津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

兵庫造船局の造った船

2011-09-22 | 東京湾汽船
太湖丸の項でリストにあがった「第二徳山丸」に触れてみたい。この船は、工部省兵庫造船局
において、佐山芳太郎が造船工長として建造に携わった。発注したのは共栄社(徳山)。同社
二隻目の新造船で、1885(M18).05、890、HFSR、128.51G/T、木造船である。
一隻目は「第一徳山丸」で、こちらは1884(M17).11、大阪鉄工所建造。918、HFVP、169.17G/T、
木造船。造船工長はジェームズ・エラートン。



徳山には大津島巡航という古めかしい社名の船社があり、度々、愛らしい小型客船に会いに、
立ち寄っている。画像は「鼓海2」。59G/T、2007.03、瀬戸内クラフト。機構共有船。



徳山港の撮影ポイントとなる公園には、「共栄社」と刻まれた大きな石灯台が聳えている。
1893(M26)年11月、光永又之丞によって建立された。共栄社は、徳山の紳商と云われた光永ら
5名が1884(M17)設立した会社で、光永は社長に就任した。大阪商船の徳山寄港も、同年に始った
ばかり。続く地元資本の共栄社による大阪~博多航路の開航で、鉄道が未開通だった徳山の物流
は活発になり、経済は大いに刺激された。共栄社は船腹増強と共に博多航を鹿児島に延航し、
また、東京、函館、小樽にまで航路を延ばした。1891(M24)本社を大阪に移転し、1894(M27)共栄
汽船株式会社に改組。続いて、1896(M29)日本汽船と社名変更。単独経営は困難となり、同年、
高知の帝国商船と合併して消滅した。余りに急激な、航路延伸や船腹増強が響いたようだ。本来、
大阪商船との合併が得策だったが、長年の対抗関係から、別な途を選んだ。紳商らしく、何やら
最期もスジを通してる。

帝国商船は1897(M30)「第二徳山丸」を吉田義方に売却する。吉田は小田原町長、町会議長、神奈
川県議を歴任した名士で、交通や教育の発展にも尽力した。吉田が社長を務めた相陽汽船は1898
(M31)に設立された。航路は、東京~横浜~国府津、国府津~小田原~真鶴~吉浜~熱海~網代
~伊東の2定期航路と、不定期の伊東~大島があり、「第二徳山丸」「第一海運丸」を投入、運航
を開始した。
後者は1897(M30).05、龍野巳之助(東京)で建造。6485、JBQG、63.47G/T、木造船。以前から、
「第一海運丸」は事情ある船と見ていた。明治34年版船名録(M33.12.31現在)に初掲載されたにも
かかわらず、汽機及び汽缶製造者は不明というのも妙なこと。中古品を流用したのか?
相陽汽船と東京湾汽船は、小田原寄港について協定を交わし、航路不可侵を建前としていた。相陽
汽船は大島延航も行っていたため、東京湾汽船の大島進出は遅れることになった。

東京湾汽船は、1904(M37).06東豆汽船、1905(M38).10相陽汽船、1906(M39).03豆州共同汽船と、
伊豆半島沿岸で競合する船社を、相次いで吸収合併した。
相陽汽船を吸収した東京湾汽船は、東京~横浜~国府津~小田原~熱海~伊東(寄港地一部略)
の「小田原航路」と、国府津~小田原~熱海~伊東(同前)の「国府津航路」に再編し、1906(M39).
04.15、小田原航路船が大島へ初延航した。社史はこれが「当社の大島定期航路の嚆矢」としている。
小田原航路に投入された「第二徳山丸」は、大島航路定期船のパイオニア、東京湾汽船(東海汽船)
にとって、記念碑的な船となったのである。



これは東京湾汽船籍となってから、小田原で記録されたもの。画像から船名が読み取れる。工部省
兵庫造船局が建造した汽船としても、貴重な船影と思われる。
1912(M45)、幸田露伴は「第二徳山丸」で伊豆大島を訪れている。1月1日に霊岸島から乗船し、
翌2日、岡田、本村、差木地と寄港の後、波浮に上陸している。帰路は「千代清丸」という帆船
(薪炭船)に便乗するが、その航海記は実に面白い。1940(S15)になり、回想記が新聞に連載された。
幸田露伴が乗船した年の2月21日19時15分。伊豆大島へ向けて「第二徳山丸」は霊岸島から出港した。
岡田、波浮、野増と寄港した後の24日、荷役のため元村沖に錨泊した。午前中は北西の微風であった。
が、午後から南西の強風に変わり、波浪も高くなってきた。17時、激浪により元村南方の海岸に打上げ
られ、「第二徳山丸」は全損に帰してしまう。



