津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

尼崎汽船の終焉

2011-08-28 | 尼崎汽船部
尼崎汽船株式会社が運航を止めたのはいつなのか? 尼崎汽船史に興味を持つ者にとって、
関心事の一つである。

太平洋戦争と戦後改革は、尼崎家の経営基盤を奪うものとなった。関西汽船と広島県汽船に
所有船を出資して役員に名を連ねるも、残された船舶は殆どが戦禍により失われた。残存した
のは「大東丸」「赤城丸」「金勢丸」程度である。
追い打ちをかけるように、1947年の農地改革は、耕地経営(尼崎耕地部)を不可能にした。
戦時海運管理要項が制定(1941)されたことに呼応し、関西汽船は設立(1942)されたが、戦後、
尼崎汽船、阿波国共同汽船、宇和島運輸は船舶の返還要求を行い、1948.04.26返還を受けた。
尼崎汽船は返還された10隻を中心に、大阪~多度津航路を再開する。



戦後発行の絵葉書に、尼崎汽船の船影が撮し込まれてるものは少なく、その稀な一枚がこの
「大衆丸」である。発行は丸亀市役所。大衆丸は1924.02尼崎造船所で建造された516G/Tの
ディーゼル貨客船。後に九州商船「椿丸」となり、1969.03の売却まで、五島航路に使用された。
楕円の中は金比羅講灯籠。塩原多助の寄付が最も多いことから「多助灯籠」と呼ばれる。
幼時を過ごした地域に、「塩原多助の松(馬つなぎ松)」という老木があり、手を引く祖母
から多助の話を聞かされた。惜しくも広瀬川改修により伐採されてしまった。さらに話は逸れ
るが、郷土意識の高い県民性は、沖縄県に続くは群馬県という。そこには「上毛かるた」の
存在がある。飲み屋で隣同士となり、偶々同県人と知るや、大いに盛り上がることになる。
因みに「ぬ」は「沼田城下の塩原多助」。



陸側から見た同一場所で、船影は中国航路(大阪~関門)に就航した尼崎汽船部「神惠丸」。
丸亀市役所による戦前発行の絵葉書。



現在の丸亀港岸壁。多くの内航タンカーが艫着けしていた。



時刻表を見てみたい。1950.07.01発行の時刻表では、起点は大阪川口(安治川口)である。
就航船は「浪切丸」「大衆丸」「神惠丸」「日海丸」の4隻が記されている。尼崎汽船の
大阪~多度津の運賃は2等500円/3等200円であるのに対し、関西汽船は「那智丸」「ひかり丸」
「さくら丸」で730円/290円と割高だが、内2隻は新造の28組を投入している。



尼崎汽船は「多度津尾道間航路延長」を申請し、1950.05.22高松市商工会議所で公聴会が開催された。
1951.11.22改訂の時刻表は、尾道に航路延航されている。就航船は「大衆丸」「日海丸」の2隻。
宝海運の大阪・鳴門線1952.12.01改訂時刻表には「日海丸」が掲載され、また、九州商船の社史によると
「大衆丸」は1952.07購入、翌月「椿丸」と改名。尼崎汽船は1952年前半に運航を中止したと思われる。

1950.12.11 「大東丸」沈没により信号符字取消。
1951.05.21 「神惠丸」「運輸丸」独航機能撤去により信号符字取消。
 〃 .06.28 「正宗丸」沈没により信号符字取消。
1952.02.28 「一心丸」独航機能撤去により信号符字取消。
1953.03.15 「赤城丸」独航機能撤去により信号符字取消。
 〃 .06.26 和議手続開始。
 〃 .10.13 債権者集会。
 〃 .10.26 和議認可。付された条件は、「株式3万株を債権者団体に無償譲渡」「債権者団体の代表者を
       会社役員に入れる」など。

順風満帆の時は個人経営の利点も活かせようが、社会情勢の変化が速過ぎた。大阪商船を向こうに、
30数隻の大商船隊を擁した尼崎汽船の、余りに哀れを誘う終焉である。

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太湖汽船と病院船

2011-08-25 | 旅行
1882年(M15)に設立された太湖汽船(旧)は、翌年には「第一太湖丸」「第二太湖丸」を登場させ、
1884.05.15浜大津~長浜の鉄道連絡を開始した。両船は我が国造船史上、黎明期に建造された
鉄船で、興味は尽きない。東海道線の開通により、早くも1889.07に鉄道連絡は終焉を迎えている。
二隻の太湖丸は解体され、海に降ろされた。そこに太湖汽船が「外海営業」を行った端緒がある。
社史は「湖上営業」「外海営業」と区分しているところが面白い。
明治末期には、太湖汽船(旧)も1886年に設立の湖南汽船も、観光航路に軸足を移し、今も多くの
パンフレット類が残っている。



