津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

木津川を歩く

2011-12-13 | 旅行
かつて、大阪のウォーターフロントには、松が植えられていたらしい。明治期の回顧談や記録には、屡々松並木
が出てくる。「安治川入口」で撮影された画像にも、松が写り込んでいる。



この船影は大阪商船「高阪丸」である。船首部装飾や低い船首楼、ブルワークの形状などから絞り込まれ、
ポールド配置により特定される。土佐商船からの買収船で姉妹船も無く、このクラスの大阪商船スタイルとは、
やはり、趣が異なる。「高阪丸」7708 / JQHR、632G/T、1902(M35).11、小野造船所。





木津川口の古写真と絵葉書を見た。余白に「木津川口千本松」とある。これが有名な千本松か。何とも
清々しい光景である。二葉は、ほぼ同一地点から撮られている。絵葉書(下)は、その仕様から、明治30
年代末期の発行と見られ、写真も同時期と思われる。
1832(天保3)木津川口に石堤が築造され、堤防上に植えられた松並木が「千本松」の地名の由来となる。
松の木は直立せず、陸側へ傾いているのも、海から吹く潮風が原因とか。絵葉書には、帆を張った舟と
共に、石堤の先端にあった木造灯台も写り込んでいる。このカーブは、佐野安と名村の境界辺りである。
画像を見ると、護岸は石積みとなっている。

安土桃山時代、木津川口では二回の海戦があった。一回目は1576年。石山本願寺に兵糧を輸送する
西国船団とそれを守る毛利水軍に、対するは織田方の水軍。この時は織田方の惨敗に終わっている。
二回目は1578年。信長が九鬼水軍に命じて建造した鉄甲船6隻の活躍もあり、織田方は勝利した。
海上補給路を断たれた石山本願寺は、次第に形勢不利となり、1580年に炎上するのである。



千本松渡船「はるかぜ」船上から眺めた木津川のカーブ。渡船は両側がループの千本松大橋(通称「めがね
橋」)下の両岸を結んでいる。

千本松から遡った難波(ナンバ)島の西側、三軒家川には「船囲場」という水面があった。1886(M19)発行
の地図を携えてきたが、現地に立ってみると、今の地図からは読めないことが、地形から見えてくる。
小高くなっている道路が、かつての防潮堤と一致する。船囲場の水域が、目前に広がる光景にも、現在の
地図上にも、浮かび上がってきた。

難波島に渡ってみた。今は、倉庫や空地が広がる場所となっていた。木津川上流を眺め、左岸(右手)
が「材木置場」で、1890.10佐山芳太郎により「駿豆丸」が建造された地である。右岸(左手)が難波島。
ここで二隻の「太湖丸」は再組立され、外海に旅立った。
三軒家川は船囲場となっていたため、造船所は木津川を向いていたようだ。明治末期のこの界隈には、
炭屋新田の「藤永田造船所」をはじめ、木津川に面し「武本造船所」「永田造船所」「尼崎造船部」「小野
造船所」「小野鐵工造船所」「中村合名会社」が立地した。

八阪神社には、石柵に掘られた社名を読んでから参拝した。現在、社は南向きだが、もとは西向きに建っ
ていたという。宮司さんにお話を伺うことができた。西側を通る小高い道路は、かつての防潮堤とのこと。
石柵にその名のある「向井造船鉄工所」をお尋ねしたら、お忙しい中、1976(S51)発行の住宅地図をお見
せ下さった。
地図から、大正区内にある「(株)神川造船所」「(株)南進造船所」「(株)浅野造船鉄工所」「掘造船所」
「(株)向井造船鉄工所」「大幸船渠(株)」「村井鉄工造船所」「(株)太田商店造船所」「中島造船所」
「浜野造船所」「東洋造船(株)」「(株)三洋造船所」の位置を確認することができた。



船囲場は、1881(M14).12.02付府令で入船が許可され、翌年から料金の徴収が始まった。船囲場について
は、松木哲著「大阪三軒家船囲場」(海事史研究17号)が詳しい。松木氏によると、「北前船の最盛期は
明治十年代と推定されている」とある。
船囲場事務所のあった場所は、三軒家公園となっていた。船は冬季に係船されたが、船乗り達はここで
手続きを終え、故郷へ帰ったことだろう。
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