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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

姫路港頭にて

2013-06-20 | 旅行
先頃登場した「Island Breeze」に会うため、梅雨入り直前の週末、関西入りした。彼女は「淡路交流の翼港」
と直島の間に、チャーター船として就航いる。決定された9回の就航の内、日曜日に当たるのは一日のみ。
天候や仕事の都合もあり、難易度の高い撮影となる。
駿河湾沼津SA、御在所SAと、2回の給油停車を経て名阪国道に入り、自宅から大阪湾岸へ正味6:15の走行
となった。急ぐ必要の無い旅、湾岸数カ所を巡航の後、第二神明、加古川・姫路バイパスをまったり走り、姫路
港着。タイミング良く「しろやま」の入港する姿を捉えた。同社は昨年12.01にダイヤ改正を実施、平日・土日祝日
ダイヤの別を無くしている。



反航する「しろやま」(左)、「おりおん」。
しろやま(高速いえしま) 141076 / JD3007、113G/T、アルミ、2009(H21).09、形原造船
おりおん(坊勢渡船) 19G/T、軽合金、2001(H13).09、アルシップ



まうら(高速いえしま) 19G/T、軽合金、1997(H9).07、興和クラフト



ぼうぜ2(坊勢汽船) 19G/T、軽合金、1998(H10).05、興和クラフト

姫路港(飾磨港)史のさわりしか知らないものの、港頭に立ち、行き来する旅客船を眺めながら、航路の興亡
に思い廻らす一時は、何より楽しい。2005(H17).05末、118年にわたる歴史に終止符を打った家島汽船は、記
憶に新しい。1955(S30)関西汽船に航路権と船舶を譲渡して解散した、昭和汽船という船社もあった。
運航は1953(S28).08.14~1955(S30).06.28と、二年に満たない。尼崎汽船部経営の飾磨航路をなぞったよう
な、姫路~家島(真浦)~土庄~高松を開設し、港の頭文字をとった「姫高丸」を投入した。この船は『残存帝
国艦艇』にて知った。



姫高丸 62143 / JLXP、308G/T、鋼、川崎重工(神戸)、1942(S17).10
『戦時船名録』によると1942(S17).10.26、川崎重工業の建造した「公称第1535號」(300G/T型飛行機救難船)
を最前身とする。戦後は貨物船に改造され、紀伊由良港運「榮光丸」214G/Tとなった。『残存帝国艦艇』は冷
蔵庫を備えていたと記している。1953(S28)昭和汽船に売却され、旅客船「姫高丸」に再改造された。その起工
は1953(S28).05.10。
昭和汽船設立の経緯は『山陽電鉄100年史』に詳しい。山陽電鉄社長や神姫合同自動車社長など、姫路商工
会議所の有志8人を発起人として設立された。車船連絡のクーポン券の発売や、新規旅客の開拓に努め、旅客
収入は予想に近いものであったが、貨物収入は見込みの一割にも満たなかったとある。





姫路と高松を直結する本航路に因んで名付けられた本船は、昭和28年8月より「皆様の足」として
東瀬戸内海に活躍することになりました。せいぜい御利用を賜ります様御待ち致して居ります。
姫高丸は総屯数300屯、船内施設は欧州航路と同様の豪華な観光船でテレビジョン、映画等を御
鑑賞願いながら汽車よりも安く、御気軽に御利用して頂く様、サービスに萬全を拂って居ります。


同社のパンフレットには苦笑させられた。「欧州航路と同様」は、一体、何を指すのだろう。
NHKによるテレビ放送開始は1953(S28).02.01。テレビ設置により名を馳せた交通機関は京阪電鉄テレビカー。当
時のアンテナで、揺れる船上のテレビは奇麗に映ったのか。
何より不思議なのは自動車航送に関する記述だ。「自動車航送の完全設備が御座います。(自動車はその
まま甲板に乗入れ)」とある。残された画像にランプウェイは見えず、『100年史』掲載の船尾側から捉えた画像に
も、車両甲板らしき場所は見えない。どんなシステムだったのか。仮に自走による積載なら、斜路は陸上側に設
けてあったのか。不思議でならない。
社史を見て、東二見の車庫を訪れたことを思い出した。当時、構内には物置に転用されたモハ63形をルーツとす
る700形の廃車体がゴロゴロしていた。



ブハァブハァという音のする方を見ると、水面に波紋の広がりを見る。釣り人に聞いたらスナメリだった。一、二頭で
はない。一瞬のため、次はどこに現れるか予測はつかない。レンズを向けようもなく、なかなか撮れなかった。

逆光も厳しくなってきたため、日生港へ移動する。ペーロン祭の屋台の並ぶ相生の街を抜け、250号線を西へ。
高取峠を越えると、行く手に懐かしい風景が広がる。初めて赤穂線坂越駅に降り立った時、海は見えず、途
方に暮れたことを思い出す。坂越港は数年前に立ち寄っているが、思わず左折。きれいに整備された護岸に
座り、久三商店跡をしばし眺める。

これまで、早朝に日生に着く旅を重ねていたため、朝は逆光になる、海に向かって右手の撮影地に立つこと
は無かった。本土と鹿久居島を結ぶ「日生大橋」架橋工事は予想以上に進み、来年完成すると聞いた。数隻
の航行を捉えると、日没時刻となった。



みしま3号(大生汽船) 127934、42G/T、軽合金、1985(S60).06、旭造船(日生)

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新潟港から寺泊港へ

2013-06-09 | 旅行
本年02.03、佐渡汽船は創立100周年を迎えた。同社は「おおさど丸」に代わる新造船名を一般公
募し、04.24「ときわ丸」とプレス発表した。HPによると、去る4月に日本海内航汽船を「吸収合併」し、
貨物事業部を創設している。その期日は04.02。同社は佐渡汽船運輸を親会社とし、1958(S33).11
設立の嘉志和汽船を最前身とする。12名の旅客定員を持つ「第一越佐丸」(→「第二日海丸」)から
受けた強烈な印象は忘れられない。

