goo blog サービス終了のお知らせ 

津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

関東大震災と「扇海丸」

2023-07-16 | 日記
本年は、関東大震災から100周年目にあたる。都心の西郊を南北に走る山手通り(環状6号)沿いのエリアは、関東大震災や
東京大空襲の被災者が移転し、急速に市街地化された地域。東京都作成の『総合危険度ランク』図で、都心をドーナツ状に
囲む災害危険度の高い地域は、木密地域(木造住宅密集地域)に重なり、災害に強い街作りが急がれている。
また、東京の「山の手」は、中小河川が台地(下末吉面や武蔵野面)を開析し、起伏に富んだ地形をしている。裏通りを彷徨
うと、しばしば、廃レンガ塊を積んだ擁壁に行き当たる。震災や空襲で壊滅した都心部のがれき撤去と、急ごしらえの宅地造
成に、倒壊した建物のレンガ塊を再利用したものだろう。安山岩や花崗岩を加工したケンチ石を用いず、廃レンガ・コンクリ
ート塊を用いた擁壁積みを「ガンタ積み」と言い、地元を中心として、東中野、笹塚、下北沢、代々木上原のそこかしこに、
点々と残っている。
ガンタ積み擁壁に行き当たると、レンガを焼いた窯の「刻印」を探し、記録している。つい先日も、再開発により、廃レンガ
塊を用いた擁壁が消滅した。そこは、「日本煉瓦製造会社」(深谷市)製造を示す「上敷免製」という刻印を、読み取れる場
所であった。考えようによっては、100年前の災害廃材再生品が、よくぞ、残っていたものである。



関東大震災を記録した絵葉書も、多数、発行されている。震災直後に、大阪で刷られた新聞紙面には、関東大震災の絵葉書販
売の広告が見える。「報道絵葉書」の最たるものと言えよう。大火による広大な焼跡や、崩れた凌雲閣。焼けてフレームだけ
になった路面電車。駅に集中する人々や、夥しい焼死体まで、絵葉書になっている。キャプションは手書きで、印刷・発行を
急いだと判る。日露戦争戦勝を契機とした絵葉書ブームがなければ、現在の私たちは、カメラが一般に普及していなかった時
代の覗き窓を、持たなかったろう。
東京港に来港した救援船も記録され、四隻を確認した。内、二隻は大阪商船の煙突マーク、もう一隻は「鉄道省」のように見
える。印刷は荒く、船名は潰れて読み取れない。これら汽船の船名は、一体、何だろうか。

関東大震災直後、大阪港から救援物資を海上輸送した「扇海丸」については、山田廸生氏が「ラメール」誌の「名船発掘」で紹
介され、日本クルーズ&フェリー学会のアーカイブで読むことができる。「扇海丸」の船歴やエピソードは、とても興味深い。
山田氏は、関東大震災と阪神大震災の史実から、港湾都市が被災した場合、船舶による海上輸送が強力であると結ばれている。

関東大震災当時の東京港の様子を、『東京港史』(S37刊)は次のように記している。

当時の東京港は港湾修築の消極性がわざわいして、港湾施設が貧弱で、本船接岸設備は皆無であり、わずかに芝浦方面に
日之出桟橋が存在していたのみであった。このため、千トン乃至二千トン級の救援船が、芝浦沖の狭あいな航路に危険を
冒して入港し、満潮を利用して碇泊し、干潮時には待避しながら、多数の船舶が非常荷役を強行した。この有様が東京に
港湾施設整備の必要性を痛感させる動機となった。


震災発生時は、東京に本船接岸施設は皆無であった。かろうじて、現在の日の出ふ頭の位置に、「亀腹」と呼ばれる小型船用物
揚げ場があった。救援物資の荷揚げ時の絵葉書で、汽船は接岸しているように見えても、よく見ると、艀や筏を船体と陸岸の間
に挟んでいる。北海道庁の物資輸送要項には「汽船は吃水16尺以下とす」とある。換算すると「3.636m」でしかない。
また、雑誌『港湾』には、「芝浦地先....澪筋水路は僅かに十六、七尺に過ぎずして極めて少数の船舶の外は陸揚場近く係留
することを得ず、遠きは芝浦より六、七海哩、近きも三、四海哩の羽田沖に在り」と記録されている。当時の港湾設備の状況や、
芝浦で撮影された汽船が1000G/T内外の理由も、理解できよう。岸に近づき、荷役を行ったのは「極めて少数の船舶」でしかなか
った事を念頭に、関東大震災を記録した絵葉書から、汽船を捉えたものを見てみたい。



大阪商船の煙突マークを付けた汽船は、二隻記録されている。二隻はとてもよく似ている。船名は潰れているが、左側が「扇海丸」
である。凹甲板部分に「扇海丸」はブルワークを備えるが、右側の船はハンドレールである。







最初に掲げたのは、『播磨造船所50年史』に掲載されている「扇海丸」の船影。凹甲板部にブルワークの付くことが判る。
下が東京港における扇海丸の荷揚げ風景である。船尾の船名は潰れているが、中央の文字は、輪郭から「海」と見える。
『キャパシティプラン集』からも、写真は同船と確認できるが、船名の読み取れる、鮮明な写真の発見が待たれる。
関西から関東へ向かった救援第一船は、大阪商船「志かご丸」。神戸港に停泊していた同船を大阪港へ回航し、救援品を積込み、大
阪発2日午後2時であった(午後3時の記録もある)。同船は、翌3日午後9時半に横浜港外へ投錨した。
時間的に第二船となるのは、神戸港に停泊中の日本郵船「山城丸」。2日午後4時に抜錨、全速力で東航し、翌3日夜、「救護第一船
として横浜港へ入港」と記録される。
大阪発の第二船(阪神発第三船)となった「扇海丸」は、「折柄大阪にて、芝浦行荷物積載中なりし」という状況であった。同船は、
大正12年8月10日に大阪商船が開設した東京九州線に投入されていた。救援米や缶詰等340噸を積み、2日午後6時に大阪を発ち、芝浦
へ直航。翌々日の4日夕刻、第一船として芝浦へ入港した。同船事務長によると、救援品を荷揚げしようにも、東京港には艀船も荷役
人夫もなく、当惑した本船側は、付近から木材を集めて筏に組んで艀に代え、在郷軍人や青年団の手により、荷役作業を行った。定期
航路船として、三角港で東京港向けに積載した米2,500噸は、内務省によって徴発された。東京湾内は重油の海と化していて、少々の
風浪では海水面が見えず、芝浦付近は硫黄臭が強かったと、証言している。災害時の「匂い」の記録は、なかなか伝わらない。
「扇海丸」は予定より一日早く、12日午前10時、被災者174名を乗せ、大阪港へ戻った。以上のことから、「扇海丸」が芝浦に在港し
たのは、4日夕刻から10日正午までの間であると判った。



この大阪商船の貨物船は不明。当初、「扇海丸」と同一船と考えていたが、よく見ると、前述したとおり、ブルワークや船橋部の形状
が異なっている。本船と陸岸の間に、船尾が円形の艀を挟み、避難民を乗船させている。
この写真が撮られた時、芝浦には最低三隻の汽船が接岸していたと見られる。「扇海丸」の前方に見える大阪商船マークの煙突は、こ
の汽船か。救援物資輸送船記録と、『大阪商船事業参考書』借入船一覧表を対比しても、よくわからない。
さらにこの船の前方にも、塗り分けたフッドを備えた汽船が接岸している。





これは『大阪商船事業参考書』「大正12年上半期」(上)、「大正12年下半期」(下)の、期末現在借入船一覧表である。煙突マークを纏
っていることから、社船、もしくは借入船一覧表に記されている一隻とみられる。掲載船名をもとに、『キャパシティプラン集』から「ブルワ
ーク無し、船尾側1ハッチ、後部マスト船尾側」と絞っていくと、「津軽丸」が浮かんでくるが、この段階で、同船との断定は避けたい。



これは「津軽丸」のキャパシティプラン。



この汽船の煙突マークは、「工」に見えるが、鉄道省は橙色地に黒なので、白抜きのこのマークは、別会社であろうか。船名は三文字。
新聞記事には、鉄道省命令船として「三天丸」を大阪から東京へ差し向け、枕木材や杉板など、鉄道復旧資材を輸送したと記録される。
『キャパシティプラン集』から同船を確認したところ、三島型であり、写真の船とは異なると判った。



この船は、「第四犬島丸」と見られる。『東京港史』(S39刊)P159にも、船首部の入る写真が掲載されている。船名は潰れて不鮮明
ながら、かろうじて「第四」が判別でき、次の文字は「大」に見えるが、「犬」ではないか。大阪築港用石材運搬船として建造された
この汽船は、独特な船首形状を有する船尾機関型貨物船。震災当時は、雑賀繁松の所有。目を通した史料に、この船名は見い出せなか
った。記録には、「地方長官の徴発による物資輸送商船は続々品川湾に来着し、其の最も輻輳したる時は商船のみにて7、80隻を越え」
とある。しかし、『震災録』には、その数に対応する船名は、記録されていない。

改めて、明治期~大正期の東京築港史に触れてみるが、『東京港史第一巻(通史[総論])』(H6刊)には、前述の「亀腹」に係留される
「眞隆丸」の絵が掲載されている。この亀腹は、隅田川口改良第一期工事として、明治44年に竣工した。この工事を、東京築港とせず、
あえて隅田川口改良としたのも、「横浜への配慮」があったと云われている。
明治18年の「品海築港計画」も、大正9年の「東京築港大計画」も、大臣決裁や国の委員会段階で、必ず神奈川・横浜側の猛烈な反対運
動に遭っている。
救援物資荷揚げは、東京築港を前進させる契機となったが、震災発生3ヶ月前の大正12年6月7日、近海郵船の受命する東京府命令小笠原
航路「大隅丸」は、様々な困難を克服し、芝浦沖へ入津した。この小笠原航「大隅丸」の東京荷役が、救援物資荷役の先鞭を付けたこと
は、記憶に留めたい。
『東京港史第三巻(回顧)』(H6刊)に掲載の、元近海郵船社長伊藤正治氏の「黎明期の東京港の思い出」は、3ヶ月の時間の空白を埋
める、大変貴重な記録となっている。かくして東京港は、昭和16年5月20日、開港の日を迎えた。



この船影は、亀腹沖を霊岸島へ向かう東京湾汽船「保全丸」。キャプションには「竹芝館より見たる芝浦海岸の眺望」とある。明治末期
から大正初期にかけての光景。

ゴールデンウィーク中のある一日、自宅から東武野田線「運河駅」まで、約40㎞を歩いた。GoogleMapで歩行最短ルートを調べ、そのル
ートを軸に、気の向くままの徒歩行となった。目的の一つは、大宮台地最南端の安行台地。赤羽駅北方で下った武蔵野面を考えると、と
ても下末吉面とは思えない、沈降ぶりを実感する。途中、偶然渡った峯分橋は、趣ある朱塗りの橋だった。また、意識して初めて、元荒
川、古利根川、中川など、大宮台地東方を流れる大河川の、合流地点を眺めた。江戸川に架かる玉葉橋を渡って野田市域に入り、薫風に
吹かれながら運河沿いを散策、「通運丸」に思いを馳せた。8時間20分で運河駅に到達し、東武野田線10000系クハ11631に乗車。5000型
以来の野田線乗車であった。
頭から離れなかったのは、震災直後にこの付近で起きた福田村事件。香川県三豊郡を旅立った薬行商の一団は、9月6日、商いをしながら
この地域にさしかかったところ、福田村自警団に取り囲まれ、「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」というだけの理由で、15名中9名
が惨殺され、遺体は利根川に流された。
「扇海丸」が芝浦で、救援物資を荷揚げをしていた丁度その頃、東京の後背地で、このような事件が発生していた。

ストンボ「金札」

2022-07-30 | 日記
三年前の2019年、品川駅の工事現場から、明治初期に築造された高輪築堤の一部が出現し、橋台部も見つかった。汐留
地区再開発の際にも、転車台や鉄道工場の遺構が発見され、ゆりかもめ車窓より、興味深く眺めた覚えがある。
明治の初め、鉄道開業前の東京横浜間・大阪神戸間に、蒸気船による航路が誕生した。前者では「稲川丸」「弘明丸」が
有名で、「シティ・オブ・エド」の汽罐爆発事故は、当時の人々に記憶された。この航路には、他にも鉄船「奮迅丸」も
使用された。この船は熊本藩の輸入した蒸気船の後身で、後に「徳島丸」を経て、廃船殻再生の上、「効鉄丸」に生まれ
変わった。この航路に使用された蒸気船は、1872(M5)年の新橋横浜間鉄道の開業後、東京湾内航路には転用されなかった
ようだ。

一方、大阪神戸間航路に就航した蒸気船の一部は、1874(M7)年の大阪神戸間鉄道の開業前から、瀬戸内各地に航路を延伸
させている。当初、蒸気船を所有・運航したのは、「藩」や我が国に進出した外国商社であり、藩船や外国商社所有船は、
次第に国内資本家の所有船となっていく。当時、「内航」に従事した外国商社船は、外国籍船として運航されている。

『日の丸船隊史話』には、次のとおり記される。
「フヒッツゼラルド・エンド・ストローム会社の建造した無事丸・芙蓉丸(90呎木造客船)は阪神の交通に用いら
れ、両地間を1時間45分で走り好評を博した。此阪神航路は右両船の後、金札丸、往返丸、ライジングサン、バール
ングの4隻(上海トンブリ所有)を輸入使用したと言う。」


