津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

阿波国共同汽船の創立

2017-01-15 | 日記
徳島県神山町で農園を営むT氏より、昨年も「種なし柚子」が届いた。箱に敷かれたヒバの葉の緑と、黄色
い柚子のコントラストの鮮やかさに、目を奪われた。神山町の空気まで、箱に詰められ届いたような、そんな気
のした瞬間だった。「徳島繁栄組汽船部」の看板を探しに出かけた折、神社の前で困り果てていた僕に声
をかけて下さったのがT氏である。



「徳島繁栄組汽船部」は徳島港を起点に阿攝航路を運航し、1923(T12).04井上達三氏によって設立された。
大阪商船や阿波国共同汽船の阿攝航路は小松島港へ移転し、凋落傾向にあった徳島港再興に後半生を
かけ、自ら船会社を設立してまで、徳島港に賑わいを取り戻そうとした人物である。同社は阿波国共同汽
船へ吸収されたものの、徳島港に旅客船航路は復活し、氏の宿願は果たされた。画像は、大阪築港にお
ける同社「第二橋立丸」。阪鶴鉄道により「舞鶴小浜航路用」として建造された船。鉄道省から払下げを受
けたのは、『鉄道連絡船100年の航跡』によると、1924(T13)と見られる。「1呎」フィート=0.3048m
第貮橋立丸 10152 / JWVC 163G/T、木、1906(M39).05、小野清吉、110.2呎[S02版]
徳島に出掛ける度、徳島港修築・再興にかけた井上氏の情熱と、運航した2隻の小型客船に思いを馳せる。



「有限責任阿波国共同汽船会社」は1887(M20).09.14に設立され、1938(S13)に『50年史』も刊行された。
阿攝航路や「鮮満支沿岸航路」(同社名称)の変遷は興味深い。しかし、是則氏も『共同汽船の客船史』
で指摘のとおり、社史には整合性の取れない記述もあり、創業時の状況は、今ひとつ判然としない。社
史は、会社発足の経緯と社名由来について、次のとおり記している。

(大阪商船會社が設立されるや)‥自然と獨占的の傾向を帯び地方貨客殊に當阿波國の如く阿波
藍の全國的に著名にして而も纏りたる貨物を取引するものには、配船取扱等其の意に滿たざるもの
不尠について、その關係者のみならず縣民一般の總意に依り對抗機關を設くる事となつた‥會社
名の因りて生じたる所以も亦共同一致して縣内産業文化の發展に資せんとする精神に外ならない‥


1884(M17).05.01 大阪商船設立。
1887(M20).09.14 阿波国共同汽船設立。「阿津丸」1隻で阿攝航路開始。
          (「創業に参加せし船舶は木造船阿津丸1隻」とある)
1887(M20).10 阿波国共同汽船「徳島大阪線」開設。
1889(M22) 「阿津丸」建造。(春木藤次郎)
1890(M23)   「徳丸」建造。(春木藤次郎)
1894(M27).11  大阪商船との協定成立。

社史から読み取れるのは上記のとおりで、矛盾や錯誤を含んでいる。



1887(M20).10に阿波国共同汽船社長より、牛島村庄野一氏へ宛てた招待状を兼ねた開業案内状を目に
した。当時の新聞から裏付けを得つつ、判明した当時の経緯を記してみたい。社史の空白部分を埋める、
大変に興味深い内容を含んでいる。先ずは案内状から要点を記してみよう。なお、漢文調の案内状を読
み解くにあたり、元の職場の先輩長谷川氏のお手を煩わせた。ここに御礼申し上げます。

1. 共同汽船会社は皆さまの賛同を得て設立いたしました。
2. 新汽船二隻竣工までの間、11月7日、徳島富田川において進水式を挙行しますので、午前十時にお
  出かけ下さい。
3. 同日より航路を開業します。
4. 当社所有船は今のところ二隻ですが、共榮社(周防徳山)と絛約を結び、同社「第壹徳山丸」「第貮
  徳山丸」「山陽丸」の三隻を加えて阿攝航路を運航します。
5. 大阪以西、九州迄の各港へは、差し支え無いように、共榮社の汽船が運航いたします。
6. 運賃は低く抑え,貨物の取扱いには注意します。
7. 大阪商船の阿攝航路運賃は、他港に比べても高額でありますが、春以来、やや低額になったのは、
  当社の設立によるものです。
8. 将来の当社発展につきまして、乗船や貨物運搬など、ご愛顧をお願いします。
9. 御招待に併せてご案内いたします。
10. 明治20年10月 共同汽船会社社長 川眞田市太郎

