津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

廃品更生の王様

2012-09-08 | 東京湾汽船
gooの空中写真(S22)は、終戦後の都内の様子を眺められ、とても興味深い。ことあるごとに眺め
ている。
東京港内に東海汽船「こうせい丸」を見つけた。朝潮運河入口の沖合に係留されている船影がそれ。
特徴的な半円形操舵室や、煙突や檣の影から、容易に特定可能。豊海町や晴海5丁目の先端は埋
立てられていないため、泊地の中央に見えるものの、現在の晴海埠頭官庁船バースH2の目先である。
『世界の艦船No.275』には、豊洲埋立地に係留中の同船の写真が掲載されている。空中写真撮影
時は、豊洲埠頭の埋立は未着手。「豊洲石炭埠頭は1950年10月に埠頭の一部完成、供用を開始」
されたと記録されている。木俣滋郎氏『残存帝国艦艇』には、「終戦後、客船としてではなく、貨物
船として、東海汽船が下田~大島~東京の三角航路に投入、主として雑貨類の輸送に使用した。
昭和24年の夏には、東京深川の豊洲埋立地に、さびしく繋船されていたという。昭和28年頃に
スクラップとなった。」とある。



実は長い間、船名由来を理解していなかった。「厚生」若しくは「恒星」と思い込んでいたところ、
Y氏より「更生ですよ」と伺った時には、意外な思いをした。
その後、『寫眞週報S16.10.01』を手にし、当時、戦争遂行上から、「更生」と云う言葉は多用され
たことを理解した。記事を引用する。

廃品更生の王様
家庭からは鐵瓶や看板が、會社や工場からは鐵柵や銅鐵屑が回収されて爆弾に、砲車に、
軍艦に更生する金属特別回収運動が大々的に展開されることになりましたが、わが海運界
ではこのほど海の底からとてつもない大きな廢品を回収してこれを立派に更生、活用しま
した。(略) 世界に誇るわが沈没船引上技術はこの引上に美事に成功、大阪のドックで
大修理を受けるとあの骸骨のやうな船が嘘のやうに白色瀟洒なこうせい丸に生れ變り、面
目一新、このほどから東京近海で就航してゐます。


「白色瀟洒」とある塗色はどんな色だったのか。戦後に登場の28隻組「あけぼの丸」「黒潮丸」は、
絵画によると船体部はベージュ、甲板室は白色となっている。この塗装は「こうせい丸」を踏襲し
たものか。『寫眞週報』掲載の写真は、塗り分けられているように見えない。背後に見える建物は、
芝浦の本社兼船客待合所。この時、「こうせい丸」は今も使用される浮き桟橋に係留されている。
(画像を加工してみたら、甲板室は全体的に明るく見える。ここのみ「白」か?)

裁決録「汽船屋島丸遭難ノ件」を読んでみた。台風の進路や乗組員の過失はさておき、「諸出入
口ノ防水装置比較的十分ナラサル第三級船」という記述が興味深かった。前日に別府を発ち、大
分、高浜、高松を経て、神戸に寄港し大阪に向かう途中、1933(S8).10.20、13:05「和田岬燈臺ヨ
リ約二百四十度半五粁四許ノ地點」において、神戸入港を前にして「左舷ニ傾倒シタル儘船尾ヲ
下方ニシテ沈没シタリ」。



岡田組の発行した絵葉書が残っている。キャプションには「岡田組ノ屋島丸浮揚作業」とある。さすがに、
煙突マークは「大」とはなっていない。その煙突や檣は左舷に倒れている。海上には起重機船4隻、沈
んだ「屋島丸」左舷側にはタンク4基が描かれている。
大阪鉄工所社内報に、岡田組社長岡田勢一氏並びに武久部長へのインタビュー「屋島丸引揚の苦心談」
が掲載されている。この記事はとても面白い。70フィートの海底から浮揚させるにあたり、屋島丸の水中
重量850噸と算定。使用したタンク12個の浮力600噸、起重機船4隻の浮力250噸、本船ボイラー2個の浮力
75噸、合計925噸と算定し、75噸の余裕を見込んで取組んだと記録されている。岡田社長は次のよ
うに語っている。

屋島丸が沈没した當時から私は出来るなら引揚げて見たいと思つていましたが、當時は現今と
違つて鋼材価格も安くはあるし、そう大した船でもないから、餘り問題にして居なかつた。今
の様に船腹不足と云ふ事もなかつたのですから、費用を掛けて引揚げても果して採算がとれる
かどうか頗る疑問でありました。(略) 然し私共の極く手近に在るもののことですから、成
る可くは他に委さず自分の手にかけて見たいものだと思つてゐました。

工事には相當の自信を持つてをりますし、それに是は左程難工事でもない。第一海浅く波穏か
である。時は一年中の最好時期で萬事好都合でありましたが、衆目注視の中で萬一失敗したら
大變ですから萬全の用意をせねばならぬ。そこに多少の苦心があつたわけであります。浮揚の
當日妙法寺海岸は見物の黒山で、中には小蒸汽を仕立てゝ見物に来る者もあつたりしましたか
ら、岡田組として手際の悪いことは出来ないと云ふ氣持ちから大いに緊張いたしました。

失敗せぬと云ふ保證はないのです。そこで一切の準備工作を終り、いよいよ起重機のエンヂン
に馬力を掛けて、ロープに物凄い緊張を與へた時が私共の心の緊張のクライマックスに達する
時です。此の時萬一1本のロープでも切れた忽ち全體のバランスを失つて一切の道具建が破壊
されます。船底の吸着を押し切つて少しでも船が揚つたら、海面に泡を吹くから直ぐ判ります。
全馬力をかけて船底の吸着を挘ぎ離すのに30分を要しましたが兎に角無事に吊上げたときには
期せずして萬歳を絶叫した次第であります。

何が楽しみでこんな仕事をするかと云ふことになりますが、あらゆる困難に打克つて無事に引
揚を完成させた時の會心的味ひが到底忘れられないからでありませう。




船名を書き込んでいる写真も残されている。社史によると、燃料油規制強化に伴うディーゼル船運航補助
や船腹不足解消のため、1941(S16).07.31スチーム船「こうせい丸」は購入された。東京湾汽船は翌年08.28
東海汽船と社名変更したため、東京湾汽船最後の所有船となった。前歴や徴用時の動向は省略する。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする