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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

楽しい潜水艦型遊覧船

2011-08-14 | 旅行
数年前、全国の湖沼を巡り、遊覧船を押さえたことがある。本栖湖を訪れた時は秋も深まり、
遊覧船の営業期間は終っていた。誰もいない湖畔に係留された潜水艦型遊覧船「もぐらん!」の
黄色が印象的だった。

夏の半日、富士山一周のツーリングを兼ね、富士五湖に出掛けてみた。
渋滞情報を確認し、中央道を避けて東名高速は御殿場ICから国道139号線に下り、籠坂峠を
越える。さすがにここまで来ると、メッシュのジャケットを抜ける風は心地良い。
山中湖に生息する白鳥は、ヨット顔をした「プリンセスオデット」。ヨット三姉妹で嘴を開けて
いるのは彼女だけだ。
早々と山中湖を切り上げ、本栖湖へ向かう。遊覧船桟橋のある湖畔は、涼をとる人達で賑わって
いる。イエローサブマリンをイメージした遊覧船「もぐらん!」。潜水艦型でも、潜らないから
「もぐらん!」 その遊び心が楽しい。船内には水中展望窓を持つ。



「もぐらん!」 10G/T 横浜ヨット H13.03建造 FRP製
JCI新潟支部の付番となっている。



湖畔で飼主にじゃれていたラブラドールリトリーバーは、
「もぐらん!」を迎えるように泳ぎ始めた

富士山一周も目的としたため、朝霧高原を富士市に向かい、東名高速に乗る。この時間は東名
上りも首都高も空いている。昼には帰宅してしまい、予定どおりの行程となった。
潜水型遊覧船は他にもいる。南紀白浜の海中展望船「りんかい」「せと」は、まるでコッペパン
のような船体や、ビーチングして乗下船することなど、初見参の驚きは大きかった。先の撮影行
では、その日最後の入港に間に合った。



「りんかい」「せと」共、旅客船ガイドは「三保造船」建造としている。19G/T 
「株式会社三保造船所」は清水と大阪にあるが、後者であろう。軽合金製だろうか?

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「軍用船宇品丸慰霊塔」を訪ねて

2011-08-12 | 旅行
終戦間際の昭和20年8月10日、「宇品丸」は新潟港内で米軍機の空襲を受けた。新潟市内に
ある慰霊塔は、以前から気になるも場所が判らず、なかなか訪れることが出来なかった。
ようやく参拝する機会を得たので、手持ちの「宇品丸」画像も整理してみた。



軍用船宇品丸慰霊塔は、新潟市船見町という、信濃川河口(左岸)に程近い町の公園にある。
慰霊塔の向かって左に歌碑があり、その後側に慰霊塔建立趣意書が建てられている。
(歌碑)
ああ悲壮 世界平和を夢に抱き
玉砕しけり 宇品の勇士




宇品丸慰霊塔建立の趣意書
大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日米軍の戦斗機(グラマン)
数機により新潟港湾附近の空襲を受けた際、偶々同港山田町側に
停泊中の軍用船宇品丸の兵士は敢然としてこれを迎撃奮戦した為に
米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して弾丸のほとんど全部を撃ち尽
して逃走した。その為港湾施設及び市街は最小限度の被害で済んだが
宇品丸の乗員はほとんど玉砕した。
昭和29年地元山田町外有志相図り新潟市の救神となった宇品丸勇士の
英霊を慰めようと慰霊塔建立の議あり。茲に当時の市長村田三郎氏の
筆を得てささやか乍ら建立を実現し、以来毎年町内会にて慰霊祭を
執り行ない英霊に感謝の意を表している次第である。

嗚呼悲壮 宇品の勇士花と散り
その名も数も無きあとの
霊なぐさむと伏し拝む


宇品丸については、『陸軍船舶戦争』の中で、陸軍運輸部が民間商船を購入した経緯やその
活躍が紹介されているので参照されたい。ここでは、画像と共に、来歴の概略を記す。

