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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

急航汽船のこと

2012-10-16 | 尼崎汽船部
「此花丸」に関連し、急航汽船について記しておきたい。船名録には、同社所有船として「兒島丸」「玉藻丸」
「此花丸」3隻の船名が見える。

鉄道省「兒島丸」「玉藻丸」は、1923(T12)「山陽丸」「南海丸」の登場により宇高航路から退役した。
『鉄道連絡船100年の航跡』によると、前者は6/15宇野港、後者は6/29高松港に係船された。1924(T13).3月「とも
に瀬戸内海汽船に売却された」とある。(売却先は錯誤)
知れ渡った鉄道連絡船の代替とあって、その売却先については、思惑、憶測が交錯したらしい。1923(T12).12.02付
四国地方版から引用する。

高松宇野間 舊連絡船拂下?
本年七月新造大型連絡船の就航と共に廢鑑となつて岡山縣宇野港内に目下残骸を横たへてゐる宇野
高松間の舊鐵道連絡船玉藻、兒島の兩船は其當時可なり譲受の希望もあつたが鐵道側では思惑の有
つてか相談に應ぜず徒らに憶測の種を作つてゐたに過ぎなかつたが昨今に至り漸くその方針も決定し
たらしく即ち愈拂下と決して目下詳細な價格の調査を行つてゐるが鐵道側の意見では既にお粗末過ぎ
又他に連絡用として用ふべき場所も無いから斷然さう云ふ方針に極めたものだらうと云つてゐる(高松)


尼崎伊三郎は1924(T13)急行汽船株式会社を設立(資本金50万円払込12万5千円)した。1920年代の尼崎家は、
1920(T9).3尼崎造船部を発展解消、法人組織の合名会社尼崎造船所を設立。同年5月尼崎汽船部を尼崎船舶合
名会社に、翌年1月合名会社尼崎汽船部と改組した。船名録に見る所有船数も、1922末30隻から1926末38隻
(急航汽船3隻含)に急増している。



この尼崎汽船部航路図に急航汽船の記載は無い。この図には、1925(T14).8開設の倉橋航路や1928(S3).5新設
の下関支店門司出張所が記され、1933(S8).1開設の飾磨航路は未記載となっている。その間のものと見られる。
急航汽船は、設立当初、鉄道連絡急航汽船という社名だったらしい。「鉄道連絡」は、「海の白鳥東海汽船」や
「船のデパート関西汽船」の類ではないかと考えていたが、どうやら社名の一部のようだ。
1925(T14).3.05「汽船兒島丸汽罐損傷事件」の際は、同船は「尾道宇品両港間ノ定時連絡航海ニ従事シ居タル」
とされ、社名は「鉄道連絡急航汽船株式会社」とある。1928(S3).7.26「汽船兒島丸短艇接触の件」は、「香川県
仲多度郡多度津ヲ発シ各所ヲ経テ広島県佐伯郡厳島ニ至ル航行ノ途」に発生し、社名は「急航汽船株式会社」と
なっている。裁決録が社名を省略・誤記するとは考えにくく、社名変更の裏付けを得たと考えている。
また、「船名録」もT15版(T14.12.31)は「鉄道連絡急航汽船株式会社」で、S2版(S1.12.31)は「急航汽船株式会社」
となっている。社名変更は1926中か。
時刻表によると、宮島・多度津航路は急航汽船と瀬戸内商船の「協定航路」となっている。その航路は、尼崎
汽船部「中国航路」の一部と並行している。何故、別会社を設立したのか、判らない。急航汽船当時の「兒島丸」
「玉藻丸」画像は4点見つかっている。


船名不詳 (多度津港) 「此花丸」と同位置と思われる。


船名不詳 (宇品港)


船名不詳 (宇品港)  両社の煙突マークの対比が面白い。この画像の右手には「菊水丸」の姿がある。


玉藻丸 (三津浜港)  手前は「第十相生丸」。沖合に「第十五相生丸」が停泊する。煙突の地色は黒となっている。

同社は1943(S18)合名会社尼崎汽船部を吸収合併し、尼崎汽船株式会社と改称された。尼崎汽船株式会社の母体と
なったのは、合名会社尼崎汽船部ではなく、急航汽船株式会社であった。