神戸開港文書に収められている大坂通船の記録[1871(M4)年]を見ると、船名等は次のとおり。
年月は陰暦。辰=元年、巳=2年、午=3年、未=4年。
米国「ヲーヘンマル船」 90噸 テレシング 午12月16日入港
米国「キンサツ船」   20噸 テレシング 牛12月16日入港
米国「ライシングサン船」90噸 テレシング 未 正月2日入港
米国「バールング船」  60噸 テレシング 巳10月22日入港
孛国「コロン船」    24噸 キニッフル  →M4に大阪開商会社「起商丸」改名
福山藩「快鷹丸」    50噸 午2月より
新屋次郎助(兵庫町人)「鷲丸」50噸 午7月晦日入港
高鍋藩「千秌丸」       午閏10月10日入港
佐賀藩「秋芳丸」    58噸 午11月より
徳島藩「戊辰丸」    5噸  午12月24日入港
大坂開商会社「起商丸」 10噸 午12月27日入港   ←元キニッフル「コロン」
徳島藩「富商丸」    5噸  未 正月14日入港  →阿州徳島綿屋彦兵衛
鳥羽藩「飛燕丸」    20噸 未 正月20日入港  →志摩屋羽左衛門
播磨屋久兵衛「勢鷹丸」 20噸 未2月3日入港   →大坂町人播磨屋久之助
徳島藩「己巳丸」    18箇6合 未2月6日入港  →阿州徳島長尾最兵衛

テレシングは「テレジング商会(日支貿易商会)」、キニッフルは「クニフラー商会」とみられる。個人名ではない。
福山藩「快鷹丸」は、福山藩がレーマンハルトマン商社より購入した原名「アドレール」(鉄製)。輸入キットを組み立
てた、鉄船3隻中の一隻。但し、『明治18年汽船表』や『船名録』はハンブルグ製としている。
新屋次郎助(治郎助)「鷲丸」は、レーマンハルトマン商社より購入した原名「ハービート」で、「ヲーサカ」を経て
国内籍船「鷲丸」となった。この船は後に鉄船「大安丸」(太安丸とは別船)と改名、1880(M13)年頃抹消され、『明治
14年船名録』には掲載されない。輸入キット組み立ての、鉄船3隻中の一隻。
高鍋藩「千秌丸」は「千秋丸」の誤り。幕府運輸船とは別船である。本題から外れるので、以下数隻を端折りたい。
最後の徳島藩「己巳丸」は「己巳鵰」の誤りで、同船は後に「凌波丸」(船舶番号40)となった。この船は神戸で建造され
ている。

大阪神戸間に就航した蒸気船は、1874(M7)年の大阪神戸間鉄道の開業後も、阪神と瀬戸内海各地を結ぶ航路に就航し、
大阪の玄関口として、川口波止場の賑わいは続いた。
明治初期に撮影された大阪川口波止場の光景を、鶏卵写真から眺めてみたい。







蒸気船による航路の開設された頃の状況を、神戸、大阪両地の地誌は、次のとおり記している。

「貿易の開かるると共に、最も不備を感じたるは、交通運輸の機関なり。此に於て海上の運搬は、早くも従来の
檜垣船、樽船、猪牙船に加ふるに、汽船の航行を以てせんとする者出で来り、元年四月汽船「ストンチ」は、日
々午前八時に大阪に奔り、午後五時に大阪より来る。其目的とする所は、全く一般の旅客と、普通の貨物積載に
ありて私人営利の計画に出づ。 (略) 一般の旅客、普通の貨物が、汽船に由て兵庫大阪及び大阪横浜間に回
漕せられたるは、蓋し此時を以て嚆矢と為すなるべし。」

『神戸開港30年史』(明治31年5月刊)

「明治二年の春、米国商館「ワッチ」の所有船往返丸及び外人某の所有船「千里馬」は相共に大阪神戸間の運転
を始め、自己商館の物資を運搬する傍、商業的行為を以つて一般交通の旅客を搭載し、往返丸は安治川を遡行し
て旧安治川橋下流に碇繋せり、是れ大阪に於ける純然たる商船開始の濫觴にして、又、汽船が安治川を進航せし
嚆めなりとす、 (略) 明治三年に至りては徳島丸及び照天丸の二隻新たに摂津阿波間を航行し、阪神間には
己巳鳩(後、凌波と改称す)快鷹丸(福山藩船)通計丸、金札丸等の諸船前後して航業を開始し、早く巳に競争
の傾向を来たし、神速丸、勢鷹丸、鷲丸等亦相次いで現はれき、」

『大阪府誌』(明治34年刊)

運航開始時期や船名にに違いが見える。『神戸市史』は明治元年4月「汽船ノ阪神間航海開カル」としている。神戸側の
記録にある「ストンチ」は、明治6年に日本籍となった2噸2馬力の「ストンポーチ」なのか。それとも「スチームボート」
が転化したという「ストンボ」のことなのか。『神戸海運50年史』には、明治3年「ストンボ」運河丸が辨天浜に打ち上
げられた件が記されている。ここでは「ストンボ」は、船名ではなく総称のようだ。

橋本徳壽『日本木造船史話』は、次とおり記している。
「明治元年西暦1868年4月には、神戸大阪間に小蒸気船で、貨客運送を始めた者があった。また、同じ月に大阪
運上所の汽船浪速丸が大阪横浜間の飛脚船をはじめた。また6月には横須賀造船所の横須賀丸が旅客を専門とし
て、毎週3回横須賀横浜間の飛脚船をはじめた。また同じ年の8月には神奈川丸が横浜東京間の往復をはじめた。
これらの蒸気船を当時はストンボ(スチーム・ボートの訛り)と呼んで評判になり、錦絵の材料にもなった。」


「金札」という船名を読み取れる画像に接し、3枚目の鶏卵写真に見える小外輪船の船名が判明した。上甲板を外側に張り出
し、外輪部を外板より内側に設けているため、スッキリした外観である。その外輪覆部分に「船名額」と見られる板が取り付
けられているものの、読み取れない船名にもどかしい思いをしていた。判ってみると、確かに、文字の輪郭は「金札」と相似
だ。明治のごく初期、阪神間に就航したストンボ「金札(キンサツ)」の船影が特定された瞬間だった。







「金札(キンサツ)」の建造地は判らない。日支貿易商会が運航し、上海トンブリ所有という記録等から、建造地は上海なのか。
「金札」の係留される背後には、寄棟造の、テラスを持つ特徴的な建物がある。これは、鶏卵写真二枚目に見える建物と同じで、
大阪運上所構内に設けられたという川口傳信局。局舎内に、二名の人物が見える。
「金札」の船上にも、欧米人とみられる人物の姿がある。錨を格納する位置や、船楼甲板上のボートの向きから、左側が船首で
ある。人物の右上方、銭湯の「湯気抜窓」のようなところが操舵室か。キセル型ベンチレーターも付いている。要目表には1檣
とあり、鶏卵写真の右手船尾側に見えるマストは、背後の汽船のものと見られる。
同船は明治10年に米国テレジング商会より大阪の平尾喜平治(岡山出身)が購入し、「置郵丸」と改名。初めて日本籍となった。
丁度、西南戦争の時期にあたる。
しかし、改名(購入)から一年で、「置郵丸」は名簿から消滅する。当時、数少ない鉄船であり、船体寸法の似た船を後年の版
に捜したが、見当たらない。再び海外へ売却されたのか。はたまた、海難に遭って失われたのか。記録された要目は次のとおり。
置郵 鉄製 外輪船 馬力22.5 噸数51 長63.62尺 巾15.51尺 檣1本

ある日の宇野港

2019-04-14 | 日記
1910(M43)年6月12日、岡山駅と宇野駅を結ぶ宇野線が開業した。宇野~高松航路は同日開設され「玉藻丸」「兒
島丸」を岡山(三蟠)~高松及び尾道~多度津航路から転用し、就航させた。



この絵葉書の光景は、宇野港の鉄道連絡桟橋を捉えたもので、「並行型浮桟橋」に着桟しているのは「兒島丸」。
左側の島影は葛島、右側の山塊は新浜造船所裏手の中山隧道のある山。この桟橋風景は、『鉄道連絡船細見』P75
の「A図」に一致する。撮影者の後方に宇野駅はある。同書によると、1910(M43).06~1924(T13).04の間の光景。
キャプションは「宇野築港と連絡船」としか記されていないものの、沖合には2隻の国鉄船の姿がある。新たに整
備された宇野港に、初めて入港した大型汽船と連絡船と絡め、意識して3隻を撮影したと思われる。
何と、沖合の2隻の汽船は「阪鶴丸」(左)と「第二阪鶴丸」(右)であり、これは1912(M45)年3月の光景と理
解した。



阪鶴丸 10154 / JWVF 775G/T、鋼、1906(M39).05、大阪鉄工所、187.0尺 [M45版]
                              「1尺」曲尺=0.3030303m



第二阪鶴丸 11081 / LFKS 864G/T、鋼、1908(M41).04、大阪鉄工所、187.6尺 [M45版]
                              「1尺」曲尺=0.3030303m

『宇高航路50年史』や『宇高連絡船78年の歩み』には、「阪鶴丸」姉妹の宇高航路助勤の経緯が記されている。
前者より引用する。

明治45年には金比羅宮三百年祭が大々的に催され、このため全国から集まる参拝客はあとをたたず、宇高
航路を通過する団体客は著しい数にのぼった。
この団体客を輸送するため、舞鶴から阪鶴丸・第二阪鶴丸の派遣を受け68回にもおよぶ臨時運航を行ない、
約6万人の団体客を輸送し、航路年間輸送量の4分の1強を占める実績をあげた。


この間の経緯を、鉄道院米子出張所の新聞広告や、『宇高航路50年史』『関釜連絡船史』『青函連絡船50年史』か
ら追ってみたい。

1912(M45)年2月29日に境~舞鶴航路は最終航を迎えた。鉄道院米子出張所による新聞広告は、紙面の破れや活字
潰れがあるものの、二月末日が最終航出港日と判る。

山陰線全通三月一日
濱坂香住間運輸営業開始
仝日ヨリ出雲今市京都間ヲ山陰線ト改稱シ大阪京都ヨリ直通列車ヲ運轉シ各等客車ヲ連結致候尚仝●ニ
阪鶴線、播但線及舞鶴宮津間、舞鶴小濱間連絡汽船●●改正又●來境舞鶴間ニ●航シタル連絡汽船ハ二
月末日限リ廃止致候
詳細ノ時刻ハ各停車場ニ掲示●之候
鉄道院米子出張所


1912(M45).02.25 「第二阪鶴丸」宇野港へ回着。
      02.27 「第二阪鶴丸」宇高航路に助勤。03.20まで。
      03.18 「阪鶴丸」宇野港へ回着。
      03.21 「阪鶴丸」宇高航路に助勤。04月末日まで。
      04.08 「第二阪鶴丸」貨物船として関釜航路に就航する。05.27まで。
      06.05 「第二阪鶴丸」青函航路に就航する。1914(T03).07.25まで。
      07.- 「阪鶴丸」阿波国共同汽船へ売却される。1916(T05).11沈没。
1914(T03).07.- 「第二阪鶴丸」阿波国共同汽船へ売却される。1916(T05).01「第十八共同丸」と改名。

この経緯から、宇野港における記録は「第二阪鶴丸」就航中のところへ「阪鶴丸」が到着した1912(M45)年3月18日
から、二日後の20日までの間と判った。風景を捉えた100年以上前の絵葉書から、撮影日を数日間に絞ることができ
るのは、とても珍しいこと。
もう一点。これは記されていないことだが、境~舞鶴航路の終末期は「阪鶴丸」1隻体制であったと判った。

以前、『「阪鶴丸」のその後』の中で、「阪鶴丸」の総トン数の変化から、改造を1910(M43)年中と記した。「阪鶴
丸」改造後の鮮明画像を掲載する『山陰線写真帖』を手にしたので、前後を対比する。改造前の通路は、カンバスを
張り、飛沫の打ち込みを防いでいるように見える。





改造前の「阪鶴丸」





改造後の「阪鶴丸」

当時より、境水道は埋立てられていると思われるが、ストリートビューで確認すると、阪鶴丸の桟橋は、山の重なり具合
や稜線から、現「境港駅」付近とみられる。

由良川航路史をたどる

2018-03-04 | 日記
阪鶴鉄道の開設による日本海側鉄道連絡航路史は、本来なら「由良川水陸連絡航路」(以下「由良川航路」)から
記したかった。しかし、由良川航路の記録は少なく、記されていてもその内容は異なり、全貌は把握しがたい。
由良川で思い出されるのは、2004(H16).10.20に発生したバス水没事件。台風23号により増水した由良川の堤防が
決壊し、国道175号線を走行していた観光バスが巻き込まれた。乗客・乗務員37名はバス屋上に避難し、翌21日朝
になり、約10時間ぶりに全員無事に救出された。
洪水を起こす由良川も、渇水期の水量は少なく、航路上流側の汽船運航は、苦労したらしい。水量に応じ、汽船は
運航区間を変えたことから、その記録は統一を欠き、由良川航路史を判りにくくしている。
本稿で触れる期間は、由良川航路開始と記録される1901(M34).12.01から、福知山~舞鶴間の鉄道が開通し、由良
川航路の閉航された1904(M37).11.03までの経緯を主とし、さらに、早々に転用された「第二由良川丸」の、抹消
された1906(M39)某日までの経過である。
由良川航路閉航後、「第一由良川丸」が記録に現れるのは、1909(M42).08開設の宮津湾内航路に投入されたことの
み。翌1910(M43)に「旭丸」に代替された。1922(T11)の抹消に至るまで、その間以外の動向は判らない。



由良川航路と由良川丸2隻は、文献にどのように記録されたか、順に確認したい。『日本近世造船史』(1911)は、浅
吃水船の項に次のとおり記している。
第一由良川丸 阪鶴鉄道由良川上流
第二由良川丸 阪鶴鉄道由良川下流