太湖汽船発行のデフォルメされた案内地図には、中央部に沖島が見える。
図にはスキー船(1930.01~)と水泳船(1931.07~)が描かれ、裏面のフリートリストに辯天丸(1935~)
が見当たらないことから、1932~34年に発行されたものと考えられる。



京阪丸に乗り込むスキー客。この画像は戦後のものだが、戦前においても、一晩で2000人を集客し、
浜大津から海津へ向け、7隻もの大型客船が続々出港したという。
社史は次のように記している。

遊覧季節が終了すると、昔ならば全く冬眠する太湖汽船にとって、
却って「冬来りなば」と待望せしめるものこそスキー船である。
何と云っても暖い船室に楽々と横臥して行くことの出来る所謂ス
キー・ホテル船の魅力を忘れてはならない。


戦前の時刻表では、往航は浜大津発0時、復航は海津発17時となっている。今、23:55に浅草駅を
発車する東武鉄道のスキー夜行列車「スノーパル」を思わせる。



『太湖汽船の50年』を見ていると、病院船として活躍した所有船があったことに気付く。病院船と
なったのは「吉生丸」(きっしょうまる)。1881年に英国で建造された「カッサン」が前身。2478G/T。
日露戦争勃発の前年、1903年(M36)に輸入され、太湖汽船は同年12.17原田十次郎より購入した。
一方、同日付で「第一太湖丸」「第二太湖丸」を尼崎伊三郎に売却している。
本船により、太湖汽船は朝鮮・北海道航路を開始。1904.02.18御用船を命じられ、1905.01病院船
となり、同年12.27御用船を解任された。この姿はその間のものである。
1912.04.01樋爪譲太郎へ売却され、樋爪商会を経て、1916堤清六、1917神戸東和汽船の所有となり、
1925頃抹消されている。

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沖島へ

2011-08-22 | 旅行
数年前になるが、「遺伝子が解く! 万世一系のひみつ 」(文春文庫)を読んだ。
「あなたと私のご先祖様は‥‥」という章に、ごく普通の日本人同士なら、江戸時代には
共通の先祖がいる可能性があり、戦国時代、室町時代まで遡れば、ほぼ確実にいる‥とあった。
以前にも、知人から同様の話を聞かされていて、なるほどなぁと、納得しつつ読了した。

船社史、造船史を調べる際、人物誌をもとに、船主や技術者の簡単な系図をメモしておくと、
それが思わぬヒントになることがある。自らの系図など、考えたこともなかったが、母方の
叔父宅に巻物の「兵法書」や「誓約書」「家系図」があったことを思い出し、国会図書館や
ネットで調べてみた。

計算上、8代溯ると父方、母方合わせて256人ものご先祖様がいることになるが、その一人は
沼田藩士で、江戸は下谷で剣術道場をやっていたらしい。江戸切絵図にその所在を確認できる。
下って5~3代前になると、墓所は滋賀県になる。なぜ、滋賀県なのか? 今ひとつ理解できず、
お参りする機会もなかった。

この夏、お袋を連れて滋賀県入りした。深夜に東京を発ち、早朝に琵琶湖畔に着いたため、
お参り前に沖島に渡ってみた。これまで3回ほど、長命寺港から堀切港にかけ、湖上の連絡船を
撮影するも、渡島は初めてとなる。



「おきしま」
沖島は近江八幡市の行政区域内にあり、国内淡水湖上、唯一の有人離島。定住者のいる湖上の
離島は、世界的にも珍しいという。シマダス(2007版)によると定住人口は483人。
堀切港7:15発の「おきしま」に乗船。本船は2009.02.01に沖島港で進水式、02.02に就航した。
建造費の一部を「バリアフリー施設整備」として、日本財団が支援している。
全長17.50m、幅4.00m、19G/T。10分ほどで沖島港に到着。漁港なのに潮の香りはなく、川魚の
においに満ちていた。



先代「おきしま」
沖島港には、先代の連絡船が係留されていた。操舵室脇に「おきしま」と読めるも、船尾には
「第二寿丸」とあった。1999年にエビ運搬船を改造して客船化した船という。



通学船「わかば」
沖島小学校前には通学船「わかば」が係留されていた。使われている様子はない。軽合金船で、
14.00×4.00×1.83、18G/T。1992.02に杢兵衛造船所建造。2代目通学船である。島内にあるのは
小学校のみで、中学生は本土へ通学しているとか。