長年にわたって越佐汽船の独占を許してきた越佐海上に、佐渡郡民の決意と意志が結晶した
佐渡商船株式会社が発足することとなった。


『60年のあゆみ』はこのように記している。競争排除により、経営基盤を固めた大阪商船や東京湾汽
船の創業と異なっている。
佐渡商船は1913(T2).02.03設立され、用船により04.01から営業を開始した。社史によると佐渡汽船
商会「國東丸」を用船とあるが、これは本間金五郎「第一國東丸」13299 / LMQP。続いて大阪から
用船した「大成丸(150トン)」は、トン数から木村寛一「大成丸」11666 / LHRPと見られ、香港建造「東
雲號」を前身とする。越佐海域に不向きな「大成丸」に代えて用船した「永田丸(149トン)」は梅田潔
「第二十二永田丸」1093 / HGQJと思われる。こちらは「共立丸」を前身とする。



第一佐渡丸 17078 / MNJT、190G/T、鋼、小野鐵工造船所、1914(T3).07



第二佐渡丸(初代) 17086 / MNKH、224G/T、鋼、小野鐵工造船所、1914(T3).08

佐渡商船は1914(T3)新造船2隻を発注し、「第一佐渡丸」09.18、「第二佐渡丸」11.01に越佐海峡に
登場した。この2隻は、同時発注にもかかわらず、船型は異なっていた。
創業時より抱えていた競合問題は、後に設立された越佐商船(前佐渡汽船の後身)を交え、昭和恐
慌下に深刻化した。社史には「新潟汽船(越佐汽船の後身)と当社の間には宿命的ともいえる競争
意識が当社の創立の時点から交錯しており」「共同計算方式をめぐって‥昭和6年に至って新潟汽
船の都合から物別れとなり、競争はますます激しく展開されるようになった」とある。
1924(T13).07新潟汽船は「大國丸」を摂陽商船から購入し、新潟~両津航路に投入した。1930(S5)
までは「第十五度津丸」も所有している。「大國丸」に代え、1931(S6).03.25北九州商船「睦丸」を用
船した。「物別れ」となったのはこの時から。
「大國丸」は中村萬之助所有「第十六萬盛丸」として、中村自らの経営する中村商部造船部(難波島
町)において建造され、後に摂陽商船へ売却されている。



洲本港における「大國丸」。摂陽商船当時と思われる。左に写り込むのは初代「山水丸」。



キャプションに両津桟橋とある。左「大國丸」、右「第十五度津丸」。「大國丸」は新潟汽船のファンネルマーク
を纏っている。新潟汽船(越佐汽船)伝統の船名「度津丸」の内、船影の特定された船は、この船し
か知らない。
大國丸 26165 / RSJG、273G/T、木、1919(T8).09、中村商部造船部(大阪)
第十五度津丸 9979 / LGHJ、98G/T、鋼、1909(M42).08、新潟鐵工所
「大國丸」は新潟港口燈台に差しかかる姿も残している。





今年の梅雨入りは5/14沖縄、5/15奄美、5/27九州四国九州、5/28近畿東海、5/29関東甲信と、
例年より10日程度早かった。その週末、未だ新潟は梅雨入りせず、東進してきた低気圧の影響
も小さい予報となったことから、思い立って上越国境を越えた。



ぎんが



つばさ



すいせい



「日海丸」のバウマークとファンネルマークは塗り替えられていなかった。
日海丸 120125 / JF2163、497G/T、鋼、1996(H8).09、神田造船所(川尻)

新潟の街に宿を取り、新日本海フェリー入港の前、起きがけに山の下埠頭に程近い新潟鐵工所大山
工場跡へ向かった。甘い香りのニセアカシアの花が風に舞っていた。ここで多くの70形電車が解体されて
いった。
最後の廃車回送は1978(S53).11.15。石打から上沼垂まで自力回送され、上沼垂からへDE
10牽引により運転された。この日、新津駅で声をかけて下さった乗務員氏のお心遣いにより、新津
から上沼垂構内まで、クハ76049の助士席に便乗するという、生涯忘れえぬ体験をした。最後の姿を
記録しようと、必死に歩いて探した撮影地は、葉を落としたニセアカシアの印象的な大山だった。住宅地
に変化したを眺め、目を瞑ると、もの悲しい光景が浮かんでくる。



DE10の牽引により、臨港貨物線を大山に到着したクハ76002ほか。右手に広がるは、先に引
き込んだ車両を解体していた。



あいびす 140126 / JD2077、263G/T、アルミ、2005(H17).02、墨田川造船
右手に佐渡島を望みつつ、朝の402号線を寺泊港へ向かう。「あいびす」撮影後、出雲崎町を経由し
長岡市へ向かった。今もお付き合いさせていただいている元国鉄マンB氏を訪問した。昭和50年代に
長岡運転所を訪れたファンは、誰もが氏のお世話になっていると思う。仕事中に突然訪れるファンをお
相手して下さった。B氏と話をしていると、年月の経過を忘れる。数えてみたら、当時10代だった僕も
当時のB氏の年齢を超えている。
数年前のこと、毎夜のベッドを日本海沿いの無人駅のベンチに求めていたとお話ししたところ、B氏は
大変驚かれ、「どうして宿のことを言ってくれなかったのか」と、顔を顰められた。それは丁度、拉致
事件の頻発していた頃にあたり、「人さらいが出る」という噂話が、長岡の街でも囁かれていたとい
う。長岡運転所の70形電車終焉の頃、悲しくも恐ろしい、あるまじき事件は発生していた。

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黄色い太陽

2013-05-16 | 旅行
今年のGWは天候に恵まれ、絶好の撮影・ツーリング日和となった。前半3日、後半4日に分かれたことか
ら長期休暇の取りにくい連休と報道されていた。この時期、周期的に崩れる天候は、中日にあたった。
当初は、前半に瀬戸内海、バイクを広島に留置して帰宅し、後半は九州と計画していたところ、04.27は
「えとぴりか」東京初来航となり、撮影行は後半に組替えた。

『関西汽船社史』『船半世紀』には、「高松地区小型客船」と称される一連の小型客船の記載がある。
現在においても、AISを見ると、備讃海域は青い旅客船マークの濃い海域となっている。GWには、そんな
海域に登場した「サザンクロス1号」の後身、「バルカソラーレ」に会おうと決めていた。
ジャンボフェリーの直島ラインは03.23に運航を開始した。船体塗装をヤノベケンジさんデザインの「黒地
に黄色い太陽」に変更、「バルカソラーレ」として04.12に公開された。運航は土日及び祝日のため、登
板は翌04.13(土)からとなった。

今年は2回目の瀬戸内国際芸術祭開催年を迎えた。
初回開催年の2010.09.18、サーフェースプロペラ船の立てる波飛沫を、高松港防波堤から女木島に望んだ。
双眼鏡を取り出したものの、船影は防波堤に隠れてしまい、はっきりしない。あの船影は、一体、何な
のか。この海域にサーフェース船はいたろうか。夕刻には女木港から遠ざかる姿も遠望した。
その晩は落ち着かず、悶々と過ごした。翌日の同時刻、再び女木島沖に現れた船影を確認し、定期的
に女木港へ来航していると確信した。となると、出港時刻も同一と考えられる。防波堤を走って戻り「め
おん」に駆け込んだ。女木港にいたのは「サザンクロス1号」であった。





石垣の海以来の、思わぬ再会となった「サザンクロス1号」は、弥栄マリン(神戸)の所有となり、国際
芸術祭に際し、土庄東港と女木港を結んでいた。片道乗船も受付すると伺い、夕暮れの備讃の海を楽
しんだ。
この船はスバル観光の発注により、1992(H4).12興和クラフト(大矢野町)で誕生した。主要目は長さ
20.00×巾4.29×深さ1.61(m)、19G/T、D700×2、32.00k/n、旅客定員62。八重山の島々の間にはサ
ンゴ礁が広がり、航路の平均水深は70㎝と云われる。「サザンクロス1号」は、水深をクリアするためシャフト
やブラケットを水面上に配置し、プロペラは下半分のみ水中に没するというサーフェースシステム旅客船の嚆矢と
見られる。1993(H5).03.25有限会社スバル観光は離島総合海運株式会社に改組し、1994(H6).06.15
八重山観光フェリー株式会社と合併した。
サーフェースプロペラの波飛沫を巻き上げ、エメラルドグリーンに輝くサンゴ礁の海をカッ飛ばす、小柄な「サザンク
ロス1号」「サザンクロス3号」姉妹は、興和クラフト独特の操舵室と相俟って、特に可愛らしかった。
当時、操舵室扉の脇には、逓送マークも付いていた。





これは『船舶電話帳』に掲載された同社の広告。職人気質の社長氏は、船体に使用する材料を吟味し
ながら建造したと、興和クラフト建造船を所有するオーナー氏より伺ったこともある。
天草を訪れた帰路、二回ほど、大矢野町の工場跡地を訪れた。初回の時は全く判らず、二回目の時は
地元の方にお尋ねした。行き過ぎた道路を戻り、夕闇のなか、大体この位置か‥という所に佇み、ここ
から旅立った数々の船影に思いを廻らせた。





2011.11「サザンクロス1号」は東京湾にやって来た。その間、横浜港をベースに湾奥部で活躍し、京浜運
河における素晴らしい走りをキャッチした。こちらでサーフェース船の波飛沫を見たのは初めて。この頃の塗装は
軽快感があってなかなか良かった。1枚目の背景は東京電力川崎火力発電所、2枚目は川崎信号所。

19:50東京ICに入り、足柄、刈谷、三木と停車した。数カ所で渋滞に遭遇したものの、山陽ICで下りて岡
山港に着いたのは05:20、682㎞の走行となった。始発の「おりいぶ丸」に乗船して土庄へ渡った。目星
を付けてきたポイントをロケハンしつつ436号線を走行。撮影にあたり、考慮したいけど判らないのは「どこから
減速するか」ということ。サーフェースプロペラ船は、やはり、波飛沫を巻き上げている姿を捉えたい。土庄東港、
池田港、坂手港を移動し、それぞれ構えてみた。心なしか、以前より巻き上げる波飛沫は小さく見える。
塗装変更により、船の特徴は捉えにくくなったものの、彼女の一つの時代を記録した喜びは大きかった。








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荻浜にて

2012-11-07 | 旅行
「荻浜にこんな風景はないでしょうか。」
先掲の「高砂丸」と思しき写真を、山田迪生氏のお目にかけた折、氏はこう質問された。正直なところ、船
名特定にばかり思いは集中していた。左手に見える島の姿は満珠に似ているな‥と考えはしたものの、
撮影地特定は困難と、最初から諦めていた。





写真には、船以外の人工物は見えない。詳細に確認すると、本船タラップは下り、和船が接舷し、舷門荷
役をしているように見える。荒天時の避泊ではないようだ。船影を「高砂丸」とした場合、このような風景の
入江において、錨泊したした可能性のある所は何処なのか。
日本郵船による神戸~函館航路の、東北地方唯一の寄港地は「荻浜」だった。彼の地を訪れた際、ここ
に物資集散の賑わいがあったとは、とても見えない‥と考えながら撮影したことを思い出した。