『日本鉄道史』(1921)は、由良川航路開始日のみを記している。
34年12月1日ヨリ福知山由良間ニ由良川ニ依リ貨物運搬ノ為定期運航ヲ開始ス

『日本鉄道連絡船史』(1948)は、次のとおり記している。
(略)‥由良川の水運を利用して、宮津及び舞鶴方面との旅客並びに貨物の連絡運輸を企てることを決議
し、ここに傍系会社由良汽船商社を起し、大阪鉄工所にて浅喫水船第一、第二由良川丸を建造し、明治
34年12月よりこの水運連絡を開始した。‥(略)‥
福知駅(福知山)前より市内を貫流する由良川の川岸、蛇ケ鼻乗船場までは、旅客は人力車により貨物
は軽便軌道を敷設して手押車で運送し、蛇ケ鼻より国境を越え、丹後に入った最初の町、河守までは川
舟で、河守より由良まで、上流は第一由良川丸、下流は第二由良川丸によって輸送した。途中藤津に客
荷扱所を設け、同地より舞鶴方面と連絡し、又由良町よりは宮津方面に連絡した。これら連絡地点より
両方面へは人力車で旅客を送迎した。


『鉄道技術発達史』(1958)は、由良川水陸連絡航路を1902(M34).12開航、1904(M37).11.03閉航とした上で、次
のとおり記している。
阪鶴鉄道は大阪、舞鶴間の交通を目的として建設を開始したが、京都鉄道で建設中であった福知山・舞
鶴間の線路の工事が遅延して開通しないので、福知山を貫流する由良川の水運を利用して、宮津と舞鶴
方面との連絡を企図し、駅から川岸蛇ケ鼻乗船場までは、旅客を人力車で貨物をトロッコで運送した。
この水路は途中藤津で舞鶴方面と連絡し、終端由良町では宮津方面と連絡した。


『速水太郎伝』(1939)には、次のとおり記される。
翁(速水)の発案にかかり成功したものは明治34年3月福知山宮津間の水運を利用したことである。これ
が為め翁は連絡用の鉄船二隻を建造した。‥(略)‥由良川は源を丹波の大江山に発した急流で、水も深
いがまた處によると浅い砂利の水床が多く、これが為め随分途中困難をみたが、翁の熱心とその着眼の
よい創意によって、鉄製連絡船は見事に成功した。


由良川丸二隻は、1902(M35)の竣工時「速水太郎所有」として登簿された。速水の取締役就任は1904(M37).10であ
り、当時、「役付」ではなかった。
構想と現実との間で変転した、航路と二隻の船を、記録からたどってみよう。

1901(M34)年

舞鶴を目指す阪鶴鉄道は、速水太郎が中心となり、応急策として由良川航路を企画した。舟運事業は直営とせず傍系
会社を設立した。裏付けは得られないものの、由良川航路運航開始は『日本鉄道史』(1921)の記録から1901(M34).
12.01。当時、二隻の由良川丸は未登場で、貨物運搬を目的に、川舟を用いて福知山~由良間定期運航を開始した。
『速水太郎伝』にある1901(M34).03は、総会決議日か、傍系会社設立日ではなかろうか。これも裏付けは得られな
かった。
傍系会社名は、「由良汽船」「由良汽船商社」など、史料によって異なる。最も遡れる史料とその社名は『阪鶴鉄道
名所案内』(1902[M35].10刊)と業界紙の記す「由良船舶商社」が正確と考えている。

1902(M35)年

この年、由良川丸二隻の登場をみた。登場に先立つ03.01に「舞鶴福知山間の運輸」として、次の記事がある。
阪鶴鉄道にては大阪舞鶴間の運輸速達に付き由良川沿道鉄道線路の通ぜざる上流に曳船業を開始し鉄
道との連絡を図る筈にて福知山より藤瀬間に汽船二艘(一は喫水の浅きもの一は喫水の深きもの)を
浮べ福知山より河守までは喫水の浅きもの夫れより下流は喫水の深きものを使用することとし上流の
分は二十人乗、下流の分は四十人乗の鉄船とする計画


両船の登場経過を紙面より拾うと次のとおり。
05.08 大阪鉄工所にて「第一由良川丸」進水式。桜宮まで試運転。
 ?  貨車に積載し、由良川へ鉄道輸送。
06.01 河守由良間の航通を開始する。
 ?  大阪鉄工所にて「第二由良川丸」竣工。
06.03 尼崎へ廻航。
 ?  尼崎より由良川へ鉄道輸送。
07.22 福知山音無瀬川にて試運転。

先に記した『日本鉄道連絡船史』(1948)で特異なのは、福知山~河守間は川舟にて運航したとする点。しかし『福知
山鉄道管理局史』(1973)には、「福知山の音無瀬橋の桟橋から蒸気船は出た」という国鉄OB氏の証言も掲載される。
全期間を通じ、河守起点とはならなかった。
航路短縮の裏付けは、『大阪朝日新聞』(1902{M35}.06.10)から得られた。この時は「第二由良川丸」未登場で「第
一由良川丸」一隻の運航。それも運航開始直後の報道である。
阪鶴鉄道株式会社の企業に係る福知山、由良間の航通汽船はこの頃加佐郡河守、藤津間のみの航通に
止め福知山河守間は一時之を休止せしが今其原因を聞くに福知山河守間は其距離僅に三里許なれど中
間には数箇所の浅瀬ありて減水の時に至りては小舟だに航通困難にして設令之を浚渫し一時航通し得
るに至れども少量の出水にすら水勢を変更し到底浅瀬を防止し得ざるを以て其方法を案出するに至る
迄余儀なく事の茲に至りし次第なりといへり(八日発)


この記事から、1902(M35).06.08時点における「第一由良川丸」の運航は、河守~藤津間と判った。06.01に汽船運
航を開始した由良川航路は、順調なスタートとはならなかった。
『朝日新聞京都付録』(1902[M35].07.05)には、次の記事がある。
阪鶴馬車は由良川丸と競争せんと計画にて来る七日より再び宮津福知山間を通ひ賃金も二十銭余を低
減する由


記事にある「阪鶴馬車」は、阪鶴鉄道の傍系会社ではない。1900(M33).02に多紀三業、京都丸二運送店、三丹馬車
運送会社の三社協議により設立された「阪鶴馬車運輸」を指す。福知山から宮津や舞鶴へ向かう時、幾度も乗換えを
要する由良川航路より、鉄道終着駅から目的地へ直行する馬車の利便性は高かったと思われる。

田中敦著『「阪鶴鉄道唱歌」について』によると、同唱歌を収めた冊子は、1902(M35).11に発行された。田中氏は
「本件唱歌では、福知山で汽車を降り(39番)、人力車に乗って天津まで(41ないし44番)、さらに、天津から由良
まで川船(45番)、由良から宮津・天の橋立を経て舞鶴までは馬車と船(46番以降)を利用した唱歌となっている」
と記している。また、唱歌原稿の史料から、「本件唱歌は、構想が温められてから、三日間で一気に進められたこと
がうかがえる」とある。三日間とは、1902(M35).08.15~17を指す。
由良川航路は、運航開始直後は河守発着であったが、約二ヶ月後の8月には、河守より福知山に近い天津発着となった。

『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル概況』によると、1902(M35).09末における由良川航路は次のとおり。
由良川ニハ速水太郎ノ所有ニ係ルモノ二艘此総噸数35噸26アリ専ラ旅客ヲ搭載シ福知山、由良間ヲ往
復スルヲ目的トシ特ニ阪鶴鉄道ト聯絡ヲ結ヒ交通ノ便ヲ與フルモノノ如シ


福知山~由良間に使用される船舶は旅客船二隻とあり、合計の総トン数は35.26噸、一ケ月航海回数は120回とある。
使用船舶は次のとおり。
第一由良川丸 8.91噸 速水太郎 旅客 月間航海回数60回
第二由良川丸 26.35噸 速水太郎 旅客 月間航海回数60回


運航開始後、一時的に河守及び天津発着とした航路も、9月末には福知山発着となっている。しかし『近世造船史』に
記録されたような、上流、下流を二隻で分担する期間は半年も続かなかったと、後に引用する新聞記事から判った。

二隻の船影と、『船名録』に記録される建造年月と所有者・要目の変化を記しておく。
「長」は未換算の数値(1尺=0.3030303 m)。



第一由良川丸 (不登簿) 船質:木、1902(M35).04、建造地:大阪、43.20尺 [M36版]
  M36版 速水太郎 8G/T
  M37版~M40版 速水太郎 8G/T
  M41版 速水太郎 8G/T
  M42版 帝国鉄道庁 8G/T
  M43版 大蔵省 8G/T
  M44版~T10版 大蔵省 8G/T
  T11版 大蔵省 8G/T
  T12版 掲載なし(T11年中に抹消)
「第一由良川丸」は、最後に掲載された『船名録T11版』まで、不登簿船の項にある。変化は所有者のみ。ただ不思
議なことに『近世造船史』は「鋼船」としている船質が、『船名録』は「木」とある。船影は『近世造船史』に掲載
のもの。



第二由良川丸 8391 / JDFH 船質:鋼、1902(M35).07、建造:大阪鉄工所(福知山)、62.80尺 [M36版]
  M36版 速水太郎 双螺旋 26G/T
  M36付録 速水太郎 26→30G/T 「積量変更」の記載あり
  M37版 阪鶴鉄道 四螺旋 30G/T
  M38版 阪鶴鉄道 四螺旋 30G/T
  M39版 阪鶴鉄道 四螺旋 30G/T
  M40版 掲載無し(M39年中に抹消)
「第二由良川丸」は、建造地を福知山としている。これは、湖沼畔で再組立てされた船舶によくある例。船影は『大
阪鉄工所アルバム』に掲載のもの。

1903(M36)年

年初の新聞に「由良川汽船航路拡張」という記事が掲載されている。由良船舶商社には、従来の由良川航路の他、由
良舞鶴間の航路を開く計画があり、既に「第二由良川丸」の改造に着手し、一月上旬より運航を開始するというもの
(1.03付)。
また、続報として、由良より舞鶴及び餘部港までの新航路も開設し、「第一由良川丸(ママ)」を投入。1月19日に航海
式を行い、旧藩主牧野子爵邸において祝宴を開いたという(1.24付)。
由良から舞鶴・余部港へ、浅喫水船を転用した航路開設には無理があり、誤報と思われる。近い将来、沿岸航路を開
設する計画が、祝賀会において披露されたのだろう。いずれにせよ、前年1902(M35)暮、「第二由良川丸」改造は着
手され、転用する航路開設の祝賀会が開かれている。
続いて「阪鶴鉄道の連絡航路」と言う記事には、「第二由良川丸」の舞鶴軍港航海の件は、既に「其筋」より航行許
可を得て、1月26日から舞鶴商港(通称西舞鶴)より同軍港(通称東舞鶴)への航海営業を開始したとある。舞鶴軍
港の航行は、通常、鎮守府の許可を得るのに二日間位を要するが、「第二由良川丸」は、許可を得ているため45分に
て航行し、東西舞鶴間の航通に便利をもたらしたと報じている。福知山~西舞鶴間は、既に馬車による交通が開設さ
れていて、当分の間、「第二由良川丸」を東西舞鶴間の区間航海に充当し、一日三往復させるという(01.31付)。

「第二由良川丸」の改造は、一体、何を行ったのか。
『船名録M36付録』には「積量変更」と記載され、総噸数26→30、登簿噸数14→16と変化する。『船名録M36版』
(M35.12.31現在)と『船名録M37版』(M36.12.31現在)を確認すると、推進器は「双螺旋」から「四螺旋」へと変化
する。

『明治36年1月時刻表』の阪鶴鉄道広告頁に「舞鶴連絡汽船は福知山舞鶴間三時間にて達すべし」とある。福知山と
舞鶴又は宮津との間には、毎日数回、鉄道に接続して運航する汽船と馬車があり、切符は福知山駅待合所で販売する
旨を記している。舞鶴連絡汽船は、次の各列車に接続した。
下り 京都発07:45→福知山着12:54
上り 福知山発13:30→大阪着14:45

『福知山鉄道管理局史』(1973)は、「第二由良川丸」の舞鶴湾内定期航路(西舞鶴~平)に関し、1903(M36).09.26
付『阪鶴鉄道社報』に掲載の「運航時刻改定」に触れている。地図を確認したところ、「平」という地名は「西大浦」
と重なり、後に触れる「中田」も近い位置にある。

『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告第二回』(1903[M36].12末)は、速水太郎所有汽船が宮津敦賀沿岸(舞鶴
湾)及び由良川航路に就航するとあり、特に後者に関し、次のとおり記録している。
由良川筋ニハ速水太郎所有ニ係ル小汽船一艘アリ此総噸数8噸ニシテ福知山、由良間ヲ航通シ其目的
タルヤ阪鶴鉄道ト聯絡セシムルニアリテ常ニ旅客ノ交通及雑貨ノ運搬ニ従フモノトス然レトモ同航路
ハ水運ノ便ニ欠クル所アリ洪水又ハ減水ニ際會セハ臨時休航スルコトアリト云フ

「第一由良川丸」は「福知山~藤津~由良」間を月間30就航し、旅客6,409人を運んだ。摘要欄に「夏季洪水又ハ減
水ノトキハ休航スルコトアリ」と記される。別項の「河川航通汽船ノ概況」には、由良川航行汽船は「第一由良川丸」
一隻とし、次の記載がある。
汽船航通スルハ由良ヨリ福知山ニ至ル航程約九里十三丁ニシテ毎年夏季七、八月ノ交ハ河水涸渇シ最
浅一尺以下ニ及ヒ全区間半ハ航行シ難シ故ニ此場合ハ由良ヨリ上航シ得ル所マテニ止メ旅客ハ接続船
ヲ以テ福知山ヨリ下航セシム又之ニ反シ増水十尺ヲ越ユルトキハ橋梁等ニ支ヘラレ若クハ急流ノ為メ
休航アルヲ免カレスト云フ
右汽船(第一由良川丸)ハ由良ヲ起点トシ同地ヨリ上リハ約六時間福知山ヨリ下リハ約四時間ヲ以テ
各目的ニ達スルモノニシテ毎日一回往復セリ

