津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

旧北上河口

2012-11-30 | 東京湾汽船
荻浜からの帰路、石巻の旧北上河口に立ち、網地島ラインの入港を待った。今も「巡航船」と
呼ばれている。震災後は臨時ダイヤにて運航され、10.01より通常ダイヤに戻されていた。





網地島より田代島を経由し、15:00「ブルーライナー」は戻ってきた。130844 / JE3095、101G/T、
1988.06、三菱下関の鋼船。航海速力は18.2k/n。
「ブルーライナー」と、かつて旧北上河口で記録された絵葉書と対比してみた。キャプションに「石巻
ヨリ金華山行汽船ノ出帆」とあるが、これは入港する姿と判る。



この船は見るからに「東京湾型小型汽船」。『件名録』には「重甲板船」とある「全通船楼船」。箱形
操舵室を持ち、その頂部に補助帆の付くフォアマストが立つ。船尾はカウンタースタンにならない。M10年代後
半~20年代前半頃、東京湾内で建造された汽船に共通する特徴と見ている。これは、1889(M22)
創業の東京湾汽船に出資された汽船のスタイルと言えよう。絵葉書全盛期まで残存したそれらの船は、
房総半島や三浦半島の諸港で、数多く捉えられている。一方、大阪湾周辺で建造された同期の同
クラス船は、「ブリッジ」や船橋楼を持つ船が多い。逆に、これは東京湾型には見られない。
船名録等から作成した東京湾内建造船リストから、この海域で活躍した船を絞り込むと、該当す
るのは「第参拾号通運丸」のみとなる。この船影は、東京湾汽船による三陸航路経営当時のもの
に相違ないと考えている。しかし、絵葉書の仕様は1918(T7)郵便規則改正後のもの。写真の使い
回しなのか?



この塩釜港の画像は、東京湾汽船の十字旗と、三陸汽船の社旗及びファンネルマークを纏った船が一枚
の画に納まるという、極めて珍しい光景を記録している。船はそれぞれ纏まって係留されている。
その間の水面に火花が散っているように見えてしまう。撮影は三陸汽船創業の1908(M41)と、東京
湾汽船撤退の1911(M44)の間に限られる。煙突マーク無しは、東京湾汽船か龍丸汽船と見て良い。

16:46の「マーメイド」入港まで時間があり、中瀬へ行ってみた。この時は「石ノ森萬画館」は閉館
していたが、去る17日に再オープンしたと報道された。その際、原画は無事だったことや、震災時、
ここに孤立した人もいたことを知った。「石ノ森萬画館」北側から、西方向を記録した絵葉書がある。



写っている外輪汽船2隻は龍丸汽船。キャプションに「石巻第壹発着所」とあり、「玉龍丸」(右)、
「神龍丸」と外輪覆に読める。土蔵の妻には山に「り」の、龍丸汽船の社章が見える。この地方
の海運史を調べる際、欠かせない著作となっている武田泰氏『覚書 北上川の汽船時代』による
と、龍丸汽船の絶頂期は1912(T1)頃で、当時、「玉龍丸」は万石浦航路、「神龍丸」は臨時用と
なっている。



「マーメイド」入港時には既に陽は落ち、かろうじて撮影した。126599 / JE2640、122G/T、
1983.06、村上造船所(石巻)。日没と同時に、気温は急激に低下した。東京に向けスタートした
夜道の右手に、門脇小学校の廃墟が黒々と見えている。石巻在住の元同僚の一人は、今も行方
不明のままだ。ご冥福を祈らずにはいられない。
石巻と云う地名を知ったのは小学生の時のこと。父島に来航した「第十二共勝丸」の船籍港を
見て、どこにある港か、地図上に探した。初訪問時の目的は、船ではなく仙石線の73・72形電車。
松島湾の波打ち際を走る陸前大塚駅界隈や鳴瀬川の橋梁は、特に思い出深い。その辺りの被災
は激しく、今も高城町~陸前小野間は復旧していない。



当時の石巻駅舎(電車駅)は、戦時買収された宮城電気鉄道の建築で、天井には電鉄の社章が
残っていた。東塩釜駅付近のガーターは、今にも崩れ落ちそうな、国鉄離れした光景だった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

