津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

「千歳丸」から「青龍丸」へ

2013-02-03 | 日記
熊本市において発見された古写真に写る汽船は、久留米藩(以下「米藩」)の輸入した「千歳丸」
であった。勝海舟編纂『海軍歴史』(M20)の「船譜」には漏れている一隻。『明治二年殉難十志士
余録』によると、「千歳丸」は米藩輸入艦船の7隻目にあたる。1867、Renfrew(英)、Henderson &
Coulbornで建造された「Coquette」が前身。木鉄交造のスクーナーで暗車船。米藩は同年11.20長崎
において輸入した。建造後、一年も経過していない新船である。



写真の余白には、手書きによる注記が記されていた。

(右)筑後久留米藩有馬中務大輔慶頼手船
(上)於長崎飽ノ浦
(下)千歳丸 船長前野雅門
(左)後三潴県庁ノ船トナル 青龍丸ト改 船長右同

有馬慶頼(よしより)(1828-1881)は久留米藩第11代藩主。殖産興業と富国強兵を骨子とする藩政
改革を推進し洋式海軍を創設した。明治以降、久留米藩知事を経て東京に移り住み、子爵となる。
渋谷区広尾祥雲寺に墓所はある。
長崎飽ノ浦は1861長崎製鉄所(造船所も併設)の置かれた所。「千歳丸」は長崎港において輸入
されている。
奇妙なのは、最後の一行であった。「千歳丸」には三潴県所有の時期があり、前野船長のまま
「青龍丸」に改名されたと読める。この船は、久留米藩から直接、明治政府へ移籍されたのでは
なかったのか。また、「青龍丸」と改名したのは日本国郵便蒸気船会社ではないのか。幕末~維
新の動乱期に、どんな船歴を辿ったのだろう。

この船を調べるにあたり多くの記録に出会った。国会図書館に所蔵されている『梅野多喜蔵先生』
『久留米藩幕末維新資料集』等から改名の時期は明らかになった。また『巷説軍艦千歳丸』とい
う歴史小説も面白く読んだ。
米藩の洋式艦船購入は、洋式海軍整備と供に、藩米の大坂廻漕も目的の一つではないかと『梅野
先生』の著者浅野陽吉氏は記している。各史料からは、地方政府たる「藩」による艦船輸入の経緯
を知ることができ、大変に興味深かった。

先ず「千歳丸」の読み方が疑問となった。『日の丸船隊史話』は本文中に「千歳丸」に触れた個所
があり、索引P7にのみ「センザイ」とルビがふられている。また、地元で刊行された郷土資料や人物誌
も、同様に「せんざいまる」としている。
久留米藩域を流れる大河「筑後川」は、古には流域に住む人々から「筑間川」や「千年(ちとせ)川」
「千歳(せんざい)川」と呼ばれていたが、幕命により「筑後川」と改名された経緯があるという。何
れにせよ、船名の読みは「せんざいまる」と考えられる。





大阪商船「こがね丸」を描いた絵葉書の表面には、次の文言がある。

天保山は天保二年安治川改修の際、浚渫した土砂を堆積して船舶航行の目標としたにより
この名があります。また明治元年畏くも明治大帝御親閲のもとに我國最初の観艦式が舉行
せられた處で、丘上には記念碑が建ってゐます。


『日の丸船隊史話』にも1868(慶応4).03.26天保山沖で行われた我国最初の観艦式に肥前藩「電流
丸」、長州藩「華陽丸」、肥後藩「萬里丸」、薩州藩「三邦丸」、藝州藩「萬年丸」と共に、米藩「千歳
丸」も参列したと記されている。
同年07.13米藩「千歳丸」は朝廷御用船を命じられ、鹿児島へ回航。北越征討に向かう薩摩兵170
名や弾薬を積み、新潟松ヶ崎に入港した。粟島への避泊を経て秋田の土崎、船川に将兵を輸送し
ている。その後、1869(M2).10迄は軍務官又は藩命により藩地~大坂~東京を航行した。品川沖に
停泊中、軍務官の命により大橋兵部大亟一行を小樽に送っている。1870(M3).01.10御用船を解か
れ、帰藩した。

函館戦争も終結し、国内情勢は安定に向った。久留米商人の間で、乗組員ごと「千歳丸」借受け、
国内沿岸貿易を行う計画が起こり、北航商社は設立された。計画は許可され「千歳丸」は買積船と
して航海することになった。蒸気船ではあるが、運航形態は北前船そのものである。1870(M3).04.19
「千歳丸」は久留米絣を積込んで出港し、長崎に寄港して砂糖や毛布を仕入れ、交易を行いながら
日本海沿岸を函館まで北上。江差にも寄港し、下関まで南下した。再び日本海を北上し、函館、厚岸
と寄港し、最後は太平洋側を南下して12.16若津港へ帰港した。北越征討に際し、兵員を輸送した地
へ、沿岸貿易船として航海したことになる。北航商社のことは『史話』にも記されている。ただ「明治四
年」とあるのは錯誤と思われる。
『境港市史』には「明治三年六月、筑後久留米藩の汽船千歳丸が北海道から鯡鮫粕700本、胴鯡
500束、角田干鰯2000俵を搭載し入港、境港で貨物を売り捌いた。これが、汽船貨物売買の始まり
であった」と記録されている。

1871(M4).07.14廃藩置県で米藩は「久留米県」となり、米藩海軍は廃止された。同年09「翔風丸」
「玄鳥丸」「千歳丸」の3隻を商船に転用し、商人に下渡す願いが久留米県から政府に提出されたが、
10.05になり願いを取消し「千歳丸」のみ稲益彦三に下渡す再願書が提出されている。11.20「青龍
丸」と改名し、正式に商船となった。
同年11.14「久留米県」「柳川県」「三池県」は廃止・統合され、「三潴県」が設置された。確かに、
改名は三潴県になってから行われている。
1873(M6)になり、「青龍丸」は「大蔵省の収むるところとなった」とある。明治政府による接収であ
る。いつの時点で日本国郵便蒸気船会社に下渡しされたかは、判らない。

1872(M5).08廻漕取扱所を日本国郵便蒸気船会社と改称。
1875(M8).06政府による日本国郵便蒸気船会社持船の買上げ。
      09..20日本国郵便蒸気船会社解散。
      09.23旧日本国郵便蒸気船会社所属船18隻を郵便汽船三菱会社に無償で下渡す。
1885(M18).09.29日本郵船会社設立。



「萬國滊舩出港定日附」より両社の社旗。印刷は1873(M6)~1875(M8)の間と思われる。

「青龍丸」は開拓初期の小笠原へ、郵便汽船三菱会社定期船として渡航している。辻友衛編『小笠
原諸島概史』には1878(M11).03.08父島二見港入港、10出港との記録がある。
裁決録によると「青龍丸」は1913(T2).03.03下関港を発ち、佐渡島小木港に仮泊の後、03.16柏崎港
へ向った。04:25頃同港海岸沖約500mの浅瀬に乗揚げ、強風激浪のため全損に帰した。北越征討
に加わり、買積船として航海した日本海に消えたという船歴に、どこか因縁めいたものを覚える。
最後の船主は鹽谷合資会社(伏木)であった。

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