また、「第二由良川丸」は「東舞鶴~西舞鶴」間を月間90就航し、旅客14,105人を運んでいる。鉄道連絡航路には当
たらないものの、由良船舶商社は「第二由良川丸」を用い、東舞鶴~西舞鶴航路を経営した。その航路は、いつの頃
からか、西舞鶴~中田航路と短縮された。

1904(M37)年

この年の記録は、『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告第三回』(1904[M37].12末)から確認するしか無い。
「第一由良川丸」は「福知山~天津~河守~藤津~由良」間に投入され、航海数は年間360回設定、旅客1,653人を運
んでいる。11月閉航にしては、旅客数は余りに少ない。備考欄に「37年6月25日ヨリ修繕中」とある。年末における
統計書という性格を考えると、「第一由良川丸」は、修繕中のまま閉航を迎えたと見られる。
「第二由良川丸」は「西舞鶴~長浜~浜村~中田」航路に使用され、航海数は年間1,008回設定、旅客13,311人を運
んでいる。こちらも、備考欄に「37年9月28日ヨリ修繕中」とある。「第二由良川丸」は、抹消された1906(M39)某
日まで、舞鶴湾航路に活躍したのだろうか。また、記録に現れない「第一由良川丸」も、一緒に使用されたのか。
1904(M37).11.03官設鉄道の福知山~綾部~新舞鶴(現:東舞鶴)が完成すると、阪鶴鉄道は開通区間を借受け、直
通運転を開始した。由良川航路は目的を達し、閉航された。
『速水太郎伝』(1939)は「見事に成功した」とする由良川航路も、新聞記事の表現を借りると「不成績に終わった」。

瀬戸内海航路図絵

2018-01-08 | 日記
地形図にしろ住宅地図にしろ、地図を見ていると時の経つのを忘れる。カラフルな路線図には、特に弱い。幼い頃、
ぱたぱた折り畳める鉄道路線図を親から貰い、どこへ出掛けるにも持参していた。それは、日本列島を無理矢理変形
させて紙面に押し込み、色とりどりの国鉄路線を配し、情報として路線名や名所旧跡、民鉄路線も記されていた。当
初の地図はぼろぼろになり、それでも補強して眺めていたが、紛失してしまった。後に、少し後の時代の地図を入手
した。



当時、よく乗った70形の「スカ線」は、東京駅終着だった。しかし、横須賀線という路線は大船までということを、
この路線図から知った。運転系統名と路線名の違いである。東北本線を二回跨ぐ仙石線や、うねうね続く駅の多い飯
田線、九州や北海道の短い盲腸線の意味や歴史は、後になって理解した。
毎年発行される都営バス「みんくるガイド」は、日頃からバッグにしのばせている。三万二千分の一の地図に情報を詰
め込むため、路線の集中する地点では、道路幅は260mになってしまうあたりが面白い。

最も秀逸と思われる航路図は、大阪商船の「瀬戸内海航路図絵」。手許には青表紙版と赤表紙版の二種類があり、描
かれた航路も多少異なっている。何れも鳥瞰図絵師として名高い吉田初三郎の作品。航路図としての情報のみならず、
島々や名所旧跡も詳細に描かれ、その美しさは見飽きない。ただ、惜しむらくは印刷年の記されないこと。大正末期
と考えてはいたもののはっきりせず、この正月休みに時代考証してみた。参照したのは大阪商船『50年史』と『事業
参考書』。







青赤両版とも、表紙内側に「台湾航路大改善」として「蓬莱丸」の写真を掲げている。社史231Pには「十三年六月よ
り蓬莱丸、翌七月より扶桑丸を加え笠戸丸と共に就航せしめ‥(略)‥昭和二年四月笠戸丸の代りに瑞穂丸‥」とあり、
1924(T13).07から1927(S2).04という、ごく限られた期間と判った。
両者で大きく異なるのは、青表紙版に阿弗利加航路は無く、赤表紙版には記されていること。これも社史352Pには、
1926(T15).03阿弗利加東岸線を開始したとある。
また、青表紙版に無く、赤表紙版にある高雄大連線は、1926(T15).04に開始している。
青表紙版に記載の瓜哇盤谷線は1926(T15).03廃止されている。また、基隆新嘉坡線と表記される航路は南洋線(乙線)
は、1925(T14).05盤谷止めとなっている。
これらのことから、青表紙版は1924(T13).07から1925(T14).05の間、赤表紙版は1926(T15).04から1927(S2).04
の間と絞り込まれた。
ここまでは、遠洋・近海航路改廃年から検証を試みたが、この航路図絵の製作目的は瀬戸内海航路の案内。青赤両版
において最も異なるのは、燧灘と周防灘。黄色と茶色の航路が入れ替わっている。左側上下は青表紙版、右側上下は
赤表紙版を配し、対比してみたい。この航路図は、「南」を上、「北」を下、左手に大阪、右手に九州を描いている。





黄色と茶色の航路は、M41.03.02開設の「四国経過大阪門司線」を表している。『大正13年下半期事業参考書』には、
次のとおり記される。

甲便  神戸、高松、坂出、観音寺、川ノ江、三島、新居浜、西條、壬生川、今治、高浜、宇島  二隻
    隔日一回 高松ハ往航、坂出、宇島ハ復航ノミ寄港ス
乙便  神戸、高松、坂出、今治、北條、高浜、郡中  二隻
    隔日一回 高松ハ往航ノミ寄港シ毎航若松ニ延航ス           (大正13.12.31調)


左側上下の航路図は、甲便は黄色、乙便は茶色により、この当時の航路を描いている。『50年史』には、1924(T13).09
以降、甲便のみ三津浜に寄港したとある。このあたり、社史と事業参考書は矛盾するが、青表紙版の甲便(黄色)は三津
浜を結んでいる。当時の投入船は甲便(大阪発偶数日)は龍田川丸、緑川丸。乙便(大阪発奇数日)は高神丸、富士川丸。
社史によると、「四国経過大阪門司線」は1925(T14).04.18甲乙両便とも若松へ延航し、「大阪若松線」と改称された。
社史には記載されないが、大正15年上半期において航路改変が行われている。『大正15年上半期事業参考書』には「大阪
若松線」は次のとおり記される。

甲便  神戸、高松、坂出、観音寺、川ノ江、三島、新居浜、今治、北條、高浜、宇島、門司  二隻
    隔日一回 高松ハ往航、新居浜は復航ノミ寄港ス
乙便  神戸、高松、坂出、新居浜、西條、壬生川、今治、高浜、三津浜、郡中、門司  二隻
    隔日一回 高松ハ往航ノミ寄港ス                   (大正15.06.30調)


赤表紙版は、青表紙版に修正を加えたと見られる。大正15年上半期における航路改変により、用いられた色は反転し、甲便
は茶色、乙便は黄色となっている。社史によると、当時の投入船は、甲便は緑川丸、高神丸。乙便は富士川丸、利根川丸。

吉田初三郎描く「大阪商船瀬戸内海航路図絵」は、それぞれ次の年代と絞られた。
青表紙版:1924(T13)年9月~1925(T14)年5月の間。
赤表紙版:1926(T15)年4月~1927(S2)年4月の間。
あらためて、じっくり眺めた航路図は、誠に詳細に描き込まれていたと再認識した。青表紙版(左)の甲便(黄色)は、周
防灘においてトライアングルを描くが、これは事業参考書の但書を裏付け、また、赤表紙版(右)の新居浜沖における甲便(茶色)
も、また、同様である。



大阪商船の起点となった大阪港は、このように描かれている。大きな長円の中に「大阪商船會社」と記され、中央下の円
には「天保山桟橋」、右上には再び「大阪商船会社」とある。こちらは安治川口を表している。ぎっしりと描き込まれた
14本の航路は、同社の隆盛ぶりを誇示しているかに見える。その描かれ方は、「みんくるガイド」の江東区明治通りや、
王子付近の北本通りを思わせる。
本来なら、安治川口起点の航路を下側に描きたかったのではないか‥と思われる。しかし、交差する線が多くなることか
ら、このような描き方に落ち着いたのだろう。



昨年暮れ、この絵図に描かれている島にお住まいのI氏より、ご自身の栽培された「石地(いしじ)」というみかんをお送
りいただいた。口に含んでみたら、まるで「みかんの缶詰」のよう。その糖度の高さに驚いた。倉橋島の石地さんの発見
した枝変わりという。I氏は高速船艇に造詣深く、関東にお住まいの頃、建造所毎の特徴や船艇流転の旅路を、夜明かしで
熱く語って下さった。この海域の高速船艇全盛期、通学に利用していたという氏ならではの話である。

謎の解けた「効銕丸」

2017-12-17 | 日記
明治初期における汽船導入や造船技術の伝播は、如何に進んだのか。また、市井の人々は、日常生活の近くに
現れた汽船をどう捉え、その視線の先にどんな世界が広がっていたのか、それを知りたいと考えている。

『日の丸船隊史話』は「初期の國産鐵製汽船」として、「新潟丸」「興讃丸」「電信丸」に続き、「効銕丸」について次
のとおり記している。

‥明治14年阿波の徳島では効鐵丸と云う百八噸(登簿噸数)の鐵船が出来た。‥(略)‥但し効鐵丸は
大阪商船會社史中の船舶表には船質を木としてある。或は鐵骨木皮であつたかも知れない。


「効銕丸」を「鉄」製とした記録の内、最も遡れるのは『明治18年汽船表』(M18.01.01現在)。製造年月及び地名を
「明治14年4月、阿波国名東郡福島」と記している。当時の所有者は小川榮五郎(長崎県茂木)、航路は「島原、
博多、鹿児島」とある。果たして当時の徳島に、鉄船建造を可能とした条件は整っていたのか。資材を輸入し、徳
島で組み立てたのか。鉄船を建造する技術者はいたのか。そもそも何故、徳島なのか。長い間の疑問であった。

大阪商船創立の前、瀬戸内海方面における汽船導入の記録は断片的で、謎に満ちている。淡路島沖で発生した
「第三徳島丸」焼失事故を知って以来、折に触れ、徳島地方で発行された新聞を読み進めた。すると、地方史や
海事年表に採り上げられない、阿攝航路史の経過を知った。なかでも嬉しかったのは、「効銕丸」の謎解明に至
ったこと。

明治10年代初め頃、徳島に「徳島舎」はあった。汽船会社より汽船問屋が相応しかろう。徳島舎の発足は詳らか
ではないが、徳島舎の扱った「徳島丸」という汽船は、1875(M8)から記録される。その頃から営業していたのでは
ないか。1878(M11).6月に阿攝航路に就航した船名と船主は次のとおり。
徳島丸 諏訪善作(勝浦郡中田村)
大宮丸 宮崎忠二(名東郡船場町)
通天丸 長尾最平(名東郡助任町)
萬幸丸 日野徳太郎(名東郡南新居村)



徳島舎は、「第三徳島丸」を建造するにあたり、1878(M11).06新聞広告を掲載する。広告は「最早一艘にては御
便利の至りと申し上げ難く」「堅固にして能く走る新艘を製作」すること、及び新船(第三徳島丸)は「今般神戸工
作寮へ依頼」すると記している。新船建造にあたり、「第二第三を相設け」ること、及び「第一号は第三号落成の
後に製作すべし」とあり、広告時点で、旧来の「徳島丸」は「第二徳島丸」と改名している。
ところが「第三徳島丸」は、徳島から大阪へ向かう処女航海の途上、1878(M11).10.28夜、淡路島仮屋沖にて焼
失・沈没事故を起こし、70数名の人命が失われた。船体構造や機器完成度の低い事、また、操作・操船の未熟
さなどから、当時、汽船の爆発、焼失、衝突、座礁事故は頻発した。

新聞報道や風聞により、悲惨な汽船事故は知れ渡り、汽船の信頼は失墜する。この頃、西洋形風帆船を用い、
阿攝航路を開設するという記事や広告も現れる。新聞は「甚ダシキハ汽船ニ乗ルヲ以テ死地ニ就クカ如クニ思ヒ
上坂スル時ハ撫養ヨリ和船ニ乗シテ淡路ニ渡リ淡路ヨリ攝津ニ渡ル者モアリタリ」と記している。これが当時の徳
島の状況である。地域によって差はあろうが、この辺りの市井の人々の感覚に関心を抱いている。

1879(M12)中の新聞保存は少なく、5月の「第三徳島丸」船体引上成功後の、阿攝航路の経過は良く判らない。
「第三徳島丸」を失った徳島舎は、建造記録等から、「第一徳島丸」は登場させられなかった。
しかし、「徳島丸」から「第二徳島丸」への改名は行われたと見られる。新聞には、「第二徳島丸」(もと「徳島丸」)
が大阪へ入港し、先行の「第三徳島丸」が入港していないと判り、その異変(焼失事故)に気付いたと報道される。



大事故の発生や夜間航海の禁止により、個人船主は合同へと動いた。船場会社の明確な創立年月は判らない
が、恐らく1879(M12).8~9月頃。徳島舎は汽船問屋と見られるが、船場会社は株主を募っている。同社は1879
(M12).12.04船名改称広告を掲載した。
徳島丸→末廣丸 (徳島丸は第二徳島丸)
大宮丸→大和丸
萬幸丸→太安丸
続いて1880(M13).01.05には、「巳卯丸」「鵬勢丸」の登場を広告している。

船場会社創立翌年1880(M13)には、阿攝航路を独占した同社への風当たりは強くなる。3月の新聞紙面には「全
く航海の権は船場会社にあるより乗客にも充分満足するの取扱を欠く」と云う、巷間の不満が掲載された。「上等
の切符を購求して乗船しても点燈もなければ火鉢も無く屡々請うて火鉢を借り漸く暖を取る」「船場会社は恰も官
廳の如く役員は宛ながら官吏に優る権ありとの評判」とまで書かれる有様。

それらの記事は伏線だったのか、1880(M13).5月に地元徳島で太陽会社、10月に撫養会社は設立された。一方、
船場会社も体質改善に取り組み、福島において「末廣丸」更新(船体新造)に着手する。以下、新聞記事を引用
する。

