津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

飾磨港の「徳壽丸」

2013-05-19 | 尼崎汽船部
墨消しされたPR葉書を見た時、思わず苦笑してしまった。差出しは「尼崎汽船飾磨扱店」。







これは嶋谷汽船「朝海丸」「日本海丸」姉妹。スタンンプを用い、キャプション二個所とファンネルマークを消している。
一見すると、煙突が並列しているように見えるのは、スタンプずれのため。これは尼崎汽船飾磨扱店による、
お得意様へのPR葉書。表面の仕切り線は消されても、社旗の一部が見えている。
他社船の絵葉書流用は置くとしても、ここまでタイプの異なる船の画像を使うものか。これは「扱店」の
仕事で、安治川口本社の関知する所では無かったのかも知れない。船好きとしては、投入された船名
を知りたい。



尼崎汽船部の飾磨航路は『海事要覧』によると1933(S8).01開設された。現在の姫路港の状況を考えると、
意外と遅い。残された多くのパンフレットは美しい絵図を添えているが、殆どの場合、発行年月の記載は無く、
悩ましい。これは飾磨航路開設後、S13.05尼崎汽船部の「小豆島」案内パンフレット。航路は5本記されている。
■大阪多度津線 
 (往)大阪 - 神戸 - 家島 - 牛窓 - 土庄 - 高松 - 鷲羽山 - 出ノ口 - 味野 - 丸亀 - 多度津
 (復)多度津 - 丸亀 - 高松 - 土庄 - 牛窓 - 家島 - 神戸 - 大阪
■飾磨線
 高松 - 土庄 - 大部 - 小部 - 家島 - 飾磨
 飾磨 - 相生 - 新浜 - 土庄 - 高松 (各2往復)
■岡山支線
 古江 - 苗羽 - 植松 - 下村 - 西村 - 蒲野 - 高松 - 土庄 - 九幡 - 三幡 (1往復)
■岡山支線乙便
 土庄 - 九幡 - 三幡 - 土庄 - 高松 (3/20 - 5月上旬、1往復臨時増発)
■北浦線
 福田 - 吉田 - 灘山 - 大部 - 小海 - 見目 - 小江 - 土庄 - 小瀬 - 高松 (2往復)
大阪多度津線は別として、岡山支線乙便の運航日に、記載されたスケジュールをこなすには最低6隻の船腹を必
要とする。なかでも、土庄港の寄港回数の多さは際立っている。
備讃海域と芸予海域に投入された100G/T前後の小型客船は、その時々、両海域を転配されていたことが、
残された画像から判っている。





備讃海域において、最も多くの船影を残しているのは「徳壽丸」。この船は尼崎の建造ではない。追って
アップしたい自社建造「正宗丸」は均整取れた美しい姿をしているのに対し、いささか無骨に映る。
徳壽丸 29062 / SLKW、123G/T、木、1922(T11).12、岡田嘉太郎(木江)
発注者は岡田為三郎、船籍を大阪に置いた。建造者と発注者は同姓、両者は関係者なのか。『レヂスター』の
旅客定員欄は無記入のため、判らない。尼崎汽船部は1924(T13)に購入している。
一枚目は土庄港。この画像は、他に3隻の小型客船の姿を捉えられている。
二枚目は高松港外に停泊中の同船。背景は屋島。他に、宇品港において船尾を見せる画像も残っている。







「徳壽丸」は飾磨航路開設の前、1932(S7)に抹消されている。この光景は飾磨線開設前と思われる。
左手に見える石垣は、湛保(たんぽ)の護岸。「徳壽丸」は港奥部の物揚場へ向かったのか。
2007(H19).07.28小豆島に渡る前、「湛保」を対岸から眺めてみた。築港に功績のあった「藤田祐右衛門
顕彰碑」が見える。この時、正栄貨物「第三はちしば」に出会った。前歴をたどると「第三十二向島丸」。
第三はちしば 115341 / JK3665、99G/T、鋼、1973(S48).12、木曾積造船

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黄色い太陽

2013-05-16 | 旅行
今年のGWは天候に恵まれ、絶好の撮影・ツーリング日和となった。前半3日、後半4日に分かれたことか
ら長期休暇の取りにくい連休と報道されていた。この時期、周期的に崩れる天候は、中日にあたった。
当初は、前半に瀬戸内海、バイクを広島に留置して帰宅し、後半は九州と計画していたところ、04.27は
「えとぴりか」東京初来航となり、撮影行は後半に組替えた。

『関西汽船社史』『船半世紀』には、「高松地区小型客船」と称される一連の小型客船の記載がある。
現在においても、AISを見ると、備讃海域は青い旅客船マークの濃い海域となっている。GWには、そんな
海域に登場した「サザンクロス1号」の後身、「バルカソラーレ」に会おうと決めていた。
ジャンボフェリーの直島ラインは03.23に運航を開始した。船体塗装をヤノベケンジさんデザインの「黒地
に黄色い太陽」に変更、「バルカソラーレ」として04.12に公開された。運航は土日及び祝日のため、登
板は翌04.13(土)からとなった。

今年は2回目の瀬戸内国際芸術祭開催年を迎えた。
初回開催年の2010.09.18、サーフェースプロペラ船の立てる波飛沫を、高松港防波堤から女木島に望んだ。
双眼鏡を取り出したものの、船影は防波堤に隠れてしまい、はっきりしない。あの船影は、一体、何な
のか。この海域にサーフェース船はいたろうか。夕刻には女木港から遠ざかる姿も遠望した。
その晩は落ち着かず、悶々と過ごした。翌日の同時刻、再び女木島沖に現れた船影を確認し、定期的
に女木港へ来航していると確信した。となると、出港時刻も同一と考えられる。防波堤を走って戻り「め
おん」に駆け込んだ。女木港にいたのは「サザンクロス1号」であった。





石垣の海以来の、思わぬ再会となった「サザンクロス1号」は、弥栄マリン(神戸)の所有となり、国際
芸術祭に際し、土庄東港と女木港を結んでいた。片道乗船も受付すると伺い、夕暮れの備讃の海を楽
しんだ。
この船はスバル観光の発注により、1992(H4).12興和クラフト(大矢野町)で誕生した。主要目は長さ
20.00×巾4.29×深さ1.61(m)、19G/T、D700×2、32.00k/n、旅客定員62。八重山の島々の間にはサ
ンゴ礁が広がり、航路の平均水深は70㎝と云われる。「サザンクロス1号」は、水深をクリアするためシャフト
やブラケットを水面上に配置し、プロペラは下半分のみ水中に没するというサーフェースシステム旅客船の嚆矢と
見られる。1993(H5).03.25有限会社スバル観光は離島総合海運株式会社に改組し、1994(H6).06.15
八重山観光フェリー株式会社と合併した。
サーフェースプロペラの波飛沫を巻き上げ、エメラルドグリーンに輝くサンゴ礁の海をカッ飛ばす、小柄な「サザンク
ロス1号」「サザンクロス3号」姉妹は、興和クラフト独特の操舵室と相俟って、特に可愛らしかった。
当時、操舵室扉の脇には、逓送マークも付いていた。





これは『船舶電話帳』に掲載された同社の広告。職人気質の社長氏は、船体に使用する材料を吟味し
ながら建造したと、興和クラフト建造船を所有するオーナー氏より伺ったこともある。
天草を訪れた帰路、二回ほど、大矢野町の工場跡地を訪れた。初回の時は全く判らず、二回目の時は
地元の方にお尋ねした。行き過ぎた道路を戻り、夕闇のなか、大体この位置か‥という所に佇み、ここ
から旅立った数々の船影に思いを廻らせた。





2011.11「サザンクロス1号」は東京湾にやって来た。その間、横浜港をベースに湾奥部で活躍し、京浜運
河における素晴らしい走りをキャッチした。こちらでサーフェース船の波飛沫を見たのは初めて。この頃の塗装は
軽快感があってなかなか良かった。1枚目の背景は東京電力川崎火力発電所、2枚目は川崎信号所。

19:50東京ICに入り、足柄、刈谷、三木と停車した。数カ所で渋滞に遭遇したものの、山陽ICで下りて岡
山港に着いたのは05:20、682㎞の走行となった。始発の「おりいぶ丸」に乗船して土庄へ渡った。目星
を付けてきたポイントをロケハンしつつ436号線を走行。撮影にあたり、考慮したいけど判らないのは「どこから
減速するか」ということ。サーフェースプロペラ船は、やはり、波飛沫を巻き上げている姿を捉えたい。土庄東港、
池田港、坂手港を移動し、それぞれ構えてみた。心なしか、以前より巻き上げる波飛沫は小さく見える。
塗装変更により、船の特徴は捉えにくくなったものの、彼女の一つの時代を記録した喜びは大きかった。








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