津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

姿を見せた「咲花丸」

2016-11-03 | 尼崎汽船部
曳船改造貨物船「咲花丸」に巡り会えた。船尾側には既出の「白濱丸」も接岸している。船影から船名を確認す
ることなど、あり得ないと考えていた両船の鮮明な姿に、見惚れてしまった。まるで、1931(S6)にタイムトラベルした
かのような一時であった。







咲花丸 4513 / JCPG 197G/T、鋼、1900(M33).02、川崎造船所(神戸)、130.0呎 [S5.12.31]
撮影された場所は大阪中央市場。船影は、合資会社錢高組による1931(S6).03『大阪市中央卸売市場新築落
成記念』絵葉書にあった。さらにこの下流側には「日海丸」も接岸し、尼崎汽船部フリート集結の、魅惑の光景。
大阪中央市場は1925(T14).03に国の認可を得て着工し、1931(S6).11.11に開場した。この接岸は市場開場に
先立つ時で、画像を確認すると、確かに岸壁へは荷を揚げていない。接舷している和船の船尾側に、俵状の
貨物を積み上げている。薪炭だろうか。
ところで、当時の安治川口に発着した汽船は、どのような動きをしたのだろう。安治川口の古絵葉書を見ると、
明治・大正期より安治川右岸(北岸)に接岸している船は、殆ど左舷(ポートサイド)付け。一方、左岸(南岸)に接
岸している船も、同様に左舷付けをしている。案内書などを見ると、いつの時代からか、右岸は下船及び到着
貨物引渡し、左岸は乗船及び発送貨物受取りと、役割分担されたようだ。
昭和初期の『尼崎汽船部航路案内』には、「汽船のりば」は川口波止場とあり、「荷受所」(御発送貨物御用承
り所)として富島町(川口町船のりば前)外2ヶ所、「荷捌所」(到着貨物揚荷御用承り所)は北区中之島七丁目
(市電船津橋下車東入)とある。当時の汽船にバウスラスターがあるわけ無く、荷揚げ後の汽船の回頭は、川幅の
少し広くなる中央市場と住友倉庫の間の水面で行われたと考えている。



鮮明な画像の出現により、今治港におけるこの船影も、「咲花丸」との確証を得た。奥右側は「第十二東豫丸」。
内務省所有船を種船とした改造船と異なり、「咲花丸」の氏素性は明らかで、大阪築港工事用に建造された大
阪市所有「第三咲花丸」の後身にあたる。因みに大阪市所有当時の船名は「さくはな」と読み、「さきはな」では
ない。証拠は後にお示しする。
尼崎汽船部は1925(T14)同船を買船し、1930(S5)貨物船に改造し、改名を行った。買船から改造迄の間、どの
ように使われたかは判らない。同じ頃、内務省所有船を種船に改造された「成功丸」「此花丸」「運輸丸」は、新
たな船舶番号を付与されたが、「咲花丸」は「第三咲花丸」の番号を継承している。尼崎汽船部所有となってか
ら、船名の「読み」が変えられたとは考えにくい。謎の「運輸丸」については新たな画像の発見もあり、鋤簾式浚
渫船を種船とした可能性が高まった。
船体の「継足し」について『海運夜話』には次のくだりがある。大正期の大阪の造船所は「何でもあり」のようだ。

一番造船の盛んだったのは大阪で、尻無川の川尻にずらりと並んだ処は天下の壯観でありましたが、
彼邊は別に造船設備は出来て居らぬのでありますから、いきなり畠の中へ聊かの土䑓を構へ、其上
で何千噸もの船を造るのでありますから呆れた話で、其又造る船がハルクの改造があり、木船があ
り、よくまあ盲目滅法に遣つたものであります。面白いのはトロール船を胴中から二つに切りまして、
中央部に繼足しをし、大きな商船にする方法で、相當流行した樣であります。


「船名録」に記される「長さ」は、単位が「尺(=曲尺)」から「呎(=フィート)」に変わった大正8年版より後、昭和8
年版までは「量噸甲板上ニ於テ船首材ノ前面ヨリ船尾材ノ後面ニ至ル長」、昭和9年版以降は「上甲板梁上ニ
於テ船首材ノ前面ヨリ船尾材ノ後面ニ至ル長」と、定義されている。
これは、船舶原簿の「上甲板梁上ニ於テ船首材ノ前面ヨリ船尾材ノ後面ニ至ル長」の欄に記される数値(=登
録長(Lr))である。船舶原簿には、全長や垂線間長は記されない。また、史料に「垂線間長(Lpp)」として記され
た数値の場合、戦前と戦後は垂線の位置が異なり、数値の扱いに注意を要する。
「船舶原簿」最上欄に記されるのは「番號」「造船地」「造船者」「進水ノ年月」「原名」であり、船名や信号符字、
船種、長さ等は変化しても、その5点は変えよう無い。船舶番号の変わった船もあるが、これは抹消された船
の、船殻流用の別船扱い。

改造前後の「長さ」を比較してみたいことから、船名録の凡例から「長さ」に係る「単位の変遷」を整理する。
大正3年版までは「曲尺」。
大正4~7年版は「曲尺」。*印は「フィート」。
大正8~12年版は「フィート」。△印は「曲尺」。
大正13~昭和8年版は「フィート」 (8年版凡例は誤りか?)
昭和9年版は「フィート」。×印は「メートル」
昭和10~18年版は「メートル」。×印は「フィート」

記録された数値を「メートル表記」するなら、「換算係数」も押さえておく必要がある。
「1尺」曲尺=0.3030303m
「1呎」フィート=0.3048m
そもそも、船名録には「表示単位未満は切捨て」て記載されているため、余り厳密に考えることも無かろう。
「第三咲花丸」及び「咲花丸」の「長さ」は、船名録に次のとおり記録される。
昭和5年版 100.2フィート(第三咲花丸)
昭和6年版 130.0フィート(咲花丸)
昭和7年版 130.0フィート(咲花丸)
昭和8年版 39.6メートル (咲花丸)
改造前 100.2×0.3048=30.54096メートル
改造後 130.0×0.3048=39.624メートル
改造後のメートル換算は、昭和8年版に記載の数値と合致する。貨物船「咲花丸」の船体は、曳船当時に比べ約
9メートル延長されたと判った。

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