津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

関東大震災と「扇海丸」

2023-07-16 | 日記
本年は、関東大震災から100周年目にあたる。都心の西郊を南北に走る山手通り(環状6号)沿いのエリアは、関東大震災や
東京大空襲の被災者が移転し、急速に市街地化された地域。東京都作成の『総合危険度ランク』図で、都心をドーナツ状に
囲む災害危険度の高い地域は、木密地域(木造住宅密集地域)に重なり、災害に強い街作りが急がれている。
また、東京の「山の手」は、中小河川が台地(下末吉面や武蔵野面)を開析し、起伏に富んだ地形をしている。裏通りを彷徨
うと、しばしば、廃レンガ塊を積んだ擁壁に行き当たる。震災や空襲で壊滅した都心部のがれき撤去と、急ごしらえの宅地造
成に、倒壊した建物のレンガ塊を再利用したものだろう。安山岩や花崗岩を加工したケンチ石を用いず、廃レンガ・コンクリ
ート塊を用いた擁壁積みを「ガンタ積み」と言い、地元を中心として、東中野、笹塚、下北沢、代々木上原のそこかしこに、
点々と残っている。
ガンタ積み擁壁に行き当たると、レンガを焼いた窯の「刻印」を探し、記録している。つい先日も、再開発により、廃レンガ
塊を用いた擁壁が消滅した。そこは、「日本煉瓦製造会社」(深谷市)製造を示す「上敷免製」という刻印を、読み取れる場
所であった。考えようによっては、100年前の災害廃材再生品が、よくぞ、残っていたものである。



関東大震災を記録した絵葉書も、多数、発行されている。震災直後に、大阪で刷られた新聞紙面には、関東大震災の絵葉書販
売の広告が見える。「報道絵葉書」の最たるものと言えよう。大火による広大な焼跡や、崩れた凌雲閣。焼けてフレームだけ
になった路面電車。駅に集中する人々や、夥しい焼死体まで、絵葉書になっている。キャプションは手書きで、印刷・発行を
急いだと判る。日露戦争戦勝を契機とした絵葉書ブームがなければ、現在の私たちは、カメラが一般に普及していなかった時
代の覗き窓を、持たなかったろう。
東京港に来港した救援船も記録され、四隻を確認した。内、二隻は大阪商船の煙突マーク、もう一隻は「鉄道省」のように見
える。印刷は荒く、船名は潰れて読み取れない。これら汽船の船名は、一体、何だろうか。

関東大震災直後、大阪港から救援物資を海上輸送した「扇海丸」については、山田廸生氏が「ラメール」誌の「名船発掘」で紹
介され、日本クルーズ&フェリー学会のアーカイブで読むことができる。「扇海丸」の船歴やエピソードは、とても興味深い。
山田氏は、関東大震災と阪神大震災の史実から、港湾都市が被災した場合、船舶による海上輸送が強力であると結ばれている。

関東大震災当時の東京港の様子を、『東京港史』(S37刊)は次のように記している。

当時の東京港は港湾修築の消極性がわざわいして、港湾施設が貧弱で、本船接岸設備は皆無であり、わずかに芝浦方面に
日之出桟橋が存在していたのみであった。このため、千トン乃至二千トン級の救援船が、芝浦沖の狭あいな航路に危険を
冒して入港し、満潮を利用して碇泊し、干潮時には待避しながら、多数の船舶が非常荷役を強行した。この有様が東京に
港湾施設整備の必要性を痛感させる動機となった。


震災発生時は、東京に本船接岸施設は皆無であった。かろうじて、現在の日の出ふ頭の位置に、「亀腹」と呼ばれる小型船用物
揚げ場があった。救援物資の荷揚げ時の絵葉書で、汽船は接岸しているように見えても、よく見ると、艀や筏を船体と陸岸の間
に挟んでいる。北海道庁の物資輸送要項には「汽船は吃水16尺以下とす」とある。換算すると「3.636m」でしかない。
また、雑誌『港湾』には、「芝浦地先....澪筋水路は僅かに十六、七尺に過ぎずして極めて少数の船舶の外は陸揚場近く係留
することを得ず、遠きは芝浦より六、七海哩、近きも三、四海哩の羽田沖に在り」と記録されている。当時の港湾設備の状況や、
芝浦で撮影された汽船が1000G/T内外の理由も、理解できよう。岸に近づき、荷役を行ったのは「極めて少数の船舶」でしかなか
った事を念頭に、関東大震災を記録した絵葉書から、汽船を捉えたものを見てみたい。



