津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

見えないところ

2015-03-19 | 尼崎汽船部
見えないところだからこそ、気になるのだろう。何も変な話を書こうとしているのではない。東京山手の地下10m
前後にある礫層の話。
毎朝、運動を兼ねて数駅間歩く道すがら、宅地化・都市化される前の原地形に思いを廻らせている。井の頭池に
源を発する神田川は、武蔵野台地を東南東へ流れ、下高井戸と西新宿あたりで、流路の向きを大きく変える。
以前から不思議でならなかった。
東京山手の台地は、下末吉面と武蔵野面に区分される。下末吉面が陸化し、下末吉ローム層堆積後、古多摩川に
浸食されて氾濫原となり、武蔵野礫層の堆積した武蔵野面と、削り残された下末吉面の間には浸食崖が形成され、
約5万年程の時間の経過があると言う。そこを武蔵野ローム層が覆った。古多摩川による河岸段丘の名残は、現地
形に見出せるのか。十二社から新都心へ上る坂は、古多摩川と神田川による新旧浸食崖の重なった場所に思え
てならない。
味も素っ気も無い話になるが、東京都によるボーリング調査結果は公開されていて、武蔵野礫層(古多摩川氾濫原)
の広がりを知ることができる。

絵葉書は、地中のボーリング調査にも似た、時代の覗き窓と考えている。画面から外れた部分に、もどかしい思いを
することも屡々だ。幸いにも、次々と新たな画像を目にすることの出来た小型汽船について、記してみたい。
安治川口の住友倉庫は1929(S4)に完成した。「君が代丸」を捉えた有名な絵葉書は、その屋上から撮影されたも
の。そこを足場としている絵葉書は、昭和一桁後半の記録と見ている。

尼崎汽船部の痕跡を見出せるはずはないものの、何か手掛かりを得られるのではないかと夢想しながら、大阪に
出掛けるたび、安治川口を歩いている。かつて、汽船で賑わった川筋の短さや狭さを、実感しない訳にはいかない。
絵葉書に見る往時の汽船の姿を、頭の中で余りに大きく捉え過ぎているようだ。







「君が代丸」を中心に、船尾側に接岸するのは既出の「末廣丸」。船首側に見える尼崎ファンネルマークの小型汽船は、
何丸だろうか。大正期の客船スタイルに見えるが、画面に入らなかった操舵室前面や船首はどんな形状をしている
のか。長い間、疑問を抱いてきた。後に、この絵葉書には同日に撮影された別バージョンのあることを知った。





これは画像二枚を接合し、一葉としたもの。中央市場上屋の屋根を中心に繋いであるため、小型汽船の船首部
は折れ曲がって見える。この画像には、既出の「運輸丸」も写り込んでいる。「運輸丸」には鮮明な画像が残さ
れていて、特定可能。この時、中央市場の岸壁は上流側から「運輸丸」「不明汽船」「君が代丸」「末廣丸」と、
四隻もの尼崎フリートが接岸していたことになる。
一体、中央の不明汽船は何丸なのか。シアラインが滑らかに繋がるよう、画像を再接合してみた。船名を知りたくて
たまらなくなるのは、尼崎汽船部に魅了されてしまった以上、仕方ないこと。ただ、東京都のボーリング調査結果の
ような、決定打はあり得ないと考えていた。





ところが、覗き窓は他にも存在した。同じ小型汽船の記録された画像を目にした時、よくぞ出現してくれたと、
嬉しさがこみ上げた。前掲の画像と異なるのは、岸壁と引込線の間に屋根が設けられたこと。同じく、住友倉
庫屋上から捉えた「弘仁丸」の画像もあり、並べてみると、ほぼ同じ船体寸法に見える。







何気なく新和歌浦の絵葉書を眺めていた時、小型汽船の姿に目は釘付けとなった。攝陽商船のファンネルマークを纏
ったこの船は、中央市場で記録された小型汽船とマストや操舵室の配置が相似であり、船尾上甲板の客室窓数も
一致する。扉の配置も同じ間隔と判った。攝陽商船を経て尼崎汽船部の所有した船といったら、「白濱丸」に絞ら
れる。
同船は「第二清貞丸」の前歴を有し、『件名録9版』を紐解いたところ、写真も掲載されていた。長い間、船名不明
としてきた船影は「白濱丸」と決着した。船を調べていると、芋蔓式に謎の解けることが良くある。
明治大正期の商船に関心を持つ者にとって座右の書である『件名録』の、画像取違えについて触れておきたい。
『9版』は藤岡貞市所有「第二清貞丸」「第三清貞丸」の要目と「第二清貞丸(236噸)」の画像を掲載している。
『10版』になると、要目の掲載は所有者の代わった「第三清貞丸」のみとなるが、画像は「第二清貞丸(236噸)」
を載せている。『11版』も「第三清貞丸」の要目を掲載するが、画像は『9版』『10版』と同じ画像を使用し、船名は
「第三清貞丸(128噸)」にすり替わってしまう。『船舶明細書』に至っては、尼崎汽船部「白濱丸」の要目も掲載し
ているのに、本来の「白濱丸」画像は、「第三清貞丸(128噸)」とされている。



「白濱丸」の最前身は1889(M22)石川島造船所建造の「第四震天」で、『石川島物語』によると建造計画は「東
京湾防御用とありしも」、納入後は「機雷布設、掃海、魚雷発射、通信等に使用さられ後横須賀港務部に於て曳
船作業に従事、大正五年廃船」とある。
1916(T5)相澤岩吉(西宮)「第五相澤丸」として登簿され、栖宮勇吉(西宮)を経て、1918(T7)藤岡イシ(大阪)「第二
清貞丸」となる。所有は大阪西区で藤岡鐵工所を経営する藤岡貞市の関係者(妻?)と見られる。『件名録』によると、
1921(T10).04岡本造船所(大阪)において旅客船に改造され、同年、藤岡貞市名義となった。1923(T12)攝陽商船
の所有となり、翌年「白濱丸」と改名。尼崎汽船部の所有したのは1927(S2)から1934(S9)抹消までの間であった。
白濱丸 19239 / NBWG、236G/T、木、1889(M22).04、石川島造船所(東京)
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