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謎の「運輸丸」

2012-07-10 | 尼崎汽船部
尼崎汽船部の船ぶねは、1931(S6)開設「大阪市中央卸売市場」の岸壁においても記録されている。
それらは対岸に現存する住友倉庫屋上から撮られていて、「君が代丸」の有名な画像や、前掲の
「電信丸」は、そこを足場としている。



見るからに不経済船のこの船影は「運輸丸」。初出の『S3船名録』に32756 / TMBG、197G/T、
1904(M37).11、三國とある。『レジスター』『汽船名簿』は造船所を「内務省(福井三國)」「第四土木
監督署(福井県坂井郡三國町)」としている。

政府直轄工事の施工及び府県土木工事の監督を目的とし、1886(M19)内務省土木監督署は全国
6箇所(後7箇所)に設置され、福井県は第四区土木監督署(大阪)管内にあった。1894(M27)管轄
区域の変更があり、近畿及び四国の一部は第五区土木監督署(大阪)となり、福井県は第四区土
木監督署(名古屋)管内となった。1905(M38)官制改正により名古屋土木出張所となった。
国の河川管理において、1896(M29)河川法の制定は一大エポックとなり、政府直轄の河川工事が推
進されることになる。内務省は「九頭竜川改修工事」を策定し、施工は第四区土木監督署(名古
屋)が担当した。第一期改修工事は1900(M33)着工され、1911(M44)完成。続く第二期改修工事は
1910(M43)着工、1924(T13)完成している。

『九頭竜川改修工事』(内務省土木局)の「主要土工機械一覧表」から船舶を抜粋する。

鋤鏈式浚渫船 三國丸 一艘  購入
鋤鏈式浚渫船 福井丸 一艘  製作 三國丸ト同型
曳船(鋼製汽船)     三艘  購入 長八十五呎、喫水四呎、十立坪ヲ積載セル土運船
                       二艘ヲ曳キ五海里以上走航シ得ル能力ヲ有ス
汽船竹田丸        一艘  製作 工事監督用
十坪積土運船(鋼製)  一二艘  製作

初年度ニ於テ一日(十時間)二百坪掘鋤鏈式ポンツーン型浚渫船一艘ヲ獨逸ヨリ購入シ次
年度ニ於テ曳船(鋼製汽船)三艘ヲ内地ニ求メ其他五噸機關車軽便鐵軌及土運車等ハ大井
及木曾兩川改修ニ使用シタルモノヲ轉用シ尚ホ不足ノ分ハ購入又ハ製作セリ而シテ土工機
械ノ修理組立等ハ僻地ニ屬シ民間ノ工塲ニ依スルノ便ナク且急速ヲ要スル場合多キヲ以
テ自ラ之ヲ經營スルヲ得策トシ三國町ニ於テ機械工塲ヲ設置シ一部機械ノ製作モ併セ施行
セリ


九頭竜川改修工事に使用された曳船は次のとおり。
                製造年月 / 製造地 / 製造者  船籍
九頭龍丸 8380 / JDCP M35.03 / 大阪 / 範多龍太郎 越前国三国
日野丸  8384 / JDCS M35.05 / 大阪 / 範多龍太郎 越前国三国
足羽丸  8389 / JDFC M35.06 / 大阪 / 範多龍太郎 越前国三国

大阪鉄工所建造の3隻は、『S7船名録』に内務省や観音寺町所有として掲載され、「運輸丸」の
種船になったとは考えられない。
汽船「竹田丸」2G/Tは、直営機械工場製に相違ないものの小型に過ぎる。工事監督に使用され、
『M42船名録』より不登簿船の項に記載される。
製造地「三國町」、製造者「内務省」を条件として絞ると、土運船12隻しか該当しない。史料に
要目は記載されていない。土運船(恐らく底開式)は小型貨物船の種船となり得たのか。



この船影は、当初「運輸丸」と考えた。良く見るとかなり異っている。改めて「此花丸」と対比
したところ、コンパニオンや煙突の配置等、似通っている。曳船改造「咲花丸」を未見のため、断定
は出来ないものの、「此花丸」とほぼ同時期に改造された「成功丸」の可能性が高い。
「運輸丸」改造はこの後のため、仮に土運船を種船にしたとすると、「成功丸」の一般配置をベ
ースにしたと考えられなくもない。可能性の高い船を対比してみた。『S2船名録』~『S4船名録』
に双方掲載されるのは、考えに誤りがあるからか。