島を離れる前、機材を積んだ車両を乗せた台船を引き、「おくむら丸」というタグが入港して
きた。鉄板を渡して車両は上陸。尤も、港の周辺を除き、集落内に自動車の通行できる道は無い。



初めて訪れたお寺では、90歳を越えるご住職にお話を伺えた。藩の剣術指南役として、5代前は
江戸から滋賀へ来たようだ。山門も本堂も江戸時代の建築という。
見ず知らずの地へ来た5代前。故郷を後にした3代前。先祖は、何を考えながらこの山門を
くぐったのか。遙か昔の先祖の生き様に思いを馳せるのも、時には必要なことかもしれない。
西日本各地に船を訪ね、いく度となく名神や新名神を行き来したが、その近くに先祖は眠ってる。

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白鳥の湖

2011-08-20 | 旅行
先日、一泊二日のツーリングで、榛名湖~野尻湖~猪苗代湖と一周してきた。
単なるツーリングではなく、白鳥の生息地めぐりでもある。

東北道を北上し、先頃全通した北関東自動車道を経由して榛名湖に入った。
夏の湖水を渡る風は、木々の緑まで溶かし込んでいるようで心地よい。幼い頃、
祖母から聞かされた「ひともっこ山」伝説を思い出しながら、「はくちょう丸二世号」
の出港を待っていた時である。
桟橋修理を監督されていた方と、ふとしたことから会話が始まった。
榛名湖への白鳥型遊覧船導入は、相模湖、諏訪湖に次いで三番目であったことや、
バランスの良い安定した船を造る砂賀造船所のことなど、お聞かせ下さった。
話の端々から、「はくちょう丸二世号」への愛情が感じられ、船好きにとっては
たまらないひと時であった。

白鳥型遊覧船の嚆矢は昭和41年に相模湖に登場した「スワン丸」であることは
有名だが、その全貌となると、まとまった資料は見当たらない。
ここ数年間に出会った白鳥型遊覧船は10隻。資料をあたってみると、JG船7隻、
JCI船9隻の、計16隻が建造されたと思われる。最後に建造されたのは平成4年。
ここのところ運航隻数は減る一方で、今夏は6隻となっている。

出会った10隻の白鳥の顔を並べてみたい。飼い主(オーナー)さんなら、一発で
ご自身の白鳥を見当てることだろう。




















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楽しい潜水艦型遊覧船

2011-08-14 | 旅行
数年前、全国の湖沼を巡り、遊覧船を押さえたことがある。本栖湖を訪れた時は秋も深まり、
遊覧船の営業期間は終っていた。誰もいない湖畔に係留された潜水艦型遊覧船「もぐらん!」の
黄色が印象的だった。

夏の半日、富士山一周のツーリングを兼ね、富士五湖に出掛けてみた。
渋滞情報を確認し、中央道を避けて東名高速は御殿場ICから国道139号線に下り、籠坂峠を
越える。さすがにここまで来ると、メッシュのジャケットを抜ける風は心地良い。
山中湖に生息する白鳥は、ヨット顔をした「プリンセスオデット」。ヨット三姉妹で嘴を開けて
いるのは彼女だけだ。
早々と山中湖を切り上げ、本栖湖へ向かう。遊覧船桟橋のある湖畔は、涼をとる人達で賑わって
いる。イエローサブマリンをイメージした遊覧船「もぐらん!」。潜水艦型でも、潜らないから
「もぐらん!」 その遊び心が楽しい。船内には水中展望窓を持つ。



「もぐらん!」 10G/T 横浜ヨット H13.03建造 FRP製
JCI新潟支部の付番となっている。



湖畔で飼主にじゃれていたラブラドールリトリーバーは、
「もぐらん!」を迎えるように泳ぎ始めた

富士山一周も目的としたため、朝霧高原を富士市に向かい、東名高速に乗る。この時間は東名
上りも首都高も空いている。昼には帰宅してしまい、予定どおりの行程となった。
潜水型遊覧船は他にもいる。南紀白浜の海中展望船「りんかい」「せと」は、まるでコッペパン
のような船体や、ビーチングして乗下船することなど、初見参の驚きは大きかった。先の撮影行
では、その日最後の入港に間に合った。



「りんかい」「せと」共、旅客船ガイドは「三保造船」建造としている。19G/T 
「株式会社三保造船所」は清水と大阪にあるが、後者であろう。軽合金製だろうか?