号鐘は残った

2012-11-10 | 東京湾汽船
今年は3回、芸予諸島に旅をした。最初はGW。「しまなみ海道」の島々を巡ってから四国北岸を歩いた。この
時、3.25に観音崎で見送った「羊蹄丸」に新居浜東港で再会した。





2回目は8月、芸予諸島西半分を目指した。自宅から9時間の走行で竹原港着。新東名の開通により体力の消耗
は軽減された。いつもの撮影ポイントに立ち、朝一番の入港船から狙い始めた。



「あさぎり」 契島運輸 32.41G/T, 1980.06, 石原造船所(高砂) 
目の前に浮かぶ契島は魅力的に映る。島旅好きの飲み友達に、契島出身の女性がいる。不思議な縁に驚いたが、
彼女は従姉妹の友人だった。契島と群馬の接点は東邦亜鉛。父親は同社社員さんと云うから、契島出身も肯ける。
大崎上島には「ないすおおさき」で渡った。2012.05.31現在人口8,342人のこの町は、瀬戸内海の架橋されない
島の内、小豆島に次ぐ人口・面積を擁する。島外との交通を船便に頼り、島の四方にカーフェリーの発着する港がある。
ここは海運・造船の島でもある。



「さざなみ」 大崎上島町 64G/T, 1987.03, 松浦鉄工造船所
時刻表を確認しつつ、各港を回って入港船を迎える。山越え道もバイクは機動力を発揮してくれた。撮影の合間
に「海と島の歴史資料館」に立ち寄った。廻船問屋を営んだ望月家のことや、ここに広島商船高等専門学校の
立地する理由等を知った。展示を見終え、文献を見ていた時「葵丸」の船名が目に飛び込んできた。この島に
「葵丸」の号鐘が残っているという。文献を執筆されたのは郷土史研究家の金原兼雄さん。何故、葵丸の号鐘
が‥?と疑問は膨らむも、船便の時間は迫り、後ろ髪引かれる思いで大崎上島を後にした。

帰宅してから思うは「葵丸」の号鐘のこと。金原さんをはじめ、島の方に情報をいただき、満を持して東名道
に乗った。大崎上島に平日を充てるため、先ずは土曜日に松山周辺、日曜日は八幡浜を歩いた。



「あいほく」 新喜峰/機構共有 57G/T, 1999.12, 藤原造船所



「あかつき2」(左)と「さくら」 宇和島運輸

松山から呉へ「石手川」に乗船した。警固屋の街はお祭りで賑わい、黒い面の鬼が氏子さんを追っていた。大
崎上島には、安芸津から「第十五やえしま」に乗船。号鐘の保存されている「西野公民館」の開館時刻を待ち、
念願の対面を果たした。



号鐘は公民館の玄関ホールに吊され、表面に「葵丸 昭和八年四月」と彫られていた。法定備品の号鐘に、必ず
しも船名は彫られているわけでないと、エントランスに歴代所有船の号鐘を飾っている会社の方から伺ったことがあ
る。小型船の場合、保存に際して彫ることもあったとか。事故で全損となったことを考えると、この銘は三菱
神戸により、新造時に彫られたと見られる。
館内には、金原氏による解説パネルも展示されていた。解説によると、鐘は2008(H20)廃校となった西野小学校
の教員室に吊られ、かつては始業の鐘として使用されたという。廃校にあたり鐘を取外したところ、彫られた
船名に気付き、同校卒業生の金原氏により由来調査が行われた。
お礼のお電話をしたところ、金原氏は面会に駆けつけて下さった。大崎上島出身の東京湾汽船乗組員もいたこ
とから、その一人が携えて来たのではないか‥とお聞かせ下さった。嬉しい出会いとなった。





「葵丸」は神戸の三菱造船所で1933(S8).04.12進水、6.08竣工した。この船の完成を以て、1928(S3)策定の「第1
期再建拡張計画」は完成した。遊歩甲板前部に大きな社交室が設けられ、社史は「船全体が家族的に楽しめる
ような設計で極めて画期的な構造」と記している。1939(S14).12.07 AM4:00頃、濃霧の中、大島泉の浜海岸に座
礁し全損に帰した。当初、離礁可能と見られた節のあることから、天候は急変したのか。