            製造年   製造地  船名録掲載
第貳石山丸 1899(M32).05  大津  S4版まで掲載
成功丸   1898(M31).04  大津  S2版から掲載
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
第三長柄丸 1898(M31).05  神戸  S4版まで掲載(最晩年は長柄丸)
此花丸   1899(M32).05  大阪  S2版から掲載
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
土運船12艘 1901(M34)?   三国
運輸丸   1904(M37).11  三国  S3版から掲載



画像の船体を約5.4m短縮するとこんな船影になる。「第貳石山丸」の画像を見てみたい。



難波島を歩いたとき、尼崎造船所跡を眺めた。年号が昭和に変った前後、ここから「成功丸」
「此花丸」「運輸丸」は旅立った。種船として、どんな船がここへ引き込まれたのだろう。

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内務省曳船の改造船

2012-07-03 | 尼崎汽船部
謎に包まれていた「此花丸」に出会えた。内務省曳船の改造船と見ていた船である。改めて前身を
探ってみたが、決め手に欠ける。
船舶や車両(特にバス)に関し、屡々聞く話として、官庁船や公営企業の所有した車両はメンテナンスが良く、
経年の割に程度は良いという。大正末期から昭和初期にかけ、内務省土木監督署の曳船を種船とした
改造船3隻が登場した。この3隻に共通するのは巾4.88m。

成功丸(貨)  31183 / TDBK→JMYE、1898(M31).04、内務省土木出張所(大津)
此花丸(客)  31548 / TDBQ→JMZE、1899(M32).05、内務省大阪土木出張所(大阪)
運輸丸(貨)  32756 / TMBG→JNCH、1904(M37).11、第四土木監督署(福井三國)

登場時の船舶番号や信号符字から、ほぼ同時期(同時並行?)の工事で、廃船船殻の再生と思われる。
手掛けたのは尼崎造船部に相違なかろう。

内務省の曳船とは何か。
1896(M29)第9回帝国議会において河川法が成立し、政府直轄事業として「淀川改良工事計画」が策定
された。翌年に事業は着手され、上流は瀬田川の掘削から下流は河口の新川開削に至る大プロジェクトが
推進され、現在の淀川の基盤は整えられた。
瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の河川のため、拡幅と浚渫が行われ大日山も切崩された。ここで使
用されたのは浚渫船3隻、土運船10隻、曳船2隻。淀川改良工事に係る「重要船舶土工機械購入調べ」に
「曳船用小蒸気船6隻(116,390円)川崎造船所製」とあった。
『川崎重工業社史』を紐解いたところ、「長柄丸同型6隻」として、船種:曳船、注文主:内務省大阪土木
出張所とあり、備考欄に「最後の2隻は組立後解体して引渡」とあった。引渡日は1899(M32).03.31。
『船名録』に見る6隻は次のとおり。

                   製造年月 / 製造地 / 製造者  船籍
第壹長柄丸 4566 / JCQK、 M31.04 / 神戸 / 田中泰董 大阪
第貳長柄丸 4567 / JCQL、 M31.05 / 神戸 / 田中泰董 大阪
第三長柄丸 4568 / JCQM、 M31.05 / 神戸 / 田中泰董 大阪
第四長柄丸 4569 / JCQN、 M31.06 / 神戸 / 田中泰董 大阪
第壹石山丸 4450 / JCMR、 M32.04 / 近江国大津 / 第五区土木監督署 石山
第貳石山丸 4451 / JCMS、 M32.05 / 近江国大津 / 第五区土木監督署 石山

「第壹石山丸」「第貳石山丸」は川崎造船所が建造し、第五区土木監督署により大津で再組立された船。
「長柄丸」4隻は、下流部の新川開削で活躍した。いずれも土運船曳航に使用された。
「第壹」は『船名録』M42版には見あたらず、M43版には、同名のまま11708 / LHKNとなり、那覇を船籍
として掲載される。遙か沖縄へ転配され、船体延長されたと思われる。
「第貳」も内務省所有のまま、1914(T3)に近江石山から大阪に船籍を移している。
日露戦争の影響により工期は延長されたが、各淀川改良工区事務所はM43~44に廃止され、続く淀川
下流改修工区事務所もT13.03に廃止された。工事の完成が活躍の場を失わせたと思われる。