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「軍用船宇品丸慰霊塔」を訪ねて

2011-08-12 | 旅行
終戦間際の昭和20年8月10日、「宇品丸」は新潟港内で米軍機の空襲を受けた。新潟市内に
ある慰霊塔は、以前から気になるも場所が判らず、なかなか訪れることが出来なかった。
ようやく参拝する機会を得たので、手持ちの「宇品丸」画像も整理してみた。



軍用船宇品丸慰霊塔は、新潟市船見町という、信濃川河口(左岸)に程近い町の公園にある。
慰霊塔の向かって左に歌碑があり、その後側に慰霊塔建立趣意書が建てられている。
(歌碑)
ああ悲壮 世界平和を夢に抱き
玉砕しけり 宇品の勇士




宇品丸慰霊塔建立の趣意書
大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日米軍の戦斗機(グラマン)
数機により新潟港湾附近の空襲を受けた際、偶々同港山田町側に
停泊中の軍用船宇品丸の兵士は敢然としてこれを迎撃奮戦した為に
米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して弾丸のほとんど全部を撃ち尽
して逃走した。その為港湾施設及び市街は最小限度の被害で済んだが
宇品丸の乗員はほとんど玉砕した。
昭和29年地元山田町外有志相図り新潟市の救神となった宇品丸勇士の
英霊を慰めようと慰霊塔建立の議あり。茲に当時の市長村田三郎氏の
筆を得てささやか乍ら建立を実現し、以来毎年町内会にて慰霊祭を
執り行ない英霊に感謝の意を表している次第である。

嗚呼悲壮 宇品の勇士花と散り
その名も数も無きあとの
霊なぐさむと伏し拝む


宇品丸については、『陸軍船舶戦争』の中で、陸軍運輸部が民間商船を購入した経緯やその
活躍が紹介されているので参照されたい。ここでは、画像と共に、来歴の概略を記す。

1919年5月、米国ミネソタ州スペリオル湖岸の Mcdougall Duluth Ship Building Co. で
United States Shipping Board の「CERRO GARDO」として竣工した。
1927年(S2)に大阪市西成区松原通の宗像商事が購入し、「宗安丸」(SOAN MARU)と改名。船籍は
京都府府中(宮津)に置かれた。この時2,214G/T、船舶番号33213、信号符字TMCQ。



陸軍省が購入した年月は把握できないが、帝国海事協会のレジスターは1929年版は「宗安丸」、
1930年版は「宇品丸」であることから、1929年(S4)前後と思われる。陸軍省は購入して直ぐ、
陸軍運輸部本部のあった宇品の地名を命名している。
陸軍省所有となるもレジスターから抹消されなかったのは、N.S.を取得していたからではなかろうか?
ただし、日本船名録からは抹消される。同時期に抹消された「第五室蘭丸」と混同されることが
多いが、ほぼ同じ船型、似通った経歴の故か? こちらは1930年6月13日に占守島で座礁し全損に
帰している。



船の前には多くの兵士が並ぶ。船倉を居住区に使ったためか、大型の通風筒が目を引く。舷側には
四本の大型タラップが掛けられている。



飯野産業舞鶴造船所において修復中の「宇品丸」。操舵室窓部分に数人が取付いて作業中である。
操舵室周辺は、戦後の復旧にあたり造り替えられている。

以下、船歴について、細かいことだが記しておきたい。
S21/22年版船舶明細書(S21.7.1現在)及びS23年版船舶明細書(S22.7.1現在)には「宇品丸」は
採録されていないが、S24年版船舶明細書(S23.7.1現在)には、「国有鉄道公社」所有として掲載
されている。この時2,401.84G/T。後年の版に確認した船舶番号67475、信号符字JIGQだが、船舶
番号は1951年(S26)頃の付番である。船名録や船舶明細書で追いかけていくと、後身の「栄海丸」
終末期に室町海運から永元海運(神戸)に売却、国籍喪失により1966.6.21付で信号符字は抹消され
ている。

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尾鷲港と「すがり丸」

2011-08-09 | 旅行
国道42号線の難所“荷坂峠”を越えると、いよいよ紀伊半島の地に入ったという
思いが強くなる。新長島造船を左に見つつ、ここで産声をあげた「すがり丸」に
会うため、尾鷲港を目指す。






「あの東京ナンバーのkawasakiは君のかね?」 防波堤に寝ころび微睡んでいたら、
年配の親父さんが話しかけてきた。ご自身もハーレー乗りで、2台を大切にしている
とか。バイク談義の後、地元の話を伺うことができた。目前に聳える煙突は中部電力
尾鷲三田火力発電所で、運転を休止していたが、電力不足を補うため、運転再開に
向けて整備中という。燃料油を積んだタンカーが来航することや、冷却水が流れ込むと
港内の海水温が上昇し、釣れる魚も替わることなど語ってくれた。
もともとは東京の方で、やんちゃな頃は浜松町界隈で族のリーダーやってたという
武勇伝まで聞かせて下さる。おお!

