津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

「賀茂丸」と「清澄丸」

2013-03-21 | 東京湾汽船
下田は海上交通の要衝にあり、良好な泊地や薪水補給機能を持つことから、地方都市ながら
歴史の表舞台に登場する。東京湾汽船~東海汽船史においても、汽船の基地や観光開発の
地となり、多くの乗組員を輩出してきた。社史には「下田船渠」の社名も見える。

『65年史』によると、1925(T14)下田船渠が創立されるにあたり、月島工場の施設をあげて
下田船渠に移された(譲渡した)とある。
『80年史』には、1908(M41)下田船渠の再建に協力するため、当社専属の船舶修繕所として、
20年間の長期使用契約を結んだと記される。1907(M40).05.25東京府と「伊豆諸島定期航海
契約書」締結の後、下田港への寄港数は増加し、船舶基地の重要性は増した。1925(T14)下
田出張所を廃し、同所備品等を下田船渠へ譲渡したとされる。
『100年史』の下田船渠に関する項を要約すると、1898(M31)澤村久右衛門らによって下田船
渠合資会社は発足したものの、経営は厳しかった。その後、伊豆諸島航路の発展に伴い下田
を基点とする船も多くなり、その修繕は下田の造船所を利用するようになった。1908(M41).
01.27下田船渠と20年間の長期使用契約を結び、当社専用の船舶修理工場として使用契約を
締結した。1920(T09)二代目澤村久右衛門が社長に就任し、使用中の工場とは別に造船所を
増設し、当社もこの新造船所に新船建造を発注した。新造船所の円滑な経営が進むにつれ、
1925(T14).07.30下田出張所及び使用工場での修理業務を廃止し、工場を返還すると共に同
所の備品、器具、機械類を下田船渠に譲渡した。

1908(M41)と1925(T14)に、東京湾汽船と下田船渠の関わりは変化した。その間、下田におい
て建造された東京湾汽船所有船を一覧にすると次のとおり。社史に記される「下田丸」の詳
細は不明。

尾張丸   15993 / MFPT、182G/T、木、1913(T02).01、澤村久右衛門
日の出丸  22897 / RCMF、408G/T、木、1918(T07).05、澤村久五郎
賀茂丸   27707 / SDTF、263G/T、木、1920(T09).10、東京湾汽船造船部
西豆丸   28122 / SGMV、129G/T、木、1921(T10).06、澤村久右衛門
州ノ崎丸  28672 / SJTP、126G/T、木、1922(T11).01、澤村久右衛門
たいぶさ丸 29051 / SLQG、177G/T、木、1922(T11).11、澤村久右衛門
清澄丸   29420 / SMWV、177G/T、木、1923(T12).06、澤村久右衛門
下田丸  <詳細不明>  39G/T、  1920(T09).12

下田船渠『七十年のあゆみ』(S43.12)に記された内容は、東海汽船社史とは若干異なる。主
要事項を記すと次のとおり。

澤村家は天明年間より下田港で造船業を経営した。造船場は稲生沢川中洲にあった。
1880(M13)澤村久右衛門(初代)は和洋折衷「航静丸」建造。
1886(M19)同上は汽船「第二豆海丸」建造。
明治20年代に造船場は稲生沢川中洲から弁天に移転。
1898(M31).09.22下田船渠合資会社設立。
1900(M33).10.25石造200㌧ドック完成。
1902(M35).10.31下田船渠株式会社に改組。ドックを貸して入渠料を得るのを目的とし、造
     船設備は持たなかった。社長澤村久右衛門は、会社とは別に造船業と海運業を営
     んでいた。
1903(M36)入渠船は僅かに4隻。
1908(M41).01.26より20年間、東京湾汽船にドックを賃貸することとし、年1300円の賃貸料
     を得て株主に年8分の配当を実施。
1918(T07).01.26澤村久右衛門(初代)は社長を辞し、長男久五郎が2代社長に就任。
1919(T08).08.08澤村久五郎逝去。
1920(T09).01.26久五郎の長男義太郎は久右衛門を襲名し3代社長に就任。
東京湾汽船は、所有船の大型化に伴い、200㌧ドックを500㌧に延長するよう、下田船渠に
要請。両社交渉の結果、澤村社長は新会社を設立することとなる。
  1. ドック拡張資金は東京湾汽船が負担する。
  2. 残存賃貸借期間は契約を解除する。
  3. 新会社は一貫作業の造船業者となる。
  4. 新会社は下田船渠株式会社(旧)のドックを引取り、澤村造船所を無償で継承する。
1925(T14).09.22下田船渠株式会社(新)設立。社長に澤村久右衛門(二代)就任。

