歌集『磯山集』(松本静史)に、「菊水丸遭難をかなしみて」という歌は収められている。
1931(S6).02.09垂水沖を西航する尼崎汽船部「菊水丸」は、フランス郵船「Porthos」に追突
されて沈没、28名の犠牲者を出した。各紙はこの大惨事を大々的に報道している。裁決録を
読んでいると、確かに、尼崎汽船部の関係した事件は多いように見える。しかしながら、社名
と船名を全国に流布させたこの事件は、「貰い事故」だった。
中国航路に就航していた「菊水丸」は大阪安治川口を15:30に発ち、神戸港中突堤に寄港し
18.02に離岸。次港は坂手、仕向港は下関となっている。一方の「Porthos」は、横浜を発ち
同日10:10神戸第三突堤に寄港し、次港の上海へ向け18:02に離岸していた。
事故発生は19:15、平磯燈台より南南東1浬弱の沖合。「菊水丸」右舷側、船橋より少し前方
に、後方より「Porthos」の船首が衝突した。当時、降雪により見通しは悪かった。「菊水丸」の
衝突個所は大破し、5分後には沈没した。西村船長は、沈没直前まで乗客救助に努め、船と
運命を共にしたと報じられている。
沈没の翌々日、紀元節を迎えた東京は白銀の世界になっていた。天気図は確認していないも
のの、本州南方海上を「南岸低気圧」が東進し、それも、八丈島より南側を進んだと思われる。


「菊水丸」の船影は、宇品港の画像に初めて確認した。前掲の、急航汽船の右手側に係留さ
れている尼崎汽船部の貨客船に、アルファベットの船名を読みとった。この船は船首楼を備え
ていた。中国航路用貨客船に船首楼は珍しい。後方の大阪商船は「愛媛丸」。
二点目は下関港における同船。右舷側のポールド配置を確認できる貴重な船影となってる。
大阪へ折返す停泊中を捉えたものと思われる。中国航路は5隻運用。
「菊水丸」 11734 / LFPS、370G/T、鋼、1908(M41).10、尼崎鉄工所(大阪)


尼崎汽船部発行の絵葉書も残っている。上は金の縁取りの付く豪華な印刷。船橋楼は塗り
分けられている。婦人と子供の描かれたアート絵葉書は黒塗りの船橋楼。共に明治末から
大正初期の発行。塗り分けられていたのは、就航当初と見ている。『明治運輸史』の口絵と
なっている船影も船橋楼は黒。

「菊水丸」には、香川県三豊郡荘内村から堺市の網元へ、雇われ漁夫として出稼ぎに来て
いた一行38名も乗船していた。旧正月を自宅で迎えるための、帰郷の途上だった。漁夫達は
「この帰郷を唯一の楽しみに朝夕懸命に働いていた」と報じられている。その中に、一家四人
全員の遭難もあった。連れられていた女児は小学校入学を控え、南海高島屋で鞄や学用品
を購入して乗船したが、波に呑まれる瞬間まで、後生大事にこれを離さなかったという悲話
は哀れを誘う。この画像は、遭難海域における捜索状況。
『水路要報』には神戸税関港務部の報告(S6.03.02)として次の記事がある。
昭和6年2月9日内海平磯燈台附近に於て佛國汽船「ポートス」號と衝突沈没したる
汽船菊水丸の船體今後の處置に關し所有主尼崎汽船部神戸支店に就き調査候處
同社は本船沈没當時より遭難者救助死體の捜索其の他に關し相當混雑致し居り
候爲右に關しては未だ最後の決定を爲す運びには至らざる模様に有之候へ共現
在の方針にては其の儘放棄するものと認められ候に付爲御參考及報告候也
「菊水丸」の謎は、『船名録S10年版』(S9.12.31現在)まで掲載されていること。浮揚されたの
か。一方、『官報№2768』(S11.03.27)の「船舶登録」広告欄に、「菊水丸」11734は沈没を事
由に、S10.12.04付で抹消登録された記載がある。この内容は、12/04に手続きが行われた
ことを表していて、沈没年月日ではない。
垂水沖で沈没した1931(S6)から1934(S10)に至る間、「菊水丸」の実体は、どうなっていた
のか。手持ちの『時刻表』『同復刻版』に「菊水丸」は出てこない。裁決録にも、再度の事故
記録は無い。


『大阪商船出帆表』(S9.04.01)と云う、非常に興味深い記録をご紹介したい。1934(S9).04から
約一年間にわたる、大阪港に入出港した汽船に係る詳細な記録。市販の便箋に記されている。
先輩のお目にかけたところ、「社内の公式記録ではないでしょう」とのこと。安治川口や築港か
ら船を眺め続けた、船好き少年の記録ではないかと、密かに考えている。
9月初旬の中国航路は、「日海丸」「大衆丸」「神惠丸」「浪切丸」「船運丸」「日海丸」「天正丸」
のローテーション、多度津航路には「女王丸」「弘仁丸」「船運丸」が投入されている。
この記録に「菊水丸」は全く出てこない。浮揚復旧されたとしたら、必ず、安治川口に姿を現わ
したと思われる。記録の一年間、「中国航路」「多度津航路」に使用されなかったことは確実で
ある。浮揚されたものの使用されなかったのか。はたまた貨物船として使用されたのか。
「屋島丸」の記録を調べた際、遺族への補償問題から容易に船体の処分は出来ないことを知
った。抹消登録の遅れた裏には、何らかの理由があるように思える。
桜木町事件で有名な「モハ63形」電車は、事件後に改造され「モハ73形」に改番された。とこ
ろが、桜木町より前、三鷹事件に関係した「モハ63019」は、事件の証拠物件として保全命令
が出され、唯一「モハ63形」の車籍を保ち続けた。最後は鋼体となって東ミツに保管された車
体は、1960年代半ばに解体されたと云う。「菊水丸」の不思議を考えるたび、旧形国電を追っ
ていた頃、先輩から聞かされた「モハ63019」の話を思い出す。
確たる証拠は見あたらないが、「菊水丸」は浮揚されなかったと思えてならない。

「Porthos」 OQZD、12,692G/T、鋼、1914、Ch.& Atel. de la Gironde(Bordeaux)
1931(S6).02.09垂水沖を西航する尼崎汽船部「菊水丸」は、フランス郵船「Porthos」に追突
されて沈没、28名の犠牲者を出した。各紙はこの大惨事を大々的に報道している。裁決録を
読んでいると、確かに、尼崎汽船部の関係した事件は多いように見える。しかしながら、社名
と船名を全国に流布させたこの事件は、「貰い事故」だった。
中国航路に就航していた「菊水丸」は大阪安治川口を15:30に発ち、神戸港中突堤に寄港し
18.02に離岸。次港は坂手、仕向港は下関となっている。一方の「Porthos」は、横浜を発ち
同日10:10神戸第三突堤に寄港し、次港の上海へ向け18:02に離岸していた。
事故発生は19:15、平磯燈台より南南東1浬弱の沖合。「菊水丸」右舷側、船橋より少し前方
に、後方より「Porthos」の船首が衝突した。当時、降雪により見通しは悪かった。「菊水丸」の
衝突個所は大破し、5分後には沈没した。西村船長は、沈没直前まで乗客救助に努め、船と
運命を共にしたと報じられている。
沈没の翌々日、紀元節を迎えた東京は白銀の世界になっていた。天気図は確認していないも
のの、本州南方海上を「南岸低気圧」が東進し、それも、八丈島より南側を進んだと思われる。


「菊水丸」の船影は、宇品港の画像に初めて確認した。前掲の、急航汽船の右手側に係留さ
れている尼崎汽船部の貨客船に、アルファベットの船名を読みとった。この船は船首楼を備え
ていた。中国航路用貨客船に船首楼は珍しい。後方の大阪商船は「愛媛丸」。
二点目は下関港における同船。右舷側のポールド配置を確認できる貴重な船影となってる。
大阪へ折返す停泊中を捉えたものと思われる。中国航路は5隻運用。
「菊水丸」 11734 / LFPS、370G/T、鋼、1908(M41).10、尼崎鉄工所(大阪)


尼崎汽船部発行の絵葉書も残っている。上は金の縁取りの付く豪華な印刷。船橋楼は塗り
分けられている。婦人と子供の描かれたアート絵葉書は黒塗りの船橋楼。共に明治末から
大正初期の発行。塗り分けられていたのは、就航当初と見ている。『明治運輸史』の口絵と
なっている船影も船橋楼は黒。

「菊水丸」には、香川県三豊郡荘内村から堺市の網元へ、雇われ漁夫として出稼ぎに来て
いた一行38名も乗船していた。旧正月を自宅で迎えるための、帰郷の途上だった。漁夫達は
「この帰郷を唯一の楽しみに朝夕懸命に働いていた」と報じられている。その中に、一家四人
全員の遭難もあった。連れられていた女児は小学校入学を控え、南海高島屋で鞄や学用品
を購入して乗船したが、波に呑まれる瞬間まで、後生大事にこれを離さなかったという悲話
は哀れを誘う。この画像は、遭難海域における捜索状況。
『水路要報』には神戸税関港務部の報告(S6.03.02)として次の記事がある。
昭和6年2月9日内海平磯燈台附近に於て佛國汽船「ポートス」號と衝突沈没したる
汽船菊水丸の船體今後の處置に關し所有主尼崎汽船部神戸支店に就き調査候處
同社は本船沈没當時より遭難者救助死體の捜索其の他に關し相當混雑致し居り
候爲右に關しては未だ最後の決定を爲す運びには至らざる模様に有之候へ共現
在の方針にては其の儘放棄するものと認められ候に付爲御參考及報告候也
「菊水丸」の謎は、『船名録S10年版』(S9.12.31現在)まで掲載されていること。浮揚されたの
か。一方、『官報№2768』(S11.03.27)の「船舶登録」広告欄に、「菊水丸」11734は沈没を事
由に、S10.12.04付で抹消登録された記載がある。この内容は、12/04に手続きが行われた
ことを表していて、沈没年月日ではない。
垂水沖で沈没した1931(S6)から1934(S10)に至る間、「菊水丸」の実体は、どうなっていた
のか。手持ちの『時刻表』『同復刻版』に「菊水丸」は出てこない。裁決録にも、再度の事故
記録は無い。


『大阪商船出帆表』(S9.04.01)と云う、非常に興味深い記録をご紹介したい。1934(S9).04から
約一年間にわたる、大阪港に入出港した汽船に係る詳細な記録。市販の便箋に記されている。
先輩のお目にかけたところ、「社内の公式記録ではないでしょう」とのこと。安治川口や築港か
ら船を眺め続けた、船好き少年の記録ではないかと、密かに考えている。
9月初旬の中国航路は、「日海丸」「大衆丸」「神惠丸」「浪切丸」「船運丸」「日海丸」「天正丸」
のローテーション、多度津航路には「女王丸」「弘仁丸」「船運丸」が投入されている。
この記録に「菊水丸」は全く出てこない。浮揚復旧されたとしたら、必ず、安治川口に姿を現わ
したと思われる。記録の一年間、「中国航路」「多度津航路」に使用されなかったことは確実で
ある。浮揚されたものの使用されなかったのか。はたまた貨物船として使用されたのか。
「屋島丸」の記録を調べた際、遺族への補償問題から容易に船体の処分は出来ないことを知
った。抹消登録の遅れた裏には、何らかの理由があるように思える。
桜木町事件で有名な「モハ63形」電車は、事件後に改造され「モハ73形」に改番された。とこ
ろが、桜木町より前、三鷹事件に関係した「モハ63019」は、事件の証拠物件として保全命令
が出され、唯一「モハ63形」の車籍を保ち続けた。最後は鋼体となって東ミツに保管された車
体は、1960年代半ばに解体されたと云う。「菊水丸」の不思議を考えるたび、旧形国電を追っ
ていた頃、先輩から聞かされた「モハ63019」の話を思い出す。
確たる証拠は見あたらないが、「菊水丸」は浮揚されなかったと思えてならない。

「Porthos」 OQZD、12,692G/T、鋼、1914、Ch.& Atel. de la Gironde(Bordeaux)