この船影を見たとき、何という改造をしているのかと、目を見張った。まるで「新さくら丸」である。
船尾機関型貨物船に客室を載せたようなスタイルだ。記録されたのは多度津港。船名は微妙にぼけていて、
当初、画像から読み取れなかった。
急航汽船のリストを見ていて「此花丸」に気付いた。改めて文字のアウトラインを確認したところ「花」と読める。
前方に着桟している「日海丸」は、主機換装(1935)後の船影となっている。「此花丸」は1934(S9)に急航
汽船から尼崎汽船部に移籍されている。しかし、画像の煙突マークは急航汽船のままとなっている。1935
若しくはその翌年の撮影と思われる。1942(S17)滅失で抹消された。

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「神代丸」を特定

2012-01-16 | 尼崎汽船部
築港大桟橋の北側に停泊する尼崎伊三郎所有の汽船。絵葉書の仕様は大正前期のもの。



この日、何点かの写真が撮られたようで、この汽船と、大阪市電架線柱との重なり具合が、微妙に
異なる絵葉書が、数葉、存在する。尼崎伊三郎在籍表に絵葉書発行年代を当て嵌め、総トン数で絞り
込み、船影未特定船を拾うと「神代丸」が浮かんで来る。マストの形状や操舵室付近の構造などは相当
に古く、輸入船の外観をしていることから、「神代丸に相違なかろう」と云う、確信めいた思いを抱いて
いた。





「CAPACITY PLAN」集から「S.S. JINDAI MARU」を引いたところ、絵葉書で見慣れた船影が現れた。
長い間、温めてきた結論は、間違っていなかった。まさか、お墨付を得られる時が来ようとは、考えて
もいなかった。
上甲板船首部のコンパニオンは、右舷「W.C.」、左舷「LAMP ROOM」「PAINT STORE」となっている。旅客
設備は、上甲板船尾部に二等船室とサロン(緑色)が、第二甲板前部に三等船室(桃色)がある。この
「CAPACITY PLAN」は1910代後半のもので、1940年の旅客定員は三等のみ285名となっている。

「日の丸船隊史話」から引用させていただきたい。

原名はGoverneur Generaal Van Lansverge 千八百七十五年の六月英国グリーンノックの
ケアード造船所(Caird & Co. Greenock)でできた総噸数九百九十五噸の鉄製汽船、日露
戦役当時尼崎氏が購入したもので、船齢六十六年。(1942刊)


「戦時船名録」によると、1945.05.30六連島付近にて触雷により沈没。

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星の浦の「日海丸」

2011-11-28 | 尼崎汽船部
その絵葉書のキャプションには、「備後鞆の津 淀媛大明神と星の浦海水浴場」とある。鞆港周辺で撮影され
たことは確かだが、撮影位置が判らない。星の浦とはどこだろう。山の中腹まで耕作されている。鞆に
こんな風景があったろうか。
画像中心に見えるのは、尼崎汽船部の貨客船。「船舶絵葉書」のようだが、船名は判らない。一時はPCの
壁紙にして、毎日のように眺めていた画像である。

明治末期から大正にかけて、ブームとなった絵葉書を見ていると、面白いことに気付く。例えば橋梁を捉え
た風景絵葉書の場合、その殆どが、列車通過時を狙っている。船も同様で、海峡なら汽船の航行を取り込
んでいるし、港湾なら、汽船の入港時を外していない。



上甲板に並んでいる人達は、半袖の軽装。暑い季節なのだろう。端艇甲板後部で手すりにもたれる着物姿
は、少年のようだ。安治川口まで乗船したのか。この船名を知りたいと、かねてより考えていた。
船橋楼上に、直接、操舵室が位置する尼崎汽船部の貨客船は、大阪商船や宇和島運輸の船に比べるとロゥ
シルエットで、趣が異なる。
明治から大正に建造された300~400G/T級貨客船で、船影が判らないのは「敬神丸」4隻と気付いた時、こ
の船影は、その「4隻」か「日海丸」しか該当しないと、絞り込まれてきた。
『汽船表』の画像は、主機換装後であるものの、対比してみたたところ、ポールドの配置から、「日海丸」
と特定することができた。9673 / JTMQ、298G/T、M38.07、兵庫谷寅吉で建造。

ポールドは、増設・閉鎖により数は増減するものの、フレームを切り飛ばして設けることはない。全体的に、ど
のようなバランス、間隔をもって配置されているかがポイントとなる。ただこれは、船名が特定されている画像
が存在し、初めて対比できるのだが。
この絵葉書は仕切線1/3なので、1918(T7).03.01より前の発行となる。裏面には「大正七、四、弐三トモ」
とメモが残されている。



1920(T9).07の時刻表によると、中国線上り便の鞆寄港は奇数日。尾道発13:30、鞆発14:50となっている。
鞆港には、14:30分過ぎに入港したと思われる。最終港の大阪には、明朝7:00に到着する。



星の浦海水浴場で汽船を捉えた画像は、もう一枚存在する。こちらは大阪商船「天龍川丸」だ。家々の建
ち並び方を見ると、同じ時期の撮影と思われる。絵葉書の仕様も同一だ。
鞆港近くで、中国(山陽)航路船を、俯瞰撮影できるポイントがあったのか。一体、どこに立っているのだろう
か。鞆の浦歴史民俗資料館に問い合わせたところ、電話に出られた方は、詳しい情報をお聞かせ下さった。
鞆港には、江戸時代に築造された防波堤が三本あること。写真は、「玉津島」からの眺めで、「星の浦海
水浴場」は、現在の本瓦造船本社工場と淀媛神社の間の浜辺という。



旅の途中、鞆港にも立ち寄った。
鞆港西側の漁港は、船溜まりの出入口を変更していた。その結果、玉津島は陸続きになり、「日海丸」や
「天龍川丸」が航行した水路は、防波堤で塞がれていた。花崗岩を伝わりながら、玉津島に上ってみた。
まさに、この立ち位置からの構図だった。思わず、複写してきた絵葉書と、風景を重ねてみた。目の前を、
「日海丸」が航行しているようだ。中腹まで開墾されていた農地は、今では樹林に還っている。
ここでもまた、「日海丸」(登録長41.28m)は、大汽船に膨れ上がっていた。現在の船と比較してみると、
佐渡汽船「あいびす」が登録長43.35mとなっている。

防波堤に下り、山並みを眺めていた時、船乗りをしていたこともあると云う親父さんが、話しかけてきた。
「子供の頃の微かな記憶に、『あんしょう丸』という定期船が尾道方面?から上ってきて、星の浦沖合に
停泊した。大阪に通う船で、乗船客は櫓櫂船で漕ぎ寄り、乗船したことを覚えてる」という。1948のお生
まれと伺った。1955頃の思い出と思われる。

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飛島にて難波島を思う

2011-09-13 | 尼崎汽船部
連絡船「とびしま」は、1時間15分程度で勝浦港に接岸した。海上から見て左側、港を抱く
かのような半島が、絵葉書に見える山並みと思うが、かなり小規模だ。地元の方から、
「古い写真ならマリンプラザ(船客待合所)3階に展示してある」と、教えていただいた。似た
方角から撮った写真も展示してあった。半島に見える岩塊は「館岩」と云うらしい。外に出
て、港の背後に鎮座する遠賀美神社を参拝する。日和待ちした船乗りも、訪れたことだろう。



「勝浦会館」という建物の脇だけ、家並みが途切れていて、入江を見渡せたのが幸いした。
ここに間違いない! 道路の形状から、子供達が立った位置も判る。100年近く前、「太湖丸」
を捉えたポイントを、特定することができた。
自分の頭の中で、「太湖丸」は大汽船に膨れ上がっていたようだ。絵葉書で大きく見える
館岩も、せいぜい20数m程度。往時も今も、岩壁の凹凸や山稜に変化無いことに気付く。
レンズの関係か、大部、横に伸びている。これは船影にも影響しているのか。この頂部には
岩砦があり、海賊の城跡とも云われているという。



