津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

瀬戸内海航路図絵

2018-01-08 | 日記
地形図にしろ住宅地図にしろ、地図を見ていると時の経つのを忘れる。カラフルな路線図には、特に弱い。幼い頃、
ぱたぱた折り畳める鉄道路線図を親から貰い、どこへ出掛けるにも持参していた。それは、日本列島を無理矢理変形
させて紙面に押し込み、色とりどりの国鉄路線を配し、情報として路線名や名所旧跡、民鉄路線も記されていた。当
初の地図はぼろぼろになり、それでも補強して眺めていたが、紛失してしまった。後に、少し後の時代の地図を入手
した。



当時、よく乗った70形の「スカ線」は、東京駅終着だった。しかし、横須賀線という路線は大船までということを、
この路線図から知った。運転系統名と路線名の違いである。東北本線を二回跨ぐ仙石線や、うねうね続く駅の多い飯
田線、九州や北海道の短い盲腸線の意味や歴史は、後になって理解した。
毎年発行される都営バス「みんくるガイド」は、日頃からバッグにしのばせている。三万二千分の一の地図に情報を詰
め込むため、路線の集中する地点では、道路幅は260mになってしまうあたりが面白い。

最も秀逸と思われる航路図は、大阪商船の「瀬戸内海航路図絵」。手許には青表紙版と赤表紙版の二種類があり、描
かれた航路も多少異なっている。何れも鳥瞰図絵師として名高い吉田初三郎の作品。航路図としての情報のみならず、
島々や名所旧跡も詳細に描かれ、その美しさは見飽きない。ただ、惜しむらくは印刷年の記されないこと。大正末期
と考えてはいたもののはっきりせず、この正月休みに時代考証してみた。参照したのは大阪商船『50年史』と『事業
参考書』。







青赤両版とも、表紙内側に「台湾航路大改善」として「蓬莱丸」の写真を掲げている。社史231Pには「十三年六月よ
り蓬莱丸、翌七月より扶桑丸を加え笠戸丸と共に就航せしめ‥(略)‥昭和二年四月笠戸丸の代りに瑞穂丸‥」とあり、
1924(T13).07から1927(S2).04という、ごく限られた期間と判った。
両者で大きく異なるのは、青表紙版に阿弗利加航路は無く、赤表紙版には記されていること。これも社史352Pには、
1926(T15).03阿弗利加東岸線を開始したとある。
また、青表紙版に無く、赤表紙版にある高雄大連線は、1926(T15).04に開始している。
青表紙版に記載の瓜哇盤谷線は1926(T15).03廃止されている。また、基隆新嘉坡線と表記される航路は南洋線(乙線)
は、1925(T14).05盤谷止めとなっている。
これらのことから、青表紙版は1924(T13).07から1925(T14).05の間、赤表紙版は1926(T15).04から1927(S2).04
の間と絞り込まれた。
ここまでは、遠洋・近海航路改廃年から検証を試みたが、この航路図絵の製作目的は瀬戸内海航路の案内。青赤両版
において最も異なるのは、燧灘と周防灘。黄色と茶色の航路が入れ替わっている。左側上下は青表紙版、右側上下は
赤表紙版を配し、対比してみたい。この航路図は、「南」を上、「北」を下、左手に大阪、右手に九州を描いている。





黄色と茶色の航路は、M41.03.02開設の「四国経過大阪門司線」を表している。『大正13年下半期事業参考書』には、
次のとおり記される。

甲便  神戸、高松、坂出、観音寺、川ノ江、三島、新居浜、西條、壬生川、今治、高浜、宇島  二隻
    隔日一回 高松ハ往航、坂出、宇島ハ復航ノミ寄港ス
乙便  神戸、高松、坂出、今治、北條、高浜、郡中  二隻
    隔日一回 高松ハ往航ノミ寄港シ毎航若松ニ延航ス           (大正13.12.31調)


左側上下の航路図は、甲便は黄色、乙便は茶色により、この当時の航路を描いている。『50年史』には、1924(T13).09
以降、甲便のみ三津浜に寄港したとある。このあたり、社史と事業参考書は矛盾するが、青表紙版の甲便(黄色)は三津
浜を結んでいる。当時の投入船は甲便(大阪発偶数日)は龍田川丸、緑川丸。乙便(大阪発奇数日)は高神丸、富士川丸。
社史によると、「四国経過大阪門司線」は1925(T14).04.18甲乙両便とも若松へ延航し、「大阪若松線」と改称された。
社史には記載されないが、大正15年上半期において航路改変が行われている。『大正15年上半期事業参考書』には「大阪
若松線」は次のとおり記される。

甲便  神戸、高松、坂出、観音寺、川ノ江、三島、新居浜、今治、北條、高浜、宇島、門司  二隻
    隔日一回 高松ハ往航、新居浜は復航ノミ寄港ス
乙便  神戸、高松、坂出、新居浜、西條、壬生川、今治、高浜、三津浜、郡中、門司  二隻
    隔日一回 高松ハ往航ノミ寄港ス                   (大正15.06.30調)


赤表紙版は、青表紙版に修正を加えたと見られる。大正15年上半期における航路改変により、用いられた色は反転し、甲便
は茶色、乙便は黄色となっている。社史によると、当時の投入船は、甲便は緑川丸、高神丸。乙便は富士川丸、利根川丸。

吉田初三郎描く「大阪商船瀬戸内海航路図絵」は、それぞれ次の年代と絞られた。
青表紙版:1924(T13)年9月~1925(T14)年5月の間。
赤表紙版:1926(T15)年4月~1927(S2)年4月の間。
あらためて、じっくり眺めた航路図は、誠に詳細に描き込まれていたと再認識した。青表紙版(左)の甲便(黄色)は、周
防灘においてトライアングルを描くが、これは事業参考書の但書を裏付け、また、赤表紙版(右)の新居浜沖における甲便(茶色)
も、また、同様である。



大阪商船の起点となった大阪港は、このように描かれている。大きな長円の中に「大阪商船會社」と記され、中央下の円
には「天保山桟橋」、右上には再び「大阪商船会社」とある。こちらは安治川口を表している。ぎっしりと描き込まれた
14本の航路は、同社の隆盛ぶりを誇示しているかに見える。その描かれ方は、「みんくるガイド」の江東区明治通りや、
王子付近の北本通りを思わせる。
本来なら、安治川口起点の航路を下側に描きたかったのではないか‥と思われる。しかし、交差する線が多くなることか
ら、このような描き方に落ち着いたのだろう。



昨年暮れ、この絵図に描かれている島にお住まいのI氏より、ご自身の栽培された「石地(いしじ)」というみかんをお送
りいただいた。口に含んでみたら、まるで「みかんの缶詰」のよう。その糖度の高さに驚いた。倉橋島の石地さんの発見
した枝変わりという。I氏は高速船艇に造詣深く、関東にお住まいの頃、建造所毎の特徴や船艇流転の旅路を、夜明かしで
熱く語って下さった。この海域の高速船艇全盛期、通学に利用していたという氏ならではの話である。
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