案内状から、次のような点が明らかになった。

① 10月時点において、稼働する所有船は無かった。
② 11月07日、富田川において「進水式」を行う。
③ 同日より航路を開設する。
④ 共榮社と絛約し、同社の三隻を加えて航路を経営する。
⑤ 大阪から九州迄の各港へ、共榮社が運航する。
⑥ 大阪商船は運賃値下げを行った。

この案内状は「10月」付で、実は二箇所に貼紙され、訂正されている。一ヶ所は進水式日の「七」、もう
一ヶ所は「即チ仝」。運航結果を確認すると、時化による遅延もあって、日取りを確定する苦労が偲ばれ
る。また、案内状で「進水式」としている式典は、新聞記事等から「開業レセプション」であったと見られる。
1887(M20).10.06以降の『普通新聞』(3368号~)を閲覧し、運航開始前後における徳島来港船名と、乗
船客数を調査した。船影こそ知れないものの、紙面には次々とキラ星のような船名が現れ、胸躍るひと
時となった。

<10月>
04 19:00出港:朝陽丸 56人
05 07:00入港:一丸 48人
同 19:00出港:一丸 57人
06 08:00入港:朝陽丸 40人
同 09:00出港:朝陽丸 36人
07 11:30入港:一丸 46人
08 14:00入港:朝陽丸 23人
09 07:00入港:已卯丸 43人
10 -
11 01:00出港:朝陽丸 55人
同 19:00入港:一丸 106人
12 14:00出港:朝陽丸 63人
同 18:00出港:朝陽丸 貨物のみ
13 13:00入港:一丸 100人
同 13:00入港:明光丸 48人
14 07:00出港:朝陽丸 荷物のみ
同 07:00出港:明光丸 53人
15 09:00入港:朝陽丸 78人
16 04:00出港:明光丸 49人
17 04:00出港:朝陽丸 56人
同 08:00入港:第二三光丸 86人
同 08:00入港:百貫丸 荷物のみ
18 05:00出港:第二三光丸 65人
同 07:00入港:朝陽丸 62人
19 -
20 13:00入港:百貫丸 30人
21 05:00出港:朝陽丸 40人
22 16:00出港:百貫丸 54人
23 14:00入港:朝陽丸 114人
24 11:30入港:一丸 108人
同 23:00出港:朝陽丸 76人
25 22:00出港:一丸 48人
26 -
27 14:00入港:明凌丸 28人
28 02:00出港:朝陽丸 24人 / 兵庫へ
同 05:00出港:明凌丸 60人
29 15:00入港:朝陽丸 9人 / 兵庫より
30 01:00出港:朝陽丸 71人
同 05:00出港:明凌丸 62人
同 17:00出港:朝陽丸 15人 / 兵庫へ
31 05:00入港:朝陽丸 8人 / 兵庫より
<11月>
01 07:00出港:一丸 23人
同 08:00出港:朝陽丸 55人
02 06:00入港:明凌丸 38人
03 08:00入港:一丸 40人
04 03:00出港:一丸 50人
同 08:00入港:朝陽丸 23人 / 兵庫より
同 16:00入港:明光丸 38人
同 21:00出港:朝陽丸 40人
05 10:00入港:一丸 58人
06 07:00出港:一丸 54人
同 07:00入港:朝陽丸 48人
同 22:00出港:朝陽丸 50人 / 兵庫へ
07 07:00入港:中津川丸 38人
同 07:00入港:第二徳山丸 20人
同 08:00入港:一丸 20人
同 22:00出港:第二徳山丸 55人
同 23:00出港:中津川丸 54人
同 23:30出港:朝陽丸 荷物のみ
同 夕刻入港(津田港):大龍丸
08 朝 入港(古川港):大龍丸 荷物のみ
同 23:00出港:一丸 85人
09 24:00出港:阿津丸 31人
10 01:00出港:朝陽丸 36人
同 13:00入港:一丸 45人
同 18:00入港:山陽丸 40人
11 01:00出港:一丸 68人
同 14:00出港:山陽丸 16人
12 12:00入港:一丸 53人or 48人?
13 03:00出港:一丸 138人
同 08:00入港:興讃丸 32人
同 09:00入港:阿津丸 41人
14 02:00出港:興讃丸 45人
同 02:30出港:阿津丸 48人
同 07:00入港:一丸 45人
同 07:00入港:第一徳山丸 21人
15 05:00出港:一丸 45人
同 05:00出港:第一徳山丸 40人
同 10:00入港:阿津丸 24人
同 14:00入港:太陽丸 35人
16 04:00出港:太陽丸 28人
同 06:00出港:阿津丸 32人
同 14:00入港:一丸 40人
同 17:00入港:第二徳山丸 未詳
17 05:30出港:阿津丸 21人
同 06:00出港:一丸 33人
同 06:00出港:第二徳山丸 40人
同 06:00入港:太陽丸 35人
18 06:00出港:太陽丸 51人
同 07:00出港:阿津丸 25人
同 14:00入港:一丸 38人
19 06:00出港:一丸 42人
同 07:00入港:太陽丸 34人
同 07:00入港:阿津丸 40人
同 21:00出港:太陽丸 36人
20 06:00入港:山陽丸 45人
同 07:00入港:一丸 32人
同 21:00出港:一丸 26人
同 21:00出港:山陽丸 25人
21 06:00入港:阿津丸 45人
同 07:30入港:太陽丸 22人
同 21:00出港:太陽丸 58人
同 21:00出港:阿津丸 45人
22 06:00入港:尋源丸 25人
同 09:30入港:一丸 38人
23 06:00入港:阿津丸 45人
同 09:00入港:太陽丸 40人
同 23:00出港:太陽丸 71人
同 23:20出港:阿津丸 55人
24 10:00入港:一丸 35人
同 23:00出港:一丸 80人
25 11:00入港:朝陽丸 22人
同 14:00入港:第二徳山丸 30人
26 01:00出港:朝陽丸 73人
同 02:00出港:第二徳山丸 18人
同 06:00入港:阿津丸 35人
同 10:00入港:興讃丸 25人
同 12:30出港:興讃丸 56人
27 08:00入港:朝陽丸 100人
28 02:00出港:朝陽丸 779人
同 08:00入港:阿津丸 57人
同 09:00入港:一丸 20人
29 02:00出港:阿津丸 35人
同 04:00出港:一丸 76人
同 07:00入港:朝陽丸 48人
30 05:00出港:朝陽丸 30人
同 05:00入港:一丸 50人
同 06:00出港:阿津丸 143人
同 午後入港:第一徳山丸 予定