この経過に建造船を当て嵌めると、「尾張丸」は初代久右衛門、「西豆丸」以降は二代久右
衛門の経営する澤村造船所となる。下田における建造船に次の事項は関係する。
1915(T04).09  月島工場最後の建造船「静岡丸」進水。
1923(T12).09.01 関東大震災にて月島工場全焼。
東京湾汽船による要請は、借受けた船渠が手狭になったこともあるが、関東大震災による月
島工場の被災、鋼船への切替え、体制のスリム化等、様々な要因が推測される。



「賀茂丸」は『明細書』に「東京湾汽船造船部」建造とあり、『Lloyd's Register』も同様。
畏友T.I氏とは、「下田船渠(旧)より借受けた船渠にて、月島工場で培った技術力をもって
自社建造した船」と話し合っている。当時の下田船渠(旧)は施設の所有者にあたり、建造
の当事者とはなり得ない。
この船名もOB氏の特定による。メモには船名と共に「昭和4年」と記されている。記録された
風景のどこかに、撮影年を特定する根拠があると思われる。今では、昭和初期の証言を得る
ことは難しくなった。当時の旅客部長氏にご仲介いただき、OB氏のお手を煩わせた。その頃、
社内には100年史刊行の機運があり、編纂に関係していたお一人と伺った。お名前を記して
おかなかったことが悔やまれる。



「賀茂丸」は1931(S06)に千葉伝蔵(函館)に売却された。『日本汽船名簿』(S13.06末現在)に
見る「賀茂丸」は貨物船となっている。『戦時船名録』によると、最後は日本製鉄の曳船と
なり、「42.2.9不明沈」とある。



波浮港における「清澄丸」。画像から船名を読み取れる。『件名録』には「SEICHO MARU」と
ある。姉妹船「TAIBUSA MARU」は鏡ヶ浦北縁の「大房岬」から、こちらは天津の後背地にあ
る「清澄山(キヨスミヤマ)」から採られたと思われる。山麓にある古刹「清澄寺」は「セイチョウジ」と
云う。『船名録』『レヂスター』は「き」の項に船名を記しているから「KIYOSUMI MARU」か。



「清澄丸」 前掲と同様、船名を読み取れる。同日と思われる。



船名は4~5文字のため、姉妹船「たいぶさ丸」と見られる。



「西豆丸」もOB氏の特定による。西伊豆の土肥港における記録。

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垂水沖の大惨事

2013-03-04 | 尼崎汽船部
歌集『磯山集』(松本静史)に、「菊水丸遭難をかなしみて」という歌は収められている。
1931(S6).02.09垂水沖を西航する尼崎汽船部「菊水丸」は、フランス郵船「Porthos」に追突
されて沈没、28名の犠牲者を出した。各紙はこの大惨事を大々的に報道している。裁決録を
読んでいると、確かに、尼崎汽船部の関係した事件は多いように見える。しかしながら、社名
と船名を全国に流布させたこの事件は、「貰い事故」だった。
中国航路に就航していた「菊水丸」は大阪安治川口を15:30に発ち、神戸港中突堤に寄港し
18.02に離岸。次港は坂手、仕向港は下関となっている。一方の「Porthos」は、横浜を発ち
同日10:10神戸第三突堤に寄港し、次港の上海へ向け18:02に離岸していた。
事故発生は19:15、平磯燈台より南南東1浬弱の沖合。「菊水丸」右舷側、船橋より少し前方
に、後方より「Porthos」の船首が衝突した。当時、降雪により見通しは悪かった。「菊水丸」の
衝突個所は大破し、5分後には沈没した。西村船長は、沈没直前まで乗客救助に努め、船と
運命を共にしたと報じられている。
沈没の翌々日、紀元節を迎えた東京は白銀の世界になっていた。天気図は確認していないも
のの、本州南方海上を「南岸低気圧」が東進し、それも、八丈島より南側を進んだと思われる。





「菊水丸」の船影は、宇品港の画像に初めて確認した。前掲の、急航汽船の右手側に係留さ
れている尼崎汽船部の貨客船に、アルファベットの船名を読みとった。この船は船首楼を備え
ていた。中国航路用貨客船に船首楼は珍しい。後方の大阪商船は「愛媛丸」。
二点目は下関港における同船。右舷側のポールド配置を確認できる貴重な船影となってる。
大阪へ折返す停泊中を捉えたものと思われる。中国航路は5隻運用。
「菊水丸」 11734 / LFPS、370G/T、鋼、1908(M41).10、尼崎鉄工所(大阪)