共栄社の船ぶねは、目標とした徳山港石灯台の灯りを、殊に明るく暖かく、眺めたことだろう。
灯台建立から10年経たずして、船ぶねは、散り散りになってしまった。灯台下に佇むたび、そんな
小型汽船の航跡を、たぐり寄せたくなるのである。

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飛島にて難波島を思う

2011-09-13 | 尼崎汽船部
連絡船「とびしま」は、1時間15分程度で勝浦港に接岸した。海上から見て左側、港を抱く
かのような半島が、絵葉書に見える山並みと思うが、かなり小規模だ。地元の方から、
「古い写真ならマリンプラザ(船客待合所)3階に展示してある」と、教えていただいた。似た
方角から撮った写真も展示してあった。半島に見える岩塊は「館岩」と云うらしい。外に出
て、港の背後に鎮座する遠賀美神社を参拝する。日和待ちした船乗りも、訪れたことだろう。



「勝浦会館」という建物の脇だけ、家並みが途切れていて、入江を見渡せたのが幸いした。
ここに間違いない! 道路の形状から、子供達が立った位置も判る。100年近く前、「太湖丸」
を捉えたポイントを、特定することができた。
自分の頭の中で、「太湖丸」は大汽船に膨れ上がっていたようだ。絵葉書で大きく見える
館岩も、せいぜい20数m程度。往時も今も、岩壁の凹凸や山稜に変化無いことに気付く。
レンズの関係か、大部、横に伸びている。これは船影にも影響しているのか。この頂部には
岩砦があり、海賊の城跡とも云われているという。



「太湖丸」が投錨した泊地を望み、まずは海図(写)を拡げた。船影の煙突の背後に、岩礁の
ようなものが見える。1930年(S5)刊行の海図には、標高3.3mの「小島」が確認できる。
煙突の後から、消去しても良いようだ。この島は防波堤工事で消滅している。

持参した絵葉書と、船名録(写)も拡げた。
「第一太湖丸」「第二太湖丸」は1883(M16)年6月、キルビーの小野浜造船所(神戸)で建造され、
琵琶湖畔で組み立てられ、同年9月に竣工した。
同所建造「朝日丸」の画像は残るが、いずれも郵便汽船三菱会社が英国に発注した「横浜丸」
(1884)にとても良く似ている。当時の英国流行スタイルなのかもしれない。
1889(M22)年7月、鉄道連絡船としての役割を終えた「第一太湖丸」」「第二太湖丸」は大津に
係船。翌1890(M23)年、解体され大阪に搬出された。再組立が行われたのは「難波島」。その頃は
西成郡川南村。ただし「難波島」が狭義の「難波島新田」を指すのか、「今木新田」「中口新田」
を含めた広義の地域(島)を指すのか、判らない。船名録の造船地名は、スペースの限りもあり、
省略されることが屡々だ。難波島は、北前船を係船した「船囲場」の東側に位置する。明治20年
頃から多くの造船所が立地した。
両太湖丸の再組立に従事した造船工長は「佐山芳太郎」。ヘダ号建造の際、造船世話掛を勤めた
船匠の一人、佐山太郎兵衛の甥にあたる。造船工長佐山芳太郎の業績を船名録から拾ってみた。

890 第二徳山丸  1885.05 兵庫東川埼町(木)
942 淀川丸    1886.03 六軒家新田(木)
988 中津川丸   1886.12 六軒家新田(木)
1113 阿津丸    1887.10 六軒家新田(木)
1063 紀川丸    1887.12 六軒家新田(木)
1102 快漕丸    1888.05 六軒家新田(木)
1160 和田丸    1888.05 六軒家新田(木)
1093 共立丸    1888.06 六軒家新田(鉄)
1239 駿豆丸    1890.10 材木置場(木)
1246 第一太湖丸  1891.04 難波島(鉄)
1276 第二太湖丸  1891.10 難波島(鉄)
1486 第一號伊豆浦丸1894.12 戸田村戸田(木)
1487 第二號伊豆浦丸1894.12 戸田村戸田(木)