名東郡福島町築地にて新製に取掛り居りし船場会社の汽船は末廣丸と名付け最早船體出来上りたれば
舊末廣丸の機械を据へ近日に落成を告くるよし (M13.07.25)

末廣丸の造船長は名東郡安宅村士族岡田六郎氏にして造船の術に長け壮年の頃より其業に従事し曾て
職を東京赤羽根工作局に奉し其後神戸工作分局へ出張し其道を究めたるゆへ該社の依頼を受け此工事
を為せしとぞ (M13.07.30)

船場会社の鉄艦末廣丸は今度木製に改造し其機関の据入れ出来たれば巳前の船体を船場町富強社に
て千円に購ひ入れ帆前船に造り換へ北海道より干鰯運送の用に供せん (M13.08.25)


新末廣丸の機器は、旧船の流用であった。また、末廣丸の旧船は鉄船、新船は木船となったと判る。船殻は売
却され、当初は干鰯運搬の貨物船と計画した模様だが、最終的には肥物商四宮廣二の所有となり、阿攝航路に
使用されることになった。

其巳前の船体を肥物商の四宮廣二氏が買い受けて此頃頻りに造作し神戸より極上等の機関を買入れ之
れを用いて阿攝間の航海をなさんと目論見居らるるよしなれど前にもいつる如き古船の殻に如何程結構
な器械を入れるとも指したる功はあるまじく歯落ちて唇寒しの歎あるに至るならんか (M13.12.02)


ひどい書かれようである。しかし、こう書いた記者も、翌年の1881(M14).05.11徳島大工町長酡楼で開催された同
船祝賀会に招待され、ちゃっかりと「社員両名席末に列し」、紙面には「船体は至極堅牢」「実地の航海をするに
至らば他船に優るあるも決して劣るとあるまじ」とまで書いている。



四宮廣二の購入した船殻は、1880(M13).12末に「効銕丸」と命名された。新聞には「船場町五丁目四宮廣二氏が
所有船効鉄丸は旧の徳島丸に大修繕(おおつくろい)を加へ殆ど新造同様のものにて鉄船に仕立て」とある。

1881(M14).02.12「効銕丸」は機器据付けのため、船場会社「巳卯丸」に曳航されて大阪へ向かった。同じ福島に
て建造された阿波国共同汽船「徳丸」が、1887(M20).12「阿津丸」に曳航されて神戸へ向かったことと同様、当時、
徳島にて機器を取付け、汽船を完成させることは不可能だった。

「効銕丸」は1881(M14).05.11船内縦覧と祝宴を終え、翌々日の13日大阪へ向けて処女航海の途に就いた。広告
や記事によると、航海路線は「阿攝間及び大阪より広島へも航海する序で神戸、岡山、高松、丸亀、多度津、鞆
浦、尾道等へ立ち寄り時宜によりては九州地方へも行くよしなり」。

船舶番号579「効銕丸」を初めて掲載する船名録は、『M15版』(M15.05刊)。大阪の平瀬藤太所有となっている。
同版は船舶番号136「末廣丸」も掲載している。抹消手続きが遅れたのか。また、船舶番号385新「末廣丸」さえ
重複掲載している。
1884(M17).05創立の大阪商船社史によると、「効鉄丸」は南方一郎より出資され、配船表に「後備船」とある。
ところが、船名録『M18版』(M18.10刊)には小川榮五郎(長崎)所有として掲載され、冒頭に記した『明治18年汽
船表』(M18.01.01現在)及び船名録『M20版』(M18.12.31現在)も同様。この点をどう考えたら良いのか。
東京湾汽船も、創立後の船名録『M24版』(M22.12.31現在)において、東京湾汽船名義船と合同前船主名義船
が混在する。その謎は解明したが、大阪商船に関しても、何らかの理由が存在すると考えている。



これは大阪商船1884(M17)10.01配船表。『大阪商船社史』によると、「効銕丸」は1887(M20).05水谷孫左衛門に
売却される。同年06.15付新聞には「四日市武豊間の航海」として、次の記事がある。

三重県下伊勢国四日市の人水谷孫左衛門といへるは此度大坂商船會社より汽船効鉄丸を買入れ四日市
武豊間即ち伊勢の内海に一航路を開くといふ


『船名録』に見る「効銕丸」の所有者の変化は次のとおり。
船名録『M21版』(M19.12.31現在)大阪商船会社
船名録『M22版』(M20.12.31現在)前田利助(熱田)
船名録『M23版』(M21.12.31現在)共立汽船会社(熱田)
船名録『M24版』(M22.12.31現在)から抹消される。

では一体、鉄船「効銕丸」の最前身にあたる「徳島丸」の素性は何だったのか。
当時の記録を確認したところ、何と、「徳島丸」は熊本藩の購入した「奮迅丸」の後身と判った。同船は『日の丸船
隊史話』巻末の「幕府並ニ諸藩艦船要目表」にも掲載されている。熊本藩「奮迅丸」の前身は、1865英国建造の
「Fairy」(鉄製暗車船)、熊本藩の購入は翌1866(慶応2)であった。

1865Fairy → 1866奮迅丸 → 1875徳島丸 → 1878第二徳島丸 → 1879末廣丸1880(廃船)
(船殻再生)1881効銕丸1889(廃船)                       

「効銕丸」は幕末輸入船の1隻であったという記憶は、大阪商船創立時には、既に失われていたと思われる。

「阪鶴丸」のその後

2017-09-17 | 日記
話を再び阿波国共同汽船に戻したい。山陰線の開通により「阪鶴丸」は1912(M45).07、「第二阪鶴丸」は関釜・青
函両航路を経て1914(T3).07に、大蔵省(鉄道院)から阿波国共同汽船に払下げられた。阿波国共同汽船籍となっ
てからの両船を、画像から見てみよう。







この絵葉書のキャプションには「元山桟橋 The Genzan Pier」とある。沖合に停泊する船影は「阪鶴丸」。当初、この船
影を「阪鶴丸」とは気付かなかった。阿波国共同汽船のファンネルマーク「子持ち筋」は、黒地に赤で描かれ、モノクロ写真
では潰れてしまい、はっきりしない。
船橋楼のポールドの間隔と、煙突直下に見える中央舷門部の不思議なRから、「阪鶴丸」と特定した。『阿波国共同
汽船50年史』掲載の船影は、残念ながら修正画像。
「阪鶴丸」は建造当初より、左右両舷のブルワーク形状が異なっていた。所蔵の境港における松飾りを付けた船影は、
開口部にカンバスを張っているものの、オリジナルの形状。『鉄道連絡船細見』に掲載の船影は、明らかに改造後と見え
る。それでは何時、この改造は行われたのか。



境港における、未改造の左舷詳細。
船名録から「阪鶴丸」の総トン数と長を拾うと次のとおり。長に変化は無く、総トン数の増加は1910(M43)年中。「阪
鶴丸」の改造は、1908(M41)に登場した「第二阪鶴丸」に、設備を近づけるために行われたものか。
              阪鶴丸      第二阪鶴丸
M40版(39.12.31)  760 187.00     -
M41版(40.12.31)  760 187.00     -
M42版(41.12.31)  760 187.00   864 187.62
M43版(42.12.31)  760 187.00   864 187.62
M44版(43.12.31)  772 187.0    864 187.6
M45版(44.12.31)  775 187.0    864 187.6
             (M45.07払下)
T02版(01.12.31)  775 187.0    864 187.6
T03版(02.12.31)  775 187.0    864 187.6
                       (T03.07払下)
T04版(03.12.31)  775 187.0    864 187.6
T05版(04.12.31)  775 187.0    864 187.6
             (T05.11沈没)  (T05.01改名)
T06版(05.12.31)  775 187.0    794* 180.0
T07版(06.12.31)    -       794* 180.0
                       (以下略)
「第二阪鶴丸」の総トン数の変化は、「船舶積量測度法に依り測度又は改測」したことによる。
「船舶積量測度法」は1914(T3).03に制定された。このことにより、船名録大正4年版から大正7年版にかけての記
載は、経過措置として、基本は従来の「船舶積量測度規則」により測度された数値(尺度は「曲尺」、「長」は「船舶
積量測度方法に依る量噸甲板下の長」)を記載するものの、総トン数欄に*印の付く船舶は、「船舶積量測度法に
依り測度又は改測」した数値(尺度は「フート」、「長」は「量噸甲板上に於いて船首材の前面より船尾材の後面に至
る長」)を記載している。座右の書としている『海事立法の発展』には、「欧米諸国と歩調を1つにした」「その改正の
有力な根拠は、従来の規則によると西洋型船の積量は100立方尺を1噸とするためにいきおい表示噸数がかさみ
その結果外国に出入する船舶は、噸税、港税のうえで多大の不利益を被ることがあった」とある。

『阿波国共同汽船50年史』によると、日本海における航路経営は短期間に終っている。
元山浦盬線 1914(T3).11~1915(T4).05
元山雄基線 1915(T4).01~1917(T6).02
絵葉書に記録されたのはその間と思われる。「阪鶴丸」に関する事項を社史から拾うと、
1912(M45).07 鉄道院より払下げを受け、仁川、芝罘、大連、安東県間の航路に充当
1916(T5).12  芝罘沖にて遭難沈没

『海難と審判(39)』には、「阪鶴丸」遭難の要約が記されている。1916(T5).12.24に大連を出港し、芝罘へ向かった
「阪鶴丸」は、翌24日朝、激しい風雪の中、芝罘港外の芝罘島北部に座礁した。乗船していたのは乗組員28人の
ほか、船客約300人。その中の約280人は地元の中国人であった。僚船を始め、救助に集った船は吹雪のために
近寄れず、船橋上に救助を求める人影を認めなら、なす術もなかった。27日午後2時頃、救助隊は52人の生存者
を救助した。しかし、280人余の人々は、物陰に踞ったり、甲板上に倒れたり、また、船橋に凭れたまま、凍死して
いたという。

一方、「第二阪鶴丸」後身、「第十八共同丸」の船影は、多く残されている。



社旗と列車を配し、キャプションに「第二阪鶴丸」とある同船の絵葉書は、実は、阿波国共同汽船の計画中断を、はか
らずも記録している。就航記念品として、予め印刷されたものと思われるが、小松島港へは「第二阪鶴丸」として定
期就航しなかった事が、社史から判る。
徳島中州港は、市街地に隣接するものの堆砂に悩まされ、船舶大型化は困難だった。阿波国共同汽船は、増大す
る貨客に対処するため、天然の良港「小松島港」へシフトを決定し、就航船舶の大型化を目指した。その一環として、
徳島市と小松島港のアクセスに、軽便鉄道敷設を計画した。社史によると次のとおり。
1910(M43).11 軽便鉄道敷設権を取得
1912(M45).01 工事に着手
1913(T2).04  竣工と同時に政府の借上げ
1917(T6).09  軽便鉄道国有化

我社は大正三年七月小松島、兵庫、大阪間航路に充当の為め政府より第二阪鶴丸総噸数八六四噸の
拂下げを受け同年八月小松島港に廻航したるも吃水深く稍々出入困難の状態になるによつて北支那航
路に使用することゝした


『四国港湾要覧』には、小松島港は「大正2年から4カ年継続事業として内港部の整理修築に着手」したとある。
社史によると、「第二阪鶴丸」は1916(T5).01「第十八共同丸」と改名され、晴れて所期の目的に使用されることに
なった。



これは、小松島港における満船飾の「第十八共同丸」。港内には他に「第十一共同丸」「第二十六共同丸」も見え、
何れも満船飾となっている。もう一隻、倉庫の影にマストの見える船も同様。社史に掲載の「第二十六共同丸」の写
真も、小松島港内の満船飾。絵葉書の記録日は、「第二十六共同丸」のお披露目日と見られる。



画像中央に、船尾を見せて係留される「第十八共同丸」。この一瞬が、よくぞ記録されたものと考えている。この光
景は1916(T5).01以降の記録と判り、北岸に係留される尼崎汽船部の船名絞り込みの、裏付け史料となっている。



鮮明な「第十八共同丸」のモノクロ画像。記録日時は判らない。
同船は1939(S14).08.05東亜海運設立に際し、阿波国共同汽船より出資された。『戦時船名録』によると、終戦時、
大連に在港していた。その後の動向は知られていない。

阿波国共同汽船の創立

2017-01-15 | 日記
徳島県神山町で農園を営むT氏より、昨年も「種なし柚子」が届いた。箱に敷かれたヒバの葉の緑と、黄色
い柚子のコントラストの鮮やかさに、目を奪われた。神山町の空気まで、箱に詰められ届いたような、そんな気
のした瞬間だった。「徳島繁栄組汽船部」の看板を探しに出かけた折、神社の前で困り果てていた僕に声
をかけて下さったのがT氏である。



「徳島繁栄組汽船部」は徳島港を起点に阿攝航路を運航し、1923(T12).04井上達三氏によって設立された。
大阪商船や阿波国共同汽船の阿攝航路は小松島港へ移転し、凋落傾向にあった徳島港再興に後半生を
かけ、自ら船会社を設立してまで、徳島港に賑わいを取り戻そうとした人物である。同社は阿波国共同汽
船へ吸収されたものの、徳島港に旅客船航路は復活し、氏の宿願は果たされた。画像は、大阪築港にお
ける同社「第二橋立丸」。阪鶴鉄道により「舞鶴小浜航路用」として建造された船。鉄道省から払下げを受
けたのは、『鉄道連絡船100年の航跡』によると、1924(T13)と見られる。「1呎」フィート=0.3048m
第貮橋立丸 10152 / JWVC 163G/T、木、1906(M39).05、小野清吉、110.2呎[S02版]
徳島に出掛ける度、徳島港修築・再興にかけた井上氏の情熱と、運航した2隻の小型客船に思いを馳せる。



「有限責任阿波国共同汽船会社」は1887(M20).09.14に設立され、1938(S13)に『50年史』も刊行された。
阿攝航路や「鮮満支沿岸航路」(同社名称)の変遷は興味深い。しかし、是則氏も『共同汽船の客船史』
で指摘のとおり、社史には整合性の取れない記述もあり、創業時の状況は、今ひとつ判然としない。社
史は、会社発足の経緯と社名由来について、次のとおり記している。

(大阪商船會社が設立されるや)‥自然と獨占的の傾向を帯び地方貨客殊に當阿波國の如く阿波
藍の全國的に著名にして而も纏りたる貨物を取引するものには、配船取扱等其の意に滿たざるもの
不尠について、その關係者のみならず縣民一般の總意に依り對抗機關を設くる事となつた‥會社
名の因りて生じたる所以も亦共同一致して縣内産業文化の發展に資せんとする精神に外ならない‥


1884(M17).05.01 大阪商船設立。
1887(M20).09.14 阿波国共同汽船設立。「阿津丸」1隻で阿攝航路開始。
          (「創業に参加せし船舶は木造船阿津丸1隻」とある)
1887(M20).10 阿波国共同汽船「徳島大阪線」開設。
1889(M22) 「阿津丸」建造。(春木藤次郎)
1890(M23)   「徳丸」建造。(春木藤次郎)
1894(M27).11  大阪商船との協定成立。

社史から読み取れるのは上記のとおりで、矛盾や錯誤を含んでいる。



1887(M20).10に阿波国共同汽船社長より、牛島村庄野一氏へ宛てた招待状を兼ねた開業案内状を目に
した。当時の新聞から裏付けを得つつ、判明した当時の経緯を記してみたい。社史の空白部分を埋める、
大変に興味深い内容を含んでいる。先ずは案内状から要点を記してみよう。なお、漢文調の案内状を読
み解くにあたり、元の職場の先輩長谷川氏のお手を煩わせた。ここに御礼申し上げます。

1. 共同汽船会社は皆さまの賛同を得て設立いたしました。
2. 新汽船二隻竣工までの間、11月7日、徳島富田川において進水式を挙行しますので、午前十時にお
  出かけ下さい。
3. 同日より航路を開業します。
4. 当社所有船は今のところ二隻ですが、共榮社(周防徳山)と絛約を結び、同社「第壹徳山丸」「第貮
  徳山丸」「山陽丸」の三隻を加えて阿攝航路を運航します。
5. 大阪以西、九州迄の各港へは、差し支え無いように、共榮社の汽船が運航いたします。
6. 運賃は低く抑え,貨物の取扱いには注意します。
7. 大阪商船の阿攝航路運賃は、他港に比べても高額でありますが、春以来、やや低額になったのは、
  当社の設立によるものです。
8. 将来の当社発展につきまして、乗船や貨物運搬など、ご愛顧をお願いします。
9. 御招待に併せてご案内いたします。
10. 明治20年10月 共同汽船会社社長 川眞田市太郎

案内状から、次のような点が明らかになった。

① 10月時点において、稼働する所有船は無かった。
② 11月07日、富田川において「進水式」を行う。
③ 同日より航路を開設する。
④ 共榮社と絛約し、同社の三隻を加えて航路を経営する。
⑤ 大阪から九州迄の各港へ、共榮社が運航する。
⑥ 大阪商船は運賃値下げを行った。

この案内状は「10月」付で、実は二箇所に貼紙され、訂正されている。一ヶ所は進水式日の「七」、もう
一ヶ所は「即チ仝」。運航結果を確認すると、時化による遅延もあって、日取りを確定する苦労が偲ばれ
る。また、案内状で「進水式」としている式典は、新聞記事等から「開業レセプション」であったと見られる。
1887(M20).10.06以降の『普通新聞』(3368号~)を閲覧し、運航開始前後における徳島来港船名と、乗
船客数を調査した。船影こそ知れないものの、紙面には次々とキラ星のような船名が現れ、胸躍るひと
時となった。

<10月>
04 19:00出港:朝陽丸 56人
05 07:00入港:一丸 48人
同 19:00出港:一丸 57人
06 08:00入港:朝陽丸 40人
同 09:00出港:朝陽丸 36人
07 11:30入港:一丸 46人
08 14:00入港:朝陽丸 23人
09 07:00入港:已卯丸 43人
10 -
11 01:00出港:朝陽丸 55人
同 19:00入港:一丸 106人
12 14:00出港:朝陽丸 63人
同 18:00出港:朝陽丸 貨物のみ
13 13:00入港:一丸 100人
同 13:00入港:明光丸 48人
14 07:00出港:朝陽丸 荷物のみ
同 07:00出港:明光丸 53人
15 09:00入港:朝陽丸 78人
16 04:00出港:明光丸 49人
17 04:00出港:朝陽丸 56人
同 08:00入港:第二三光丸 86人
同 08:00入港:百貫丸 荷物のみ
18 05:00出港:第二三光丸 65人
同 07:00入港:朝陽丸 62人
19 -
20 13:00入港:百貫丸 30人
21 05:00出港:朝陽丸 40人
22 16:00出港:百貫丸 54人
23 14:00入港:朝陽丸 114人
24 11:30入港:一丸 108人
同 23:00出港:朝陽丸 76人
25 22:00出港:一丸 48人
26 -
27 14:00入港:明凌丸 28人
28 02:00出港:朝陽丸 24人 / 兵庫へ
同 05:00出港:明凌丸 60人
29 15:00入港:朝陽丸 9人 / 兵庫より
30 01:00出港:朝陽丸 71人
同 05:00出港:明凌丸 62人
同 17:00出港:朝陽丸 15人 / 兵庫へ
31 05:00入港:朝陽丸 8人 / 兵庫より
<11月>
01 07:00出港:一丸 23人
同 08:00出港:朝陽丸 55人
02 06:00入港:明凌丸 38人
03 08:00入港:一丸 40人
04 03:00出港:一丸 50人
同 08:00入港:朝陽丸 23人 / 兵庫より
同 16:00入港:明光丸 38人
同 21:00出港:朝陽丸 40人
05 10:00入港:一丸 58人
06 07:00出港:一丸 54人
同 07:00入港:朝陽丸 48人
同 22:00出港:朝陽丸 50人 / 兵庫へ
07 07:00入港:中津川丸 38人
同 07:00入港:第二徳山丸 20人
同 08:00入港:一丸 20人
同 22:00出港:第二徳山丸 55人
同 23:00出港:中津川丸 54人
同 23:30出港:朝陽丸 荷物のみ
同 夕刻入港(津田港):大龍丸
08 朝 入港(古川港):大龍丸 荷物のみ
同 23:00出港:一丸 85人
09 24:00出港:阿津丸 31人
10 01:00出港:朝陽丸 36人
同 13:00入港:一丸 45人
同 18:00入港:山陽丸 40人
11 01:00出港:一丸 68人
同 14:00出港:山陽丸 16人
12 12:00入港:一丸 53人or 48人?
13 03:00出港:一丸 138人
同 08:00入港:興讃丸 32人
同 09:00入港:阿津丸 41人
14 02:00出港:興讃丸 45人
同 02:30出港:阿津丸 48人
同 07:00入港:一丸 45人
同 07:00入港:第一徳山丸 21人
15 05:00出港:一丸 45人
同 05:00出港:第一徳山丸 40人
同 10:00入港:阿津丸 24人
同 14:00入港:太陽丸 35人
16 04:00出港:太陽丸 28人
同 06:00出港:阿津丸 32人
同 14:00入港:一丸 40人
同 17:00入港:第二徳山丸 未詳
17 05:30出港:阿津丸 21人
同 06:00出港:一丸 33人
同 06:00出港:第二徳山丸 40人
同 06:00入港:太陽丸 35人
18 06:00出港:太陽丸 51人
同 07:00出港:阿津丸 25人
同 14:00入港:一丸 38人
19 06:00出港:一丸 42人
同 07:00入港:太陽丸 34人
同 07:00入港:阿津丸 40人
同 21:00出港:太陽丸 36人
20 06:00入港:山陽丸 45人
同 07:00入港:一丸 32人
同 21:00出港:一丸 26人
同 21:00出港:山陽丸 25人
21 06:00入港:阿津丸 45人
同 07:30入港:太陽丸 22人
同 21:00出港:太陽丸 58人
同 21:00出港:阿津丸 45人
22 06:00入港:尋源丸 25人
同 09:30入港:一丸 38人
23 06:00入港:阿津丸 45人
同 09:00入港:太陽丸 40人
同 23:00出港:太陽丸 71人
同 23:20出港:阿津丸 55人
24 10:00入港:一丸 35人
同 23:00出港:一丸 80人
25 11:00入港:朝陽丸 22人
同 14:00入港:第二徳山丸 30人
26 01:00出港:朝陽丸 73人
同 02:00出港:第二徳山丸 18人
同 06:00入港:阿津丸 35人
同 10:00入港:興讃丸 25人
同 12:30出港:興讃丸 56人
27 08:00入港:朝陽丸 100人
28 02:00出港:朝陽丸 779人
同 08:00入港:阿津丸 57人
同 09:00入港:一丸 20人
29 02:00出港:阿津丸 35人
同 04:00出港:一丸 76人
同 07:00入港:朝陽丸 48人
30 05:00出港:朝陽丸 30人
同 05:00入港:一丸 50人
同 06:00出港:阿津丸 143人
同 午後入港:第一徳山丸 予定

大阪商船創業当時、第十三本線(大阪兵庫徳島)に投入された汽船は、1884(M17).0616時点において
「已卯丸」末廣丸」「新朝陽丸」、同年10.01は「已卯丸」「新朝陽丸」となっている。
創業期の大阪商船には2隻の「朝陽丸」が在籍した。
「朝陽丸(19 / HBPL)」は61頓・25馬力・長80.85尺のスクーナー形「皇昌丸」を前身とし『M14船名録』『M15船
名録』は佐野平太郎所有。大阪商船社社史によると岡田啓介から継承し、M18上半期に解体処分された。
一方、M20.10-11当時、第十三本線(大阪兵庫徳島)に使用された「朝陽丸(604 / HDPS)」は『M15船名録』
は太陽会社(徳島)の所有。社史では南方一郎から継承している。大阪商船の記録はこちらに「新」を冠す
るが、船名録は「朝陽丸」のままであり、「新」は両船区別のための、便宜上のものであった考えられる。
入港記録を拾いつつ、思わず吹いてしまったのは、阿波国共同汽船の扱船「第二徳山丸」の初就航に際
し、大阪商船は当時の新鋭船「中津川丸」を当て馬にしたと知った時。両船は1887(M20).11.07朝7時、徳島
港へ同時入港している。二ヶ月間の記録を見る限り、「中津川丸」の徳島来港はこの一回きり。

案内状に記された11.07の「進水式」は、実際は「開業レセプション」であり、開催日は11.08となった。
先ず11.07は、扱船「第貮徳山丸」の徳島初入港の日であった。また、所有船「阿津丸」の処女航海出港は
11.09日(24時)=10日(0時)であった。
また、10.11付紙面は新造汽船の船体検査を報じているが、製造地を「築地」と記している。徳島側で建造
された汽船は、第2船「徳丸」であり、『船名録』は製造地を「阿波国福島郷町」春木藤次郎としている。築
地とは、現在の南福島町の辺り。案内状にある富田川とは、場所が異なる。

11.05付紙面には、「共同滊船會社の初航海」として、次の記事がある。

阿波國共同滊船の新艦即わち大阪にて購入せられたる阿津丸はいよいよ來る八日より阿攝間の航
海を始め其他同社にて取扱わるる滊船第一徳山、第二徳山及び山陽の三船は來る七日より同斷航
海を始むるよしなり




共榮社「第二徳山丸」は、後に帝国商船から吉田義方(相陽汽船)を経て、東京湾汽船の所有船となった。
小田原海岸で記録された同船の画像を再掲する。工部省兵庫造船局の建造船。
第二徳山丸 890 / HFSR 128G/T、木、1885(M18).05、(攝津国兵庫)、98尺[M22阪]
「1尺」曲尺=0.3030303m

前述の11.05付紙面のとおり、第1船「阿津丸」は「大阪にて購入」された船だった。『阿波藍沿革史』に興味
深い記述がある。

由来縣外藍玉蒅(スクモ)の移出は、往事より和船によつて之を行つたが、汽船の運航發達するに伴ひ
之に託送することとなつた。‥(略)‥徳島汽船會社並に大阪商船會社と契約を結び、之が爲め藍品
を和船に託送するもの年と共に減少し、加ふるに徳島汽船會社が解散するや、勢ひ大阪商船会社の
獨占となり、阿攝間の運賃は漸く昂騰に向つた。‥(略)‥同社は契約の滿期と共に、藍玉一俵を十
五銭に、蒅(スクモ)一俵を十四銭に値上げし、頑強に之を秉つて動かなかつた。茲に於て運賃の過當
を唱ふる藍商漸く多く、同十九年九月に於ける會所の定式總会に於て議題と爲り、遂に之が賃金の
輕減を圖り、以て斯業不況の挽回策たらしめんが爲め、茲に藍商共同の汽船會社創立を可決し、次
いで十圓株四千七百株、資金四萬七千圓を募集することゝなり、藍商總代をして各方面に勸説せしめ、
可及的多數の共同經営と爲さんため、一名の持株を二十株以内とし、範圍を努めて廣汎にせんと企
て、幾もなく豫定の株數に達することを得た。
超えて明治二十年八月、金一萬三千餘圓を投じて、大阪鐡工所建造中の汽船を購入し、翌九月十四
日徳島共同汽船會社設立の認可を得、本社を西船場町二丁目百九十二番地に置き、川眞田市太郎
を推して社長と爲し、其の他役員も悉く藍商中より就任した。次いで十月新汽船を富田埠頭に廻航し
て試運轉を行つたが、成績頗る良好であつたため、十一月九日愈々阿攝間の航海運輸を開始し、以
て大阪商船が爲さんとする運賃獨占の横暴より免がることを得た。