帰宅して、2009(H21).06.27に撮影した写真を確認したところ、古写真と同じ風景が写っていた。船影を
捉えた古写真は、110年以上も前、荻浜で撮られたに相違ない。山田氏の洞察の鋭さに驚かされた。
船名(漢字やアルファベット)の輪郭や文字数、『郵船50年史』の絵画に一致する特徴、寄港地としての荻浜
から、船影は「高砂丸」と特定して良かろう。
地図を見たところ、左手の島は「柱島」とあった。私が撮影した足場は、少し西にずれている。同一撮影
地点に立つと、細長い柱島はどう見えるのか。
「荻浜」は、河口港「石巻」の外港として使用された。しかし、ここにも陸上設備はあったのではなかろうか。
推測に過ぎないものの、撮影場所の周辺に、船着場や事務所・倉庫等はあったように思えてならない。こ
れは出掛けるしかない。
現地でのフットワークを考えると、やはりバイクになる。晩秋の東北道を夜行するのは無謀過ぎ、昼行日帰りとし
た。しかし、決行当日は冷え込み、革で固めても早朝の走行は厳しかった。約5時間で石巻入りし、渡波か
ら「金華山道路」を荻浜へ向かった。
東日本大震災以降、荻浜へは来ていなかった。2009(H21)に撮影した場所は、漁港の中心部あたりだった
ように思うが、何も無くなっている。何度か行きつ戻りつし、古写真の撮られた場所に降り立った。柱島の
姿から特定したその場所は、山の迫り出した小さな岬の先端にあたり、手前に空地が広がっていた。細長
い柱島は、ここから見ると断面?を見ることになり、往時と変わらぬ姿になった。



「高砂丸」は、予想以上、湾奥に錨泊していたと判った。撮影場所手前の埋立地(空地)は、震災前は漁
業関連施設のようだ。空中写真からは、斜路跡のようにも見える。いずれ、地形図から海岸線の変遷を探っ
てみたい。
『近代日本海運生成史料』P100に記載の「荻ノ浜埋立の件」はここなのか。同書によると、1884(M17)に
「高砂丸」は上海航路2航海、神戸~函館航路19航海、就航している。
撮影当時の様子をありのまま伝え、視覚に訴える写真史料は、何物にも代え難い。これまでにも、数点の
史料を博物館等にお贈りし、喜んでいただいている。この「高砂丸」の写真史料も、個人死蔵するのでは
なく、我が国海運史を概観する際に、活用される史料となれば嬉しい。震災など無かったかのように、午
後の陽を受けて輝く穏やかな荻浜の入江を前にして、そんなことを考えた。

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北前船主邸めぐり

2012-10-07 | 旅行
ここのところ内務省曳船が頭から離れない。鮮明な「運輸丸」の画像を眺める度、謎は深まるばかり。
東京の、何処の図書館にも所蔵されない九頭竜川工事記録誌があり、その確認を兼ね、まずは現地に身
を置いてみようと、碓氷を越え、反時計回りで福井に向かった。



東尋坊を訪れたのは5年ぶりとなる。当日就航した遊覧船4隻の一回転する間、断崖上から眺めた。
「第五雄島」(右)と「第六雄島」。三国港に戻り、お雇い外国人によって設計・施工され、1880(M13)に
竣工した三国港突堤に立つ。近代的工法による初の河口改修工事とされ、地元の豪商6名が発起人とな
った。明治10年代に全盛期を迎えた北前船の寄港を支えた突堤で、現在も導流堤兼防波堤としての機能
を果たしている。
山上に見える「みくに龍翔館」を訪れた。エントランスのベザイ船「三国丸」の模型(1/5縮尺)や、三国の
町並みの模型も展示されていた。ここは寄港地のみならず、船主の所在地であった。北前船主を意識した
のは初めてだった。木津川を歩いた際、船囲場跡を訪れていたことも影響した。数カ所あると聞いていた
資料館を訪れてみようと、持参した地図を開いた。この付近においては、北の橋立と南の河野に記載を見
つけた。
目的の永平寺町「九頭竜川資料館」を訪れてから、予定していなかった橋立へと向った。かつて、ここは
「日本一の富豪村」と称され、数軒の船主邸が残っていたことに驚かされた。全く関心無かった世界を知
り、この夏以降二回、北陸入りした。訪れた船主邸を並べてみたい。


角海孫左衛門邸(輪島市門前町)


銭屋五兵衛邸 [移築](金沢市普正寺町)


酒谷長平邸(加賀市橋立町)


酒谷長蔵邸(加賀市橋立町)


大家七平邸 [非公開](加賀市大聖寺瀬越町)


右近権左衛門邸(南越前町河野)

大家家と右近家は徐々に汽船に切換え、社外船主の一翼を担った。「北前船主の館・右近家」には、汽船
の模型や写真も展示されていた。なかでも山荘展示館の「福井丸展」は圧巻だった。「福井丸」には2檣と
3檣の別があり、閉塞船は3檣の1462 / HKDV、2檣は乗替えた8952 / JRPTと見られる。





展示されていた汽船写真の台紙に、見覚えがあった。
手許にあるこの「やはた丸」は、右近権左衛門「八幡丸」ではないかと考えていた。別アングルの船影は、
同館刊の図録「北前船主の館 右近家」に掲載されている。河野村刊の別資料に「旅順攻撃に赴く第三軍の
兵士の輸送にあたった」とある。同船は、日露戦役中に輸入された外国船124隻中の1隻。
7664 / JRCW、4312G/T、1886(英)、ARARA。後に山下汽船に売却され、裁決録によると1915(T4).05.26
エジプトにて大阪商船「馬来丸」と衝突して失われた。

北陸めぐりの帰路、善光寺をお参りしてから、下道を塩田平に向かった。
13代前の先祖の一人は武田信虎、晴信の二代に仕え、相模から甲斐に移り、その頃、小笠原長時の娘を
娶ったとされる。(‥となると、「娘」は小笠原諸島を発見したとされる貞頼の叔母か?! ) 小笠原氏と縁戚
になったことを好まぬ武田晴信から、越後の上杉・村上両将の首級をあげるよう命じられ、果たさず帰国し
たことから放浪。信濃は丸子の地に蟄居し、後に、塩田平周辺に居を構えた。
塩田平は稲の刈り取りの真っ最中であった。塩田平を囲む山々の姿も、秋の実りも変わらなかろう‥と考え
つつ、舞田駅の下り方に立って上田電鉄を撮影。もと東京急行の7200系がやって来た。何の予備知識も無く
レンズを向けたが、残るは2編成らしい。