夏にも訪れた「この船」は、まだ、係留されていた。予定していなかったものの、時間を調整し、再訪してしま
った。着いたのは日没の間際。防波堤に腰掛け、しばし船影を眺める。公募で決まった船名や、青地に二引きの
煙突マークを眺めるたび、胸が痛む。小笠原航路用として建造されたにもかかわらず、父島二見港はもとより、東京
港への入港さえも叶わなかった船。このような哀しい船は、二度と生まれて欲しくない。夕暮れの海にカラスの群が
舞っていた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荻浜にて

2012-11-07 | 旅行
「荻浜にこんな風景はないでしょうか。」
先掲の「高砂丸」と思しき写真を、山田迪生氏のお目にかけた折、氏はこう質問された。正直なところ、船
名特定にばかり思いは集中していた。左手に見える島の姿は満珠に似ているな‥と考えはしたものの、
撮影地特定は困難と、最初から諦めていた。





写真には、船以外の人工物は見えない。詳細に確認すると、本船タラップは下り、和船が接舷し、舷門荷
役をしているように見える。荒天時の避泊ではないようだ。船影を「高砂丸」とした場合、このような風景の
入江において、錨泊したした可能性のある所は何処なのか。
日本郵船による神戸~函館航路の、東北地方唯一の寄港地は「荻浜」だった。彼の地を訪れた際、ここ
に物資集散の賑わいがあったとは、とても見えない‥と考えながら撮影したことを思い出した。



帰宅して、2009(H21).06.27に撮影した写真を確認したところ、古写真と同じ風景が写っていた。船影を
捉えた古写真は、110年以上も前、荻浜で撮られたに相違ない。山田氏の洞察の鋭さに驚かされた。
船名(漢字やアルファベット)の輪郭や文字数、『郵船50年史』の絵画に一致する特徴、寄港地としての荻浜
から、船影は「高砂丸」と特定して良かろう。
地図を見たところ、左手の島は「柱島」とあった。私が撮影した足場は、少し西にずれている。同一撮影
地点に立つと、細長い柱島はどう見えるのか。
「荻浜」は、河口港「石巻」の外港として使用された。しかし、ここにも陸上設備はあったのではなかろうか。
推測に過ぎないものの、撮影場所の周辺に、船着場や事務所・倉庫等はあったように思えてならない。こ
れは出掛けるしかない。
現地でのフットワークを考えると、やはりバイクになる。晩秋の東北道を夜行するのは無謀過ぎ、昼行日帰りとし
た。しかし、決行当日は冷え込み、革で固めても早朝の走行は厳しかった。約5時間で石巻入りし、渡波か
ら「金華山道路」を荻浜へ向かった。
東日本大震災以降、荻浜へは来ていなかった。2009(H21)に撮影した場所は、漁港の中心部あたりだった
ように思うが、何も無くなっている。何度か行きつ戻りつし、古写真の撮られた場所に降り立った。柱島の
姿から特定したその場所は、山の迫り出した小さな岬の先端にあたり、手前に空地が広がっていた。細長
い柱島は、ここから見ると断面?を見ることになり、往時と変わらぬ姿になった。



「高砂丸」は、予想以上、湾奥に錨泊していたと判った。撮影場所手前の埋立地(空地)は、震災前は漁
業関連施設のようだ。空中写真からは、斜路跡のようにも見える。いずれ、地形図から海岸線の変遷を探っ
てみたい。
『近代日本海運生成史料』P100に記載の「荻ノ浜埋立の件」はここなのか。同書によると、1884(M17)に
「高砂丸」は上海航路2航海、神戸~函館航路19航海、就航している。
撮影当時の様子をありのまま伝え、視覚に訴える写真史料は、何物にも代え難い。これまでにも、数点の
史料を博物館等にお贈りし、喜んでいただいている。この「高砂丸」の写真史料も、個人死蔵するのでは
なく、我が国海運史を概観する際に、活用される史料となれば嬉しい。震災など無かったかのように、午
後の陽を受けて輝く穏やかな荻浜の入江を前にして、そんなことを考えた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする