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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

館山湾の「第拾参號通快丸」

2011-10-31 | 東京湾汽船
十年近く前になるが、「第拾参號通快丸」画像を初めて目にした時、遂に通快丸に出会えた‥と
いう感慨と共に、その見慣れぬ外観に、驚きを禁じ得なかった。「東京湾型」とも云うべき、一連の
小型汽船群を知る前のことで、私にとって、東京湾汽船創業時の船隊を探る、端緒となった船影で
もある。



「第拾参號通快丸」は石川島造船所建造ではない。深川鶴歩町で建造された。付近には海軍用材木
置場もあった。鶴歩町は木場の運河沿いで、部材を直ぐに調達できる場所で建造されたのだろう。どう
隅田川へ引き出したのか、首を傾げてしまうような江東区木場2丁目、鶴歩橋東詰辺りである。
1074 / HGPB、65.80G/T、24.43×3.50×1.56(M)、19NHP。 1888(M21).05製造、造船工長櫻井亀二、
建造時の船主は稲木勝。終末期の旅客定員は三等一室75名。この垂線では、湾内に少しでもうねり
が入れば、館山へ向けるのは大変だったろう。JRの通勤電車が20m車であることを考えると、小さ
な船体を実感できる。
櫻井亀二は三崎航路に関わりが深く、東京湾汽船創業時は造船所を経営した。氏は東京湾汽船創立
発起人に名を連ね、後に長く役員を務め、社長にも就任した。船主の稲木勝は1882(M15).09.10に逝去
した稲木嘉助の未亡人で、櫻井亀二は稲木家の後見人でもあった。
目を引くのは、マグロ漁船を思わせる独立した箱形の操舵室。操舵室と甲板室間の頂部に立つフォア
マストも特徴的だ。前後のブームには補助帆が付き、纏められている。楕円形船尾の上部船尾傾斜角
は90度あり、鈍重な印象を受ける。この船尾形状を持つ船には、明治前半に建造されたものが多い。
上野喜一郎氏は『船と型』に次のように記している。

上部船尾及び下部船尾の傾斜は船體の肥瘠とも関係がある。貨物船の如く肥った船では
概してこれらの傾斜角は大きいが、客船の如く瘠せた船は概して小さいのが普通である。
大體に於て上部船尾の傾斜は水平線に對して約45乃至50度、下部船尾は約30度のものが
多く、この位の傾斜が外観上良いやうである。


船尾の全通船楼甲板上には半割カマボコ状の構造物がある。「第貳號三盛丸」の場合片方は便所、もう
一方は船内への乗降口と記録される。変型もあるが、「東京湾型」はこれら特徴を備えている。

有難いことに、自宅に居ながらにして閲覧できるようになった国会図書館蔵『石川島造船所製品図集』
(M36.12)には、同系に見える汽船が2隻、掲載されている。スクーナーの「美國丸」と「蓬莱丸」である。
この2隻の船尾形状は、軽快なスタイルとなっている。時代も下り、石川島製の故か。
「第拾参號通快丸」や前掲の「第貳號三盛丸」は、経年により、原形を崩していると思われる。
しかし、製品図集の船影が建造当初の姿と考えれば、それ程、大がかりな改造が行われたように見
えない。だた、後者はスループとなっている。
船の科学館刊『幕末・明治の洋式船』には、緒明造船所建造の、シアが大きな「第八観音丸」が掲載
されている。「第拾参號通快丸」にも云えるが、石川島造船所建造船に比べ、どことなく垢抜けない。
同様に「東京湾型」である。



これは、館山湾で大正期に記録された絵はがきである。中央に見えるのは鷹ノ島。極洋船舶工業の辺
りだ。右の汽船は、舷門の位置やマストと煙突の間隔等から「第拾参號通快丸」である。オーニングが設けら
れ、補助帆は取り外されている。左の汽船はシアが大きく、緒明造船所建造船だろうか。東京湾汽船
には緒明造船所が建造した「第六観音丸」「第七観音丸」が在籍した。絵葉書の仕様から、1918(T7)
以降の発行である。
手前に見えるのは、海水浴を楽しむ親子連れ。明治末期から大正期にかけて、館山は東京市民の避暑
地、海水浴場として注目され、関東大震災で壊滅するまで賑わいを見せた。1906(M39).07に投入の
「鶴丸」は、観光客増に対処するため純客船となった。当時の東京~館山運賃は、純客船利用「普通
88銭、二等1円50銭」、通快丸など魚荷と一緒の貨客船利用「68銭」であった。
「第拾参號通快丸」は、1920(T9).09.30、館山湾で僚船「豆相丸」、摂津汽船「関東丸」と三重衝突
し、共に沈没した。絵葉書に記録されて間もなくと思われる。
房総や三浦の諸港で捉えられたこのスタイルの小型汽船(「東京湾型」)は、東京霊岸島とを結んだ定期船
と見て良いようだ。