記録によると、先祖は代を追って真田、青山、松平と仕え、9代前から上田藩医となり、上田市内の寺に墓
所はある。10代の頃、松本運転所の70形電車を追いかけ、幾度となく訪れた上田の街。ルーツの地のひとつ
とは、当時、知るよしもなかった。

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馬関海峡海底電線沈布

2012-05-09 | 旅行
「電信丸」に関連し、馬関(関門)海峡で海底電線布設に使用された、大阪商船の小型客船のことを
記しておきたい。



風景は下関側から門司側を望んだもので、撮影ポイントは現在の「火の山下潮流信号所」のあたり。左
手の山影は門司側の古城山。ここは『海底線百年の歩み』(以下『歩み』)に掲載の、「わが国最初
の海底電線布設位置」に記される「前田陸揚場」前の水域となる。
写真には、次のとおり墨書が添えられている。

馬関海峡海底電線沈布之図
明治廿九年一月三日写之




煙突マークは大阪商船。残念ながら船首部に船名は見当たらない。「明治丸」や前掲の「高砂丸」と同様、
船窓には跳ね上げの蓋が付いている。ポールドが一般化したのは何時なのだろう。画像の残る「吉井川丸」
にも似が、船尾の形状から、さらに溯った船と思われる。



後方(右手)に見える日本型船は「合の子船(アイノコブネ)」である。この船上にケーブルを載せ、海中に繰り
出したのか。
第一回と二回目は、「団平船2艘を舫い、これに板を渡し、その上に海底線を積み込み、作業員もケーブル
と一緒にこの船に乗り込んだ。」とある。当時、ケーブルの繰り出しは、人力でその速度を調整していた。
ケーブルは1海里あたり約20トンを越え、堅牢かつ堅く、人力で扱うには無理があった。そのため、工事の度
にけが人が続出した。このような布設方法はM10頃まで続き、次第にコイル作業は棒で取り扱うようになり、
その後、梃子を使用するようになった。このように団平船を小蒸気船で曳く方法を「和船式布設」と呼
んだという。日本型船を使用した写真のような布設方法も、和船式と云うのだろうか。
残念ながら、『歩み』からは、1896(M29)に施工された工事記録を見いだすことは出来なかった。



写真に見える旗を拡大してみた。この旗は画像中央の和船の掲げているもので、デザインは「電光」に見
える。『歩み』に掲載の旗とは地色と電光が逆塗りとなるも「電信線路目標」旗である。「海底線布設中
は線路用標旗と船舶旗が掲げられ、この旗標の付近では艦船の碇泊はもちろん、障害を起こす恐れの
ある行為のないように管下海岸の村々に通達された」と云う。
大阪商船の小型汽船の船名は何だろう。手掛かりは残っていないものか。いずれ、船名を特定したいと
夢見てる。





2010夏の10日間(8/06~8/15)、関西汽船の小倉/松山航路に昼便(増便)が運航された。航行を撮るこ
との難しい「フェリーはやとも2」「フェリーくるしま」を狙いに、数日間、関門海峡に遊んだ。
小倉発13:30→松山着20:20
松山発07:50→小倉着14:50
プレス発表されたダイヤを見た時、関門海峡付近で効率良く撮れるうえ、両船を絡められるかもしれない‥と
考えた。案の定、両船は手に汗握るシーンを展開してくれた。2010は暑い暑い夏だった。

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合同汽船設立の頃

2012-04-04 | 旅行
雲伯地方へ商船として初来港した蒸気船は、久留米藩「千歳丸」(買積船)であった。日本郵船「青龍丸」
の前身である。沿岸航路船の境港寄港は、1876(M09)郵便汽船三菱会社の大阪~日本海沿岸諸港~
函館航路から始り(境支社設置は1878.02.18)、1884(M17)大阪商船による第12本線(大阪~境航路)
開設、1905(M38).04阪鶴鉄道による舞鶴~境航路開設と続き、山陰本線の延伸に伴い衰退した。
内海航路最初の蒸気船は、M8宍道湖に登場した外輪船「波濤丸」という。明治末から大正の絵葉書全盛
期、この地方の港を記録した画像に、菱形の煙突マークを付けた合同汽船の小型客船が、数多く記録された。
合同汽船はその名のとおり、船主の「合同」により1907(M40).05.06設立された船社。ご多分に漏れず、
ここにも競合船社による激しい貨客の争奪戦があった。先頃、数隻の船名が読み取れたことから、合同汽
船設立の頃を楽しむことができた。



「第貳加茂川丸」と確認できたのはこの画像で、記録されたのは美保関。米子汽船が前川留吉(大阪)に
発注し、1906(M39)年に建造された。加茂川(旧加茂川)は米子市内中心部を流れ、中海にそそぐ河川。
9904 / JVGR、58G/T、1906(M39)、前川留吉(大阪)



この船影は、前掲画像と甲板室の配置や舷門の位置、ポールドの間隔が一致する。「第貳加茂川丸」と見ら
れる。



「米」の文字をデザインした煙突マークを纏う、米子汽船当時の画像もある。船首部装飾の中心に社章が付く。
船名は6文字であり、文字の輪郭から「第壹加茂川丸」と推測している。『松江安来の100年』には米子
汽船が二隻並ぶ鮮明な画像が掲載され、その右手は「第貳加茂川丸」、左手はこの「第壹」と異り、「錦江
丸」の何れかと思われる。
M41版船名録に掲載される米子汽船の所有船(6隻)は次のとおり。1903(M36)から毎年一隻を建造している。

5559 / JFMG 第壹米子丸 M24.04 57G/T 前川留吉(大阪)
6181 / JKHC 第貳米子丸 M26.09 75G/T 前川留吉(大阪)
8712 / JRDK 第壹錦江丸 M36.08 57G/T 前川留吉(大阪)
8983 / JNDW 第貳錦江丸 M37.04 58G/T 前川留吉(大阪)
9573 / JTLP 第壹加茂川丸 M38.04 60G/T 前川留吉(大阪)
9904 / JVGR 第貳加茂川丸 M39.02 58G/T 前川留吉(大阪)





中央で船尾を見せているのは「第壹米子丸」、何故か満船飾となっている。米子汽船の煙突マークは付けてい
ない。右手の汽船は工部省に似た「エ」の社旗、左手は「品」の字を塗りつぶしたように見える。キャプションに
「鉄道連絡船」とあり、連絡を示すため「工部省旗」そのものか? 松江汽船の「エ」と見たのだが。
合同汽船の社章が見えないことから、合併前の明治30年代末期、貨客争奪華やかなりし頃の光景と思われる。

米子汽船合資会社は坂口平兵衛により1891(M24).02設立され、米子~松江及び宍道湖に就航した。当時、既
に中島伊八による汽船航路があり、就航当初から競合することになった。坂口家は江戸時代より綿仲買と醤油
製造を営み、平兵衛の代に米子汽船をはじめ多くの企業を創業し、米子経済界を主導した人物である。



右手に見えるのが「第貳加茂川丸」で、合同汽船の煙突マークとなっている。左側の汽船は合併に参加しなかっ
た社と思われ、前掲左側で「品」の社旗を掲げた船と同一船である。

各社入り乱れていた頃、貨客の争奪は激しく、運賃のダンピングや景品に手拭いを配布したり、宣伝にチンドン屋
も繰り出した。客引きの余り、時には鉄拳の飛ぶこともあったと記録される。各社の疲弊著しいものがあった。
1907(M40).05.06、航路事業者を統合して合同汽船株式会社が創立した。仲介したのは米子の並河理二郎。初代
社長に就任した。
M41版船名録(M40.12.31現在)は合併後の編纂であるが、所有者欄は旧船主名となっている。船主は次のとおり。
中島虎之助(6隻) <中島汽船部>
米子汽船(6隻)
松江汽船(8隻)
星野合名会社(1隻)
益尾吉太郎他(1隻) <米子深浦港汽船組合>

大正となってから中海汽船が参入し、競合が再燃するも、合同汽船には敵わなかったようだ。中海汽船には、
もと陸軍省「豊城丸」6517 / JPHVが来ている。興味深い船と云えば、合同汽船には中島虎之助を経て、もと
尼崎伊三郎「幸崇敬丸」1322 / HJPNが在籍した。それとは知らず、見ているのかも知れない。



就航エリアに多くの観光地を擁する合同汽船には、多数の航路案内図が残されている。案内図を見ると、松江を
起点とする航路は、夫々「美保関線」(急行便/各港便あり)、安来・米子方面は「東航路」、恵曇・小境方
面は「西航路」と呼称されたようだ。中海干拓で大根島は陸続きとなり、合同汽船は1980(S55).09.30終航を
迎えた。今、大橋川から宍道湖にかけて、次の旅客船が活躍している。



「はくちょう」白鳥観光 1987(S62)、16G/T、上原造船所(西ノ島)



「はくちょうⅡ」白鳥観光 1995(H7)、19G/T、上原造船所(西ノ島)



「矢田の渡し」矢田渡船観光 1998(H10)、4.9G/T

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「春一番」の頃

2012-03-12 | 旅行
仕事柄、気象に関心を持たざるを得ない。毎朝、気圧配置や海上模様の変化をチェックしてから家を出る
のが日課になっている。季節の節目(入梅や木枯し一号等)や開花日も、記録するよう心掛けている。
中国地方(3/06)と北陸地方(3/11)に春一番が吹いた。「春一番」の定義は、冬から春へと季節が変わる
この時期、日本海を東進する低気圧に吹き込む、強い南風を言う。



1859(安政6)壱岐郷ノ浦から五島沖に出漁した漁師53人全員が遭難したことから、壱岐の漁師は春先に
吹く強い南風の突風を「春一」「春一番」と呼んだ。後にその言葉が気象用語として一般化したと云う。
「大衆丸」が就航した郷ノ浦には遭難した漁師の「供養塔」と1987(S62)建立の「春一番の塔」がある。
「春一番」の報を耳にする度、郷ノ浦を思い出す。画像は「供養塔」。



郷ノ浦には「フェリーみしま」と壱岐海運の貨物船を見に出掛けた。「フェリーみしま」は郷ノ浦と沖合の
三島(原島、長島、大島)を結ぶ壱岐市営船。136859 / JM6725、102G/T、2003.02、井筒造船所。



第二十一壱岐丸(手前) 127848 / JM5454、122G/T、1985.06、旭洋造船。
第二十八壱岐丸(奥) 132750 / JM6169、160G/T、1992.06、渡辺造船所。
この時は2隻のフリートを捉えることができた。「第二十一壱岐丸」は2008.08.20パプアニューギニアへ海外売船
さた。九州周辺離島の貨物船はスマートなRORO船が目立つが、在来型貨物船も活躍している。

1950年代、背後の崖上から俯瞰した「大衆丸」が記録されている。





大衆丸は「旧軍所属船より編入」により、1948(S23).07.27信号符字JPCAが点付された。その時点の
所有者は大蔵省。残念ながら、貨客船への改装をどこで行ったかは、調べがつかなかった。俯瞰画像
からは、機器配置の詳細やダミーファンネルの頂部を見ることが出来る。船首楼の後部中央がウェル甲板部分に
飛び出しているのが目を引く。斜路の天井部分の名残か? 船尾は簡易工法のトランサムになっている。
上の桟橋時代はスカジャップナンバー(T257)付で、ブームはアングルを組んだ代用品である。東海汽船「黒潮丸」
もこの代用品を装備していた。下は岩壁完成後で、ブームは更新されている。



これは博多港における姿で、まだブームは代用品が付くが、スカジャップナンバーは消されている。郷ノ浦に於
ける二枚の画像の、丁度、中間と思われる。船首部の喫水線付近の構造が良く判る。
「大衆丸」は1963(S38)に「韓水丸」と改名、韓国航路に転用された。1970(S45).09.14信号符字は抹消
されている。





これは「大衆丸」の一等喫煙室と通路で、操舵室の下部にあたる。通路の両側に一等客室が並び、
前方が喫煙室となっていた。ここは増設部なのでどうということないのだが、既設部分とどのような
取合いになっていたのか。一般配置図を見てみたい。
「新さくら丸」の最上等級キャビンは、窓の外がデッキだった覚えがあるが、建増し(?)された船は、とか
く妙な配置になるものだ。

内山鐵男氏が著した『舊陸軍特殊船舶記録(S23.02.08)』という、ES船開発の経過が記された手書き
青焼きの冊子がある。福井静夫氏による、著者の経歴に関するメモも添えられていた。この冊子には、
浜根汽船「よりひめ丸」に施された試験改造の見取図も掲載されているが、観音開き式バウドアは無く、
バウドアとランプが兼用される方式である。この試験改造を踏まえ、ES船には観音開き式バウドアが装備
されたのであろう。「よりひめ丸」は戦後まで残存したが、バウドアはどうなったのだろうか。

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忘れてならぬ船

2012-03-03 | 旅行
絵葉書の余白に「忘れてならぬ長門丸」とあった。誰が、どんな思いで記したのか。日本郵船「長門丸」
は旅順港閉塞船21隻中の一隻である。



「長門丸」948 / HGBQ、1884G/T、1884.11、NAPIER SHANKS & BELL (グラスゴー)
旅順港閉塞は、明治三十七八年戦役の際、老朽船を用いて三回に亘る港口閉塞が行われたものの、結果
は失敗であった‥程度の認識しかなかった。海軍に用船されていた「長門丸」は第三回閉塞隊に編制され、
1904(M37).05.03の閉塞行動に使用された。使用された船舶の多くは、海外で建造され、後に輸入された
中古船であるが、「長門丸」は共同運輸が海外発注し、日本郵船に継承された船。第三回閉塞行動1904
(M37).05.03は、天候不良のため行動中止となるも、徹底されなかった。行動を中止して残存したのは12
隻中4隻であった。「長門丸」は1910(M43).03.22に売却、解体されている。



記録によると、自沈したが後に浮揚に成功し、商船として蘇った船もある。板谷合名会社「彌彦丸」が
それ。沈船地図に照らし合わせると、右側が「彌彦丸」、左側は「福井丸」で、共に第二回閉塞行動1904
(M37).03.27に加わった。板谷合名会社は、北海道沿岸航路を経営した板谷宮吉により1899(M32)に設立
され、「彌彦丸」は「米山丸」と共に1902(M35)に購入された。同社は1912(M45).02に板谷商船株式会社
に改組している。



『旅順案内』という冊子中に、旅順港内で捉えられた「彌彦丸」の画像がある。船名に関する特段のキャ
プションは添えられていないが、本文中に興味深い記載がある。

鬼神も恐るゝ勇士を乗せて共々渤海の波に沈んだ彼の名誉ある閉塞船の引揚作業は意外の
好結果で彌彦丸の如きは昨年の秋船體の浮上を見ることが出来今では港内中央に繋留され
て幾多勇者の魂を乗せて記念の花を飾つて居る(口畫参照)其他十數艘の沈没船も此春期
を待つて夫々作業を終るの豫定である






「彌彦丸」 7658 / JRCN、2692G/T、1888、建造所不詳(英国)、ex GLENELG
これは『件名録(T12版)』掲載画像で、当時は神戸汽船信託が所有していた。旅順まで溯ると、1905(M38).
12浮揚は成功し、1906(M39).11修理完成。所有者は、薩摩徳三郎、彌彦商会、神戸汽船信託と変化した。
当初、この画像に付く「二」は理解不能であった。画像が取り違えられているのかとも考えた。
板谷合名は1904(M37)に「彌彦丸」7658 / JRCN (ex GLENELG)を失うと、早くも同年中に7089 / JMSP
(ex VEGA)を「彌彦丸」とし、乗り換えていたのである。新潟出身の板谷氏にとって、「弥彦」は外せない
船名だったと思われる。
7658「彌彦丸」の修理が成って以降、7089「彌彦丸」が北海道恵山岬に乗り揚げて失われる1920(T9).
05.02までの間、2隻の「彌彦丸」が登簿されていたのである。徴用時に同一船名がある場合、船舶番号
が老番の7658「彌彦丸」に、区別のため、便宜的に「二」を付けたのではないかと想像している。大正
13年版『船名録』掲載を最後に抹消される。謎が解ければ何でもないが、ややこしい話である。

閉塞船21隻を調べていた際、横須賀市HPに「彌彦丸」の記載のあることに気付いた。久里浜の若宮神社に
「彌彦丸」に積まれていた石材があるという。早春の一日、久しぶりに横須賀線で久里浜へ出かけてみた。



若宮神社は、平作川沖積地に浮かぶ島のような、小高い丘に鎮座していた。途中の平作川に架かる夫婦
橋周辺には乗合いの釣船が係留され、漁協の看板も見える。この辺り、古くからの漁師町のようだ。社は
東の海の方を向いている。先ずは参拝してから境内を散策する。道路を背にし、社に相対するように建て
られていた社殿改築記念碑(昭和10年8月)の台石は褐色がかった花崗岩で、次の文言が彫られている。

この台石は
浦賀工場の
寄贈にして日
露戦役の際
旅順口閉塞船
弥彦丸に使用
せしものなり


『旅順閉塞隊秘話』には次のとおり記されている。
第一回 「閉塞船は粉炭を満載していた」
第二回 「バラストは第一回の時は粉炭であつたのが、今回は御影石になつてゐた」
第三回 「瀬戸内の某所に於て石材を満載し、その空隙にはセメントを流し込む等の作業を行ひ」
徐々に用意周到になっていく様子が判る。船には爆薬も仕掛けてあり、粉炭や石材の搭載は、早く沈め
るための準備なのであった。第二回閉塞隊に編制された「福井丸」の老船長、伊藤氏の話は面白い。

今回の御命令は前進根拠地用の石材を搭載するのだとあって、三月五日から十日までの間に
大阪築港で大急ぎでやつたのでありますが、自分等は何の為めにするのか最初の程は少しも
存じませんで…
福井丸での閉塞の一件は此の儘私にやらして戴くわけに参りませぬかと、切に嘆願致しまし
たが…
是でも御一新の時には伏見鳥羽の戦で随分やつたものでありますが、今度は是非此の世の名
残り彼の世の思出に、露西亜を十分やつ付けてみたいものだと思ひまして云々…


1897(M30)に始まる大阪港築港工事には、犬島の花崗岩が使用された。第二回閉塞船に大阪で石材が
積込まれたのであれば、まず、犬島産花崗岩(犬島石)と考えて間違い無かろう。花崗岩は産地によって
鉱物の比率や結晶の大きさに違いがある。
「彌彦丸」の1906(M39)修理完成時の所有者は薩摩徳三郎で、船籍は「浦賀」であった。「彌彦丸」は
浦賀船渠で修理工事が行われたのではなかろうか。その時、船内に残っていた石材が陸揚げされ、後に
若宮神社に奉納されたのである。となると、台石になった花崗岩は、犬島で切り出された大阪港築港用
石材と言うことになる。「彌彦丸」に思いを馳せながら、推測に推測を紡いでみた。「おまえは犬島から
来たのかよ?」 パンパンと掌を台石に当ててみた。



若宮神社の社は立派なコンクリート造で、電気も点灯していたことから、宮司さんがいらっしゃるのかと考え
たが、氏子の方々が輪番でお守りしている。面白い話を伺った。この右手の狛犬には「一物」があり、
「雄」という。狛犬ファンもいると聞いてるが、成る程、狛犬の背後に作り手の姿が見えて面白い。

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1940.10.21の事故

2012-02-26 | 旅行
裁決録を紐解いていた時、「汽船御代島丸、機附帆船八幡丸衝突、竝職務上義務違背ノ件」に気付
いた。高等海員審判所の裁決は手書の写だった。手許にある画像は、この事故記録かもしれないと、
急いで帰宅して写真を確認した。
十葉ある写真には「御代島丸」と機帆船「八幡丸」が捉えられていて、「御代島丸」右舷側に損傷が
確認される。「第十五東豫丸」の写り込む写真もあり、尾道港と思われた。裏面には「尾道市久保町
本通喜久屋写真場」のゴム印もある。しかし、撮影日時、記録内容等は記されてなく、鮮明な画像だ
けに惜しまれた。







記録によると、事故が発生したのは1940(S15).10.21、21:54、因島東方海上。三庄を出港し、東方
より尾道水道入ろうと北航する住友鉱業「御代島丸」と、布刈瀬戸へ向けて西航する松井シゲ子
「八幡丸」が衝突したのだ。事故の検証は趣旨でないので省くが、「御代島丸」は右舷側を損傷し、
「八幡丸」は沈没した。画像は浮揚後に撮影されたもの。当時の「御代島丸」の運航時刻は次のと
おりで、事故記録と合致する。
尾道7:20→三庄8:15→下弓削8:25→四阪島9:15→新居浜10:10
新居浜11:30→四阪島12:25→尾道14:20
尾道15:50→四阪島17:45→新居浜18:40
新居浜19:20→四阪島20:15→下弓削21:05→三庄21:15→尾道22:10
「第壹四阪丸」は四阪島~今治/新居浜航路に投入されている。



住友吉左衛門「御代島丸」のガラス原板が数点残っている。撮影年代は不明、ボートは左右各一隻
見える。同時に記録された他の船影から、撮影は大正中期と見ている。
7435 / JNMH、284G/T、1902(M35).03、大阪鉄工所。
佐渡汽船「こがね丸」のようにボートデッキを一層高くし舷側に張り出しているため、とても300G/T型
とは思えない船容になり、殊に後方からの、この姿が美しい。





共に今治港における画像である。二枚目の左舷ボートは二隻となっている。1934(S9)には「新居浜丸」
と共に阪神~新居浜航路に投入され、1939(S14)には尾道~新居浜となっている。総トン数は1929に
284→290G/T、1939に290→297G/Tと変化する。事故画像が1940(S15)であることを考えると、事故
当時の船容となったのは、1939に行われた改造と見て良かろう。
『戦時船名録』によると「八幡丸」は戦後まで生き延び、一方の「御代島丸」は関西汽船に出資され、
1951解撤された。



124161 / JL4923、惣開商運(公団共有)、457.80G/T、1980.01、永宝造船



141134 / JD2989、住鉱物流、459G/T、2009.10、石田造船建設

新居浜~四阪島航路の先代「みのしま」と現「みのしま」。「水」を貨物とする貨客船である。先代
「みのしま」は「みのはな」と、二隻体制の運航であった。新船建造にあたり、速力を増して一隻に
集約した。「みのはな」は、本四架橋の完成前、三原~今治のメインルートに活躍した瀬戸内海汽船(公団
共有)「マリンスター3」の後身だった。
一般旅客定期航路当時から、乗船は住友金属鉱山の関係者に限られていたが、特定旅客定期航路に
変更された。偶々新居浜で乗ったタクシーの運転手の義母が四阪島出身とかで、年に一回行われる訪島
事業(?)の際、年老いた義母に付き添って渡島したという。校舎も残っているとか。四阪島を故郷とす
る人もいるのである。

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