何と、会社設立の前に、「建造中の汽船を購入」していたと判った。運航の主体としての会社設立は、後追
いなのであった。
当時の雰囲気を感じ取れることから、引用を続けたい。11.08付紙面より「阿津丸の開航式」の予告記事を
見てみよう。

兼て記せし如く阿波國共同汽船滊船會社の新艦阿津丸ハ此程大阪にて進水式を了へ今朝を以て富
田川筋まで入港すべき筈なるが本日ハ午後三時より其の開航式を執行され知事兩書記官を始め農
商課長其他銀行諸會社員及び市街の豪商同社株主等を招待して祝宴を開かれる由又た同船ハ木製
にして長さ十八間幅十七尺五寸滊罐ハ筩形、機械の種類ハ「コンホソドインジン」綱具装置はスクー
子ルにして速力ハ十一「マイル」なりといふ


続いて11.10付紙面から「滊船會社の開業式」を見たい。

前号の紙上にも記載したる如く一昨八日は阿波國共同滊船會社の開業式を行はれ同社の新滊船阿
津丸は富田川筋に乗入れ來りて衆人の縱覧に供したれバ老幼男女群をなして頗ぶる賑わしかりし又
た來客を二日に分ち七日八日の當日長酡樓三又樓藍商取締會社の樓上都合三ヶ所にて数百人を招
待せりと云ふ


阿波国共同汽船の第1船「阿津丸」と第2船「徳丸」は、『M24船名録』に次のとおり記載される。
阿津丸 1113 / HGRP 143G/T、木、1887(M20).10、(攝津国六軒家新田)、111尺[M24版]
徳丸 1061 / HGND 142G/T、木、1887(M20).12、(阿波国福島郷町)、107尺[M24阪]
「1尺」曲尺=0.3030303m。

造船地名から、「阿津丸」は大阪鉄工所、「徳丸」は春木造船所の建造である。12.01付紙面には、「滊罐据
付」として興味深い記事がある。

築地に於て造船中の共同滊船會社の滊船船体は既に出來したるにつき本日阿津丸が引て神戸へ至
り同所に於て滊罐の据付けに着手する由なるが凡そ三週間を以て落成の見込なりと可いふ


我が国では進水時から船齢を起算するが、どうもこれは独自の慣習のようで、海外では竣工年月日を採用
すると、伺ったことがある。輸入船の手続きの際、船齢には注意を要するとか。
ところで、『M24船名録』に記された「阿津丸」と「徳丸」の製造年月は、「進水年月」なのだろうか。「徳丸」船
体を12.01に曳航するなら、前日までに進水を終えていたと考える方が妥当である。同船の製造年月は「竣
工年月」であるような気がしてならない。製造年月の定義について、条文で確認していないが、心に留めて
おきたい。

石油会社の旅客船

2014-08-17 | 日記
八幡浜市真網代において1926(T15)に記録された旅客船の画像は、地域の古い写真を収録したアルバムにあった。
黒い船体の上甲板に沿ってシアラインは描かれ、煙突マークは黒地に「木」をデザインした白い社章を、浮かせて付けて
いる。遠目には大阪商船に見える。宇和海と言えば、先ず宇和島運輸を思い浮かべるが、一体、この煙突マーク
は何なのか。



その船影は「第十相生丸」等に良く似て、上甲板中央において通路は閉塞され、ポールドを設けている。操舵室
は、遊歩甲板前部のハウス上に位置する。ただ、マストは「第八相生丸」のように操舵室前に立つ。
写真のキャプションに「大型船に乗る」とある。乗客を乗せた艀は接舷していて、もう一隻の艀も、客を満載して本
船に漕ぎ寄ろうとしている。真網代は、何時も立寄る宇和島運輸の名撮影地から切通を抜け、国道を三瓶に向
かう途中の集落。
大正から昭和に変わった頃の宇和海に、こんな船が活躍したのか。船名と船社名を知りたく、『S2版船名録』に
目を通してみた。200G/T前後の「第○×××丸」という6文字船名は意外に少ない。「内地在籍汽船」の最後の
頁近く、木村寛一「第三横須賀丸」(広島佐江崎)に気付いてはっとした。

白い船体当時の「第三横須賀丸」の姿は確認済みで、オペレーターは大阪商船としか手掛かりの無い、実に不思議
な旅客船だった。





再び、「第三横須賀丸」をガラス乾板から取り込んでみたところ、勘違いと判った。良く見ると、煙突マーク及び社
旗は「木」であった。先入観から大阪商船の「大」に見てしまっていた。白い船体の大阪商船は不思議だな‥と
考えながら、船名や航路の記録を見ることはなく、それきりになっていた。
第三横須賀丸 21379 / NPGF、193G/T、鉄、1902、D.Goedkoop.jun(Amsterdam)、
1902(M35)にもなって、なぜ「鉄船」が建造されたのか。明治中期ならともかく、このクラスの船が1917(T06)に輸
入されたのも不思議なこと。また、輸入当初から旅客船なのか。
前名は「Caroline」。輸入後は日本汽船「笠戸丸」となり、木村寛一所有となるのは1921(T10)。
同氏所有のまま『S13汽船名簿』(S13.06末)時点では「焼球発動機船」と記録され、1934(S09).09.10廣角鉄工所
(尾道)製主機を載せている。『S16小型船明細書』には「船尾機関型貨物船」とある。『S13汽船名簿』の證書有
効期間等から、貨物船改造は1934(S09).09か。

横須賀丸の船名は「木村寛一」の関係者(父親?)と思われる木村伊勢松所有の「横須賀丸」(1588 / HKRG)
に始まる。この船は1866(慶応2)横須賀製鉄所建造の、我が国海事史に名を残した由緒正しき船。小川島捕鯨
より1904(M37)移籍されたことから、捕鯨船として使用されていたのではないか。

『わがまちの海運業~三原市幸崎町能地の海運史』という、興味深い記録誌を見た。この記録誌には横須賀丸
は出てこない。同誌には「船の名づけ(命名)」として次のようにある。

能地では持ち船の名が家名の代名詞として呼ばれることがよくあった。宇和島地区では「谷本さん宅では‥」
という場合、持ち船の名前を使って「大神丸では‥」と話しはじめるひとが多い。
もっともそれぞれの地区には同姓が多かったから、そうした呼びかたは間違いが無く、また親しみをもって
呼称する習慣になったのであろう。 ‥(略)‥  船名が家名を代表することになると、この家は伝統的に
この船名を、ということにならざるをえない。船名に第一何々丸、第二何々丸と、号数をふって継いでいく
のもうなずけよう。


同誌の二個所に木村伊勢松氏の名は記されている。
一つは「大正15年佐江崎籍帆船一覧表」に「若吉丸」(18258 / MSWB)所有者として、もう一つは「歴史年表」
に「明治41年(1908)木村伊勢松氏、汽船を所有。」とある。
ただ、船名録によると木村伊勢松氏は「横須賀丸」(1588 / HKRG)を1904(M37)に所有したと確認できるのは既
述のとおり。木村伊勢松氏所有の登簿汽船は、1936(S11)に全船とも木村寛一氏所有になっている。
推測となるが、「横須賀丸」(1588 / HKRG)に触れていないのは貨物船ではなかった(やはり捕鯨船?)から
ではないか。

宇和島運輸の社史二冊『70年を顧みて』『波濤百年』は、宇和海において展開された、三つ巴の激烈な航路競
争の経緯を記している。三つ巴とは、宇和島運輸と青木運輸、三崎までの航路を経営した八幡浜運輸の三社。
事の起こりを社史は次のとおり記している。

昭和4年1月、(宇和島運輸が)豊豫沿岸線を開始してからである。もともと三瓶、八幡浜、川之石、九町、
三崎を経て佐賀関、別府に至る航路を大正6年頃から青木運輸が繁久丸を以て運航していた。三崎迄
は八幡浜運輸の八幡丸も就航していた。そこへ宇和島運輸が乗り込んだものだから青木運輸を刺激した。


宇和島運輸の社史は、青木運輸の運航開始を1917(T06)としている。これまで『商船明細画報』『四国旅客船の
変遷』等に八幡浜の「青木石油」を見ていたものの、どのような経緯を持つ船社なのか、調べていなかった。
愛媛県史や各市町村史を一覧してみた。

1875(M08)   菊池清治「八幡丸」宇和島~大阪に就航。
1884(M17).05.01大阪商船創立。
   09.01大阪商船「新八幡丸」、宇和島初入港。
         当時の第九本線:大阪~(略)~長浜~別府~大分~佐賀関~八幡浜~宇和島
      12.01宇和島運輸創立。
1885(M18).05  宇和島運輸は大阪商船に対抗し、併行航路を開設。
1895(M28)   中妻弥七、八幡浜~三崎航路開設。
1896(M29).06  南予運輸創立。
1907(M40).03  宇和島運輸と大阪商船の協定成立。
1917(T06)   青木汽船創立し、三瓶~八幡浜~別府航路開設。繁久丸就航。
         寄港地は三瓶~八幡浜~川之石~九町~三崎~佐賀関~別府。
1918(T07)   八幡浜運輸創立し、三崎~八幡浜航路開設。八幡丸就航。
1926(T15)   宇和島運輸は南予運輸を買収。
1929(S04).06.19宇和島運輸は八幡浜~三崎各港~別府航路を開設。
1930(S05)   宇和島運輸と青木汽船の間に激しい運賃競争が二年間続く。
1933(S08).02.14盛運社創立。
1935(S10).06  宇和島運輸は盛運社を傘下におさめる。
1942(S17).05.04関西汽船創立。宇和島運輸は「10隻+4航路」を現物出資。
1948(S23).05  宇和島運輸は出資船舶と航路の返還を受ける。

太陽石油の社史三冊の、青木運輸に関する記述は『愛媛県史』等と異なっている。

1886(M19).12 青木繁吉氏、高知県高岡町(現土佐市)に生まれる。
1908(M41).09 高岡町に青木石油店創業。
1915(T04).02 愛媛県八幡浜へ移住。
1916(T05)   ライジングサン石油(シェル石油の前身)代理店となる。
1920(T09).02 木造タンカー「第五繁久丸」の建造を開始。
      09「第五繁久丸」竣工。46G/Tの木造タンカー。西戸崎から八幡浜への原料油輸送用。
1925(T14)  旅客船「第一繁久丸」(86G/T100名)を建造、進水。同月、青木運輸発足。
        木造タンカー「第五繁久丸」の竣工後、八幡浜町の立地条件から海運業への進出を夢みてきた繁吉
        は、九州向け航路用客船の建造を航路権申請と同時に開始。
      07 第2船の「第二繁久丸」57G/T建造。
1927(S02).07 第3船の「第三繁久丸」53G/T(後の繁久丸)相次いで建造、大分~八幡浜間の旅客輸送に努力
         した。
1930(S05).05.06個人経営の青木石油店を株式会社青木石油店に改組。
1934(S09).02.20青木石油株式会社に変更。
1937(S12).11.23鋼製客船「第一繁久丸」198G/T・200名、木造客船「第八繁久丸」138G/T・140名の竣工式。
       「第一繁久丸」は30トンの油槽を備えた旅客船兼油槽船であった。
1938(S13).12 木造客船「第十繁久丸」173G/T・170名竣工。
1942(S16).02.27太陽石油創立(青木石油、松岡石油、ミカド製油の製油部門を統合し設立)
終戦時、青木運輸の所属船舶は10余隻に及んでいた。
1946(S21)  「第二繁久丸」及び「第三繁久丸」を旅客船からトロール船に改造。太陽石油は、戦時中よりト
        ロール船による漁業で本業を支えていた。

社史には「第一繁久丸」「第八繁久丸」のお披露目当日の写真や、旅客船兼油槽船「第一繁久丸」のサイドビューも
掲載されている。写真からファンネルマークや社旗は確認できないが、「第三横須賀丸」のオペレーターは青木運輸と見て
間違い無かろう。
『愛媛県史』の記述と異なるが、太陽石油社史によると青木運輸創立は「T14の第一繁久丸竣工と同月」とある。
青木石油は1917(T06)時点において自家用船を持つ状況になく、県史等の記述は錯誤と見られる。社史のとおり、
1925(T14)「第一繁久丸(初代)」をもって旅客船航路を開設したと考えるのが妥当であり、一隻で不足する船腹
を「第三横須賀丸」を用船して賄ったのではあるまいか。

今治港から三津浜へ向け、夜間に海岸線を走行すると、忽然と現れる精油所の夜景に目を奪われる。最初は予
想外の夜景に驚かされた。今回、社史を見て太陽石油の精油所と知った。
青木繁吉氏は、石油製品の行商をしながら石油精製方法について独力で研究を重ね、バラック小屋に風呂釜を流
用した蒸留釜を設置し、試行錯誤を繰り返しながら製油に情熱を燃やしたと社史にある。

会議録を読んでみたところ、豊予海峡フェリー航路開設に関する記録は非常に興味深く、現在の国道九四フェリー
は、青木運輸と関係無くもないことを知った。三崎には、撮影や九州への旅の途中に、幾度か立ち寄っている。
昨年の夏は、東京の自宅から三崎港へ、4回の休憩停車を経て12時間30分で到達した。さすがに体力を消耗し、
対面通行となる伊予ICから下道に下り、未明の海岸線を走った。





撮影地の海岸の石は、全て、中央構造線外帯に連なる三波川変成帯の結晶片岩だった。船は佐賀関へ向けて
三崎を発った「ニュー豊予2」。
上毛かるたの「さ」は「三波石と共に名高い冬桜」。三波川は群馬県藤岡市の山中にあり、特産の三波石は庭石と
して珍重される。はるばる四国の西端に来て、群馬県の河川名を冠する地質を目にする不思議。プレート移動に
よる高圧変成を成因とする結晶片岩の露頭を前に、壮大な、列島の成り立ちに思いをめぐらせた。