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石川島修船所の造った船

2011-10-16 | 東京湾汽船
「東京湾汽船創業時に出資された汽船は、一体、どのようなスタイルをしていたのか?」 東海汽船史に関心
を持って以来、長年、抱いてきた疑問であった。創業当初の船隊を構成したのは、汽船が登場した明治
前期に、隅田川河口周辺で建造された汽船であった。明治前期における、東京湾内航路への汽船導入や
建造に関しては、福沢諭吉「祝辞」や櫻井八郎右衛門「新汽船」があり、平野富二伝、東海社史3部作、
各市町村史などから明らかになるものの、利根川水系の外輪汽船に比べ、画像や遺産は極めて乏しい。
しかしながら、建造年や造船所など、夫々違いはあるものの、船名が特定された数少ない画像から見えて
きた一連のスタイルは、「東京湾型」とも云うべき、特徴的なものであった。



この絵葉書に写る小型汽船は、初見時より、操舵室周りや船尾の造作から、明治前期に建造された船で
はないかと見ていた。発行は、仕様から1918(T7)以降である。
数年前、驚くべき史料に出会った。執筆者は、三盛丸に相当な思い入れのある地元の地方史研究者で、
この船名を「第貳號三盛丸」と特定していた。俄には信じがたい事であるが、これが事実なら、船名録に
前船名が記されるとおり、何と海軍省石川島修船所が1876(M9).07に建造した「横須賀丸」の後身なのだ。
建造時の船主は熊本県徳永彌内。民間発注による建造船である。幕末~明治初期、「横須賀丸」は2隻
建造された。もう一隻は、横須賀造船所が横須賀~横浜間の通船として建造(1866)した船である。
徳永が発注した「横須賀丸」の船名由来は何だろうか。船名録には、製造地「石川島」、造船工長「横須
賀造船局」とある。また、後述するが、徳永が居留した豊橋近郊にも、「横須賀」という地名があるのだ。

1876(M09).07  横須賀丸建造。
  〃  08.31 海軍主船寮廃止、石川島修船所閉鎖。
  〃  10.30 石川島平野造船所設立。
  〃  11.03 通運丸建造に着手。
1877(M10).02.04 通運丸完成。
1878(M11).01.07 通快丸進水。福沢諭吉が祝辞。

「横須賀丸」は1885(M18).01時点で、豊橋と神社を結ぶ伊勢湾横断航路に投入されている。船主は徳永
彌内。建造当初と変わっていない。現在の豊橋市船町居留となっている。
1885(M18)年中に柴谷休次郎(大阪府下堺)に売却され、大阪湾内の堺~神戸で使用された。
1887(M20)水橋吉兵衛(大阪府下堺)、1889(M22)三上勝江(駿河国江ノ浦)、1890~91頃中北福松
(東京)に売却された。1892(M25).10中北より三浦共立運輸が購入し、「第貳號三盛丸」と改名された。
三浦共立運輸(1891(M24)設立)と東京湾汽船の確執は、同社設立前から伏線があった。地元資本対
東京資本という図式は各地で見られるが、ここでは、語り継がれる事件となって結末を迎えている。
長く続いた競合を脱し、両社は営業協定を締結した。その協定が発効する1917(T6).05.28を控えた27日、
悲劇は起こった。三浦共立運輸、ひいては三崎町民自慢の優秀船「第三號三盛丸」が、ナカ瀬という暗礁
に乗揚げ、沈没したのだ。
地元では「デマが流れ飛んだ」と記録されている。「いつも3号は通運丸の右舷ギリギリを抜いていくの
で、航路いっぱい、幅寄せしてやろう」という通運丸船員の話を、耳にしたというのだ。事の真相はわか
らない。裁決録によると、東京湾汽船側は「第貳拾五號通運丸」。
翌日から、東京湾汽船との営業協定はスタートした。しかし、三浦共立運輸にとって、最優秀船を失った
痛手は大きかった。前掲の船影は、「第三號三盛丸」が失われた後、撮影されたものである。その当時、
三浦共立運輸が所有したのは、「第貳號三盛丸」と「第壹三盛丸」(7136 / LTBV)の2隻。後者は1912
(M45).06建造であるから、まず、その2隻を誤認することは無かろう。

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沖縄航路の「若草丸」

2011-10-10 | 28隻組
「若草丸」(60544 / JQOA)1122.08G/Tは、1947.12.13日立因島で進水した。28組1000G/T型唯
一の三島型。建造時要目で目を引くのは主機で、旧佐世保海軍工廠製を載せている。艦艇用とし
て製作された機関であろう。明細書は1973版から保安庁船も掲載され、主機は「海軍22号10型」
D2100PS×1となっている。