1919年5月、米国ミネソタ州スペリオル湖岸の Mcdougall Duluth Ship Building Co. で
United States Shipping Board の「CERRO GARDO」として竣工した。
1927年(S2)に大阪市西成区松原通の宗像商事が購入し、「宗安丸」(SOAN MARU)と改名。船籍は
京都府府中(宮津)に置かれた。この時2,214G/T、船舶番号33213、信号符字TMCQ。



陸軍省が購入した年月は把握できないが、帝国海事協会のレジスターは1929年版は「宗安丸」、
1930年版は「宇品丸」であることから、1929年(S4)前後と思われる。陸軍省は購入して直ぐ、
陸軍運輸部本部のあった宇品の地名を命名している。
陸軍省所有となるもレジスターから抹消されなかったのは、N.S.を取得していたからではなかろうか?
ただし、日本船名録からは抹消される。同時期に抹消された「第五室蘭丸」と混同されることが
多いが、ほぼ同じ船型、似通った経歴の故か? こちらは1930年6月13日に占守島で座礁し全損に
帰している。



船の前には多くの兵士が並ぶ。船倉を居住区に使ったためか、大型の通風筒が目を引く。舷側には
四本の大型タラップが掛けられている。



飯野産業舞鶴造船所において修復中の「宇品丸」。操舵室窓部分に数人が取付いて作業中である。
操舵室周辺は、戦後の復旧にあたり造り替えられている。

以下、船歴について、細かいことだが記しておきたい。
S21/22年版船舶明細書(S21.7.1現在)及びS23年版船舶明細書(S22.7.1現在)には「宇品丸」は
採録されていないが、S24年版船舶明細書(S23.7.1現在)には、「国有鉄道公社」所有として掲載
されている。この時2,401.84G/T。後年の版に確認した船舶番号67475、信号符字JIGQだが、船舶
番号は1951年(S26)頃の付番である。船名録や船舶明細書で追いかけていくと、後身の「栄海丸」
終末期に室町海運から永元海運(神戸)に売却、国籍喪失により1966.6.21付で信号符字は抹消され
ている。

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尾鷲港と「すがり丸」

2011-08-09 | 旅行
国道42号線の難所“荷坂峠”を越えると、いよいよ紀伊半島の地に入ったという
思いが強くなる。新長島造船を左に見つつ、ここで産声をあげた「すがり丸」に
会うため、尾鷲港を目指す。






「あの東京ナンバーのkawasakiは君のかね?」 防波堤に寝ころび微睡んでいたら、
年配の親父さんが話しかけてきた。ご自身もハーレー乗りで、2台を大切にしている
とか。バイク談義の後、地元の話を伺うことができた。目前に聳える煙突は中部電力
尾鷲三田火力発電所で、運転を休止していたが、電力不足を補うため、運転再開に
向けて整備中という。燃料油を積んだタンカーが来航することや、冷却水が流れ込むと
港内の海水温が上昇し、釣れる魚も替わることなど語ってくれた。
もともとは東京の方で、やんちゃな頃は浜松町界隈で族のリーダーやってたという
武勇伝まで聞かせて下さる。おお!

「すがり丸」は7:20入港を狙い、8:00の出港を見送る。かつての紀伊半島沿岸航路船に
思いを馳せつつ、国道42号線を南紀へ向かった。



すがり丸 FRP 14.00G/T 長島造船 1995.09
背景に見えるのはタンカーから発電所への送油管。

紀伊半島沿岸の汽船による定期航海は、明治18年の鴻益社、明治20年の神田商会あたり
からで、前者は熱田共立汽船を経て日本共立汽船となり、神田汽船を吸収。ようやく
競合航路を脱したところに、明治32年大阪商船が参入。翌33年に日本共立汽船は大阪商船に
吸収され、以後、大阪商船の独占が続くのである。



