津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

知られざる連絡船

2017-10-10 | 旅行
舞鶴を起点とした連絡船に関連し、船影の知られてこなかった2隻の旅客船を紹介したい。とは言え、阪鶴鉄道時
代の話では無く、国有化後に登場した連絡船の話。日本三景の一つ、天橋立に投入された「文珠丸」「岩瀧丸」姉
妹は、実は、多くの絵葉書にその船影を残してる。『日本鉄道連絡船史』には、次のとおり記される。

明治42年8月、天の橋立の探勝と峰山地方の交通連絡を図るため、宮津より橋立の絶勝地文珠の切戸
を経て湾内に入り、須津、岩瀧に巡航する宮津湾内航路を開設し、さきに阪鶴鉄道が使用した由良川丸
を再び使用した。然し同船は輸送力が不十分であるから、翌43年、岡山旭川に使用した旭丸を以てこれ
に代へた。然し同船も老朽で、屡々修理を加へ、多大の経費を要するのみならず、その都度休航し、これ
が年間相当の期間にわたるので、新造計画をたて、瓦斯発生器附吸入瓦斯発動機船文珠丸及び岩瀧丸
(17噸)を建造してこれに代へ、運航回数も増加した。


宮津湾内航路に新造投入された「文珠丸」「岩瀧丸」姉妹に触れる前に、同航路の開設から終焉を眺めておきたい。
1909(M42).07.29付業界紙は、次のとおり報じている。手許の時刻表からは確認できないものの、当初、府中寄港
も計画されたのか。

宮津湾内連絡汽船開航
鉄道院にては来る八月五日より宮津湾内連絡汽船の運航を開始し宮津、文珠、府中、岩瀧、須津相互間
に於て旅客及び大小荷物手荷物の取扱を為す賃銭割合左の如し
乗客賃金 宮津、文珠、府中、岩瀧、須津、相互間 金九銭
但し小児四年未満は無賃、十二年未満は五銭とす


『鉄道技術発達史』は、宮津湾内航路に関し開航1909(M42).08.05、廃航1925(T14).07.30、最初の就航船に「由良
川丸級」を使用したとある。
浅喫水船「由良川丸」は、「第一由良川丸」「第二由良川丸」の二隻があった。姉妹については、由良川航路の謎と
共に、項を改めて記してみたい。両船とも『船名録M36版』(M35.12.31)より掲載されるが、「第二由良川丸」は『船名
録M39版』(M38.12.31)への掲載を最後に、1906(M39)年中に抹消されている。従って、1909(M42)宮津湾内航路開
始時に投入されたのは、「第一由良川丸」に限られる。
航路開設の翌年1910(M43)、「第一由良川丸」に代え「旭丸」を投入し、輸送力の改善を図った。「旭丸」は山陽鉄道
の発注により建造された浅喫水船で、岡山京橋~三蟠間に使用された。1910(M43).06.12宇野線開通により役を失
い、宮津湾内航路へ転用された。
「橋立丸」を記録した絵はがきは、後方に阪鶴丸と隠岐丸(何れも船名不詳)を確認できる。また、対岸にさらに一隻、
不思議な船影を捉えている。





この船影は船尾の形状から、「旭丸」と見られる。「橋立丸」の使用は1904(M37)から1910(M43)までの間。「旭丸」
の転用は1910(M43)。海舞鶴駅桟橋における両船の邂逅は、あり得ないことではない。
「旭丸」は、1915(T04)の「文珠丸」「岩瀧丸」の登場により井上泰治郎に売却され、最末期は旭造船所所有となり、
1919(T08)に抹消された。覚えとして、宮津湾内航路の略年表を記しておく。

1909(M42).08.05 宮津湾内航路「第一由良川丸」で開設。
1910(M43)    使用船を「旭丸」に代替。
1915(T04)    新造船「文殊丸」「岩瀧丸」就航。
同年        「旭丸」(大蔵省→井上泰治郎)売却。
1922(T11).03   舞鶴・宮津間航路に貨物船「由良丸」就航。
同年        「第一由良川丸」(大蔵省)抹消。
1924(T13).04.11 峰山線(舞鶴・宮津間)開通により舞鶴・宮津間航路廃止。
1925(T14).07.30 宮津湾内航路廃止。翌日、峰山線(宮津・丹後山田間)延伸。
1929(S04)     貨物船「由良丸」(鉄道省→小林與四郎)売却。
1932(S07)     「文珠丸」(大蔵省)抹消。
1933(S08)     「岩瀧丸」(鉄道省)抹消。

舞鶴・宮津間航路に使用された貨物船「由良丸」についても年表に加えた。船影未確認の「由良丸」は、主に奥丹
後地方名産「丹後ちりめん」の輸送に使用されたという。年表にしてみると、「第一由良川丸」の1922(T11)迄の在
籍も、不思議に思える。「由良丸」投入と同年に抹消されたことから、貨物輸送に使用された史実はないかと、考え
てしまう。

鉄道連絡船史に船名を残しながら、旅客船「文珠丸」「岩瀧丸」の船影は、これまで紹介されなかった。日本三景の
一つ「天橋立」は、各年代において、多くの絵葉書に記録された。幸い「文珠丸」「岩瀧丸」姉妹は、絵葉書に船影を
残した。スマートな船の多い連絡船の中で、垢抜けないスタイルに見える。
建造者については、『鉄道技術発達史』は「福島光敏」、古川氏の著作は「福島光教」とある。船名録の造船所頁か
ら「福島」を探すと、島根県松江市にあった1893(M26)設立「福島造船所」らしい。各版の所有者欄を追うと、『船名録
T8版』までは「福島卯市」、『船名録T9版』から「福島光敬」。姉妹の建造は松江市「福島造船所」に間違いあるまい。



文珠丸 (不) 17G/T、木、1915(T04).02、福島造船所[福島光敬](松江)、50.40呎



岩瀧丸 (不) 17G/T、木、1915(T04).02、福島造船所[福島光敬](松江)、50.40呎





この2葉は船名不明。姉妹の船影の多くは、航路のハイライトの「廻旋橋」において記録されている。





1921(T10)鉄道省刊行の『鉄道旅行案内』に掲載の鳥瞰図と地図。舞鶴・宮津間航路と、宮津湾内航路が描かれ
ている。『福知山鉄道管理局史』によると、前者は大正12年度、後者は大正13年度に、最も活況を呈した。



これは、1921(T10).04.01改正の宮津湾内航路時刻表。宮津発下りは12便設定されている。
鉄道の延伸と航路の改廃は、どこの地域においても連動し、宮津周辺も例に漏れない。当時の鉄道路線図を『時刻
表1920(T09).07号』『時刻表1927(S02).06号』から見ると、峰山線(後の宮津線)の延伸と、舞鶴・海舞鶴間の旅客
営業廃止が目立つ。峰山線は舞鶴・宮津間1924(T13).04.12、宮津・丹後山田間1925(T14).07.31、丹後山田・峰山
間1925(T15).11.03、峰山・網野間1926(S元).12.25と延伸した。また、1924(T13).04.12に舞鶴・海舞鶴間の旅客営
業は廃止された。

天橋立は、代表的な砂州地形として、また歴史ある景勝地として、なかなか奥が深い。さらに、活躍する船ぶねも面
白い。旅客船で目立つのは、ファントムマリン石島造船の建造したスピードボート。これだけの隻数がまとまって活躍するの
は、かつての大村湾とここだけではないか。







「一体あれは何なのか‥?!」 エンジン音に振り向くと、松原ごしに操舵室のような構造物が動いている。驚いて遊歩道
を戻り、「廻旋橋」を通過するプッシャー軍団を目にした。日本冶金工業大江山製造所へ、沖荷役で積取ったニッケル鉱石
を運搬するプッシャーバージだった。プッシャー「双輪丸」は、撮影当時は、宮津港運の運航。同社は2011(H23)にカヤ興産
と合併し、宮津海陸運輸となっている。沖合に停泊するのは太平洋汽船の鉱石船。天橋立へ出かける時は、鉱石船
の入港時を狙うと楽しい。
『太平洋汽船社史』によると、「基礎産業部門との提携による専用船経営に着目し、この実現に努め」「ニッケル業界の
雄、日本冶金工業株式会社との提携のもとに、専用船第一船として、金龍丸を佐世保船舶工業において建造した」
とある。第一船「金龍丸」は、1958(S33).09.15に竣工し、ニューカレドニア島と宮津港間に専航就航した。

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