津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

馬関海峡海底電線沈布

2012-05-09 | 旅行
「電信丸」に関連し、馬関(関門)海峡で海底電線布設に使用された、大阪商船の小型客船のことを
記しておきたい。



風景は下関側から門司側を望んだもので、撮影ポイントは現在の「火の山下潮流信号所」のあたり。左
手の山影は門司側の古城山。ここは『海底線百年の歩み』(以下『歩み』)に掲載の、「わが国最初
の海底電線布設位置」に記される「前田陸揚場」前の水域となる。
写真には、次のとおり墨書が添えられている。

馬関海峡海底電線沈布之図
明治廿九年一月三日写之




煙突マークは大阪商船。残念ながら船首部に船名は見当たらない。「明治丸」や前掲の「高砂丸」と同様、
船窓には跳ね上げの蓋が付いている。ポールドが一般化したのは何時なのだろう。画像の残る「吉井川丸」
にも似が、船尾の形状から、さらに溯った船と思われる。



後方(右手)に見える日本型船は「合の子船(アイノコブネ)」である。この船上にケーブルを載せ、海中に繰り
出したのか。
第一回と二回目は、「団平船2艘を舫い、これに板を渡し、その上に海底線を積み込み、作業員もケーブル
と一緒にこの船に乗り込んだ。」とある。当時、ケーブルの繰り出しは、人力でその速度を調整していた。
ケーブルは1海里あたり約20トンを越え、堅牢かつ堅く、人力で扱うには無理があった。そのため、工事の度
にけが人が続出した。このような布設方法はM10頃まで続き、次第にコイル作業は棒で取り扱うようになり、
その後、梃子を使用するようになった。このように団平船を小蒸気船で曳く方法を「和船式布設」と呼
んだという。日本型船を使用した写真のような布設方法も、和船式と云うのだろうか。
残念ながら、『歩み』からは、1896(M29)に施工された工事記録を見いだすことは出来なかった。



写真に見える旗を拡大してみた。この旗は画像中央の和船の掲げているもので、デザインは「電光」に見
える。『歩み』に掲載の旗とは地色と電光が逆塗りとなるも「電信線路目標」旗である。「海底線布設中
は線路用標旗と船舶旗が掲げられ、この旗標の付近では艦船の碇泊はもちろん、障害を起こす恐れの
ある行為のないように管下海岸の村々に通達された」と云う。
大阪商船の小型汽船の船名は何だろう。手掛かりは残っていないものか。いずれ、船名を特定したいと
夢見てる。





2010夏の10日間(8/06~8/15)、関西汽船の小倉/松山航路に昼便(増便)が運航された。航行を撮るこ
との難しい「フェリーはやとも2」「フェリーくるしま」を狙いに、数日間、関門海峡に遊んだ。
小倉発13:30→松山着20:20
松山発07:50→小倉着14:50
プレス発表されたダイヤを見た時、関門海峡付近で効率良く撮れるうえ、両船を絡められるかもしれない‥と
考えた。案の定、両船は手に汗握るシーンを展開してくれた。2010は暑い暑い夏だった。

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