この絵葉書は明治42年の発行で、スタンプは「大阪商船会社名古屋航路就航十周年」と
読める。図柄はとても楽しく、明治33年(子)から、42年(酉)までの十二支が並ぶ。
中央のハマグリの中は「現今使用汽船和歌山丸」とあり、右下の33年(子)の下には、
写真に添えて「開航当時使用汽船神宮丸」とある。明治23年建造の「神宮丸」は昭和
初期まで船名録上にて追跡可能。一方、明治38年建造の「和歌山丸」は、数年の活躍に
終わる短命な船である。

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一枚の看板を訪ねて

2011-08-07 | 旅行
徳島繁栄組汽船部。
大正12年に井上達三氏が設立し、昭和12年に運航を中止した船会社である。
その案内看板が、徳島の山間の集落に残っているらしいことを知ったのが6月。

矢も楯もたまらず、悶々とした日を過ごすこと数日。
東京ICから東名に入り、嬉野PAで仮眠をとり、正味6時間30分の走行で尾鷲着。
紀伊半島は2005年、2008年と訪ねて以来の訪問となる。
一日かけて尾鷲、志古、勝浦、串本、白浜に小型客船を訪ね、和歌山港から
21:35発の「フェリーつるぎ」で徳島入り。

未明に起き出し、逸る気持ちを抑えつつ、国道192号線を西へ向かった。
何とかなるだろうと、微かな情報を頼りに、来たは良いものの、一枚の看板を
探すことがいかに大変なことなのか、山塊を前に考えてしまった。
道路事情を教えていただこうと、警察署に立ち寄ったところ、宿直中の警察官は
大変親切に対応して下さった。「道が狭いうえ、動物が飛び出すので注意して欲しい」
というアドバイスに、一体、どんな所なのかと緊張しながら山道に分け入った。

目星を付けてた界隈は予想以上に広く、諦めの気持ちも芽生えたが、まずは神社に参拝。
困り果てた顔をしていたのか、通りかかった方が声をかけて下さった。
その方が、教員をされていたという老婦人に尋ねて下さり、看板のある場所が特定された。
参拝した神社のご利益かお導きとしか思えない、思いもよらぬ展開となった。



昭和12年に運航を止めた船社の看板が、今でも客を呼んでいる!
井上達三氏の思いが詰まった看板の文言を読み、不思議な感動に立ち尽くした。

縣市ノ為 乗ッテ下サイ 積ンデ下サイ
就航船 扇海丸 橋立丸
運賃大割引     (←この行、赤文字が退色)
大阪 兵庫行 毎夜九時定期 中洲港発
自動車又ハ鉄道連絡ノオ客様ハ徳島駅前待合所
ヨリ汽船のりばマデ自動車ニテ無料デオ送リシマス
徳島市中洲港 徳島繁栄組汽船部

大正15年、大阪商船・阿波国共同汽船は阪神~徳島航路に旅客船航路を復活させ、
昭和5年には徳島急行商船組も参入した。井上達三氏はその間の昭和3年に逝去した。
この看板は、三つ巴の、激しいサービス、ダンピング合戦が行われた昭和5年以降の
ものであると考えられる。
何とも妙に写る「縣市ノ為」という文言は、徳島港整備に生涯をかけ、私財を投げ
打ち、船会社を設立・運営してまで、徳島港に賑わいを戻そうとした井上達三という
人物を知って初めて、強く訴えかけてくるのである。



第参扇海丸 SENKAI MARU No.3 282G/T 1903.03 浦賀船渠
フィリピン政庁向けに建造されたJOLO(ジョロ)が契約を破棄され、陸軍省所有となる。
井上は1926に陸軍省より払下げを受ける。



第貳橋立丸 HASHIDATE MARU No.2 163G/T 1906.05 小野鉄工造船所
阪鶴鉄道が建造し、井上は鉄道省より払下げを受ける。

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