荻浜からの帰路、石巻の旧北上河口に立ち、網地島ラインの入港を待った。今も「巡航船」と
呼ばれている。震災後は臨時ダイヤにて運航され、10.01より通常ダイヤに戻されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/18/6cb813b9cff80ca5e7fb5d68495aa22a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/b8/6245164d081dd8b0f6e25c34a9b2372a.jpg)
網地島より田代島を経由し、15:00「ブルーライナー」は戻ってきた。130844 / JE3095、101G/T、
1988.06、三菱下関の鋼船。航海速力は18.2k/n。
「ブルーライナー」と、かつて旧北上河口で記録された絵葉書と対比してみた。キャプションに「石巻
ヨリ金華山行汽船ノ出帆」とあるが、これは入港する姿と判る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/d8/05bb878d5bed9479193d916615b2d5ca.jpg)
この船は見るからに「東京湾型小型汽船」。『件名録』には「重甲板船」とある「全通船楼船」。箱形
操舵室を持ち、その頂部に補助帆の付くフォアマストが立つ。船尾はカウンタースタンにならない。M10年代後
半~20年代前半頃、東京湾内で建造された汽船に共通する特徴と見ている。これは、1889(M22)
創業の東京湾汽船に出資された汽船のスタイルと言えよう。絵葉書全盛期まで残存したそれらの船は、
房総半島や三浦半島の諸港で、数多く捉えられている。一方、大阪湾周辺で建造された同期の同
クラス船は、「ブリッジ」や船橋楼を持つ船が多い。逆に、これは東京湾型には見られない。
船名録等から作成した東京湾内建造船リストから、この海域で活躍した船を絞り込むと、該当す
るのは「第参拾号通運丸」のみとなる。この船影は、東京湾汽船による三陸航路経営当時のもの
に相違ないと考えている。しかし、絵葉書の仕様は1918(T7)郵便規則改正後のもの。写真の使い
回しなのか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/3a/f814a39ffde8a2bd8b2bc3cfece2a634.jpg)
この塩釜港の画像は、東京湾汽船の十字旗と、三陸汽船の社旗及びファンネルマークを纏った船が一枚
の画に納まるという、極めて珍しい光景を記録している。船はそれぞれ纏まって係留されている。
その間の水面に火花が散っているように見えてしまう。撮影は三陸汽船創業の1908(M41)と、東京
湾汽船撤退の1911(M44)の間に限られる。煙突マーク無しは、東京湾汽船か龍丸汽船と見て良い。
16:46の「マーメイド」入港まで時間があり、中瀬へ行ってみた。この時は「石ノ森萬画館」は閉館
していたが、去る17日に再オープンしたと報道された。その際、原画は無事だったことや、震災時、
ここに孤立した人もいたことを知った。「石ノ森萬画館」北側から、西方向を記録した絵葉書がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/5e/10e6c43b72793bc71c3221f4a066d138.jpg)
写っている外輪汽船2隻は龍丸汽船。キャプションに「石巻第壹発着所」とあり、「玉龍丸」(右)、
「神龍丸」と外輪覆に読める。土蔵の妻には山に「り」の、龍丸汽船の社章が見える。この地方
の海運史を調べる際、欠かせない著作となっている武田泰氏『覚書 北上川の汽船時代』による
と、龍丸汽船の絶頂期は1912(T1)頃で、当時、「玉龍丸」は万石浦航路、「神龍丸」は臨時用と
なっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/28/405b81e1d61afdf5a5596022f2a991af.jpg)
「マーメイド」入港時には既に陽は落ち、かろうじて撮影した。126599 / JE2640、122G/T、
1983.06、村上造船所(石巻)。日没と同時に、気温は急激に低下した。東京に向けスタートした
夜道の右手に、門脇小学校の廃墟が黒々と見えている。石巻在住の元同僚の一人は、今も行方
不明のままだ。ご冥福を祈らずにはいられない。
石巻と云う地名を知ったのは小学生の時のこと。父島に来航した「第十二共勝丸」の船籍港を
見て、どこにある港か、地図上に探した。初訪問時の目的は、船ではなく仙石線の73・72形電車。
松島湾の波打ち際を走る陸前大塚駅界隈や鳴瀬川の橋梁は、特に思い出深い。その辺りの被災
は激しく、今も高城町~陸前小野間は復旧していない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/b3/562c4f3088e3fce3efbd07e89441d574.jpg)
当時の石巻駅舎(電車駅)は、戦時買収された宮城電気鉄道の建築で、天井には電鉄の社章が
残っていた。東塩釜駅付近のガーターは、今にも崩れ落ちそうな、国鉄離れした光景だった。
呼ばれている。震災後は臨時ダイヤにて運航され、10.01より通常ダイヤに戻されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/18/6cb813b9cff80ca5e7fb5d68495aa22a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/b8/6245164d081dd8b0f6e25c34a9b2372a.jpg)
網地島より田代島を経由し、15:00「ブルーライナー」は戻ってきた。130844 / JE3095、101G/T、
1988.06、三菱下関の鋼船。航海速力は18.2k/n。
「ブルーライナー」と、かつて旧北上河口で記録された絵葉書と対比してみた。キャプションに「石巻
ヨリ金華山行汽船ノ出帆」とあるが、これは入港する姿と判る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/d8/05bb878d5bed9479193d916615b2d5ca.jpg)
この船は見るからに「東京湾型小型汽船」。『件名録』には「重甲板船」とある「全通船楼船」。箱形
操舵室を持ち、その頂部に補助帆の付くフォアマストが立つ。船尾はカウンタースタンにならない。M10年代後
半~20年代前半頃、東京湾内で建造された汽船に共通する特徴と見ている。これは、1889(M22)
創業の東京湾汽船に出資された汽船のスタイルと言えよう。絵葉書全盛期まで残存したそれらの船は、
房総半島や三浦半島の諸港で、数多く捉えられている。一方、大阪湾周辺で建造された同期の同
クラス船は、「ブリッジ」や船橋楼を持つ船が多い。逆に、これは東京湾型には見られない。
船名録等から作成した東京湾内建造船リストから、この海域で活躍した船を絞り込むと、該当す
るのは「第参拾号通運丸」のみとなる。この船影は、東京湾汽船による三陸航路経営当時のもの
に相違ないと考えている。しかし、絵葉書の仕様は1918(T7)郵便規則改正後のもの。写真の使い
回しなのか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/3a/f814a39ffde8a2bd8b2bc3cfece2a634.jpg)
この塩釜港の画像は、東京湾汽船の十字旗と、三陸汽船の社旗及びファンネルマークを纏った船が一枚
の画に納まるという、極めて珍しい光景を記録している。船はそれぞれ纏まって係留されている。
その間の水面に火花が散っているように見えてしまう。撮影は三陸汽船創業の1908(M41)と、東京
湾汽船撤退の1911(M44)の間に限られる。煙突マーク無しは、東京湾汽船か龍丸汽船と見て良い。
16:46の「マーメイド」入港まで時間があり、中瀬へ行ってみた。この時は「石ノ森萬画館」は閉館
していたが、去る17日に再オープンしたと報道された。その際、原画は無事だったことや、震災時、
ここに孤立した人もいたことを知った。「石ノ森萬画館」北側から、西方向を記録した絵葉書がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/5e/10e6c43b72793bc71c3221f4a066d138.jpg)
写っている外輪汽船2隻は龍丸汽船。キャプションに「石巻第壹発着所」とあり、「玉龍丸」(右)、
「神龍丸」と外輪覆に読める。土蔵の妻には山に「り」の、龍丸汽船の社章が見える。この地方
の海運史を調べる際、欠かせない著作となっている武田泰氏『覚書 北上川の汽船時代』による
と、龍丸汽船の絶頂期は1912(T1)頃で、当時、「玉龍丸」は万石浦航路、「神龍丸」は臨時用と
なっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/28/405b81e1d61afdf5a5596022f2a991af.jpg)
「マーメイド」入港時には既に陽は落ち、かろうじて撮影した。126599 / JE2640、122G/T、
1983.06、村上造船所(石巻)。日没と同時に、気温は急激に低下した。東京に向けスタートした
夜道の右手に、門脇小学校の廃墟が黒々と見えている。石巻在住の元同僚の一人は、今も行方
不明のままだ。ご冥福を祈らずにはいられない。
石巻と云う地名を知ったのは小学生の時のこと。父島に来航した「第十二共勝丸」の船籍港を
見て、どこにある港か、地図上に探した。初訪問時の目的は、船ではなく仙石線の73・72形電車。
松島湾の波打ち際を走る陸前大塚駅界隈や鳴瀬川の橋梁は、特に思い出深い。その辺りの被災
は激しく、今も高城町~陸前小野間は復旧していない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/b3/562c4f3088e3fce3efbd07e89441d574.jpg)
当時の石巻駅舎(電車駅)は、戦時買収された宮城電気鉄道の建築で、天井には電鉄の社章が
残っていた。東塩釜駅付近のガーターは、今にも崩れ落ちそうな、国鉄離れした光景だった。