「太湖丸」が投錨した泊地を望み、まずは海図(写)を拡げた。船影の煙突の背後に、岩礁の
ようなものが見える。1930年(S5)刊行の海図には、標高3.3mの「小島」が確認できる。
煙突の後から、消去しても良いようだ。この島は防波堤工事で消滅している。

持参した絵葉書と、船名録(写)も拡げた。
「第一太湖丸」「第二太湖丸」は1883(M16)年6月、キルビーの小野浜造船所(神戸)で建造され、
琵琶湖畔で組み立てられ、同年9月に竣工した。
同所建造「朝日丸」の画像は残るが、いずれも郵便汽船三菱会社が英国に発注した「横浜丸」
(1884)にとても良く似ている。当時の英国流行スタイルなのかもしれない。
1889(M22)年7月、鉄道連絡船としての役割を終えた「第一太湖丸」」「第二太湖丸」は大津に
係船。翌1890(M23)年、解体され大阪に搬出された。再組立が行われたのは「難波島」。その頃は
西成郡川南村。ただし「難波島」が狭義の「難波島新田」を指すのか、「今木新田」「中口新田」
を含めた広義の地域(島)を指すのか、判らない。船名録の造船地名は、スペースの限りもあり、
省略されることが屡々だ。難波島は、北前船を係船した「船囲場」の東側に位置する。明治20年
頃から多くの造船所が立地した。
両太湖丸の再組立に従事した造船工長は「佐山芳太郎」。ヘダ号建造の際、造船世話掛を勤めた
船匠の一人、佐山太郎兵衛の甥にあたる。造船工長佐山芳太郎の業績を船名録から拾ってみた。

890 第二徳山丸  1885.05 兵庫東川埼町(木)
942 淀川丸    1886.03 六軒家新田(木)
988 中津川丸   1886.12 六軒家新田(木)
1113 阿津丸    1887.10 六軒家新田(木)
1063 紀川丸    1887.12 六軒家新田(木)
1102 快漕丸    1888.05 六軒家新田(木)
1160 和田丸    1888.05 六軒家新田(木)
1093 共立丸    1888.06 六軒家新田(鉄)
1239 駿豆丸    1890.10 材木置場(木)
1246 第一太湖丸  1891.04 難波島(鉄)
1276 第二太湖丸  1891.10 難波島(鉄)
1486 第一號伊豆浦丸1894.12 戸田村戸田(木)
1487 第二號伊豆浦丸1894.12 戸田村戸田(木)

製造地名で佐山芳太郎の足跡を追うことができる。「六軒家新田」は安治川と六軒家川が合流
する位置で、ここで大阪鉄工所は創業した。『日立造船75年史』によると、

‥兵庫造船局(もとの兵庫工作分局)に勤務していた佐山芳太郎氏が造船主任として
招かれた。当時の記録によると、「大阪鉄工所願出につき佐山芳太郎を三個年間貸渡
云々」とある。‥当時の邦人技術者の多くは年少のころから実地に鍛えあげた人々で、
理論的なことは別として、技術は外人に比較して見劣りなく、巧みに外国の技術を採
り入れたものであるが、その努力は涙ぐましいものがあった。


年表から関連事項を拾ってみると、

1885 外人技術者退職、佐山芳太郎ら邦人技術者を採用する。
1886 淀川丸竣工(01)、中津川丸竣工(12)
1887 紀ノ川丸竣工(12)、この年、鉄船建造の施設を整える。
1888 当初最初の鉄製汽船共立丸竣工(05)、この年、佐山芳太郎退職。


駿豆丸が建造された「材木置場」は木津川左岸で、第一、第二太湖丸が再組立された「難波島」
はその対岸で、右岸に位置する。戸田村誌には、佐山芳太郎は「大阪難波島に造船所を創設」と
ある。場所と造船所名は特定できないものの、難波島で再組立されたのは確かなようだ。
1891.05.25 第一太湖丸、大阪で試運転。
1891.11.10 第二太湖丸、大阪で試運転。



太湖丸に迫るため、飛島の画像を反転させ、社史の画像に揃えてみた。さらに、色調補正で
全体を暗くし、コントラストを強くしたところ、見えなかった操舵室が見えてきた。社史の画像では、
船首部の甲板室が操舵室かどうか疑問であったが、操舵はその屋上で行ったようだ。半割の、
カマボコ状甲板室も見えてきた。社史の画像では降ろされているボートも見える。朝日丸と対比す
ると、乾舷が低く見えるのは、元々は湖上船として建造されたためか。航洋船として再組立され
た際、船体は約7m延長されるが、フォアマストと煙突の間隔が間延びしてるため、延長されたの
はここなのか。以前は考えられなかった画像加工で、古絵葉書の判定は格段の進歩をみた。
第二太湖丸は昭和4年版(1928.12.31現在)船名録まで掲載され、昭和5年版から抹消。
第一太湖丸は、関西汽船社史によると、1942.05.10に沈没して失われた。
飛島で捉えられた太湖丸は、そのどちらも可能性がある。
最後は、山高五郎著『日の丸船隊史話』より引用させていただきたい。

猶読者は前記の高齢船及既述の歴史的船舶の内に尼崎汽船部所属のものが甚多いこと
に気付れたことゝ思ふ。實に同社は昔から殆ど他で見離されたやうな高齢船を買入れ、其
独特の保修技術を以て、驚く可き長期間有効に活用されつゝあるのであつて、現に船舶
史上記念すべき船が多数其傘下に集つて長寿を保つて居ることに對し、著者は夙に深甚
の敬意と感謝を捧げて居る。


太湖丸の船影は、尼崎伊三郎所有となっていたため、記録されたと考えたい。湖上に登場した
我が国最初の鉄道連絡船の姿に、平成の世になり接することができたのも、誠に不思議なこと
と言えよう。改めて、山高氏の名文を読み返したことろである。

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太湖丸、現る!

2011-09-10 | 尼崎汽船部
自動車船やLPG船など、船種毎に内航船を追っていると、思わぬ港で再会する船がある一方、
なかなか会えない船もいるなど、悲喜交々を体験する。まぁ、国内にいるのであれば、いつか
どこかで出会えるもの‥と構えてる。
時代は遡り、絵葉書全盛期(明治末~大正)に活躍した汽船なら、古絵葉書を丹念に確認する
なかで、船影を見い出す可能性もあろう‥と、考えていた。これは当に、そんな思いを強くした
話である。



太湖丸に出会えた!
一年ほど前になるが、この絵葉書を目にした時、眩暈にも似た衝撃を受けた。沖合に浮かぶ
汽船のシルエットは、『太湖汽船の50年』で幾度も眺めた「第一太湖丸」のそれであった。
記録された場所は飛島。酒田市沖39キロの日本海に浮かぶ離島の入江である。
『函館海運史』には、函館港を起点として、噴火湾航路を経営した尼崎伊三郎「北海部」や、
不定期船として来航した尼崎伊三郎所有の汽船が記録されている。この絵葉書は、仕様から
大正期後半と見られる。煙突マークは見えないが、他にもマーク無し画像があり、太湖丸の
可能性を否定するものではない。飛島への寄港は避難だろうか。それとも、貨物の積み降ろ
しがあったのか。いずれにせよ、安治川口から飛島まで、幾日かけて航海したのだろう。

これは、飛島へ行ってみるしかない。この風景があるのだろうか? タイミング良く、酒田市
立資料館では、企画展「よみがえる酒田湊」も開催中だ。夜も更けてから東京を発ち、太湖丸に
導かれるように、深夜の上越国境を越えた。黒崎PAで時間調整を兼ねた仮眠をとり、岩船、加茂と、
港に立ち寄りながら酒田入りした。
酒田は一年ぶりの再訪となる。最上川舟運と西廻航路の接点に位置し、物資の集散地、商人の
街として繁栄した。日和山や綿積石など北前船の時代の遺産や、幕末の運送船「長崎丸二番」の
遺品が残るなど、海事史の香り高い街である。



この時期、飛島航路「とびしま」は一日一往復で、9:30に酒田港を解纜した。
航海速力19.0ノット、253G/T、2010.06、瀬戸内クラフト建造。乗ると撮れないので、これはデビウ
したての、昨年の画像である。海には台風12号の余波があり、ジェットコースターのような乗り心地を
堪能した。陸水が影響して白く濁る水域と、真っ青な水域との、はっきりした潮目を見ることが
できた。