大阪商船の煙突マークを付けた汽船は、二隻記録されている。二隻はとてもよく似ている。船名は潰れているが、左側が「扇海丸」
である。凹甲板部分に「扇海丸」はブルワークを備えるが、右側の船はハンドレールである。







最初に掲げたのは、『播磨造船所50年史』に掲載されている「扇海丸」の船影。凹甲板部にブルワークの付くことが判る。
下が東京港における扇海丸の荷揚げ風景である。船尾の船名は潰れているが、中央の文字は、輪郭から「海」と見える。
『キャパシティプラン集』からも、写真は同船と確認できるが、船名の読み取れる、鮮明な写真の発見が待たれる。
関西から関東へ向かった救援第一船は、大阪商船「志かご丸」。神戸港に停泊していた同船を大阪港へ回航し、救援品を積込み、大
阪発2日午後2時であった(午後3時の記録もある)。同船は、翌3日午後9時半に横浜港外へ投錨した。
時間的に第二船となるのは、神戸港に停泊中の日本郵船「山城丸」。2日午後4時に抜錨、全速力で東航し、翌3日夜、「救護第一船
として横浜港へ入港」と記録される。
大阪発の第二船(阪神発第三船)となった「扇海丸」は、「折柄大阪にて、芝浦行荷物積載中なりし」という状況であった。同船は、
大正12年8月10日に大阪商船が開設した東京九州線に投入されていた。救援米や缶詰等340噸を積み、2日午後6時に大阪を発ち、芝浦
へ直航。翌々日の4日夕刻、第一船として芝浦へ入港した。同船事務長によると、救援品を荷揚げしようにも、東京港には艀船も荷役
人夫もなく、当惑した本船側は、付近から木材を集めて筏に組んで艀に代え、在郷軍人や青年団の手により、荷役作業を行った。定期
航路船として、三角港で東京港向けに積載した米2,500噸は、内務省によって徴発された。東京湾内は重油の海と化していて、少々の
風浪では海水面が見えず、芝浦付近は硫黄臭が強かったと、証言している。災害時の「匂い」の記録は、なかなか伝わらない。
「扇海丸」は予定より一日早く、12日午前10時、被災者174名を乗せ、大阪港へ戻った。以上のことから、「扇海丸」が芝浦に在港し
たのは、4日夕刻から10日正午までの間であると判った。



この大阪商船の貨物船は不明。当初、「扇海丸」と同一船と考えていたが、よく見ると、前述したとおり、ブルワークや船橋部の形状
が異なっている。本船と陸岸の間に、船尾が円形の艀を挟み、避難民を乗船させている。
この写真が撮られた時、芝浦には最低三隻の汽船が接岸していたと見られる。「扇海丸」の前方に見える大阪商船マークの煙突は、こ
の汽船か。救援物資輸送船記録と、『大阪商船事業参考書』借入船一覧表を対比しても、よくわからない。
さらにこの船の前方にも、塗り分けたフッドを備えた汽船が接岸している。





これは『大阪商船事業参考書』「大正12年上半期」(上)、「大正12年下半期」(下)の、期末現在借入船一覧表である。煙突マークを纏
っていることから、社船、もしくは借入船一覧表に記されている一隻とみられる。掲載船名をもとに、『キャパシティプラン集』から「ブルワ
ーク無し、船尾側1ハッチ、後部マスト船尾側」と絞っていくと、「津軽丸」が浮かんでくるが、この段階で、同船との断定は避けたい。



