marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

霊的次元の中に我らは存在している:世界のベストセラーを読む(946回)

2021-12-29 21:11:42 | 日記

◆何もスピリチュアルな次元のことでその空論を語ろうとしているのではない。事実としてあるのだから薄気味悪いものでもない。ただ、僕らは、普段に常時、その世界とつながる頭脳の中の呼応するその部分とのチューニングがあっていないのである。で、前回の話でどの解説書にも書いていないだろう僕なりの回答を書こうと思う。旧約聖書も新約聖書も、霊的次元からの言葉が部分的に著されて来ているものである。だから、やさしいイエスの言葉もなにやら実に人間世界からは不可解な、あるいは矛盾しているようなこととして書かれている箇所があるのである。イエスは「神は霊である」と言っている。さらに、「人を生かすのは霊である、肉は何も役にたたない」と言っている。ここまで明確に書いてある宗教書を僕は知らない。事実、イエスは復活し、その永遠の命ということを実証した。・・・と、ここまで結論しなくても彼の復活の事実に弟子たちが触れなければ世界にこれほど広まることは決してなかっただろうと思う。その霊的次元から解釈する。◆ヨブがサタンに試され家族が事故死させられ、そして自分の身体までも病気という危害を加えられ、友人との長々との会話にも、結局、結びにおいてはヨブは神に祝福を受ける。死んだ家畜は2倍となって生まれ、子供たちは同じ数で誕生した。しかし、家畜はまだしも先の子供が死んだのに喜べるのか、先の子供たちがかわいそうではないか、と普通、柄谷行人でなくても違和感を覚える。・・・しかし、この物語は霊的次元の例えでもあるのだ。物語の冒頭でサタンの試練に遭い、死亡する息子、娘たちは、結びにおいて新たに誕生した息子、娘たちの”霊が同じ”なのである。これが答えなのだ。同じ母親から生まれても、形体は同じという訳ではない。これは、マリアが復活したイエスのことを墓を守る庭番と思ったとか(ヨハネ伝20:14)、弟子に現れたが分からなった(ヨハネ伝21:4)、エマオの二人の弟子に共にイエスが歩いてご自身のことを話されているに気が付かなかった(ルカ24:16)などからも分かるだろう。◆地上における肉は、異なる形体を示すだろう、けれど、この話の場合、一度地上から肉体を解放されたその霊、先の同じ息子、娘の霊が再び話の結びで誕生した息子、娘に入ったことを示しているのである。肉体が滅んで形体が以前と異なっても霊は生きていて同じ息子、娘として地上に再生、復活したのである。霊的に復活した後の方が、より鮮明により美的に誉ある存在としてよみがえるのだ。つまり、地上に霊を受けた者としてより、自分として鮮明に自覚して生まれ変わるのである、という地上の人の霊のありようと天上の神とサタンのドラマが描かれている物語なのである。◆さて、僕らは今、この瞬間も生きている。をもって生きている。ただ、少なくとも僕は自分の過去性を知らない。人生は何の為にあるのか、との答えをキリスト教界は、今生において永遠の命を与えるキリスト・イエスに会うためにある、と語り続ける。彼は実際、目には見えないが、今も聖霊として思う人の心に語り掛けているという。あなたは、人の言うことなどまずは無視していい、あなたが会うのであるから。心のドアノブはあなたの内側にしかついていなのだから。・・・あなたはこのことを信ずるか。