着色絵葉書のキャプションには「Warehouse of Japanese Wine at Shinkawa, Tokyo」とあった。一瞬、何のことか
訝ったものの清酒と気づき、思わず笑ってしまった。画像を良く見ると、伝馬船上に酒樽が満載されている。
この樽酒こそ、上方から運ばれてきた有名な「下り酒」か。陸上には酒樽を扱っている人物も見える。平板な
着色となっているが、原板のコロタイプ印刷はとても鮮明だ。これは「Shinkawa」の何処なのだろう。運河「新川」
は、万治3年(1660)河村瑞賢によって開削され、両岸は河岸として賑い、酒問屋が集中したことで知られる。


参謀本部陸軍部測量局作成『五千分一東京図』を手にした。「傑作」と賞賛される地図とあって、個々の家屋形状
や材質、橋梁や護岸の材質、渡船の種別まで読み取れる。このあたりから、(財)日本地図センターによる解説書は
「一抹の政情不安による新政府の本拠である東京市街の内戦用市街図が必要とされたのではなかろうか」として
いる。『東京東部』は1884(M17)、『東京南東部』は1883(M16)の測量で、市区改正前の東京の街並みは、江戸の
延長と見て良いようだ。霊岸島は日本橋川と亀島川によって区画され、周囲は河岸地になっていた。今の有明
10号地埠頭を思わせる。

地図上に、以前から気になっていた倉庫を探したところ、亀島川沿いに見つかった。間口の違いさえも地図は
表現していた。遠く左手に見える霊岸橋は地図上の位置ではなく、現在の永代通りと一致している。望楼のよ
うな二階を持つ白壁の建物の手前は新川入口。護岸の食い違いも見て取れる。この河岸風景は、今、どうなっ
ているのか。現在の永代通りの位置を、嘗ての所有者は赤鉛筆で微かになぞっている。

ほぼ同じ位置に立ってみた。絵葉書は、亀島川に架かる新亀島橋の西詰からの光景だった。新亀島橋は1882
(M15)初めて架橋されたことが、橋の袂に建てられた碑に記されていた。碑には次の文言があった。
新川側は、菱垣廻船や樽廻船が往来し、上方から来る下り酒と呼ばれる酒を扱う酒問屋で賑わいを見せ
「江戸新川は酒問屋をもって天下に知られ」と言われるほどでした。

新川大神宮を参拝した。敬神会御芳名板には、国内の名だたる酒造・醸造会社、酒販会社が名を連ねていた。
境内には記念碑があり、読み下し文が解説板になっていた。
新川大神宮再建由来誌
新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書「慶光院由緒」並に江戸名所図絵に詳しい。
当宮は慶光院周清上人が寛永二年(1625年)徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢
両宮の遙拝所を設けられたのに始まり、其後明暦三年(1657年)江戸の大火で類焼したので、この年
替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。
爾来統治は河村瑞軒が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖の便に利するに至って新川と称し、当宮を中
心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。
当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を聚め、特に酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初
穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。
明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋して来たが、昭和
二十年(1945年)三月九日の戦火に罹り社殿を烏有に帰した。
その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び繁栄を恢復しつつあるのは全く当宮御神威の賜
ものである。 (以下略)

明治末期の地籍図から霊岸島6番地の地主を確認したところ、太田ハナエ(愛知県碧海郡)となっている。
『東京酒問屋沿革史』を読んでいたら、「太田蔵」と呼ばれた倉庫群であることが判った。紋は「太」で
あった。この沿革史には、絵葉書が記録された頃の、活気に漲る新川の情景が、古老の思い出話として描
かれている。
新川散策の帰途、図書館に寄り、菱垣廻船及び樽廻船に関する書籍を手当たり次第読んでみた。菱垣廻船
から分離した樽廻船、その両者の関係については『日本海運競争史序説』が詳しく、面白かった。
また、樽廻船の「番船」という競争の慣習については、『神戸海運50年史』や地元刊行『中央区の昔を語る』
で知った。19世紀中頃、中国から英国へ茶葉を輸送した、ティークリッパーによるティーレースを思わせる。
高校生の頃のこと。当時、初期の小型鋼船は終末期を迎えていた。『船の科学』のバックナンバーを揃え、造船
所による相違点や形態の変遷を確認しては、日曜日になると船見に東京港を歩いた。特にエンクローズド・ブリッジ
の499G/T型貨物船に夢中になり、一瞥して来島型、今治型、波止浜型など見当を付け、双眼鏡を覗いてメー
カーズプレートを確認して悦に入るという、かなり怪しい趣味活動をしていた。
何かあると、内航船社に照会のお便りをさせいただいた。霊岸橋近くにある鋼材船オペレーターK社からは、懇切
丁寧なご返事と共に、自社船の進水記念カードやGAをお送りいただいた。直ぐに1/100の水上模型を製作し、
お届けしたところ、「そんなに船が好きなら‥」と、同社貨物船Y丸に東京~水島間を便乗させていただく
という、またとないプレゼントを与えて下さった。窓口となったHさんは、社内・本船との調整や保険など、業
務以外の多くのご苦労をされたと、後に伺った。社会に出てからも幾度かお会いし、港内をご案内いただい
たり、食事をご馳走になるなど、船社の東京所長としてエネルギッシュに活躍される眩しい方だった。
屡々バイクで永代通りは走るものの、久しぶりに歩いて霊岸橋を渡り、橋上からK社を望んだ。あらためて、妙
な高校生の面倒を見て下さったHさんへの、感謝の気持ちがこみ上げてきた。悠々自適の生活をされるHさ
んには、今も時折お会いしている。
訝ったものの清酒と気づき、思わず笑ってしまった。画像を良く見ると、伝馬船上に酒樽が満載されている。
この樽酒こそ、上方から運ばれてきた有名な「下り酒」か。陸上には酒樽を扱っている人物も見える。平板な
着色となっているが、原板のコロタイプ印刷はとても鮮明だ。これは「Shinkawa」の何処なのだろう。運河「新川」
は、万治3年(1660)河村瑞賢によって開削され、両岸は河岸として賑い、酒問屋が集中したことで知られる。


