津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

開通式の「舩運丸」

2014-02-22 | 尼崎汽船部
ガラス乾板から画像を取り込んでみたところ、浮かび上がった船影は「舩運丸」だった。さらに、その光景は残
された絵葉書や写真に見ていた多度津港桟橋開通式と判り、撮影日も特定された。



浮桟橋に繋留された3隻の汽船は、満船飾の晴れの姿となっている。これは1910(M43).07.01に挙行された多
度津港桟橋開通式当日の、桟橋の光景である。ただ、少々ピンの甘いこの画像から、船名は読み取れない。
尼崎汽船部「舩運丸」は、船橋楼の腰より上を塗り分けていることが判る。これはデビウ3年目の姿であり、彼
女の確認された最も古い船影となる。左手にはもう一隻、尼崎汽船部の汽船を確認できる。影に隠れているの
は大阪商船「天龍川丸」。

多度津港は金刀比羅宮参詣の玄関口にあたり、汽船導入以降も、讃岐地方を代表する港として賑わった。讃岐
鉄道は1889(M22).05.23丸亀~多度津(後の「浜多度津」)~琴平間を開業し、1897(M30)高松へ延伸した。高松
港の改修工事は1897(M30)より開始され、明治末期には多度津港に匹敵する乗降客数となった。
一方の多度津港は1900(M33)改修工事に係る調査を開始、1906(M39).12.01工事着手となった。1908(M41).11暴
風・波浪による被害の発生や、物価暴騰による工事費の増加もみたが、埋立工事や桟橋設置は1910(M43).06.09
竣工、07.01桟橋開通式と祝賀会は行われた。1912(M45).01.26全ての工事を終え、改修工事は完成した。









多度津の街を子供達のブラスバンドが行進している。遠くに見える門型のアーチには「開通式」の文字がある。左手、
軒先の看板には大阪商船の社章を中心に船客待合所とあり、手前の軒に吊された提灯には東豫丸と読める。
通りは信号旗や造花で飾られ、開通式・祝賀会当日の、多度津の街の浮き立った雰囲気が伝わってくる。
桟橋には笹を立てているのが見える。着桟している汽船の内、写真より船名を読み取れたのは大阪商船「天龍
川丸」のみ。「舩運丸」の特徴を決定付けるのは、船橋楼後部の外板端部を「⊂」状に処理していること。
「舩運丸」船尾側の汽船は、船体も小型に見え煙突も細い。当日の様子を記した新聞記事に船名の記載は無い
ものか。



開通式をを記念した絵葉書も発行された。初見時、オモテからの船影に「舩運丸」と判らなかった。





「舩運丸」左舷船首部のコンパニオンにポールドは無く、右舷にのみ3枚設けている。船橋楼のポールド配列にも特徴は
ある。似たようなスタイルの多い明治~大正期の小型汽船を確認する際、中甲板の「前後の舷門間」及び、上甲板
の「船橋楼」のポールド配列及び相互の位置関係は、(例え一部が塞がれたり、防舷材などで隠れていても)船
影を識別するにあたり、有効と考えている。





「菊水丸(上)」と「日海丸(下)」の、ポールド配列を対比してみたい。
「菊水丸」は船首楼を備えているため、見誤ることはない。「日海丸」の左舷側は、主機換装後の姿しか確認
していない。右舷側の船橋楼のポールドはオモテより「1・1・4」となっている。この画像は4枚目が少々確認しづ
らい。『汽船簿』掲載の主機換装後の画像は、6枚目を確認しにくいものの、何れも存在を確認できる。当初、
中甲板には6枚のポールドがあり、その後(主機換装時?)に3枚を閉鎖したと思われる。「玉津島絵葉書」と
『汽船簿』を対比すると、閉鎖しなかった3枚と、船橋楼の6枚の位置関係は同じ。左舷側は確認しにくいもの
の、同様に見える。
大阪商船の山陽航路船は、船首部左右両舷のコンパニオンにポールドを設けるが、尼崎汽船部は左舷側に設けな
い慣わしなのか。



1935(S10).07.02別府航路「晩便」に充当された大阪商船「みどり丸」は、大阪天保山20:00発、寄港した神戸
を21:40に発ち、次港今治港へ向け濃霧の小豆島地蔵埼南東方海上を航行中、3日01:00頃、大連汽船「千山丸」
と衝突。「みどり丸」は沈没し98名溺死(内、船客92名)、9名行方不明(同8名)の大惨事となった。
東京日日新聞『寫眞特報』には「千山丸」と並んで写る尼崎マークの汽船の姿があり、「舩運丸」に相違ないと見
ていた。記録をあたったところ、運の良い船客の居たことを知った。彼の名を渡邊という。
渡邊は「みどり丸」にめり込んでいる「千山丸」の船首部甲板に飛び移り、「天運丸」に便乗して高松港に帰
還したという。これは「舩運丸」の誤植若しくは誤認と思われる。



『大阪商船出帆表』より1934(S9).05月下旬を見ると、「舩運丸」は安治川口発05.21、05.25、05.30の山陽線
(中国航路)20:10発に充当されている。また、別府線は「みどり丸」「すみれ丸」を晩便専用としているこ
とが判る。他に、断片的に知った便は次のとおり。
1921(T10).08.19、15:30安治川口発の中国航路に充当。これは尼崎船舶合名会社の時代
1925(T14).12.09、14:00多度津港に金比羅参詣客213名を団体輸送して入港。20:40多度津発、翌10日07:50安
治川口着。
1930(S5).02.26下関発15:30の中国航路に充当、02.28神戸港03:55発、安治川口06:00着。
同年.08.16安治川口発15:30の中国航路に充当、08.18下関着07:00の予定。











安治川口や下関にの絵葉書に、「舩運丸」は姿を留めている。四枚目までは安治川口、五枚目は下関港におけ
る船影。「舩運丸」を押さえておくことにより、見えてくる船もあるかも知れない。
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