「すがり丸」は7:20入港を狙い、8:00の出港を見送る。かつての紀伊半島沿岸航路船に
思いを馳せつつ、国道42号線を南紀へ向かった。



すがり丸 FRP 14.00G/T 長島造船 1995.09
背景に見えるのはタンカーから発電所への送油管。

紀伊半島沿岸の汽船による定期航海は、明治18年の鴻益社、明治20年の神田商会あたり
からで、前者は熱田共立汽船を経て日本共立汽船となり、神田汽船を吸収。ようやく
競合航路を脱したところに、明治32年大阪商船が参入。翌33年に日本共立汽船は大阪商船に
吸収され、以後、大阪商船の独占が続くのである。



この絵葉書は明治42年の発行で、スタンプは「大阪商船会社名古屋航路就航十周年」と
読める。図柄はとても楽しく、明治33年(子)から、42年(酉)までの十二支が並ぶ。
中央のハマグリの中は「現今使用汽船和歌山丸」とあり、右下の33年(子)の下には、
写真に添えて「開航当時使用汽船神宮丸」とある。明治23年建造の「神宮丸」は昭和
初期まで船名録上にて追跡可能。一方、明治38年建造の「和歌山丸」は、数年の活躍に
終わる短命な船である。

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一枚の看板を訪ねて

2011-08-07 | 旅行
徳島繁栄組汽船部。
大正12年に井上達三氏が設立し、昭和12年に運航を中止した船会社である。
その案内看板が、徳島の山間の集落に残っているらしいことを知ったのが6月。

矢も楯もたまらず、悶々とした日を過ごすこと数日。
東京ICから東名に入り、嬉野PAで仮眠をとり、正味6時間30分の走行で尾鷲着。
紀伊半島は2005年、2008年と訪ねて以来の訪問となる。
一日かけて尾鷲、志古、勝浦、串本、白浜に小型客船を訪ね、和歌山港から
21:35発の「フェリーつるぎ」で徳島入り。

未明に起き出し、逸る気持ちを抑えつつ、国道192号線を西へ向かった。
何とかなるだろうと、微かな情報を頼りに、来たは良いものの、一枚の看板を
探すことがいかに大変なことなのか、山塊を前に考えてしまった。
道路事情を教えていただこうと、警察署に立ち寄ったところ、宿直中の警察官は
大変親切に対応して下さった。「道が狭いうえ、動物が飛び出すので注意して欲しい」
というアドバイスに、一体、どんな所なのかと緊張しながら山道に分け入った。

目星を付けてた界隈は予想以上に広く、諦めの気持ちも芽生えたが、まずは神社に参拝。
困り果てた顔をしていたのか、通りかかった方が声をかけて下さった。
その方が、教員をされていたという老婦人に尋ねて下さり、看板のある場所が特定された。
参拝した神社のご利益かお導きとしか思えない、思いもよらぬ展開となった。



昭和12年に運航を止めた船社の看板が、今でも客を呼んでいる!
井上達三氏の思いが詰まった看板の文言を読み、不思議な感動に立ち尽くした。

縣市ノ為 乗ッテ下サイ 積ンデ下サイ
就航船 扇海丸 橋立丸
運賃大割引     (←この行、赤文字が退色)
大阪 兵庫行 毎夜九時定期 中洲港発
自動車又ハ鉄道連絡ノオ客様ハ徳島駅前待合所
ヨリ汽船のりばマデ自動車ニテ無料デオ送リシマス
徳島市中洲港 徳島繁栄組汽船部

大正15年、大阪商船・阿波国共同汽船は阪神~徳島航路に旅客船航路を復活させ、
昭和5年には徳島急行商船組も参入した。井上達三氏はその間の昭和3年に逝去した。
この看板は、三つ巴の、激しいサービス、ダンピング合戦が行われた昭和5年以降の
ものであると考えられる。
何とも妙に写る「縣市ノ為」という文言は、徳島港整備に生涯をかけ、私財を投げ
打ち、船会社を設立・運営してまで、徳島港に賑わいを戻そうとした井上達三という
人物を知って初めて、強く訴えかけてくるのである。



第参扇海丸 SENKAI MARU No.3 282G/T 1903.03 浦賀船渠
フィリピン政庁向けに建造されたJOLO(ジョロ)が契約を破棄され、陸軍省所有となる。
井上は1926に陸軍省より払下げを受ける。



第貳橋立丸 HASHIDATE MARU No.2 163G/T 1906.05 小野鉄工造船所
阪鶴鉄道が建造し、井上は鉄道省より払下げを受ける。

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