)、熊本藩の購入は翌1866(慶応2)であった。

1865Fairy → 1866奮迅丸 → 1875徳島丸 → 1878第二徳島丸 → 1879末廣丸1880(廃船)
(船殻再生)1881効銕丸1889(廃船)                       

「効銕丸」は幕末輸入船の1隻であったという記憶は、大阪商船創立時には、既に失われていたと思われる。

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知られざる連絡船

2017-10-10 | 旅行
舞鶴を起点とした連絡船に関連し、船影の知られてこなかった2隻の旅客船を紹介したい。とは言え、阪鶴鉄道時
代の話では無く、国有化後に登場した連絡船の話。日本三景の一つ、天橋立に投入された「文珠丸」「岩瀧丸」姉
妹は、実は、多くの絵葉書にその船影を残してる。『日本鉄道連絡船史』には、次のとおり記される。

明治42年8月、天の橋立の探勝と峰山地方の交通連絡を図るため、宮津より橋立の絶勝地文珠の切戸
を経て湾内に入り、須津、岩瀧に巡航する宮津湾内航路を開設し、さきに阪鶴鉄道が使用した由良川丸
を再び使用した。然し同船は輸送力が不十分であるから、翌43年、岡山旭川に使用した旭丸を以てこれ
に代へた。然し同船も老朽で、屡々修理を加へ、多大の経費を要するのみならず、その都度休航し、これ
が年間相当の期間にわたるので、新造計画をたて、瓦斯発生器附吸入瓦斯発動機船文珠丸及び岩瀧丸
(17噸)を建造してこれに代へ、運航回数も増加した。


宮津湾内航路に新造投入された「文珠丸」「岩瀧丸」姉妹に触れる前に、同航路の開設から終焉を眺めておきたい。
1909(M42).07.29付業界紙は、次のとおり報じている。手許の時刻表からは確認できないものの、当初、府中寄港
も計画されたのか。

宮津湾内連絡汽船開航
鉄道院にては来る八月五日より宮津湾内連絡汽船の運航を開始し宮津、文珠、府中、岩瀧、須津相互間
に於て旅客及び大小荷物手荷物の取扱を為す賃銭割合左の如し
乗客賃金 宮津、文珠、府中、岩瀧、須津、相互間 金九銭
但し小児四年未満は無賃、十二年未満は五銭とす


『鉄道技術発達史』は、宮津湾内航路に関し開航1909(M42).08.05、廃航1925(T14).07.30、最初の就航船に「由良
川丸級」を使用したとある。
浅喫水船「由良川丸」は、「第一由良川丸」「第二由良川丸」の二隻があった。姉妹については、由良川航路の謎と
共に、項を改めて記してみたい。両船とも『船名録M36版』(M35.12.31)より掲載されるが、「第二由良川丸」は『船名
録M39版』(M38.12.31)への掲載を最後に、1906(M39)年中に抹消されている。従って、1909(M42)宮津湾内航路開
始時に投入されたのは、「第一由良川丸」に限られる。
航路開設の翌年1910(M43)、「第一由良川丸」に代え「旭丸」を投入し、輸送力の改善を図った。「旭丸」は山陽鉄道
の発注により建造された浅喫水船で、岡山京橋~三蟠間に使用された。1910(M43).06.12宇野線開通により役を失
い、宮津湾内航路へ転用された。
「橋立丸」を記録した絵はがきは、後方に阪鶴丸と隠岐丸(何れも船名不詳)を確認できる。また、対岸にさらに一隻、
不思議な船影を捉えている。





この船影は船尾の形状から、「旭丸」と見られる。「橋立丸」の使用は1904(M37)から1910(M43)までの間。「旭丸」
の転用は1910(M43)。海舞鶴駅桟橋における両船の邂逅は、あり得ないことではない。
「旭丸」は、1915(T04)の「文珠丸」「岩瀧丸」の登場により井上泰治郎に売却され、最末期は旭造船所所有となり、
1919(T08)に抹消された。覚えとして、宮津湾内航路の略年表を記しておく。

1909(M42).08.05 宮津湾内航路「第一由良川丸」で開設。
1910(M43)    使用船を「旭丸」に代替。
1915(T04)    新造船「文殊丸」「岩瀧丸」就航。
同年        「旭丸」(大蔵省→井上泰治郎)売却。
1922(T11).03   舞鶴・宮津間航路に貨物船「由良丸」就航。
同年        「第一由良川丸」(大蔵省)抹消。
1924(T13).04.11 峰山線(舞鶴・宮津間)開通により舞鶴・宮津間航路廃止。
1925(T14).07.30 宮津湾内航路廃止。翌日、峰山線(宮津・丹後山田間)延伸。
1929(S04)     貨物船「由良丸」(鉄道省→小林與四郎)売却。
1932(S07)     「文珠丸」(大蔵省)抹消。
1933(S08)     「岩瀧丸」(鉄道省)抹消。

舞鶴・宮津間航路に使用された貨物船「由良丸」についても年表に加えた。船影未確認の「由良丸」は、主に奥丹
後地方名産「丹後ちりめん」の輸送に使用されたという。年表にしてみると、「第一由良川丸」の1922(T11)迄の在
籍も、不思議に思える。「由良丸」投入と同年に抹消されたことから、貨物輸送に使用された史実はないかと、考え
てしまう。

鉄道連絡船史に船名を残しながら、旅客船「文珠丸」「岩瀧丸」の船影は、これまで紹介されなかった。日本三景の
一つ「天橋立」は、各年代において、多くの絵葉書に記録された。幸い「文珠丸」「岩瀧丸」姉妹は、絵葉書に船影を
残した。スマートな船の多い連絡船の中で、垢抜けないスタイルに見える。
建造者については、『鉄道技術発達史』は「福島光敏」、古川氏の著作は「福島光教」とある。船名録の造船所頁か
ら「福島」を探すと、島根県松江市にあった1893(M26)設立「福島造船所」らしい。各版の所有者欄を追うと、『船名録
T8版』までは「福島卯市」、『船名録T9版』から「福島光敬」。姉妹の建造は松江市「福島造船所」に間違いあるまい。



文珠丸 (不) 17G/T、木、1915(T04).02、福島造船所[福島光敬](松江)、50.40呎



岩瀧丸 (不) 17G/T、木、1915(T04).02、福島造船所[福島光敬](松江)、50.40呎





この2葉は船名不明。姉妹の船影の多くは、航路のハイライトの「廻旋橋」において記録されている。





1921(T10)鉄道省刊行の『鉄道旅行案内』に掲載の鳥瞰図と地図。舞鶴・宮津間航路と、宮津湾内航路が描かれ
ている。『福知山鉄道管理局史』によると、前者は大正12年度、後者は大正13年度に、最も活況を呈した。



これは、1921(T10).04.01改正の宮津湾内航路時刻表。宮津発下りは12便設定されている。
鉄道の延伸と航路の改廃は、どこの地域においても連動し、宮津周辺も例に漏れない。当時の鉄道路線図を『時刻
表1920(T09).07号』『時刻表1927(S02).06号』から見ると、峰山線(後の宮津線)の延伸と、舞鶴・海舞鶴間の旅客
営業廃止が目立つ。峰山線は舞鶴・宮津間1924(T13).04.12、宮津・丹後山田間1925(T14).07.31、丹後山田・峰山
間1925(T15).11.03、峰山・網野間1926(S元).12.25と延伸した。また、1924(T13).04.12に舞鶴・海舞鶴間の旅客営
業は廃止された。

天橋立は、代表的な砂州地形として、また歴史ある景勝地として、なかなか奥が深い。さらに、活躍する船ぶねも面
白い。旅客船で目立つのは、ファントムマリン石島造船の建造したスピードボート。これだけの隻数がまとまって活躍するの
は、かつての大村湾とここだけではないか。







「一体あれは何なのか‥?!」 エンジン音に振り向くと、松原ごしに操舵室のような構造物が動いている。驚いて遊歩道
を戻り、「廻旋橋」を通過するプッシャー軍団を目にした。日本冶金工業大江山製造所へ、沖荷役で積取ったニッケル鉱石
を運搬するプッシャーバージだった。プッシャー「双輪丸」は、撮影当時は、宮津港運の運航。同社は2011(H23)にカヤ興産
と合併し、宮津海陸運輸となっている。沖合に停泊するのは太平洋汽船の鉱石船。天橋立へ出かける時は、鉱石船
の入港時を狙うと楽しい。
『太平洋汽船社史』によると、「基礎産業部門との提携による専用船経営に着目し、この実現に努め」「ニッケル業界の
雄、日本冶金工業株式会社との提携のもとに、専用船第一船として、金龍丸を佐世保船舶工業において建造した」
とある。第一船「金龍丸」は、1958(S33).09.15に竣工し、ニューカレドニア島と宮津港間に専航就航した。

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