おやじのつぶやき

不動産会社を経営する今年53歳のおやじが日本国を憂い仕事・趣味・健康などをテーマに日々つぶやきます・・・・

震災1年に思う 国際日本文化研究センター所長・猪木武徳

2012-03-12 | 憂国

ガレキ受け入れの反対は一部の左翼とそれらにあおられた一部の馬鹿がしているだけのこと。
大半は賛成・反対の議論などをすることも想像がつかない当然のこととして受け止めているはず。

産経新聞20120312

 家族が亡くなる、仕事を失う、住む家がない、こうした人生の辛酸を経験することはまれではない。しかしこれらすべての生きがいを一挙に失うことが、いかに耐え難い試練かを想像するのは極めて難しい。遠くに住む人間は、他人の惨禍による悲しみや怒りを十分想像できないからこそ、単なる人道主義や同情からではなく、公的義務として何をなすべきかを考えなければならない。

 ≪単なる人道主義越えなければ≫

 だがそれにしても復興のスピードはのろい。地方自治体、地域住民の懸命の努力が続いているにも拘(かか)わらず、失業者は失業手当の給付期間の長さが求職意欲を却(かえ)って弱めるとの専門家の臆測もあり、給付切れにおびえるものが多いと報道されている。「がれき」の処理の進捗(しんちょく)も全体の1割にも満たず、はかばかしくないという。

 しかし政府が全く無策というわけではない。特別措置で被災者を対象に失業手当の受給期間を最大120日間延長した。岩手、宮城、福島の3県の45市町村では、さらに90日間延長されている。

 「がれき」といっても、それぞれに生活の思い出が詰まった品々の破片の集積だ。これら「災害廃棄物」の処理費用を被災地が負担し、国が補助をするという現行の仕組みが十分機能しているとは思えない。「がれき」が一般廃棄物であれば、市町村の処理責任ということになっているのだ。

 壊滅的な被害にあって人も金も底をついた地域に、「自分達で処理しなさい」というのは苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)にも等しい国策ではなかろうか。「がれき」を受け入れた他の自治体に、国が直接補助しない限り、問題は解決しないだろう。

 昨秋、東京都が東北以外で初めて「がれき」の受け入れ処理を始めたとき、都民から反対の声が上がった。石原知事は「(放射線量などを)測って、なんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい」「皆、自分のことばかり考えている。日本人がだめになった証拠だ」と、それに応じた。石原ファンでなくとも、この発言には大いに納得したものだ。

 ◆放射能恐怖症に一体感の薄さ

 同様の反対運動は他の地方自治体でも起こっている。放射能をめぐる根拠のない拒絶反応には「差別意識」も絡み、非合理なものが多い。昨年の京都大文字の送り火で一部の京都市民が東北からの燃料木材の搬入に反対したことなど、万人の魂の安寧を求めるはずの宗教感情もかくなりしか、の感を禁じえなかった。

 愛国、愛国と唱えるファナチシズム同様、こうしたエゴイズムも国の衰亡の原因となりうる。日本が私益最優先の社会となり、公益を考える「国としての一体感」が希薄になっていることは否定しがたいようだ。

 例えば、近年のギリシャの政府累積債務が引き金となったユーロ圏の金融危機で、ドイツ国民がギリシャへの資金注入に猛反対したケースも、国家とは何かについて考えさせられた。

 脱税が横行して歳入が確保できず、バラマキ政治で歳出に歯止めが利かない「節度のない国」に、なぜわれわれの血税を投入しなければならないのか、と怒るドイツ人は多い。怒りと不満の噴出の中に、欧州連合(EU)が依然として「一体感」を持ち合わせた国家ではなく「半国家」に過ぎない、という現実が見て取れる。

 一国内のある地域に公共的視点から財政出動が必要なとき、同じ国内の他地域がそれに猛反対するような国は、バラバラの利己主義者の集団に堕しているということではないか。「がれき」の受け入れの小競り合いも類似の現象であろう。

 ◆同胞に手差し伸べねばならぬ

 根拠のない放射能恐怖症もこの病状の一つだ。これは日本だけではなさそうだ。つい先日の新聞報道によると、「核の問題や戦争、貧困」を描いた画家ベン・シャーンの日本国内巡回展のうち、6月から福島県立美術館で開催予定だった分についてのみ、米国の7つの美術館が所蔵作品の貸し出しをキャンセルしてきたという。

 自分の利益にかかわる問題と社会全体の理想を議論することは分離できないし、分離すべきではない。自分の近くにいる同胞を幸せにできない者が、遠くの見えない「人類」に平和と安寧をもたらすことはできないだろう。

 行き過ぎた利己心は、国家と社会の恐ろしい敵となりうる。今回の大震災の後、各所で見聞された人間愛やヒューマニズムの行為はもちろん称(たた)えられるべきだ。しかし、利己心も「人類愛」と区別できないことがある。

 大震災がわれわれに問い質(ただ)したことの一つは、われわれの中に人道主義や人間愛の証しがあるのかないのか、ではない。困窮する同胞に手を差し伸べなければならないという「義務」の感覚こそが、国家存立の基盤である「一体感」を支えているのだという自覚ではなかったか。