まつなが畑のはたけ日記

農ある生活をするため奈良御所市金剛山の麓に農地を借りスタート
素人農業の何気もない日々の日記

森の集い

2013年11月18日 20時30分22秒 | Weblog
先日森の集いに参加する。
米市農園の洋平君と原子炉実験所の小出さんとの対談。

洋平君はポジティブに小出さんはネガティブに、また光を闇を語ってくれた。
この対極的な二人の対談。多くの人はどう聞いていたのだろう?
どちらの話が好きか嫌いか?またはどちらが正しいか?どちらの見方で放射能を見たら良いか?考えた人は多かったのではないか?

私が思うに光も闇もどちらも人間だろう。
洋平君は同時に深い闇を持っているし、小出さんは大きな光を持っているように感じる。
聞き手が光側なのか?闇側なのか?どういう気質なのかで聞き手の受け取り方は大きくかわるのだろう。

私はどちらかと言えば小出さんの方向にいるから、聞き取り方もそういう風になる。


小出さんは本当に愛情深い人で、私がこう感じることが何よりの贈り物。
そんな言葉の中に「子どもたちには責任が無いから、影響力のある子どもには汚染されていないものを出来るだけ食べさせないようにしなければいけない」と言われていたが私は「ん~」と考えさせられてしまう。

私自身29歳だから小出さんにしては子どもの世代になる。もう私は大人?になるのだけど子どもとして考えても放射能は受け取るべきだと感じるからだ。
生まれて2年後にチェルノブイリで事故があったし、核実験もそこら中であった。そうして私たち世代は育ったのだけど、両親に放射能を気にするべきだったか否かなんて問いたいとも思わない。むしろ汚れている自分がいるからこそ正そうとするのでそれで良いし、自分だけ奇麗でありたいなんて思わない。

私たち自身汚れた大人たちの子ども。
生まれた時は純粋だというのは嘘だと思っている。
そう思う私でも自分の子どもたちにはと選んでしまう自分がいる。

私たち家族は事故前からの生活の在り方から、ここ関西の人たちと比べても放射能汚染が少ない食べ物を口にしている。
で、自分なりに考え20ベクレルを基準と考えているが、100ベクレルが国の基準なので、給食ではそれに近いものを子どもたちが口にする可能性があるということになる。
それもまた今のところ良しと考えている。
小出さんは10ベクレルでも危険だと言うのだから20ベクレルはその倍。100ベクレルなら。
これが私の思う、私たち家族の許容範囲。高いか低いかはそれぞれが考えることで100でも1でもどちらも正しい。いずれにしろ子どもたちには多くの試練と多くの問題をすでに引き継いでいることになる。


人間が汚したものを地球は森は動物は等しく負っていると言うのに、人間は生死の意味を考え、選び生きてしまうどうしよもない動物だとつくづく思う。
こんな自分の醜さもまた人間なのだ。




ここ関西でこうして放射能のことを語るのは、私たちの醜さを曝け出す場だと感じている。
もしこの二人の対談が福島の避難区域や仮設住宅の中だったとすれば、皆はどう感じ、どういう目線で話をきいただろう。

ここ関西ではその醜い自分にすら気付かずに通り過ぎてしまう。

事故当初、早まった米の安全宣言で福島の学校給食に福島の米が使われた。その後汚染米が出て・・と福島の子どもたちは外部被曝も内部被曝もどれだけしたのか分からない。
そして今も通常では考えられない放射線を受け続けている。
だが2年半経って今、福島を離れると言う選択を持っている人は少ないのではないだろうか?

その子どもたち、親たちを目の前に面と向かって私たちは「避難しろ」と言えるだろうか?私たちは何々ベクレル以下の食べ物を選んで食べていると言えるだろうか?
小出さんのように3.11以前から放射能の危険性を訴え、汚染された地に足を運び、その悲しみ、苦しみを知りながら出る言葉と私たちの言葉では同じ言葉であってもあまりにもかけ離れたものだろうと思う。


今も放射能に汚染された地に人、子どもは住んでいる中で、ここ関西に居ることがどれだけ罪深いか?と言うことすら気付かず・・・。私たちは日々過ごしている。





最後に小出さんは「次に繋げるものは」という質問に「放射能で汚れたこの社会」と言う答えだった。私はそれを恨まず受け取りたい。
この汚れた人間に清浄な世界は生きていけない。きっとすぐに人間は汚してしまうだろう。生きることを学ぶ指針として放射能はこれからもまだ必要なのだろう。
多くの人を犠牲に私たちは生きている。この事実を深く受け止めたい。

光も闇も人間。
森も動物も人間も全てのものを等しく本来は受けるもの。

もし私の子どもが放射能で病気になったなら私たち人間の愚かさに嘆くだろう。
でもそれも長い歴史の中で、汚れた人間が子どもを産み、また産むと受け継がれてきたもの。
誰が悪いわけではなく、それが人間と言う生き物なのだと思っている。

そして同時にこの美しい地球に感謝したい。
目に映る山、海、空の普遍的な美しさは福島にもちゃんと存在していた。









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