尼崎汽船部発行の絵葉書も残っている。上は金の縁取りの付く豪華な印刷。船橋楼は塗り
分けられている。婦人と子供の描かれたアート絵葉書は黒塗りの船橋楼。共に明治末から
大正初期の発行。塗り分けられていたのは、就航当初と見ている。『明治運輸史』の口絵と
なっている船影も船橋楼は黒。



「菊水丸」には、香川県三豊郡荘内村から堺市の網元へ、雇われ漁夫として出稼ぎに来て
いた一行38名も乗船していた。旧正月を自宅で迎えるための、帰郷の途上だった。漁夫達は
「この帰郷を唯一の楽しみに朝夕懸命に働いていた」と報じられている。その中に、一家四人
全員の遭難もあった。連れられていた女児は小学校入学を控え、南海高島屋で鞄や学用品
を購入して乗船したが、波に呑まれる瞬間まで、後生大事にこれを離さなかったという悲話
は哀れを誘う。この画像は、遭難海域における捜索状況。

『水路要報』には神戸税関港務部の報告(S6.03.02)として次の記事がある。

昭和6年2月9日内海平磯燈台附近に於て佛國汽船「ポートス」號と衝突沈没したる
汽船菊水丸の船體今後の處置に關し所有主尼崎汽船部神戸支店に就き調査候處
同社は本船沈没當時より遭難者救助死體の捜索其の他に關し相當混雑致し居り
候爲右に關しては未だ最後の決定を爲す運びには至らざる模様に有之候へ共現
在の方針にては其の儘放棄するものと認められ候に付爲御參考及報告候也


「菊水丸」の謎は、『船名録S10年版』(S9.12.31現在)まで掲載されていること。浮揚されたの
か。一方、『官報№2768』(S11.03.27)の「船舶登録」広告欄に、「菊水丸」11734は沈没を事
由に、S10.12.04付で抹消登録された記載がある。この内容は、12/04に手続きが行われた
ことを表していて、沈没年月日ではない。
垂水沖で沈没した1931(S6)から1934(S10)に至る間、「菊水丸」の実体は、どうなっていた
のか。手持ちの『時刻表』『同復刻版』に「菊水丸」は出てこない。裁決録にも、再度の事故
記録は無い。





『大阪商船出帆表』(S9.04.01)と云う、非常に興味深い記録をご紹介したい。1934(S9).04から
約一年間にわたる、大阪港に入出港した汽船に係る詳細な記録。市販の便箋に記されている。
先輩のお目にかけたところ、「社内の公式記録ではないでしょう」とのこと。安治川口や築港か
ら船を眺め続けた、船好き少年の記録ではないかと、密かに考えている。
9月初旬の中国航路は、「日海丸」「大衆丸」「神惠丸」「浪切丸」「船運丸」「日海丸」「天正丸」
のローテーション、多度津航路には「女王丸」「弘仁丸」「船運丸」が投入されている。
この記録に「菊水丸」は全く出てこない。浮揚復旧されたとしたら、必ず、安治川口に姿を現わ
したと思われる。記録の一年間、「中国航路」「多度津航路」に使用されなかったことは確実で
ある。浮揚されたものの使用されなかったのか。はたまた貨物船として使用されたのか。
「屋島丸」の記録を調べた際、遺族への補償問題から容易に船体の処分は出来ないことを知
った。抹消登録の遅れた裏には、何らかの理由があるように思える。

桜木町事件で有名な「モハ63形」電車は、事件後に改造され「モハ73形」に改番された。とこ
ろが、桜木町より前、三鷹事件に関係した「モハ63019」は、事件の証拠物件として保全命令
が出され、唯一「モハ63形」の車籍を保ち続けた。最後は鋼体となって東ミツに保管された車
体は、1960年代半ばに解体されたと云う。「菊水丸」の不思議を考えるたび、旧形国電を追っ
ていた頃、先輩から聞かされた「モハ63019」の話を思い出す。
確たる証拠は見あたらないが、「菊水丸」は浮揚されなかったと思えてならない。



「Porthos」 OQZD、12,692G/T、鋼、1914、Ch.& Atel. de la Gironde(Bordeaux)

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