製造地名で佐山芳太郎の足跡を追うことができる。「六軒家新田」は安治川と六軒家川が合流
する位置で、ここで大阪鉄工所は創業した。『日立造船75年史』によると、

‥兵庫造船局(もとの兵庫工作分局)に勤務していた佐山芳太郎氏が造船主任として
招かれた。当時の記録によると、「大阪鉄工所願出につき佐山芳太郎を三個年間貸渡
云々」とある。‥当時の邦人技術者の多くは年少のころから実地に鍛えあげた人々で、
理論的なことは別として、技術は外人に比較して見劣りなく、巧みに外国の技術を採
り入れたものであるが、その努力は涙ぐましいものがあった。


年表から関連事項を拾ってみると、

1885 外人技術者退職、佐山芳太郎ら邦人技術者を採用する。
1886 淀川丸竣工(01)、中津川丸竣工(12)
1887 紀ノ川丸竣工(12)、この年、鉄船建造の施設を整える。
1888 当初最初の鉄製汽船共立丸竣工(05)、この年、佐山芳太郎退職。


駿豆丸が建造された「材木置場」は木津川左岸で、第一、第二太湖丸が再組立された「難波島」
はその対岸で、右岸に位置する。戸田村誌には、佐山芳太郎は「大阪難波島に造船所を創設」と
ある。場所と造船所名は特定できないものの、難波島で再組立されたのは確かなようだ。
1891.05.25 第一太湖丸、大阪で試運転。
1891.11.10 第二太湖丸、大阪で試運転。



太湖丸に迫るため、飛島の画像を反転させ、社史の画像に揃えてみた。さらに、色調補正で
全体を暗くし、コントラストを強くしたところ、見えなかった操舵室が見えてきた。社史の画像では、
船首部の甲板室が操舵室かどうか疑問であったが、操舵はその屋上で行ったようだ。半割の、
カマボコ状甲板室も見えてきた。社史の画像では降ろされているボートも見える。朝日丸と対比す
ると、乾舷が低く見えるのは、元々は湖上船として建造されたためか。航洋船として再組立され
た際、船体は約7m延長されるが、フォアマストと煙突の間隔が間延びしてるため、延長されたの
はここなのか。以前は考えられなかった画像加工で、古絵葉書の判定は格段の進歩をみた。
第二太湖丸は昭和4年版(1928.12.31現在)船名録まで掲載され、昭和5年版から抹消。
第一太湖丸は、関西汽船社史によると、1942.05.10に沈没して失われた。
飛島で捉えられた太湖丸は、そのどちらも可能性がある。
最後は、山高五郎著『日の丸船隊史話』より引用させていただきたい。

猶読者は前記の高齢船及既述の歴史的船舶の内に尼崎汽船部所属のものが甚多いこと
に気付れたことゝ思ふ。實に同社は昔から殆ど他で見離されたやうな高齢船を買入れ、其
独特の保修技術を以て、驚く可き長期間有効に活用されつゝあるのであつて、現に船舶
史上記念すべき船が多数其傘下に集つて長寿を保つて居ることに對し、著者は夙に深甚
の敬意と感謝を捧げて居る。


太湖丸の船影は、尼崎伊三郎所有となっていたため、記録されたと考えたい。湖上に登場した
我が国最初の鉄道連絡船の姿に、平成の世になり接することができたのも、誠に不思議なこと
と言えよう。改めて、山高氏の名文を読み返したことろである。

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太湖丸、現る!

2011-09-10 | 尼崎汽船部
自動車船やLPG船など、船種毎に内航船を追っていると、思わぬ港で再会する船がある一方、
なかなか会えない船もいるなど、悲喜交々を体験する。まぁ、国内にいるのであれば、いつか
どこかで出会えるもの‥と構えてる。
時代は遡り、絵葉書全盛期(明治末~大正)に活躍した汽船なら、古絵葉書を丹念に確認する
なかで、船影を見い出す可能性もあろう‥と、考えていた。これは当に、そんな思いを強くした
話である。



太湖丸に出会えた!
一年ほど前になるが、この絵葉書を目にした時、眩暈にも似た衝撃を受けた。沖合に浮かぶ
汽船のシルエットは、『太湖汽船の50年』で幾度も眺めた「第一太湖丸」のそれであった。
記録された場所は飛島。酒田市沖39キロの日本海に浮かぶ離島の入江である。
『函館海運史』には、函館港を起点として、噴火湾航路を経営した尼崎伊三郎「北海部」や、
不定期船として来航した尼崎伊三郎所有の汽船が記録されている。この絵葉書は、仕様から
大正期後半と見られる。煙突マークは見えないが、他にもマーク無し画像があり、太湖丸の
可能性を否定するものではない。飛島への寄港は避難だろうか。それとも、貨物の積み降ろ
しがあったのか。いずれにせよ、安治川口から飛島まで、幾日かけて航海したのだろう。

