marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

評論家、柄谷行人がヨブ記を読んで不可解に思ったこと:世界のベストセラーを読む(945回)

2021-12-28 11:37:13 | 日記

聖書は霊的次元をもとに解釈すると不可解な記事も理解の助けになるやもしれない、ということを書いてみた。学問というのは、過去のことにおいても知識において文字として残り、検証できなければ権威あるものとして受け入れられない。では、検証もできない体験としてあるものは仕方がないとしても、実はおかしいところはおかしいのではないかという素直な聖書の学者さんはあまりいない。田川健三という神学者くらいか、でも初めての方は彼の本の前書きやあとがきなど読むとひっくりかえるからおすすめはしない。それはともかく、僕が思うところの霊的次元をもって聖書を読むことは、大いに助けになり、イエスが地上で実際に取り巻いている”風”のように例えた霊について思いを馳せて読むと何とはなく理解したようになってくるのだ。・・・◆柄谷行人という評論家が旧聖書のヨブを読んでこれは納得できないと書いていたのを思い出す。無論、彼はおかしくないかと思ったと書いているだけで、これで納得したとは終わっていないかった。ヨブ記の専門家が学者である並木浩一先生も”ヨブ記注解”という21年の今年出しているが、今まで書いて来たような霊的次元からどうのこうのとまでは踏み込んでいない。これは信仰深い地上における東の国一番の富豪であったヨブが、天上での神とサタンの会話の駆け引きに試され、それに三人の友との問答が長々と続く物語である。中身を今までの社会通念での善悪の常識から読み進めると、何が何やらわからないと面食らう物語である。とても知られた格言も最初の章には書かれている。高い次元に上って俯瞰しないと最終よく理解できないが、僕なりのまとめてしては、天上における神の善悪の判断は、この地上での我々の次元で神の善し悪しの判断しては勝手にしてはならないこと、という結論になるだろうか。◆で、その不可解なところがどこかと言えば、ヨブの子供たち7人の息子と3人の娘たち、そして多くの家畜(羊、ラクダ、牛、雌ロバ)を持っていたが、神との駆け引きに試されサタンによってすべて事故死させられてしまうのである。・・・そして、最終結びにおいて主はその後のヨブを以前にもまして祝福されたとあり、家畜はそれぞれ数値まで書かれて、きちんと2倍に増やされているが、息子、娘は同じ数なのである。先の子供たちは、既に亡くなったのだから祝福されて子供ができたといってもこれが喜びとなるのだろうか、ということが柄谷が疑問に思たことなのである。しかも新しく生まれた娘たちは名前まできちんと書かれているのである。「主はその後のヨブを以前にもまして祝福された。ヨブは羊1万4千匹、ラクダ6千頭、牛1千匹、雌ロベ1千頭を持つことになった。彼はまた7人の息子と3人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケッィヤ、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後140年生き、子、孫、4代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。」今までの苦渋に満ちた会話から結びに至って、美しい娘さんが詳しく書かれたいるのに心がほっとするのである。・・・◆柄谷の持った不可解さは皆さんも思われただろうか、僕も思ったのだから。そこで、人の霊の次元について思いを馳せながらこのことを考えて見られたらどうであろうか。ニコデモにイエスが語った記事に戻りつつ、僕なりの結論に至ったヒントを提示してみたい。読者も考えてみて欲しい。・・・「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ伝3章6節)


霊的次元から不可解な記事を読む(その2):世界のベストセラーを読む(944回)

2021-12-28 10:12:39 | 日記

 ◆27日目覚めると降り積もった雪が30CM以上はあった。最近目覚めるのが4時ころなので、早朝から門の周辺の雪かき。一つ置いた隣家のおばあさんも、まだ暗いうちからダンプと言われるもので雪寄せをしていたので挨拶をする。年寄りが早起きなのは血圧があがる為か、いずれ体調が教えてくれるようだ。28日の今朝は、積雪が収まりつつあるが、除雪しない庭はかなり雪が積もった。今朝は隣のおばさんが雪かきをしていた。・・・クリスマスの時、年の瀬。こんな寒い朝、比叡山の千日回峰をしている修験者がいるのだろうかとか、故井上洋治神父がフランスに渡って修道院に入っての冬の朝は寒かっただろうなとか、実家の寺の住職は(これはいずこの寺の住職もそうなのだろうけれど)朝6時からの法要を執り行っているんだろうなとか、早朝、ストーブの炎を見ながらcoffeeを飲みつついろいろ思う。◆迫りくる肉体の劣化を覚えつつ、いずれも肉体の酷使が宗教には推奨としてあるように思えるのは、精神性が肉体を超越しようとする、今生での苦行なのだなと。けれどキリスト教では肉体の酷使は必要ない、ただイエスを信ずればよいのだと教える。つまるところそれ以外は、地上での霊が輪廻転生を繰り返すからなのである。仏教では法事など繰り返し、死後の霊は時間をかけ昇華していく、そこでようやく涅槃に入ると教える。けれど、キリスト者はその法事など繰り返さずとも天上から来られた神の子イエスが十字架で、信じた者の欠陥をその身に負うたのであるから、死後は”その人”として眠りにつき、再び”その人”として復活し、永遠の命の世界に目覚めるのであるとうことになっている。聖餐式、イエスの肉としてのパン、血としての葡萄液を飲むという礼拝の儀式は、死亡率100%の我ら人にとっては、実に重要な儀式、天の祝宴の簡素な予行となっているとされる。◆イエスが語った言葉は、不可解な言葉は実に沢山ある。かなり飛躍して言葉を結びつけている言葉もあるし、人という生き物の常識から不可解な意味にしかとれない言葉もある。おかしな教祖やらが出現し、時折社会問題も起こす次の箇所、多くの人が畏れ多く感じる箇所もある。しかし、前回述べたようにこれは霊的な、しかもパラダイス、永遠の命の世界にいるための天上世界の実際に同期するには、霊的な意味合いからそのようにイエスの言葉が解釈されれば釈然とした解釈ができるてくると思われるのである。過去生の霊は、肉体を借りて地上生まれ、その天上への帰還の希望をもって誕生するのである。その過去性にとって、この世において少なくとも精進するようにと。キリスト教の学者さんや牧師さん、まして坊さんがそこまで言える人は多くはないだろう。言葉においては理解させるのは、相手の先理解もなければ理解されないだろうし、神学者でいえばポール・テリッヒくらいか。しかし、いずれ知識ではない。救い主の誕生を初めて知らされたのは誰だったろう。暗い、静かな夜、澄んだ空に星々が輝く夜、しがない羊飼いたちであったのだのだから。神の霊は、そのようにして我らに訪れていることを知ることである。

◆「渇いている人は誰でもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きる水が川となって流れ出るようになる。」イエスはご自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。(ヨハネによる福音書7-37-39)