日本内航客船資料編纂会『小型客船28隻組』(以降編纂会『28隻組』)掲載のビルダー提供画像は、
船橋楼のみ白塗装。この大阪商船発行の絵葉書は、同じ版を用いてる。公式試運転時と思われる。



1950年代の在来船が収録される『日本商船明細画報(1955刊)』には、貴重な船影が多い。この
画像にはスカジャップが無い。1952頃の姿だろうか。
「若草丸」の船歴は編纂会『28隻組』に詳しい。当初、青森~室蘭航路に投入され、次いで阪神~
沖縄航路へ転用された。「小型」「荷役が困難」な事を理由に米軍から代替要求があり、3航海で
撤退した。沖縄航路運賃同盟が結成されてからも、米軍への許可申請が必要だったことを考えると、
米軍の指示は絶対だったのだろう。
1950.04.01 800G/T以上の船舶の民営移管。
 〃 .08.28 GHQ、沖縄定期航路開設許可。
1951.04.25 沖縄航路運賃同盟スタート。当初のメンバー及び定期船は次のとおり。
大阪商船  白雲丸※
三井船舶  高雄山丸※
日本海汽船 白山丸
山下汽船  金星丸
中川水産  第一照国丸※     ※28組
各社は夫々定期船一隻宛の配船権を有し、臨時船の配船を希望するときは、
定期船との関連に於いて、他の全メンバーの承認を得た上でなければ、米軍
CTSに許可申請することは出来ない。


運賃同盟の規約はとても厳しい。理由は定かでないが、中川水産は、就航前に航路権放棄申請を
行っている。



1953.11、「若草丸」は鹿児島~沖縄航路に投入された。このタトウはその案内状入れで、案内状
は次の文面となっている。

拝啓
益々ご清祥の段慶賀の至りに存上げます
陳者弊社に於きましては大島復帰による船客の激増に備へ予而より弊社に寄せられました
諸賢の絶大なる御輿望に答ふべく鹿児島~名瀬~那覇間折返へし定期航路開設を企劃致し
ておりましたが愈々来る11月10日鹿児島發建にて若草丸(1,122総屯)を配船し、月4航海
の定期運航を實施することに決定致しました 本船は12ノットの速力を以て205名の船客と
300屯の貨物を輸送致すことゝなりますが、迅速、安全、確實をモツトーとするサービスにより
必ずや諸賢の御期待に副ひ得る事を確信する次第であります
就きましては何卒従来より配船の白雲丸同様引續き御愛顧の程切に御願申上げます 敬具
  昭和28年 月 日     大阪商船株式会社




キャビンプランを見てみると、二等、特三等、三等の3クラス。二等は船橋甲板(端艇甲板)の6名×2室。
特三等は船橋楼内の2室で、定員24名。船内は厳格に区分されていたようで、赤で示したドア一枚
で、二等・特三等客と、167名の三等客が交わらないようになっている。
桃色で示した部分は「医務室」。船橋甲板前部は上等級の食堂。船橋楼内後部中央の水色部分は
厨房となっている。三等客の食事は船室で供したのだろう。船内三カ所に配膳室が設けられている。
思えば、東海汽船「黒潮丸」による小笠原航も、船楼甲板(デッキ上)にゴザを敷き、並べたテー
ブルか、狭い船室で供ししていた。



中に封入された絵葉書は不明である。最後の旅客営業が沖縄航路となったことを考えると、この
姿が最末期と思われる。



当時、琉球航路を経営した船社のパンフレットを見ると、興味深い点が数々ある。これは1955.06
現在の大阪商船パンフレット。食管制度が生きていて「1食1合」の米を持参して乗船することとなっ
ている。炊飯は無料、副食費は運賃込みと記されている。当時、既に奄美群島は復帰していたも
のの、同一船に混乗するからだろうか、次の文言があり、興味をそそられる。

奄美大島・名瀬行きのお客様へ
奄美大島の名瀬迄は当航路で御自由に御渡航が出来ます。この場合、身分証明書及び入国
許可書、予防注射証明書等は勿論不必要ですから、簡単に乗船出来る訳です。但し手続き
等はたとえ簡便であっても、一応外国航路の性質を帯びておりますから手廻り品始め手荷
物については乗船港により税関旅具検査が必要です。従ってその点、普通の内地航路の取
扱いと多少違っております。




