marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(27回目)

2016-06-18 08:26:05 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 昨日は、体調もpcの調子もいまいちで、今朝はしらじらの曇り空のもと、窓に向かった机の上でしたためている。かの20世紀の大神学者と言われるカール・バルトは毎朝、モーツアルトを聴いて起床したのだそうだ。(彼についてもいつぞや思うことを書いてみたい!?)バッハもいいが、気分の落ち込むときはモーツァルトだな、やっぱ!といいつつ、曲名なんぞはろくに覚えていなくて、むしろ七三分けの海老沢 敏など日本の評論家の書いたことなど妙に覚えている。フリーメーソン葬送行進曲の最後の終わりは天空に(天国といったらかっこいいか)無くなった人間の魂がすぅーと消えていくような終わり方をしているのが妙に耳に貼り付くから、是非みなさんも聴かれてみてください。ぞっっとするというか、安楽の暖かな天国にモーツアルトの魂は迎えられたか。さても、彼の遺体はどこにいあったか分からないのである(共同墓地に投げ込まれたようで・・・)。まさに、地上から天上にいったのであるが、彼はその名曲の数々でいまも生きている・・・となる。さて、ヨハネ伝続き◆人が「分かる」ということはどういう事かについて、時折、書いてきた。(何せ、異邦人の僕らは、聖書が神の言葉が書かれていると言われてもよく分からないから)。ユダヤ人には、天地創造からの先理解としての先祖伝来の戒めがあり、それをファリサイ派は遵守してきたのでした。(24節)彼らが洗礼者ヨハネに問う(25節)。われらが遵守の聖書に書かれていない、あれこれでないとすればなんで洗礼を授けるのかと。ところで、「洗礼」は確かに旧約にきちんと書かれていない。(どうも、当時、そのヨハネが属していたエッセネ派が「清める、洗う」として始めたらしいのだ。ただし、列王記下の5章にはあのエリシャ(不明な方は前の回を読んでね)が敵国の勇士ナアマンにヨルダン川で七たび洗い清められよと言いつけ皮膚病が治ったという感激的な話があるからこれも是非読んでね。)それにヨハネは26節で答える(読んで下さいね)。あれ? この返答、答えになってないだろ。日本語おかしいぞ!
ところが、すでにヨハネは先に23節で答えているのよね。返答をまとめて洗礼者ヨハネさんに替わって言えば、イエス・キリストが来られるから、その知らせと準備のために私は、主の道をまっすぐにせよとみんに大声で宣伝しているのである といくことになるか(真摯に受けとめてね)。その方は、すでに来られているのだと語っている。(はい、ここまで読まれてなにやら感じた方は今、あなたの側に立たれている方ですよ。)(28節)良く知られているエルサレム郊外のその地でないこのベタ二ヤ(ベニヤ板でない)は。ヨルダン川の向こう側というところがいい。時間のある方、旧約ヨシュア記3章を読んでください。では・・・Ω

世界のベストセラーを読む(26回目)

2016-06-16 20:38:11 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆  早速、昨日のつづき第1章19節から・・・。先の事柄が理解できていない、つまり予備知識もない、ましてそれが伝統的に何千年と語り続けられてきた事柄で将来にも我々が、事実生きている間にこの目で確認できるかもしれないという言われが当然のように周知されていた時代において、「言われ続けてきたそのこと」とは、メシアでないとすれば、エリアか、さもなくばあの預言者か に対してこの洗礼者ヨハネは、預言者イザヤの言葉で返答をした。19節から28節については、我々異邦人には、ちと分かりにくいが当時は当然のように了知していた内容だったから、そんな群衆やら祭司やらの先理解しているはずであろうことについてユダヤ人たちが祭司やレビ人を使わして、あなたは誰なのかと洗礼者ヨハネに尋ねさせる。(と言うわけだ)        
◆それでは、引照を引いてみましょう。(1)メシア(キリストのことで、当時の救い主とは、ローマの属国植民地のような事態であったので解放としての王と考えていた意味合いが大きい) (2)エリア(これは先のブログで映画、炎のランナーについて書いたところにありますが旧約聖書の列王記Ⅱに出くる紀元前750年ほどの預言者の名前)・・・気が遠くなる話ではある。このように古い事とは言え、済んでしまっている出来事では終わっていない。
このように歴史の底辺に流れる水脈がある。マルコ第9章11節見てね。洗礼者ヨハネは、否定しているが、イエスはマルコでは、エリアは洗礼者ヨハネのことだと言っているね。旧約マラキ第4章5節も見よ。イエス誕生の400年以上も前の話だ・・・気の遠くなるような長い期間、預言者の言われを神の言葉として守っていた訳です。(3)さて、「あの預言者か」といわれても誰なのよと我々は思ってしまうが、引照・索引見るとこれも気が遠く成るような昔、これを旧約聖書の申命記第18章15節、18節参照とあるから、見てみると確かに神は一人の預言者を起こすと書かれてある。これがのちのちの救い主イエスという訳なのだ。モーセが書いたのは、わたし(イエス)のことなのであるとイエスが言われたことは、最初のころに学んだが、このように予備知識のない異邦人たる我々は、その予備知識たる内容が、無数に入り組んでしかも一つのこと(神の業、イエス)を指し示して動いていることがだんだん理解されてくるような感じがしてくると言う訳なのである。(4)イザヤはイエス誕生の700年ほど前の預言者。洗礼者ヨハネが引用した旧約聖書の箇所は、引照の小さな文字を見るとイザヤ第40章3節を見なさいとなっている。特に『 』とあるのはストレートにその言葉をまんま持ってきて書いてるよという意味合いだ。では見てみましょう。ね!書いてあるでしょ。聖書は時代も異なり、著者も異なるが今も働く神の歴史が書かれているのだ・・・となる訳です・・・Ω ※今日の写真息抜きに 秋田杉細工曲げわっぱアイスペールです。モダンでしょ!

世界のベストセラーを読む(25回目)

2016-06-15 19:13:08 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 聖書などを読み始めて、自己肯定的な思考になるとなにぶんにも背後に神さまが控えているものだからなのかどうかは分からないが、いつの間にか誰でもが上から目線になってしまうのよネ!それは鳥瞰的な目線で自分の位置というか、それはもうパラダイスのあった永遠の世界から失楽園に落ち込んでからの、又再びその基に帰れるとい言う希望からなのか自分の2次元的な水平面からの世界で霹靂していた者が、そのとき鳥のように舞い上がって、今一度、自分の位置をゆっくり眺めるような気分を持つものだからなのだろう。ああ、なんと俺は憐れな者よ、何をあくせく、何をくよくよ、何を気にして・・・etc それらもろもろの地上の営みも自分をもう一つの目線で相対的に自分を見つめてみることは、まったく土台のない位置から見るか、または目には見えないが永遠に流れる命の水脈のように流れるその土台で見るかは、大きな開きとなってあの世に近くなってきたときに分かるものなのだと僕は確信する。         さて、昨日の続き
◆ヨハネ伝第1章14節から18節まで。言(ロゴズ)<神=イエス>は人の形(肉)をして、地上を歩まれたとある。テキストの中で「私を見た者は父を見たのである」と言われた。それで、後半の部分は、イエスから恵みを受けたとあるが、この辺の16節~17節の観念用語と観念用語の結びつきは良く分からない。何となくではあるが、要は我々人間が恵みとしてあるものはすべてこの方によってなっているのであると読める。しかも溢れるばかりに増し加わり・・・となるようだ。どうかわたしにその溢れる恵みが分かるようにしてくださいと祈ることにしよう。17節、このモーセの律法は当時の人々には言わずもがな、これが、選民の選民たる所以、永遠の命をたまいたもう神の選びし、そして神にあしらわれつつ人類の歴史を見せ物になるべく存在あらしめた栄誉あるユダヤの民なのでありました。これが、またとても頑固なのです。この民族の先理解である確証のやりとりが、次回19節からも続きます。・・・Ω ※今日の写真は、先ジュンク堂に行きました折、入り口で唯で配布の「春秋」、僕はお金ないからこういう面白そうなのは遠慮なくもらうことにしている。あれ!あの評論家若松英輔。それに、深井智明先生のトレルチの記事もあるではないか、めっけもんであった 7月も行こう。

世界のベストセラーを読む(24回目)

2016-06-14 20:51:47 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 前回は意気込んで終わってしまった。しかし、だいたい意気込んでいる言葉とはそもそも冷静に考えると何かが欠落しているような気がしてくるものだ。それは、人の限界思考として許していただくこととして、さて、今日は 昨日のつづきの不思議な、一見何を言っているのか、しかしナンとはなく聖書に食らいついている僕としては嬉しくもありという感じで・・・。
◆ヨハネ伝12節、13節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(12節)この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(13節)」(これは新共同訳)ここで言(ことば)はイエスをさしているので、(言)イエスを受け入れ、その名を信じる(ここ大事、過去形でないので、進行形というか現在形)人々には(ここも大事、複数だ、全部の人という意味)神の子となる資格を与えた(イエスとパラダイスに住むであろうパスポートをもらえたという意味か。でも資格だけでパスポート落とすかもしれん、乗り逃がすかもしれんな。つまり、入学したというところかな・・・とういことは、やっぱ残りの人生で勉強だな)、で、それから13節 血、肉、欲によるのでないと・・・。これは、実は、ものすごいキーポイントなんだと思うな。もう一度、書く。ものすごいキーポイントなんだ。前回意気込みの、すべての(自分において「すべて」とは何が該当するか考えよ)しがらみから解放されて・・・強調したいのは、そのしがらみは前回の「よく考えて見て下さい、その障害を」・・・も含むのものですね。自分の人間的な欠陥もすべて含む(つまり頭悪からとか、いまれ付き身体的欠陥があるとか諸々すべてを含む・・・)いいですか。我等は、つたないながらも初めはよく分からずとも、「まず自分の言葉で永遠の命をあたえる神の言を読む」でした。結論から言えば(極端に言えばと書いた方がいいか)地上のすべてのしがらみから解放されて、永遠の命を持つ天国に行く、つまり、死ぬことが必然のこの地上から、生きてわたし(イエス)を信ずる者は死ぬことがないと言われた、そのパラダイスへ脱出(エクソダス)することにつながるその彼の言葉を読み解いて行くのですね。イエスが、そのことを保証してくださるというのだから。そのしがらみとは、どこぞの新興宗教のようにすべてをなげうってと読めるところもあるから要注意ですよ、無責任になるということでは決してないのだから。ですから何度もいうが、自分の言葉でイエスの言葉を聞くという原点からいつも始めなければいけないということです。・・・Ω

世界のベストセラーを読む(23回目)

2016-06-14 19:31:46 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 昨日は、神妙に書いていざ投稿しようとしたらメンテナンスの日、すべてが消えてしまっていた。ヨハネ伝を読むに第1章1節~18節でうろうろしている。昨日の神妙な内容もかなりみなさまには知っておいてもらいたい内容ではあったが、神の秘密をあまりに素人分際でゲロしてはいけないというお達しだと自己納得して、今日は昨日の内容はいずこかに書くことにして、気を取り直して続き。               
22回目では、ヨハネ伝第1章1節~4節あたりはイエスがパラダイスにいたころの話だろと思い、お話していたとおり引照の小さな文字を見ると関連記事は、それ索引にはやはり創世記1/1 と書いてあるではないか。(ごめん、5節までがはいるかどうかは不明と書いておく、5節は天上界から降りられて、この一節は天上の事とは思われないからね。何故って、天上には「闇」がないと思うという単純な理由から)。それで今度は、創世記第1章第1節を読む「初めに、神が天と地を創造した。」この一節のみ。消えてしまった昨日の内容にはこの以降の秘密が書いてあったのよ!少し難しくなるが先の(5節)と同じ理由の疑問「?」が2節から書かれているの。1節はパラダイスの完成、ヘブル語原典では、この1節は完了形で書かれているのだそうだよ。つまり、これから天地創造するぞ・・・の前置きの言葉ではなく完成していたということ、パラダイスね。2節の間には大変な断絶があったということなの。地は「混沌」としていたとあるが、そもそも人間には、分かる「混沌」という言葉が使われてはいるが、神にとっての「混沌」と言う言葉はそもそも何なのよ・・・といことになるからね。そう、そのようにしてしまった「神の使い長である(後で)サタンとなった業が・・・」とか言う話は、そのうち考えることして、つまり、ヨハネ伝の中のイエス御自身の言葉から完成された天上パラダイスでは父が自分に栄光をお与えになっていたということ。それをを学んできた。6節以降は、記者もヨハネと言う名前で煩わしいが、洗礼者ヨハネのこと。で、前回は12節について書いた。イエス、言、光の名を信じる人々(複数形)には、「神の子」となる資格を与えたと。2000年以上も前に書かれた物ではあるが、人が生きて存在している限り神御自身も生きて、動いて、働いているというから(今も)有効なる言葉であるとなる。無償です、信じて下さいと成るわけだ。「神の子」に成るんですよ。はい、ここで自分の心に正直になって欲しい。何が障害となってますか。僕が日記を書き始めた理由の一つは、それをブチ壊すことなのだ(と急に勢いづいてくる)。「真理はあなた方を自由にする」とイエスは言ったではないか。人生は、一度しか無いのだよと更に勢いづく。すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉を我等のものに!!・・・Ω ※今日の写真「イエスとその時代(荒井 献 著:岩波新書)」Book Off 100円なり。