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尼崎汽船の終焉

2011-08-28 | 尼崎汽船部
尼崎汽船株式会社が運航を止めたのはいつなのか? 尼崎汽船史に興味を持つ者にとって、
関心事の一つである。

太平洋戦争と戦後改革は、尼崎家の経営基盤を奪うものとなった。関西汽船と広島県汽船に
所有船を出資して役員に名を連ねるも、残された船舶は殆どが戦禍により失われた。残存した
のは「大東丸」「赤城丸」「金勢丸」程度である。
追い打ちをかけるように、1947年の農地改革は、耕地経営(尼崎耕地部)を不可能にした。
戦時海運管理要項が制定(1941)されたことに呼応し、関西汽船は設立(1942)されたが、戦後、
尼崎汽船、阿波国共同汽船、宇和島運輸は船舶の返還要求を行い、1948.04.26返還を受けた。
尼崎汽船は返還された10隻を中心に、大阪~多度津航路を再開する。



戦後発行の絵葉書に、尼崎汽船の船影が撮し込まれてるものは少なく、その稀な一枚がこの
「大衆丸」である。発行は丸亀市役所。大衆丸は1924.02尼崎造船所で建造された516G/Tの
ディーゼル貨客船。後に九州商船「椿丸」となり、1969.03の売却まで、五島航路に使用された。
楕円の中は金比羅講灯籠。塩原多助の寄付が最も多いことから「多助灯籠」と呼ばれる。
幼時を過ごした地域に、「塩原多助の松(馬つなぎ松)」という老木があり、手を引く祖母
から多助の話を聞かされた。惜しくも広瀬川改修により伐採されてしまった。さらに話は逸れ
るが、郷土意識の高い県民性は、沖縄県に続くは群馬県という。そこには「上毛かるた」の
存在がある。飲み屋で隣同士となり、偶々同県人と知るや、大いに盛り上がることになる。
因みに「ぬ」は「沼田城下の塩原多助」。



陸側から見た同一場所で、船影は中国航路(大阪~関門)に就航した尼崎汽船部「神惠丸」。
丸亀市役所による戦前発行の絵葉書。



現在の丸亀港岸壁。多くの内航タンカーが艫着けしていた。



時刻表を見てみたい。1950.07.01発行の時刻表では、起点は大阪川口(安治川口)である。
就航船は「浪切丸」「大衆丸」「神惠丸」「日海丸」の4隻が記されている。尼崎汽船の
大阪~多度津の運賃は2等500円/3等200円であるのに対し、関西汽船は「那智丸」「ひかり丸」
「さくら丸」で730円/290円と割高だが、内2隻は新造の28組を投入している。



尼崎汽船は「多度津尾道間航路延長」を申請し、1950.05.22高松市商工会議所で公聴会が開催された。
1951.11.22改訂の時刻表は、尾道に航路延航されている。就航船は「大衆丸」「日海丸」の2隻。
宝海運の大阪・鳴門線1952.12.01改訂時刻表には「日海丸」が掲載され、また、九州商船の社史によると
「大衆丸」は1952.07購入、翌月「椿丸」と改名。尼崎汽船は1952年前半に運航を中止したと思われる。

1950.12.11 「大東丸」沈没により信号符字取消。
1951.05.21 「神惠丸」「運輸丸」独航機能撤去により信号符字取消。
 〃 .06.28 「正宗丸」沈没により信号符字取消。
1952.02.28 「一心丸」独航機能撤去により信号符字取消。
1953.03.15 「赤城丸」独航機能撤去により信号符字取消。
 〃 .06.26 和議手続開始。
 〃 .10.13 債権者集会。
 〃 .10.26 和議認可。付された条件は、「株式3万株を債権者団体に無償譲渡」「債権者団体の代表者を
       会社役員に入れる」など。

順風満帆の時は個人経営の利点も活かせようが、社会情勢の変化が速過ぎた。大阪商船を向こうに、
30数隻の大商船隊を擁した尼崎汽船の、余りに哀れを誘う終焉である。

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