津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

祝式翌日の悲劇

2014-10-05 | 旅行
工部省兵庫工作分局の建造船を追った際、船名録や汽船表に「徳島丸」の手掛りは無かった。その後『名東郡
史』に目を通していて、1878(M11)に発生した徳島丸の悲劇を知った。記念碑は「大瀧山の中腹、夫婦杉のかた
わら」に建っているという。
仕事の調整もついたため、気に掛かっていた碑の捜索に西へ発った。東京I.Cに入り、新東名浜松S.Aに給油停
車。次いで停車した三木S.Aにて2度目の給油と共に、日の出に姫路港頭に立てるよう時間調整。今回はここま
での所要6時間30分。
港頭にて家島諸島航路に活躍する高速船群の撮影を堪能する。小型RORO船や内航貨物船も入出港を繰り返
し、時の経つのを忘れる。今朝の4社は「高速いえしま」「高福ライナー」「クィーンぼうぜ」「はるか」。



高速いえしま(高速いえしま)140399 / JD2626、146G/T、軽合金、2006(H18).10、三保造船所



高福ライナー(高福ライナー)260-45058、19G/T、軽合金、2006(H18).07、アルシップ



クィーンぼうぜ(坊瀬汽船)134196 / JJ3941、173G/T、軽合金、1997(H9).05、讃岐造船鉄工所



はるか(輝観光)273-11181、19G/T、軽合金、2001(H13).09、常石林業建設

早々に切り上げ、姫路・加古川バイパス、第二神明及び北線を経て明石海峡大橋を渡り、徳島を目指した。
旅に発つ前日、仕事でお会いしたN氏は淡路市のご出身。雑談となってから、1878(M11)佐野沖合にて発生した
海難事故のことを伺ったところ、慰霊碑をはじめ、地元に伝わる話は無い模様。話は淡路フェリーや、元は廻船業を
営んだ井植家に及ぶ。松下幸之助氏との縁により、船に明るい井植歳男氏は松下造船に係わっている。また、北
淡出身の原健三郎氏は、山を越えて津名に出て東浦航路船で洲本の学校へ通ったことなど、地元の船に纏わる
エピソードをお聞かせ下さった。



フェリーつるぎ(南海フェリー)135032 / JI3553、2604G/T、鋼、1997(H9).03、臼杵造船所

鳴門I.Cを下りてから南海フェリーを撮り、いよいよ碑の探索に大瀧山へ向かった。手掛かりは『名東郡史』の
み。徳島市域に大瀧山という地名は無く、また、大瀧山という独立した山塊も無い。どうやら眉山麓の公園名
らしい‥という程度の情報しか無いまま、現地に着いた。この辺りには神社や寺院が集中していて、先ずは春
日神社に参拝する。社殿内にカラス天狗の面が掛けられていた。
境内から見上げる大瀧山は考えていた以上に広い。社殿脇より登った散策路に、人は余り立ち入っていない
様子。藪の中には解説板のある歌碑も建っていた。茶店のような閉じられた建物もあった。念のため、行く手を
木の棒で叩きながら進む。伊豆の山歩きに明るいT氏より、マムシのいる周囲には生臭い匂いが立ち込めている
と聞いたことを思い出す。気は急くしマムシも怖い。登った先の自動車道には「マムシ注意」の看板もあった。ざっと
一巡したものの「夫婦杉」は見つからず、碑の所在は判らなかった。
この日は暑い一日だった。夜間走行の末の疲れ切った顔に、汗が吹き出していた。次の機会に探そうと諦めつ
つも、社務所の扉を叩き、夫婦杉の所在をお尋ねしてみた。
「まぁ、ゆっくりお茶でも飲んで行きなさい。」
打合せをされていた二人の方が、招き入れて下さった。お気遣い下さったのは、宮司さんと氏子さんだった。
「焼き餅を取りますから‥」
門前の焼き餅屋さんから、名物の焼き餅を取り寄せて下さった。初めていただいた焼き餅は、香ばしさと共に、
ほんのりした甘みが口に広がった。焼き餅屋のご主人は、「大瀧山には杉があった」という情報と共に、お店
に掲げてある絵図を見せてくださった。しかし、杉は一本しか描かれてなく、夫婦では無いと云う。それでも、
初めて接した杉の情報だった。地元の方々のご厚意に頭が下がった。
絵図から現在の位置を割り出していただき、杉のあった場所に向け、再び大瀧山を登った。草むした石段を登
った先に、その碑はあった。





第三徳島丸記念碑
明治十一年十月二十八日夜汽船第三徳島丸火ヲ失シ淡路國佐野海中二沈没
ス本舩ハ曩ニ徳島社ノ新ニ神戸工作局ニ於テ造ル者ニシテ舩体堅牢機関精
完舩長亦其人ヲ得タリ矣是月二十七日落成ノ祝式ヲ舉ケ其明拂曉津田港ヲ
發シ将サニ大坂ニ航セントスル也會■風浪甚タ惡キヲ以テ和田浦ノ灣ニ錠
シ風ヲ候ツコト數時日没ニ及テ海面稍々平ナリ舩客開舩ヲ促シテ止マズ乃ハ
チ船ヲ発ス佐野海ニ至リ時ニ午後十時俄然火起リ烟熖舩ニ充ツ衆之ヲ防救
スルコト頗ル力ムト雖モ此時風又益■猛烈ナルヲ以テ亦之ヲ如何トモスルコト
無シ矣殊ニ舩長山川某ハ舟子ヲ指揮シ防救至ラサルコト無シト雖モ事蒼卒ニ
出ルヲ以テ智術ノ施ス可キ所ナク遂ニ船客舟子七十有餘名■共ニ激浪ノ中
ニ溺死ス其惨状言フ可カラサル也獨リ海部郡伊坐利村ノ人安井某纔カニ萬
死ヲ免レ其状況ヲ語ルト云後本舩機關ヲ海底ニ取ルヲ得ルト雖モ死者遂ニ
返ラス嗚呼哀ム可キ哉頃者有志者相謀リテ碑ヲ大瀧山上ニ建テ其非死ノ顛
末ヲ勒シ以テ其幽魂ヲ弔シ併セテ後来舩ヲ操ル者ヲシテ失火ノ尤モ懼ル可
キヲ知リテ以テ警ムル所アラシムト云爾 明治十三年十月 新居敦書


