津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

我入道の義魂碑

2012-06-10 | 東京湾汽船
M30年代前半に三陸航路の整備を進めた東京湾汽船は、後半に、伊豆半島沿岸航路を経営する競合船社を
次々合併した。具体的には1904(M37)06.12東豆汽船、1905(M38)10.09相陽汽船、1906(M39)03豆州共同汽
船の各社で、既出の「第二徳山丸」は相陽汽船が運航した。買収により、東豆汽船3隻、相陽汽船2隻、
豆州共同汽船4隻が東京湾汽船の船隊に加わった。
伊豆半島沿岸航路史を辿るとき、松崎の依田一族を記さない訳にはいかない。依田佐二平や分家の依田善六
は、江戸期から、所有する廻船を伊豆~江戸間に就航させていた。佐二平は1883(M16)豆海汽船会社を設立、
沼津~伊豆半島沿岸諸港~東京航路を開設した。初代「豆海丸」828 / HFNQがこれで、伊豆半島沿岸航路に
おける汽船の嚆矢である。1886(M19)遭難により失われ、1888(M21)二代「豆海丸」1094 / HGQKを下田で建
造して再投入するも採算が取れず、1890-1891に売却された。東京湾汽船は伊豆半島東岸諸港の回漕店の
要請により、1891(M24).01伊豆航路を開設したというが、豆海汽船廃航によるものと思われる。
一方、沼津~下田を結ぶ伊豆半島西岸航路は、依田善六「松崎丸」1041 / HGLTにより1887(M20)開設され、
後に松城兵作「伊豆浦丸」1894(M27)2隻が参入した。既に触れているが、造船工長佐山芳太郎により戸田
で建造された船である。依田も船隊を増強し、両者は激しく競合したが、仲介人の斡旋により1900(M33)豆州
共同汽船が設立された。
東京湾汽船による豆州共同汽船買収の早3年後の1909(M42)に駿河湾汽船が設立され、そこへ依田善六は
所有船を無償貸与したり、「愛鷹丸」事故後は船や航路を依田汽船が継承し、競合が続いたという。



下田港に係留された「豆州丸」は、船首部にアルファベットで「ZUSHIU MARU」と確認出来る。城山の下、ペリー艦隊
来航記念碑の建つ辺りと思われる。後に帆船も係留され、重なってしまっているが、特徴は確認できる。
「豆州丸」 8559 / JQLT、95G/T、1904(M37).07、関善太(松崎)。現在も松崎町には「関」姓が多い。豆州
共同汽船発注による初の新造船であり、唯一の建造船となってしまった船である。





新島前浜沖合に集結した汽船群で、壮観な光景である。最も右側に見えるのが「豆州丸」である。これだけの
船が、同時に来航した貨物は何だろう。絵葉書の仕様から大正後期と見られる。

静岡地区日本水難救済会沼津救難所のHPに「沼津救難所の歴史」と言うページがあり、海難救助で亡くなら
れた8人の顕彰と霊を慰めるため、義魂碑が建立されたことが紹介されている。大正11年3月23日、東京湾汽船
「豆州丸」は強い西風による激浪と悪潮のため、河口の浅瀬に座礁。その救助にあたった4名の若者が犠牲に
なった。HPには「入道水難救助部の歌」も掲載され、歌詞には「豆州丸」の船名も詠み込まれている。
以前からこの義魂碑が気になり、いつかはお参りしたいと考えていた。時間は経つも情報は入らず、日本水難
救済会に照会し、沼津支部をご紹介いただいた。





沼津支部の方に碑の建つ場所をご教示いただき、5月の休日に出掛けてみた。狩野川の河口、「八幡神社」
参道入口右手にその碑はあった。持参した豆州丸の写真を添え、手を合わせた。





現在の沼津港は掘込式港湾となっているが、元々は狩野川河口に港湾機能があり、八幡神社の前には古い
石造倉庫も残っている。絵葉書には、八幡神社の鎮座する丘の下、狩野川河口に2隻の小型汽船が停泊して
いる。遠くに停泊する方は、どうも月島工場製のようだ。乗下船は艀で、左手の家並み辺りで乗り込んだと
思われる。
芹沢光治良記念館にも立ち寄った。二回目となる。前回訪問時は、義魂碑の所在は判らぬまま帰宅した。
高校生の頃、数日間で『人間の運命』を読了した覚えがある。今思うと、驚くべき早さだ。芹沢光治良が
『人間の運命』を執筆した自宅は、今、住んでいる街に程近いことを、ここを訪れて知った。そこは良く散歩
する界隈で、若き日の周恩来も、その辺りに下宿していたという。





「ホワイトマリンⅡ」戸田運送船、19G/T、150名、鈴木造船所。
「第一伊豆丸」千鳥観光汽船、13G/T、99名。
沼津港にやって来る小型客船2隻を、効率良く撮影することができた。

何の準備もして来なかったが、まだ陽も高く、東名に入って藤枝市の田中城址を目指す。512人いる9代前
の先祖の一人は1680年生れで、家臣録に「大井川御普請御用相務申候」とある。「本国阿州、生国摂州」
というこの先祖、どんな経緯で田中に来たのか判らなかった。その息子(8代前)は「生国駿州田中」となっ
ている。
田中城は平城で、市街地に掘跡や土塁が残り、公園に整備された下屋敷には本丸櫓が移築・復元されて
いた。展示によると、田中城は戦略的に重要な地にあり、藩主に任じられた者は、老中や大阪城代、
京都所司代など、幕府の要職に出世したという。
土岐氏は田中城で2代続き、土岐伊予守頼殷は大阪城代から田中藩主となり、続く土岐丹後守頼稔は田中
藩主を世襲し、大阪城代となり田中を離れている。主な実績に「大井川堤普請」「後に老中となる」とあった。
展示を見たことで、摂津生れの訳や重用の経緯を理解した。土岐丹後守頼稔は大阪城代の後、京都所司代
を経て東国に配置された。先祖の一家は付き従うのである。

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