津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

「大衆丸」登場の頃

2011-11-19 | 旅行
巻末に書き込んである日付を見ると、高校2年の時である。古書店で購入した『残存・帝国艦艇』は、
一晩で読了した覚えがある。この本に巡り会ったことで、船溜まりの小型船や遊覧船に目を向けるよう
になり、小型船への接し方が変わった。
著者の木俣滋郎氏は、後書きに「正直なところ、私はこの本に精も根も尽き果ててしまった」と記され
ている。情報の乏しかった時代、全国へ取材旅行を敢行して調査・撮影を進め、船歴を纏められたご苦
労は、筆舌に尽くし難いものがあったことだろう。
実は、先生にも懐かしい思い出がある。教育委員会事務局の仕事をしていた時である。回ってきた電話
は、地域の戦跡に関する照会であった。「木俣です」と名乗られた方に、思わず「残存帝国艦艇の木俣
先生でしょうか?」と、お尋ねしてしまった。その後数日間、先生と行動を共にし、砲台跡や赤錆びた兵器
の残骸の前で、実地にご教授いただくことになった。
先年、先生は鬼籍に入られた。今でも著作を拝読すると、にこやかに話される、先生の語り口調まで思
い出す。心よりご冥福をお祈りいたします。

ES船という上陸艦が陸軍にあって、戦後、その数隻が商船に転用されたことや、その後身に、「大衆丸」
という不思議な外観の貨客船があったことも、『残存・帝国艦艇』で知った。
小学生の頃のことだ。返還直後の父島には、米軍から貸与された自衛隊揚陸艦「しもきた」「しれとこ」
が度々来航した。集落内の狭い砂浜にビーチングし、バウドアを開いてランプを渡し、大型重機を陸揚げする様子
を、学校帰りに眺めた覚えがある。そんなバウドア付上陸艦が、太平洋戦争中、国内で建造されていたこと
や、戦後は商船に転用されたことに、興味をかき立てられたものだった。



九州郵船は太平洋戦争の前後に、大型貨客船二隻を始め、多くの所有船を失った。
画像の中央右側は「睦丸」で、1940.10.29壱岐湯本浦沖で座礁、沈没。左側の「珠丸」は、1945.10.14
壱岐勝本浦沖で触雷、沈没した。「睦丸」「珠丸」が並ぶこの画像は、社名が北九州商船時代の1929~
1934に撮影されたものである。

1947(S22).10.04、参議院運輸及び交通委員会は「博多、壱岐及び対馬間の國営航路実現促進に関する
請願」を審議している。この議事録は、戦後の壱岐対馬航路を検証する上で、重要なものとなっている。
戦後、博多を起点とする壱岐対馬航路は、戦火をくぐり抜けた「功丸」一隻で隔日運航したが、1947になり
航空機救難艇を改造した「阿多田丸」を投入。交互運航を開始し、一日一便となった。1947.08九州郵船は
「功丸」を命令航路の長崎~壱岐~対馬に転配し、博多~壱岐~対馬航路は「阿多田丸」一隻で、一日一
往復させるという運航に改めたのである。
議事録には「かくの如き小型船では、海上風波に際して、五日乃至一週間の欠航を見ること屡々であつて、
島民の不便困難は言語に絶するものあり」「これら小型船舶を以て貴重なる島民の生命財産を托し、名にし
負う玄海の荒波を乘り切るには、極めて危險不安を感ずる次第」と記されている。
また、「非常に無理なスケジユールでありまして、船員に対する労働状態も非常に苛酷」「又定員も僅か二
百四十名程度の船でございまして、これでは來るべき冬に対しまして到底航路が維持できない」とある。



この解決策として、博多港で隔離病棟になっていた「菊丸」に白羽の矢が立ち、1947.10.02に就航したので
ある。九州郵船のファンネルマークを付けた「菊丸」は『日本商船明細画報(1955刊)』に掲載されている。
しかしながら、あくまでも用船であり、航路の安定を図るためES船の導入が検討された。議事録を引用する。

上陸用舟艇でございまするが、SSという型の船が一時使用の許可をされるということに
なつておりましたので、同社にこれも斡旋いたしまして、一年間だけの一應一時使用を許
可いたした‥
このSSと申しますのは八百八十トンの船でございまして、上陸用舟艇に設計されており
ます。汽罐が九百馬力でございまして、大体十一海里の航海速力がございます。而もこれ
は帰還運送に從事しておりました当事に約七百人の旅客を運んでおいつた実績を持つてお
ります。併しこれは帰還輸送で何分相当の無理をいたしておると思いますが、これを適当
に改装いたしますならば、さした経費もかからないで、相当程度の旅客の收容が可能にな
るのでございます。これを菊丸の就航中に目下改装いたしまして、いつでも配給できるよ
うな態勢に置くように努力されております。大体三ヶ月くらいで改装ができ上る予定にな
つております。






「大衆丸」は大阪の占部造船所で「ES12」として建造された。終戦時は佐世保に居たようだ。
61955 / JPCA、830.89G/T、1943年、船客529名。船舶明細書には「ES改造貨客船(上陸用舟艇)」とある。
主機はディーゼル550HP×2なのだが、「右:日立櫻島、左:神戸發動機」とある。左右の主機メーカーが異なるのだ!
これには唸らされてしまった。この絵葉書はとても紙質の悪いタトウに入っていた。S24.07.22付スタンプが押され
ている。



一方、壱岐対馬航路に大阪商船が参入する計画が浮上する。議事録によると関係方面とのトラブルもあった
が、許可を得て、S22末竣工見込みの新造船(藤丸)計画が進んでいるとある。大阪商船の航路参入が成っ
たのも、「この冬は絶対に島民に御心配をかけることはない、かように確信をいたしておる次第」という、冬に
向けて、安定した航路を確保せねばならないと云う課題があった。藤丸は、藤永田造船所で1948.01.27進水、
05.10竣工している。「この冬」には、間に合わなかったようである。
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