兵庫工作分局の建造船

2014-06-11 | 日記
「萬幸丸」という蒸気船を追いかけていた。当初は、工部省兵庫工作分局において建造された船らしい‥としか
理解していなかった。この船名は船名録から見い出せない。
造船工長を記す船名録はM26版からであり、M20-25版までは製造地名のみとなっている。汽船表に記録された
情報も貴重であるが、全船を網羅していない。

明治初期に建造された汽船には、製造者不明船が多い。特に創業期の大坂商船会社在籍船は、造船工長の記載
されるM26船名録(M25.12.31)までに廃船となった船も多く、謎に満ちている。
工部省沿革史リストをもとに、兵庫造船局建造船26隻組(蒸気船23隻、帆船3隻)のその後を検証してみた。覚え
として作成した表を抜書きしたため、見づらいものとなっている。

No 船名    長 登簿噸 製造年月  M20船名録 長 登簿噸 製造年月 *=M15   M18汽船表 製造年月 製造地名 船主    M26船名録 造船工長
01 萬幸丸   87.0 104 M11.05    138 / HCBK 太安丸*               M10.09 兵庫川崎新田 大坂商船会社      -
02 平運丸   102.2 126 M11.09    188 / HBMF 平運丸 108 70 M11.01     M11.01 兵庫工作分局 大坂商船会社     -
03 福傳丸   142.0 291 M11.11    165 / HCDS 静凌丸*               M11.11 兵庫工作分局 大坂商船会社      -
17 徳島丸   90.0 126 M11.11    <記載無し>                     <記載無し>                     -
04 凌波丸   80.0 109 M11.12    41 / HBQN 凌波丸 85 84 M11.12       <記載無し>                    鈴木吉蔵
05 龍丸    90.0 127 M12.04    190 / HCGD 龍丸 96 91 M12.05       M12.05 兵庫新田 大坂商船会社        兵庫工作分局
18 巳卯丸   98.0 138 M12.12    83 / HBTC 巳卯丸 104 88 M12.11      M12.11 兵庫工作分局 大坂商船会社     -
06 平穏丸   108.0 214 M12.12    216 / HCJK 平穏丸 116 123 M12.12     M12.12 神戸川崎町 大坂商船会社     兵庫工作分局
07 鵬勢丸   99.0 148 M13.02    93 / HBTG 鵬勢丸 104 94 M12.12      M12.12 兵庫工作分局 大坂商船会社     -
09 筑紫丸   150.0 415 M13.02    222 / HCJQ 筑紫丸 155 208 M13.03    M13.03 兵庫工作分局 大坂商船会社     -
10 廣島丸   96.0 136 M13.06    700 / HFBD 第二広島丸 100 88 M13.05   M13.05 兵庫 大坂商船会社          兵庫工作分局
08 謙受丸   131.0 366 M13.04    271 / HCMK 謙受丸 129 210 M13.06    M13.06 兵庫工作分局 鴻益社         -
11 明運丸   99.8 141 M13.12    426 / HDBK 明運丸*                <記載無し>                -
13 高田丸   99.8 141 M14.01    590 / HDNT 高田丸 97 84 M14.02      M14.02 兵庫工作分局 越佐海運会社     -
12 大龍丸   135.0 274 M14.04    544 / HDKS 大龍丸 138 187 M14.03    M14.03 兵庫工作分局 大坂商船会社     ゼームス、ハンナ
14 北洋丸   124.0 211 M14.08    702 / HFBJ 第一北洋丸 110 98 M14.08   M14.08 兵庫工作分局 北洋会社       -
15 游龍丸   90.0  74 M15.05    不登簿   游龍丸 86 56 M15.03       M15.03 大津 太湖汽船会社           不登簿○
16 三光丸   154.0 288 M15.05    695 / HDWR 三光丸 158 207 M15.04    M15.04 兵庫工作分局 大坂商船会社     ゼームス、ハンナ
19 第一小野田丸38.7 8.01 M16.09    不登簿   第一小野田丸 39 3 M16.06   M16.06 兵庫造船局 セメント製造会社      不登簿○
20 志摩丸   153.5 373.3 M16.06   805 / HFMC 志摩丸 141 237 M16.09    M16.09 兵庫工作分局 共同運輸会社     -
21 第二小野田丸46.9 10.87 M17.04   不登簿   第二小野田丸 49 7 M16.12   M17.03 兵庫造船局 セメント製造会社      不登簿○
22 金龍丸   168.0 494.81 M17.05  836 / HFPD 金龍丸 172 329 M17.04     M17.04 兵庫川崎 大坂商船会社       川崎造船所・ゼームス、ハンナ
23 第二徳山丸 96.2 102 M18.05    890 / HFSR 第二徳山丸 98 77 M18.05    <記載無し>                   佐山芳太郎
① (帆)太平丸 119.0 335 M11.08    434 / HDBR 太平丸 122 279 M11.08     -                          -
② (帆)太陽丸 127.5 446 M11.12    435 / HDBS 太陽丸 135 368 M11.12     -                          鈴木吉造(ママ)
③ (帆)新田丸 127.5 446 M12.12    <記載無し>神路丸か?              -                           -
                    
一列目は工部省沿革史リストに記された長さ、登簿噸、製造年月を記した。Noは元々の掲載順序とし、M20船名録
の製造年月順に行を並べ替えた。
二列目はM20船名録から長さと登簿噸数、製造年月を記した。M20船名録に掲載されない船でM15船名録に掲載さ
れる船に「*」を付した。
三列目はM18汽船表から製造地名と船主を記した。
四列目はM26船名録から造船工長を記した。

意外にも、改名された船は少ない。「廣島丸」「北洋丸」に、当初から「第二」「第一」が付されていたか判らない。
長さの数値は微妙に異なり、登簿噸数は別船と思える程の違いを見せる。同一地の建造にかかわらず、製造地名
の表記の違いも興味深い。

1868(慶応4).01兵庫開港。
1869(M02)バルカン鉄工所設立(東川崎)。金沢藩兵庫製鉄所設立。
1870(M03).12工部省設置(製鉄等を民部省より移管)。
1872(M05).02工部省は兵庫製鉄所を買収。製作寮兵庫製作所と改称。
1873(M06).04工部省はバルカン鉄工所を買収。兵庫製作所と統合。
1875(M08).04兵庫製作所修理船架完成。
1877(M10).01工部省製作寮は工作局、兵庫製作所を兵庫工作分局と改称。
   〃  .07一等技手佐畑信之着任。
1881(M14).03川崎正蔵は川崎兵庫造船所開設(兵庫東出町)。
1883(M16).09工部省は工作局を廃止。兵庫工作分局を兵庫造船局と改称。
1885(M18).01兵庫造船局に輸入の鉄船製造設備竣工。
   〃  .05兵庫造船局は船台3基建設に着工。
   〃  .09兵庫造船局は引揚重量2000トンの大船架竣工。
   〃  .12工部省廃止に伴い農商務省工務局に移管、兵庫造船所と改称。
1886(M19).05兵庫造船所を川崎正蔵に貸与。川崎兵庫造船所と合併、川崎造船所と改称。
   〃  .10川崎造船所にて大坂商船「吉野川丸」竣工。
1887(M20).07兵庫造船所を川崎正蔵に払下げ。

兵庫造船局最後の建造船は既出の「第二徳山丸」。共栄社の発注により建造され、帝国商船、吉田義方(小田原)
を経て東京湾汽船の所有船となった。





「第二徳山丸」の画像は、小田原海岸停泊中に加え、新たに航行中も見つかった。恐らく、同日の記録と思わ
れる。こちらにキャプションは無く、少々ピンは甘い。船名は停泊中画像より取り込んだ。

以降、建造船26隻のうち蒸気船23隻に限って記したい。
M20船名録に見あたらない船名は「萬幸丸」「福傳丸」「徳島丸」「明運丸」の4隻。
「福傳丸」は汽船表から「静凌丸」へ改名されたと判る。
「徳島丸」は全く追いかけられない。この船については項を改めて記したい。
「明運丸」はM18船名録から抹消されている。明治期の木造汽船は、損傷程度にもよろうが、沈没しても浮揚修復
されている。「明運丸」はどうなったのか。
「萬幸丸」の後身を「太安丸」とするには、疑問は二点ある。
①工部省リストと船名録は、製造年月が異なる。
②工部省リストと徳島県統計表は、登簿噸数が異なる。

廃藩置県以来、今の徳島県の地域は複雑な経緯を経ている。徳島県統計表は、幸いにもM13-M14二カ年間に船名
を記載している。

【M13統計表】
船名   噸数   所有者  定繋港  購入・新造年月
鵬翔丸  488   井上三千太 小松島 12.03.28購入
太安丸  20    撫養会社  撫養  13.10購入
末廣丸  56.22  船場会社  津田  13.11新造
巳卯丸  84.16  船場会社  津田  12.11新造
鵬勢丸  57.3   船場会社  津田  12.12新造

【M14統計表】
船名   噸数  馬力 造船年月  所有者   定繋港
鵬勢丸  57.3  16   13.01建造  船場会社  津田
末廣丸  30   46  13.10建造  船場会社  津田
巳卯丸  84.16   16  12.01建造  船場会社  津田
長久丸 84.08   33.8  14.10建造  船場会社  津田
太陽丸  78   25  14.07建造  太陽会社  古川
朝陽丸  72   25  14.07建造  太陽会社  古川
太安丸  20   15  10.09建造  撫養会社  撫養
撫養丸  19   12  14.08建造  撫養会社  撫養
常磐丸   1    3   14.04建造  安川長平  撫養

ここから「太安丸」について読み取れるのは次のとおり。
撫養会社「太安丸」(20噸・12馬力)は撫養港を定繋港とし、M10.09に建造された船を、同社はM13.10に購入
した――。

記載事項は異なるものの、工部省リスト、船名録及び汽船表をのデータを並べると次のとおり。
工部省 萬幸丸          87尺 104噸  20馬力 M11.05
M14版 太安丸 138           20噸  15馬力             撫養会社
M15版 太安丸 138 / HCBK       20噸  15馬力             撫養会社
M18版 太安丸 138 / HCBK      63.91噸 20馬力             大坂商船会社
汽船表 太安丸         94尺 62.78噸  20馬力 M10.09兵庫川崎新田 大坂商船会社
M20版 太安丸 138 / HCBK 94尺   63噸  20馬力 M10.09摂津国兵庫 大坂商船会社

徳島県統計表やM14-15船名録に記された登簿噸数20噸は錯誤だったのか。何時の時点か20馬力の「20」の数
値が、登簿噸数に取り違えられたのではあるまいか。工部省リストは登簿噸数104噸。M18船名録は63.91噸になっ
ている。仮に、船舶原簿に登簿噸数20噸と記されていたなら、それは正しいと云えるのか? 建造後3年目の誤
記載(?)は真実に思えてくる。登簿噸数の異なるM15船名録とM18船名録の「太安丸」を結びつけるのは、船舶番
号と信号符字。

明治大正期の船舶を追いかける際、トン数や長(Lr)は重要な手掛かりとなるが、尺(曲尺)と呎(feet)の混同や、用
語定義の誤認は避けたい。
船名録に「川崎造船所」とある「金龍丸」は、兵庫造船所の川崎正蔵への貸与が1886(M19).05であることから、
船名録若しくは船舶原簿の誤記と思われる。「ゼームス、ハンナ」と記される造船工長は1名ではなく、お雇い外国人
の造船師「ハンナ」(英)と機械師「ゼームス、ラング」(英)であり、この2名は「13.05傭入、17.06解傭」と、同一期
間の在籍となっている。船名録の記載は2名の名を重ねてしまっていると見られる。船名録にありがちな記載の
省略である。

「萬幸丸」の製造年月の錯誤は工部省リストにあると見られる。このことを裏付ける史料を挙げておきたい。







『萬幸丸史料』には、共立定約証、市中御賀帳、領収書等を含んでいる。支払は一括ではなく、機器や船体な
ど、出来高のようだ。領収書には工部省の技手佐畑信之の名がある。工部省沿革史によると営業したらしい。
萬幸丸の建造は、海運が活況を呈した南西戦争の時期にあたる。市中御賀帳には「銘酒」「窓幕」「将棋盤」等
が見え、船用備品となったことを考えると、非常に興味深い。



船場会社の活動した明治10年代は、近代海運史における神話時代のような感覚を持っていた。この史料により、
歴史の延長線上に姿を現してくれた感がある。
史料には船場会社の社長辞令も含まれる。社長に就任した湊喜八は、斎津村の初代村長となり、人望厚い人物
と記録される湊多平の関係者と思われる。湊多平は、共立定約証第壱条に氏名のある湊太平と同一人か。湊家
は、津田浦において代々回漕業を営んできた。
萬幸丸の建造時期や共立契約書の存在などから、津田浦の有力者の共立により1877(M10)蒸気船「萬幸丸」を建
造し、「船場会社」は翌年に組織されたと見られる。西南戦争の前後、各地に勃興した海運会社の成立過程を知
る上において興味深い。

昨年暮れ、大阪のT氏より、ご自身の栽培された香り高い種無し柚子が届いた。勿体なくて、冬至のお風呂に使
うのは数個に止め、凍結させて摺り下ろし、薬味にした。徳島繁栄組汽船部の宣伝看板を探しに出掛けた際、神
社の前で困り果てていたボクに、声をかけて下さったのがT氏だった。参拝した神社のお引き合わせか、T氏に巡
り会ったことにより、元教師の老婦人から看板の位置をご教示いただき、念願の対面を果たした。T氏は、最初に
大阪へ出た時は船で渡ったが、今は自家用車で大阪のご自宅と徳島の農園を行き来しているという。ご自身の生
活と、重ね合わせて語って下さった船や航路への思いは、喜びと共に胸に染みた。

今回は「萬幸丸」と「太安丸」の関係に止めたい。この『萬幸丸史料』は、徳島県にて保存活用されるべき郷土
史料と考えている。