大阪商船創業当時、第十三本線(大阪兵庫徳島)に投入された汽船は、1884(M17).0616時点において
「已卯丸」末廣丸」「新朝陽丸」、同年10.01は「已卯丸」「新朝陽丸」となっている。
創業期の大阪商船には2隻の「朝陽丸」が在籍した。
「朝陽丸(19 / HBPL)」は61頓・25馬力・長80.85尺のスクーナー形「皇昌丸」を前身とし『M14船名録』『M15船
名録』は佐野平太郎所有。大阪商船社社史によると岡田啓介から継承し、M18上半期に解体処分された。
一方、M20.10-11当時、第十三本線(大阪兵庫徳島)に使用された「朝陽丸(604 / HDPS)」は『M15船名録』
は太陽会社(徳島)の所有。社史では南方一郎から継承している。大阪商船の記録はこちらに「新」を冠す
るが、船名録は「朝陽丸」のままであり、「新」は両船区別のための、便宜上のものであった考えられる。
入港記録を拾いつつ、思わず吹いてしまったのは、阿波国共同汽船の扱船「第二徳山丸」の初就航に際
し、大阪商船は当時の新鋭船「中津川丸」を当て馬にしたと知った時。両船は1887(M20).11.07朝7時、徳島
港へ同時入港している。二ヶ月間の記録を見る限り、「中津川丸」の徳島来港はこの一回きり。

案内状に記された11.07の「進水式」は、実際は「開業レセプション」であり、開催日は11.08となった。
先ず11.07は、扱船「第貮徳山丸」の徳島初入港の日であった。また、所有船「阿津丸」の処女航海出港は
11.09日(24時)=10日(0時)であった。
また、10.11付紙面は新造汽船の船体検査を報じているが、製造地を「築地」と記している。徳島側で建造
された汽船は、第2船「徳丸」であり、『船名録』は製造地を「阿波国福島郷町」春木藤次郎としている。築
地とは、現在の南福島町の辺り。案内状にある富田川とは、場所が異なる。

11.05付紙面には、「共同滊船會社の初航海」として、次の記事がある。

阿波國共同滊船の新艦即わち大阪にて購入せられたる阿津丸はいよいよ來る八日より阿攝間の航
海を始め其他同社にて取扱わるる滊船第一徳山、第二徳山及び山陽の三船は來る七日より同斷航
海を始むるよしなり




共榮社「第二徳山丸」は、後に帝国商船から吉田義方(相陽汽船)を経て、東京湾汽船の所有船となった。
小田原海岸で記録された同船の画像を再掲する。工部省兵庫造船局の建造船。
第二徳山丸 890 / HFSR 128G/T、木、1885(M18).05、(攝津国兵庫)、98尺[M22阪]
「1尺」曲尺=0.3030303m