那覇の泊港で記録された若草丸の姿が数点残っているが、これはその一枚。現在「フェリー粟国」
が接岸する位置である。右手に見えるのが税関と監視詰所か。
我が国の南極観測参加は、第三回国際地球観測年の一環として決定され、観測船には砕氷構造を
持つ海上保安庁「宗谷」と国鉄「宗谷丸」が候補に挙がり、「宗谷」に絞り込まれた経緯がある。
その燈台補給船の後継船として、「若草丸」に白羽の矢が立った。
「若草丸」はS30年度予算予備費で大阪商船から購入(7,100万円)、1956.01.12引渡を受けた。
改装の後「若草」と改名、4月より燈台補給船業務を開始した。

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「若草」に再会

2011-10-01 | 28隻組
おお、「若草」だ! 観音崎燈台に展示の油絵に気付いた時、久しぶりに彼女に再会したかの
ような、懐かしさがこみ上げてきた。原画はここにあったのか。



28隻組の終末期、その数隻にしか接することができなかった者にとって、船内に足を踏み入れる
ことのできた「若草」は、思い出深い一隻だ。
1973(S48)暮のこと、父島から戻る定期船の出迎えか、船見散歩だったのか、はっきり覚えてない
ものの、竹芝から芝浦の東海汽船船溜りにかけて、岩壁を歩いた。日の出には「若草」「拓洋」
が並んで接岸していた。「若草」を至近で眺めるのは初めてなので、船体の造りを観察していた
ところ、船上の海上保安官は「乗って来いよ」と声を掛けてくれた。
当時、現場の方々は、気軽に子供に接して下さった。国鉄電車区も港湾も、拒まれた覚えがない。
「若草」の船橋楼内は、客船時代と大きな変化は無いようで、薄暗い廊下に面し、並んだニス塗り
の扉が重厚感を醸し出していた。船橋甲板の木甲板は、美しかった。間近に眺めた太い煙突も、コン
パスマークの後ろに、「大」を想像した。船内には数時間、居心地良く、入り浸らせていただいた。
「若草」は解役後、しばらく東京港内に係船されていたものの、知らぬ間に、姿を消してしまった。

1977(S52)秋、東海汽船「椿丸」は解徹のため、赤穂に向かうとの情報が、編纂会報に載った。この
界の先輩菊池氏の投稿だった。「椿丸」は八丈航路や父島航路で幾度となく乗船し、思い出詰まっ
た船である。その最期の姿を一目見たいと、大垣夜行と新快速を乗継ぎ、坂越に向った。姫路で乗
換えた赤穂線電車は、名残の日も近い岡転の80形だった。
アポ無し訪問だったにもかかわらず、久三商店社長家治久英氏は、大変親切に応対してくださった。
遠路、船を追いかけて来たことを労ると共に、名刺を渡された。10代後半の当時、実は、人生初め
て頂いた名刺が、氏からのものだった。今も大切に残してある。
事務所では、色々と、解体船の話を聞かせて下さった。必死の形相だったのかもしれない。そんな私
を諭すかのように、「また、ナベ釜になるんだよ」と語って下さった一言が、とても心に残ってる。
「椿丸」の手前には、船楼も撤去され、上甲板むき出しの解体船があった。船名を伺ったところ、
なんと「若草」だった。図らずも、28隻組同士、で舷を接したのだ。「若草」の甲板を歩き
回ってから、解体未着手の「椿丸」の舷門をよじ登った。帰路、「椿丸」を振返りながら、坂越の街
を歩いている時、金属くずを満載したトラックが、脇を走り抜けて行った。







これは、燈台補給船として再登場する際、配布された絵葉書である。発行から、既に50年以上が経過
した。1956(S31).1月、海上保安庁は大阪商船「若草丸」を、「宗谷」に代わる燈台補給船として購入。
タトウの内側には、次の文言がある。

燈台補給船とは
燈台事業88年の間広く世に親しまれている「燈台補給船」は南冥の孤島、北辺の
岬端にある燈台へ種々の航路標識用物資、器材及び医療品等の補給に従事し、
その間航路標識の性能試験を行ったり職員の服務規律並びに健康管理に従事し、
燈台職員及びその家族にとっては海のサンタクロースと愛称されています。


先日、所用で男木島に渡り、古くからの宿に投宿した。年輩のご主人は、代々おつきあいして来た
燈台長の話や、映画ロケの話をお聞かせ下さった。1957(S32)に封切られた映画『喜びも悲しみも
幾年月』には「若草」が登場する。備讃の海で、また、「若草」を想った。宿の窓からは、備讃瀬戸
航路を行き来する船の灯火を、間近に眺めることができた。宿は1926(S1)の創業という。この窓から、
尼崎汽船部の船ぶねや、別府航路歴代の名船を、眺めることもあったろう‥。そんなことを考えなが
ら眠りについた。
翌朝立った男木島灯台は無人化され、花々が咲き乱れていた。灯台の資料室には、「若草」の写真も
展示されていた。彼女が終焉を迎えた坂越の港は、遠くに見える小豆島の、その向こう側にある。

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