■は不明箇所。汽船導入の初期、大阪湾を航行する新造船を襲った大惨事。それも、お披露目の翌日に起こっ
た悲劇である。時間を追ってみると次のとおりとなる。
M11      「第三徳島丸」兵庫工作局建造
M11.10.27    落成祝式
M11.10.28 払暁 津田港より大坂港へ向け出港
           和田浦湾に碇泊
        日没 和田浦湾を抜錨
        22時 火災発生の後、沈没

碑文から失火の原因は判らない。「和田浦の湾」と云えば、和田ノ鼻の内側の水面に避泊したとみれらる。十
月という時期から、時化は台風だろう。一時的に風は弱まったように見えても、台風の進行に伴い、風向きは
変わったのか。
この海難は海事史年表に記されていない。都立図書館所蔵の地方誌からは、『名東郡史』以外に記載は見つ
からなかった。「徳島社」とは何だろうか。

『M13徳島県統計表』『M14同』に「徳島社」は出てこない。同書及び『徳島県史』『大阪商船50年史』の掲載
船と所有者を一覧すると次のとおり。

船名   M13(統計表) M14(統計表) M16(県史)    M17(50年史)
鵬翔丸  井上三千太  -       -         -
太安丸  撫養会社   撫養会社   天羽兵二    天羽源太郎
末廣丸  船場会社   船場会社   徳島汽船会社  新居岩太
巳卯丸  船場会社   船場会社   徳島汽船会社  新居岩太
鵬勢丸  船場会社   船場会社   徳島汽船会社  西村忠兵衛
長久丸  -       船場会社   徳島汽船会社   中川重内 徳島汽船会社社長
太陽丸  -       太陽会社   徳島汽船会社   中川重内     〃
朝陽丸  -       太陽会社   徳島汽船会社   岡田啓介
撫養丸  -       撫養会社   天羽兵二      天羽源太郎
常盤丸  -       安川長平     -         -
飛鳥丸  -        -      小浜南洋     -

『徳島県史』に記載の一次史料「徳島県勧業課第四回年報」には、6隻の「徳島汽船会社」が所持人として記
録される。『大阪商船50年史』と併せて読むと、中川重内は2隻のオーナーであり、オペレーターとしての「徳島汽船会
社」を代表したと見られる。事件発生の1878(M11)にあった「徳島社」と「徳島汽船会社」は繋がらない。
『普通新聞』を見たところ、「徳島社」は「徳島舎」と記される。記事から判った事件の経緯は興味深いが、
一点、「第三徳島丸」の所有者を明らかにしておくと、お披露目の報道記事の中に「此船の持主は犬伏龜太郎、
諏訪善作、森勝彌其他数名の共同」とあった。「徳島舎」は今で云うオペレーターとは少々異なるものの、運航の主
体と見て相違なかろう。

『徳島県史』『阿波の交通』は夜間航海解禁について詳しく記している。阿摂間を航行する旅客船の夜間の航
海は停止となっていたが、巳卯丸、鵬勢丸、太安丸の三船について「客船構造の改良を兵庫工作分室で行い」
夜間航海の許可が下り、1880(M13).09.26より夜航に就航し、阿摂間の交通は一段と便利となった。
引用の『徳島日々新聞』に次のとおりある。

阿摂間の航海は、かねて昼間のみにて夜中は停止となりゐしが、潮の満退もありて実際は行われ難き
により午後十時よりの航海は行われざりしが此度允可となりしかば船場会社より鵬勢丸を以て本日午
後十時を限り大阪へ向け出港さらるるよし‥


客船構造の改良は何を行ったか。「第三徳島丸」失火の経験を活かしていることは間違いなかろう。

夜行フェリーに乗ろうと、松山へ向けて徳島I.Cより徳島自動車道に入る。ここから井川池田I.C迄は初めての走行
となる。上板S.Aの標識を目にし、この地を30年前に訪れたことを思い出す。
当時、勤務していた母島に、郷土資料館を整備する動きがあった。戦前の母島には独特の石文化があり、特産
するロース石と言われる凝灰岩を切り出し、生活用具や建築資材に用いた。島にはロース石を削った火消壺や七輪
も残っていた。資料館の整備は島民による手作りを基本とし、設立準備会は熱のこもった議論が重ねられた。母
島の勤務には、仕事の範囲を超えた思い出が多い。民家跡に残っていたサトウキビ圧搾機の石ローラーにも興味を覚
えた。母島産安山岩で作られたものの他、島に産出しない花崗岩や灰緑色の石もあった。この石ローラーはどこから
もたらされたのか。
小笠原諸島の開拓初期、藍栽培や製糖技術を徳島に学んだらしい。徳島県にある和三盆糖の資料館を見学した
らどうか‥というアドバイスを役所の先輩よりいただき、この地を訪れた。岡田製糖所の資料館前庭に立って驚いた。
保存されていた圧搾機の石ローラーは全て、灰緑色をしていた。ご主人に話を伺ったところ、付近の山から切り出さ
れた石とのこと。記録のみではなく、実物で母島と徳島の結びついた瞬間の感動は忘れられない。

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