これは「津軽丸」のキャパシティプラン。



この汽船の煙突マークは、「工」に見えるが、鉄道省は橙色地に黒なので、白抜きのこのマークは、別会社であろうか。船名は三文字。
新聞記事には、鉄道省命令船として「三天丸」を大阪から東京へ差し向け、枕木材や杉板など、鉄道復旧資材を輸送したと記録される。
『キャパシティプラン集』から同船を確認したところ、三島型であり、写真の船とは異なると判った。



この船は、「第四犬島丸」と見られる。『東京港史』(S39刊)P159にも、船首部の入る写真が掲載されている。船名は潰れて不鮮明
ながら、かろうじて「第四」が判別でき、次の文字は「大」に見えるが、「犬」ではないか。大阪築港用石材運搬船として建造された
この汽船は、独特な船首形状を有する船尾機関型貨物船。震災当時は、雑賀繁松の所有。目を通した史料に、この船名は見い出せなか
った。記録には、「地方長官の徴発による物資輸送商船は続々品川湾に来着し、其の最も輻輳したる時は商船のみにて7、80隻を越え」
とある。しかし、『震災録』には、その数に対応する船名は、記録されていない。

改めて、明治期~大正期の東京築港史に触れてみるが、『東京港史第一巻(通史[総論])』(H6刊)には、前述の「亀腹」に係留される
「眞隆丸」の絵が掲載されている。この亀腹は、隅田川口改良第一期工事として、明治44年に竣工した。この工事を、東京築港とせず、
あえて隅田川口改良としたのも、「横浜への配慮」があったと云われている。
明治18年の「品海築港計画」も、大正9年の「東京築港大計画」も、大臣決裁や国の委員会段階で、必ず神奈川・横浜側の猛烈な反対運
動に遭っている。
救援物資荷揚げは、東京築港を前進させる契機となったが、震災発生3ヶ月前の大正12年6月7日、近海郵船の受命する東京府命令小笠原
航路「大隅丸」は、様々な困難を克服し、芝浦沖へ入津した。この小笠原航「大隅丸」の東京荷役が、救援物資荷役の先鞭を付けたこと
は、記憶に留めたい。
『東京港史第三巻(回顧)』(H6刊)に掲載の、元近海郵船社長伊藤正治氏の「黎明期の東京港の思い出」は、3ヶ月の時間の空白を埋
める、大変貴重な記録となっている。かくして東京港は、昭和16年5月20日、開港の日を迎えた。



この船影は、亀腹沖を霊岸島へ向かう東京湾汽船「保全丸」。キャプションには「竹芝館より見たる芝浦海岸の眺望」とある。明治末期
から大正初期にかけての光景。

ゴールデンウィーク中のある一日、自宅から東武野田線「運河駅」まで、約40㎞を歩いた。GoogleMapで歩行最短ルートを調べ、そのル
ートを軸に、気の向くままの徒歩行となった。目的の一つは、大宮台地最南端の安行台地。赤羽駅北方で下った武蔵野面を考えると、と
ても下末吉面とは思えない、沈降ぶりを実感する。途中、偶然渡った峯分橋は、趣ある朱塗りの橋だった。また、意識して初めて、元荒
川、古利根川、中川など、大宮台地東方を流れる大河川の、合流地点を眺めた。江戸川に架かる玉葉橋を渡って野田市域に入り、薫風に
吹かれながら運河沿いを散策、「通運丸」に思いを馳せた。8時間20分で運河駅に到達し、東武野田線10000系クハ11631に乗車。5000型
以来の野田線乗車であった。
頭から離れなかったのは、震災直後にこの付近で起きた福田村事件。香川県三豊郡を旅立った薬行商の一団は、9月6日、商いをしながら
この地域にさしかかったところ、福田村自警団に取り囲まれ、「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」というだけの理由で、15名中9名
が惨殺され、遺体は利根川に流された。
「扇海丸」が芝浦で、救援物資を荷揚げをしていた丁度その頃、東京の後背地で、このような事件が発生していた。
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