参謀本部陸軍部測量局作成『五千分一東京図』を手にした。「傑作」と賞賛される地図とあって、個々の家屋形状
や材質、橋梁や護岸の材質、渡船の種別まで読み取れる。このあたりから、(財)日本地図センターによる解説書は
「一抹の政情不安による新政府の本拠である東京市街の内戦用市街図が必要とされたのではなかろうか」として
いる。『東京東部』は1884(M17)、『東京南東部』は1883(M16)の測量で、市区改正前の東京の街並みは、江戸の
延長と見て良いようだ。霊岸島は日本橋川と亀島川によって区画され、周囲は河岸地になっていた。今の有明
10号地埠頭を思わせる。

地図上に、以前から気になっていた倉庫を探したところ、亀島川沿いに見つかった。間口の違いさえも地図は
表現していた。遠く左手に見える霊岸橋は地図上の位置ではなく、現在の永代通りと一致している。望楼のよ
うな二階を持つ白壁の建物の手前は新川入口。護岸の食い違いも見て取れる。この河岸風景は、今、どうなっ
ているのか。現在の永代通りの位置を、嘗ての所有者は赤鉛筆で微かになぞっている。

ほぼ同じ位置に立ってみた。絵葉書は、亀島川に架かる新亀島橋の西詰からの光景だった。新亀島橋は1882
(M15)初めて架橋されたことが、橋の袂に建てられた碑に記されていた。碑には次の文言があった。
新川側は、菱垣廻船や樽廻船が往来し、上方から来る下り酒と呼ばれる酒を扱う酒問屋で賑わいを見せ
「江戸新川は酒問屋をもって天下に知られ」と言われるほどでした。

新川大神宮を参拝した。敬神会御芳名板には、国内の名だたる酒造・醸造会社、酒販会社が名を連ねていた。
境内には記念碑があり、読み下し文が解説板になっていた。
新川大神宮再建由来誌
新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書「慶光院由緒」並に江戸名所図絵に詳しい。
当宮は慶光院周清上人が寛永二年(1625年)徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢
両宮の遙拝所を設けられたのに始まり、其後明暦三年(1657年)江戸の大火で類焼したので、この年
替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。
爾来統治は河村瑞軒が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖の便に利するに至って新川と称し、当宮を中
心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。
当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を聚め、特に酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初
穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。
明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋して来たが、昭和
二十年(1945年)三月九日の戦火に罹り社殿を烏有に帰した。
その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び繁栄を恢復しつつあるのは全く当宮御神威の賜
ものである。 (以下略)

明治末期の地籍図から霊岸島6番地の地主を確認したところ、太田ハナエ(愛知県碧海郡)となっている。
『東京酒問屋沿革史』を読んでいたら、「太田蔵」と呼ばれた倉庫群であることが判った。紋は「太」で
あった。この沿革史には、絵葉書が記録された頃の、活気に漲る新川の情景が、古老の思い出話として描
かれている。
新川散策の帰途、図書館に寄り、菱垣廻船及び樽廻船に関する書籍を手当たり次第読んでみた。菱垣廻船
から分離した樽廻船、その両者の関係については『日本海運競争史序説』が詳しく、面白かった。
また、樽廻船の「番船」という競争の慣習については、『神戸海運50年史』や地元刊行『中央区の昔を語る』
で知った。19世紀中頃、中国から英国へ茶葉を輸送した、ティークリッパーによるティーレースを思わせる。
高校生の頃のこと。当時、初期の小型鋼船は終末期を迎えていた。『船の科学』のバックナンバーを揃え、造船
所による相違点や形態の変遷を確認しては、日曜日になると船見に東京港を歩いた。特にエンクローズド・ブリッジ
の499G/T型貨物船に夢中になり、一瞥して来島型、今治型、波止浜型など見当を付け、双眼鏡を覗いてメー
カーズプレートを確認して悦に入るという、かなり怪しい趣味活動をしていた。
何かあると、内航船社に照会のお便りをさせいただいた。霊岸橋近くにある鋼材船オペレーターK社からは、懇切
丁寧なご返事と共に、自社船の進水記念カードやGAをお送りいただいた。直ぐに1/100の水上模型を製作し、
お届けしたところ、「そんなに船が好きなら‥」と、同社貨物船Y丸に東京~水島間を便乗させていただく
という、またとないプレゼントを与えて下さった。窓口となったHさんは、社内・本船との調整や保険など、業
務以外の多くのご苦労をされたと、後に伺った。社会に出てからも幾度かお会いし、港内をご案内いただい
たり、食事をご馳走になるなど、船社の東京所長としてエネルギッシュに活躍される眩しい方だった。
屡々バイクで永代通りは走るものの、久しぶりに歩いて霊岸橋を渡り、橋上からK社を望んだ。あらためて、妙
な高校生の面倒を見て下さったHさんへの、感謝の気持ちがこみ上げてきた。悠々自適の生活をされるHさ
んには、今も時折お会いしている。