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おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

無性に歌いたくなった・・・

2010年05月06日 07時31分19秒 | 日記
街の中心部から少し離れ、アーケードの派手な電飾のパチンコ屋から余り人の入って来ない路地に入って行くと小汚い(失礼、この町では有名なラーメン屋)食堂の二階にお店はある。入り口にアコースティックギターひっそりと飾られているのが目印だ。週に一度は通っていたライブハウス。もう通い始めて何年になるだろう。3年位か、オープンして間もない頃に入った。それ以来、マスターの家族で子の阿蘇の家まで2,3度遊びに来られたこともある。奥様が鹿児島の母校の後輩だったことも何かの縁だ。気取らない気さく人柄でお客の誰からも好かれているマスター。ギターがというよりも楽器がなんでもこなせてしかも上手い。それは「商売」だからといってしまえばそれで終いだが、客の弾き語り伴奏が「寂しい」と判断されるとさり気なくリードを入れたり、ピアノを入れたり手伝って盛り上げてくれる。決して押し付けはしない。

大学時代、学生運動で学内は荒れていた。東大が歴史上初めて入学試験を行わなかった年だ。やっと入れた国立大学だったがすぐ辞めたくなって悩み始めた。その時に窮地を救ったのが1本のギターと筆だった。
これがフォークとの出会い、書道部への入部。

書道は死んだ父親の影響があると思う。今でも筆を握って白紙に墨で文字を書き込むことは好きだ。中国文化がわが国に固着したもので、最近は派手なパフォーマンスで字を書きそれを「売り」にする若い人が増えた。マイナーな書道芸術が表に出ることは悪いことではないのかもしれないが、胡散臭さと嫌味を感じる。

フォークは社会派のシンガーに魅かれた。というよりももともとフォークソングとはそういうものだった。ピート・シーガー、ウッディー・ガスリー、PPM、ボブ・ディラン・・・これを日本で始めたのが高石友也だった。そして高田渡、岩井宏、高石の影響を強く受けて歌い始めた岡林信康だし、加川良だった。反戦フォーク集会なんてものまで当時あったのだ。これに密接な関係を持っていたのが「べ平連」(ベトナムに平和を!)。
ギターを始めて、書道部の先輩を二人でバンドを組んで活動を始めた。その最初はサイモンとガーファンクルのコピーだった。今でもそらで何曲か歌える。

それから社会派?フォークに入れ込んだ。高石、五つの赤い風船、加川良、高田渡・・・なぎら健壱?だってこの路線上にいた。

人前で歌うのは緊張する。性格で以上に「緊張しい」の私は他所の店でしっかり飲んで酔っ払って入店した。緊張が酔いで程よく解けていて、若干の躊躇いはあったものの人の良いマスターに勧められて歌ったのが加川良の「教訓」だった。以来、この店では必ずこの歌を欠かさずに歌う。

新しい歌は知らないので歌えない。ニューミュージックとかダンプとかパンク、踊りながらやるレコード大賞取ったグループ(あそこには教え子の兄弟が最近入った)あれはたしかにボーカルの二人、イケメンと剃り込みうまいな・・・
それよりかやっぱり演歌がいい。演歌を弾き語りでやるのにも挑戦中。未発表だがー。曲はよく知らないし、誰が歌っているのかも

この頃作った歌がある。といっても戦争で死んでいった若い兵士が遺した詞に曲を乗せただけだがー。

時々、五つの赤い風船の「まぼろしの翼とともに」を歌っているのだが、これに附けて間奏でこの詞を朗読していた。それに曲をつけてみた。いつかYOUTUBEにアップロードされるかもしれないがー。
詞は次の通り。勝手にアレンジさせてもらっている。

詞を作った大出大尉は若干22歳。昭和20年の春、知覧の飛行場から帰ることのない出撃をしていった。
その知覧に残した遺書。

あんまり緑が美しい
今日これから死にに行く事すら
忘れてしまいそうだ。
六月の知覧は
もうセミの声。

作戦命令を待ってる間に
「俺もこんどは小鳥になるよ」
日の当たる草の上で
杉本がこんなことをいった。

本日13時35分
いよいよ知覧を離陸する
なつかしの
祖国よ
さらば
使いなれた
ペンを”かたみ”に送ります。

歌はやっぱり聞いてもらえる人がいるからこそ「歌」が芸術と成り立つのだろう。一人でいる時でも歌って、涙で歌えなくなることもある。


ブログに携帯の動画で取ってアップロードできればいいんだけれど・・・