これは、飛島へ行ってみるしかない。この風景があるのだろうか? タイミング良く、酒田市
立資料館では、企画展「よみがえる酒田湊」も開催中だ。夜も更けてから東京を発ち、太湖丸に
導かれるように、深夜の上越国境を越えた。黒崎PAで時間調整を兼ねた仮眠をとり、岩船、加茂と、
港に立ち寄りながら酒田入りした。
酒田は一年ぶりの再訪となる。最上川舟運と西廻航路の接点に位置し、物資の集散地、商人の
街として繁栄した。日和山や綿積石など北前船の時代の遺産や、幕末の運送船「長崎丸二番」の
遺品が残るなど、海事史の香り高い街である。



この時期、飛島航路「とびしま」は一日一往復で、9:30に酒田港を解纜した。
航海速力19.0ノット、253G/T、2010.06、瀬戸内クラフト建造。乗ると撮れないので、これはデビウ
したての、昨年の画像である。海には台風12号の余波があり、ジェットコースターのような乗り心地を
堪能した。陸水が影響して白く濁る水域と、真っ青な水域との、はっきりした潮目を見ることが
できた。

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白鳥の湖 Part2

2011-09-04 | 旅行
1966年(S41)に相模湖に登場した白鳥型遊覧船の第一船「スワン丸」。大丸造船所(小田原)の
アイデアが詰め込まれた遊覧船の登場であった。建造された16隻を概観すると、船質も木造から
FRPを経て鋼船となり、100G/Tを越える船も建造された。
白鳥型遊覧船がニュースになったのは、1988.05.28に猪苗代湖で発生した「はくちょう丸」への
落雷による、焼失事故であった。当時も白鳥型遊覧船に興味を持っていたため、「首に落雷し客室
に延焼した」という報道を悲しく聞いたことを覚えている。夜間係留中の事故で、幸いにも人命に
は影響しなかった。以後、FRP製白鳥型遊覧船は建造されていない。

最近再び、白鳥型遊覧船がマイブームとなり、各地の「白鳥の湖」を歩いている。出会えた船を
建造順に並べてみたい。


はくちょう丸 諏訪湖園(諏訪湖)


ひめはくちょう 東条湖観光(東条湖)


白鳥丸 野尻湖汽船(野尻湖)


すわん 諏訪湖ロイヤルホテル(諏訪湖)


ニュースワン丸 勝瀬観光(相模湖)


はくちょう丸二世号 榛名商事(榛名湖)


ニューはくちょう 白樺湖観光センター(白樺湖)


はくちょう丸 磐梯観光船(猪苗代湖)


はくちょう丸 しぶさき(諏訪湖)


プリンセスオデット 富士汽船(山中湖)

現況 船名       運航       G/T 船質 建造年  建造所    備考
× スワン丸      勝瀬観光     18.58 木  1966.04  大丸造船所 第1船
○ はくちょう丸    諏訪湖園     27.20 木  1969.05  大丸造船所 現事務室
× はくちょう丸    榛名商事     19.03 木  1973.06  ?     第3船
? ひめはくちょう   東条湖観光    18.92 FRP 1976.04  大丸造船所
○ 白鳥丸       野尻湖汽船    36.03 FRP 1977.05  大丸造船所
× はくちょう丸    磐梯観光船    36.91 FRP 1977.06  砂賀造船所 1988.05.28全損
◎ すわん       諏訪湖ロイヤルホテル   101.00 FRP 1982.04  大丸造船所
○ はくちょう     池の平土地改良区 19.71 FRP 1982.06  大丸造船所 大阪府下に保管
◎ ニュースワン丸   勝瀬観光     16.00 FRP 1984.03  大丸造船所
◎ はくちょう丸二世号 榛名商事     17.00 FRP 1986.03  砂賀造船所
○ スワン       四国中央観光開発 19.00 FRP 1986.08  大丸造船所 池田町有
○ スワン2世     四国中央観光開発 14.00 FRP 1987.04  大丸造船所 池田町有
○ ニューはくちょう  白樺湖観光センター  19.00 FRP 1988.06  砂賀?
◎ はくちょう丸    磐梯観光船    68.00 鋼  1990.07  横浜ヨット 共有船
◎ はくちょう丸    しぶさき     82.00 鋼  1991.05  横浜ヨット 共有船
◎ プリンセスオデット 富士汽船     89.00 鋼  1992.06  横浜ヨット
   ◎:今夏の運航あり
   ○:船体残存
   ?:現状不明
   ×:船体解体済

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