前述の11.05付紙面のとおり、第1船「阿津丸」は「大阪にて購入」された船だった。『阿波藍沿革史』に興味
深い記述がある。

由来縣外藍玉蒅(スクモ)の移出は、往事より和船によつて之を行つたが、汽船の運航發達するに伴ひ
之に託送することとなつた。‥(略)‥徳島汽船會社並に大阪商船會社と契約を結び、之が爲め藍品
を和船に託送するもの年と共に減少し、加ふるに徳島汽船會社が解散するや、勢ひ大阪商船会社の
獨占となり、阿攝間の運賃は漸く昂騰に向つた。‥(略)‥同社は契約の滿期と共に、藍玉一俵を十
五銭に、蒅(スクモ)一俵を十四銭に値上げし、頑強に之を秉つて動かなかつた。茲に於て運賃の過當
を唱ふる藍商漸く多く、同十九年九月に於ける會所の定式總会に於て議題と爲り、遂に之が賃金の
輕減を圖り、以て斯業不況の挽回策たらしめんが爲め、茲に藍商共同の汽船會社創立を可決し、次
いで十圓株四千七百株、資金四萬七千圓を募集することゝなり、藍商總代をして各方面に勸説せしめ、
可及的多數の共同經営と爲さんため、一名の持株を二十株以内とし、範圍を努めて廣汎にせんと企
て、幾もなく豫定の株數に達することを得た。
超えて明治二十年八月、金一萬三千餘圓を投じて、大阪鐡工所建造中の汽船を購入し、翌九月十四
日徳島共同汽船會社設立の認可を得、本社を西船場町二丁目百九十二番地に置き、川眞田市太郎
を推して社長と爲し、其の他役員も悉く藍商中より就任した。次いで十月新汽船を富田埠頭に廻航し
て試運轉を行つたが、成績頗る良好であつたため、十一月九日愈々阿攝間の航海運輸を開始し、以
て大阪商船が爲さんとする運賃獨占の横暴より免がることを得た。


何と、会社設立の前に、「建造中の汽船を購入」していたと判った。運航の主体としての会社設立は、後追
いなのであった。
当時の雰囲気を感じ取れることから、引用を続けたい。11.08付紙面より「阿津丸の開航式」の予告記事を
見てみよう。

兼て記せし如く阿波國共同汽船滊船會社の新艦阿津丸ハ此程大阪にて進水式を了へ今朝を以て富
田川筋まで入港すべき筈なるが本日ハ午後三時より其の開航式を執行され知事兩書記官を始め農
商課長其他銀行諸會社員及び市街の豪商同社株主等を招待して祝宴を開かれる由又た同船ハ木製
にして長さ十八間幅十七尺五寸滊罐ハ筩形、機械の種類ハ「コンホソドインジン」綱具装置はスクー
子ルにして速力ハ十一「マイル」なりといふ


続いて11.10付紙面から「滊船會社の開業式」を見たい。

前号の紙上にも記載したる如く一昨八日は阿波國共同滊船會社の開業式を行はれ同社の新滊船阿
津丸は富田川筋に乗入れ來りて衆人の縱覧に供したれバ老幼男女群をなして頗ぶる賑わしかりし又
た來客を二日に分ち七日八日の當日長酡樓三又樓藍商取締會社の樓上都合三ヶ所にて数百人を招
待せりと云ふ


阿波国共同汽船の第1船「阿津丸」と第2船「徳丸」は、『M24船名録』に次のとおり記載される。
阿津丸 1113 / HGRP 143G/T、木、1887(M20).10、(攝津国六軒家新田)、111尺[M24版]
徳丸 1061 / HGND 142G/T、木、1887(M20).12、(阿波国福島郷町)、107尺[M24阪]
「1尺」曲尺=0.3030303m。

造船地名から、「阿津丸」は大阪鉄工所、「徳丸」は春木造船所の建造である。12.01付紙面には、「滊罐据
付」として興味深い記事がある。

築地に於て造船中の共同滊船會社の滊船船体は既に出來したるにつき本日阿津丸が引て神戸へ至
り同所に於て滊罐の据付けに着手する由なるが凡そ三週間を以て落成の見込なりと可いふ


我が国では進水時から船齢を起算するが、どうもこれは独自の慣習のようで、海外では竣工年月日を採用
すると、伺ったことがある。輸入船の手続きの際、船齢には注意を要するとか。
ところで、『M24船名録』に記された「阿津丸」と「徳丸」の製造年月は、「進水年月」なのだろうか。「徳丸」船
体を12.01に曳航するなら、前日までに進水を終えていたと考える方が妥当である。同船の製造年月は「竣
工年月」であるような気がしてならない。製造年月の定義について、条文で確認していないが、心に留めて
おきたい。

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