津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

晩秋の吉備路へ

2016-12-31 | 旅行
2016(H28)年の暮れにあたり、自身の覚えとして、本年、最も心躍らせた小型木造汽船「T丸」と、その船に
纏わる旅について、記しておきたい。
「T丸」は、終戦後に建造された旅客船。鮮明な進水記念式典の画像を手にしてから、長い間、その特定に
頭を悩ませてきた。セピア色になった写真の裏面には、今はY市域となっている地名を冠した造船所名が記さ
れていた。鮮明な写真から船名を読取れるのに、何故、記録に迫ることが出来ないのか。交通事情の逼迫し
た当時に建造されながら、杳として掴めぬ「T丸」の消息に、長い間、もどかしい思いをしてきた。
勤務する船会社には、荷主やメーカー・商社の営業さんが打合せに来所する。本船出港の度、荷の確認にご
来所下さる商社マンI氏とは、打合せの後、バイクやツーリングの話をする間柄。I氏お勤めの商社は、主に鉄製品
を扱っている関係から、瀬戸内の中核都市Y市に営業所を構えていた。
Y市の縁から、I氏に「T丸」の話をしたのが今年に入ってから。I氏は直ぐ、Y営業所の同僚M氏に「T丸」の話
をお伝え下さった。M氏もバイク好きで、早速、造船所のあった集落を訪れ、地元の方々のご紹介もあって、
「T丸」建造をご記憶のご尊老より、証言を頂戴することが出来たという。
これには驚かされた。『戦時船名録』にも採録されず、全く手掛かりを得ることの出来なかった小型木造汽
船について、自分は全く身体を動かさず、情報を得ることが出来たのである。ご尊老の証言と船舶原簿より、
芋蔓式に「T丸」の謎は解けた。年内に、Y市にご尊老とM氏を、お尋ねしたいと考えていた。

そんな頃、関係している団体の事務局長氏より、玉島港と備中鍬の話を伺った。氏は倉敷市のご出身。
倉敷市内の玉島は、備中松山藩(高梁市)の飛地として新田開発・築港が行われ、高梁と玉島は高瀬舟によ
って結ばれた。備中松山藩は、領内から採取される砂鉄から備中鍬を生産し、江戸へ移出・販売することで、
藩財政を立て直したという。
製鉄文化に関連し、氏の話は「青江の刀鍛冶」にも及んだ。その時、地名「青江」を耳にして仰天した。
高校生の頃、備中国青江住「次吉」作の古刀を一つのモチーフとした小説を手にした。数年前に他界された作
家の、僕にとって入口の作品となり、後に、作品全てを読了した。しかし、刀剣に関心は向かず、「青江」が
実在地名とは、考えもしなかった。青江には刀鍛冶の守護神を祀った神社や、刀工の井戸も残っていると
判った。

秋も深まり、旅心は募るばかり。仕事の調整もつき、珍しく昼行で西へ向うことにした。運輸局や法務局での
調査もあるため、現地調査日に平日を充てた。自宅を08:10に発ち、晩秋の箱根を超え、新東名道へ入った。
浜松いなさJCTと豊田東JCT間は初走行区間。快適な走行から、箱根を超えたら、直ぐ中京地区‥といった
感覚。北風の厳しい日で、伊勢湾岸道では車体を倒しても、いきなり現れる風の道に、吹き倒されそうになる
恐怖を覚えた。若狭湾から琵琶湖、濃尾平野を通り、伊勢湾へ吹き抜ける風の道を体感した。桑名へ渡り切
った時には、心底「ホッ」とした。途中、静岡SAと西宮名塩SAの給油停車のみで、16:05岡山総社ICから下道へ
出た。陽は西へ傾いていたが、先ずは青江神社を目指した。



全国を歩いていても、余り、風景写真を撮ることはない。今回、偶々見かけたこの風景に、バイクを停めた。
備中国分寺は江戸期に再興され、五重塔は江戸末期の建築。予備知識無しに現れた、絵になる風景に感動
した。







高梁川堤防上の県道を南下し、青江神社に参拝する。境内には金山神社もあり、拝殿内には男根が祀られて
いた。岡山県神社庁のHPには、青江神社に関し「当社の御祭神素盞嗚命、五十猛命は吉備穴海、高梁川接点
の津の神であり、金山彦神、金山姫神は鎌倉、室町期に栄えた青江鍛冶の守護神と伝えられている」とある。
祭神の解説は、附近の原地形を考える上で非常に興味深い。
青江神社参拝を終えた頃には既に日は落ち、夕闇のなか、青江の井戸へ向った。墓地横の路地から山に入る
には、勇気が要った。井戸とは言っても水溜りのよう。手を浸したら凍みるように冷たかった。





宿は岡山市内にとり、翌日は早朝から「高瀬通し」を見学した。「高瀬通し」は、農業用水及び高瀬舟の運航
を可能としするため、船穂町水江から玉島港にかけ、正保2(1645)年から延宝2(1674)に整備された約10㎞の
水路。船穂町水江にある「一ノ口水門」「二ノ口水門」の間が閘室だったという。
現在、高梁川からの取水はサイフォン式となっているが、築造当時、それぞれの水門が、どのように機能したの
か、現地では良く判らなかった。『運河と閘門』は、従来の説と異なる説も取り上げている。
グーグルアースを見ると、現地の高梁川中に洗堰がある。至近から見ようと藪漕ぎしたが、行き着けずに諦めた。



「二ノ口水門」の山手に「白神源次郎記念碑」のあることに気付いた。帰宅して調べたところ、水江村に生ま
れた白神は、高瀬舟を仕事としていた。日清戦争で死亡した白神は、「死んでも喇叭を離さなかった」美談
の主として広く紹介されたものの、後に、喇叭手は別人の木口小平であったとされた。訂正は、白神の死因
が溺死であった事によるという。
何故に美談は生まれ、広まったのか。日清戦争に同じ備中国から出征し、喇叭手となった2人の若者が、生
きて再び故郷に帰れなかったことに、違いは無いのである。



高梁川の右岸を下流へ向かい、玉島で羽黒神社に参拝した。神社の鎮座する羽黒山は、干拓前は阿弥陀島
(古来「玉島」と呼ばれた)という小さな島であった。羽黒神社は、万治元年(1658)年、備中松山城主水谷伊勢守
が玉島周辺の干拓に着手するにあたり、出羽神社の神霊を勧請したことに始まる。玉島の市街は、羽黒神社
を中心に広がる。溜川河口は高梁川の河川舟運と、北前船による沿岸舟運の結節点として、大いに繁栄した。



玉島みなと公園から周辺を眺めた。遠くに中国電力玉島発電所の煙突を望んだ。高校3年の夏休み、東京
港から内航貨物船に便乗した経験を記したが、水島港の製鉄会社専用岸壁に上陸したことを思い出す。
みなと公園で時間調整の上、運輸局と法務局を訪れ、証明書を取得した。その後、ご尊老をお訪ねし、柔ら
かな晩秋の日射しのもと、造船所跡地を望む縁側で「T丸」のお話を伺った。時代に翻弄された小型木造客
船の航跡と、建造に関わった人々の、喜びや悲しみが胸に響いた。お読み下さった方には申し訳ないが『日
本船名録』や『戦時船名録』に採録されなかった船名の故、明記は控えさせていただきます。

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築港用石材運搬船団

2016-12-07 | 尼崎汽船部
貨物船「咲花丸」の種船となった曳船「第三咲花丸」は、大阪築港工事用として、大阪市の発注により建造さ
れた。慶応4年に開港した大阪港は、淀川分流の河口に位置し、堆積する土砂により水深は浅く、川口波止
場まで遡行できるのは、小型船のみであった。また、天保山沖合に投錨する大型汽船も、冬季季節風時の停
泊は厳しく、次第に神戸港寄港船が増えていった。大阪築港計画は、1885(M18)淀川明治大洪水等を経て、
「淀川改修」と「大阪築港」の分離施工が打ち出され、調査・設計はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケに委託された。
1897(M30).10.17天保山旧砲台にて築港起工式は開催され、当初予算総額2249万円、工期8年の大規模工
事はスタートした。
主要工事として防波堤及び桟橋築造、埋立地造成、港内浚渫等があり、また、工事に伴う採石場、コンクリートブ
ロック製造工場、船舶・機械器具類の整備等も行われた。
大阪市は、西方海上65浬にある犬島群島に採石場を設け、防波堤工事用石材(捨石)を採石した。犬島群島
は良質の花崗岩を産出する。閉塞船「彌彦丸」を記した際、若宮神社(久里浜)にある記念碑台石は、犬島産
花崗岩である可能性に触れた。



大阪鉄工所の写真集には、採石場を背景に、石材を積載中の「犬島丸」の画像が掲載されている。煙突に大
阪市の市章を付けている。
大阪市は、1898-99(M31-32)に70立坪積自航式石材運搬船「犬島丸」6隻を建造した。当初、12隻を建造する
計画もあったが、予想以上の好成績により6隻の建造に止め、非自航式「早潮」を増備した。
犬島丸6隻の貨物倉は底開式で、築堤築造予定海域に着くと船底の扉を開き、捨石を投入した。工事の進捗
に伴い、水深が浅くなると底開式での石材投入が困難となり、改造により固定式石材運搬船となった。真っ先
に改造された第四犬島丸は、1902(M35).11に扉を閉塞した。
なお、「第五犬島丸」は犬島からの復航において、M33.12.08風波により明石沖に沈没した。約10ヶ月の稼働
であった。6隻の主要目は次のとおり。

第一犬島丸 3547 / HTSV 611.01G/T、鋼、1898(M31).12、大阪鉄工所(大阪)、169.00尺
第二犬島丸 3634 / HVFQ 611.01G/T、鋼、1899(M32).03、大阪鉄工所(大阪)、169.00尺
第参犬島丸 4397 / JCLP 611.01G/T、鋼、1899(M32).05、大阪鉄工所(大阪)、169.00尺
第四犬島丸 4403 / JCLT 608.94G/T、鋼、1899(M32).07、大阪鉄工所(大阪)、169.00尺
第五犬島丸 4459 / JCNB 590.63G/T、鋼、1899(M32).10、東京石川島造船所(浦賀)、165.85尺
第六犬島丸 4522 / JCPM 592.33G/T、鋼、1899(M32).12、東京石川島造船所(浦賀)、165.80尺

なお「第一~第四犬島丸」は『船名録』初記載のM33年版において、「長」は「船舶積量測度方法に依る量噸
甲板上最大の長」とされ、各々「169.50尺」だが、M34年版以降「船舶積量測度方法に依る量噸甲板下の長」
となり、「169.00尺」に変化する。

大阪築港工事に用いる石材は、3隻の「咲花丸」によって曳航される「早潮」でも運ばれた。20立坪積非自航
式石材運搬船「早潮」15隻は、「犬島丸」を補完する役割を担っていた。
「早潮」には底開式(第3~第10)8隻、側開式(第1、第2、第11~第15)7隻があり、第1~第10は鋼製、第11~
第15は木造。
一方、「早潮」を曳航する「咲花丸」は、「第一咲花丸」「第二咲花丸」は木造、「第三咲花丸」は鋼製だった。
「咲花丸」は3~5隻の「早潮」を曳航し、最後尾に舵効きの良い底開式を配置した。大阪港~犬島群島間の
航海には、大凡、往航12時間、復航18時間を要した。『大阪築港誌』には、木製と鋼製を比較し「両者の利害
は猶ほ早潮に於ける如く木造船は価格廉なるも船体の歪み甚しく且修繕頻繁なるを以て結局鋼製を以て優
れりとす」とある。3隻の主要目は次のとおり。

第一咲花丸 3548 / HTSW 142.31G/T、木、1898(M31).09、福井造船所(大阪)、102.50尺
第二咲花丸 3549 / HTVB 142.31G/T、木、1898(M31).09、福井造船所(大阪)、102.50尺
第三咲花丸 4513 / JCPG 154.45G/T、鋼、1900(M33).02、川崎造船所(神戸)、101.30尺



曳船当時の船影は無いものかと、『大阪築港誌』の図面を参考に絵葉書を眺めていたところ、築港桟橋沖合
にその船影はあった。いきなり、絵葉書の画面に引き込まれた瞬間であった。絵葉書の仕様は、明治末期か
ら大正初期にかけてのもの。絵葉書に記録された何気ない光景も、当時の貴重な覗き窓であることを、改め
て痛感した。





図面と画像の煙突附近を対比すると、同一船であると判る。「第三咲花丸」と「第一咲花丸」「第二咲花丸」
は、明らかに外観が異なっている。







この図面に記された船名が「SAKUHANA MARU No.3」であった。
大阪築港工事は、1905(M38).09.30で8年の工期を終えた。しかし、護岸・埋立などの残工事も多く、工期
は10年延長された。「第三咲花丸」は1925(T14)尼崎汽船部に売却され、1930(S05)貨物船に改造、「咲
花丸」と改名された。

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