marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(22回目)

2016-06-12 18:04:35 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 聖書は確かに世界のベストセラーなのだろうけど、この国のベストセラーではない。兎に角、奥が深すぎて、それによる嫌な歴史も沢山学んできたものだから・・・。ひからびて瘡蓋のようになった権威ありすぎの教えを今更こじ開けようとしても如何ともしがたい、興味はあるのだが・・・と言う方は多くあるに違いない。是非、汚してもいい聖書を一冊購入されて、(M・ルーターさん曰く)福音書では、ヨハネ伝を読みなさい、じっくりね とあるから、我等異邦人の国では、当然、その天地創造の由来の中に思想の底辺、歴史を貫く、水脈のような物がないが、現実、いまあなたが書店で手にいれることの出来る引照付き聖書から、この書物の中に何千年来の歴史の流れをかいま見、それが将来、天地が壊れる時にまで及んでいるであろうことを、想像してみることは、いずれ身体が老齢化、脳みそも劣化、ボケも生じてくるにおいて自分のコトバで、読みつつ励むことは、あなたの老後を健やかなものにするに違いないと確信します。
ようやくさ思いついたように第1章から始めている・・・。次の聖書の箇所を考えてみてください。第1章1節から5節はパラダイスのことを言っているのだろうかね? 「万物は言葉によってなった」(3節)これは少なくとも聖書の初めの天地創造のことではないだろうな、その前の話だろうな・・・。何故って、すべてにおいて成ったとあるが神が訳の分からない「混沌」までそのとき作った(成った)など考えられんだろ。どう考えます? 創世記の第1章1節(原典ヘブル語では完了形らしい)と2節(「混沌」が出てくるが)この節の間には、深い断絶があるらしい。闇を生じさせた神の地位に近い者が闇を生じさせたらしい(などと考えるのはかなりレベルの高い話ではある)。これはいずれ。先へ進む。
6節から18節 ここに冒頭ヨハネと出てくるのは、この福音記者ヨハネではなく、洗礼者ヨハネ、キリストは「光」として書かれている。さらにキリストは、世においての言(ことば)と著されている。
次の節を考えて見てください。12節「しかし、言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」13節「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく人によってでもなく、神によって生まれてたのである。」(思うに、イエスを信じた人には神の子となる資格を与えたと読めるがいいのかな。) ということは、僕がイエスを信じたら。僕は神の子となる資格を得たと読めることになるが・・・Ω

世界のベストセラーを読む(21回目)

2016-06-11 20:33:19 | 日記

◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今日は天気がよく、駅前のジュンク堂書店に行きました。聖書コーナーに、僕が思わされているのと同じような本の帯に載った言葉がありましたので写真をつけます。批評家・随筆家である若松英輔という方の書いた「イエス伝」 僕は買いませんけど。        (白文字で)「私のイエスは『教会』に留まらないでむしろそこに行くことをためらう人の側に寄り添っている」(その下に黒文字で)「聖書には、書かれた言葉の奥にある不可視のコトバが無数に潜んでいる」 黒文字については同感ですが、白文字については、僕の意見は、むしろ教会に行くことをためらわないで、突き抜けて欲しいと思っているのです。ためらうことがそもそも、どうして生じるのかということに僕は正直、腹を立てているのです。ですから、あくまで自分を知ることと、その知るコトバに学ぼうとすれば、必然的にキリストと会話をする他ないと思っているのですね。ですから、自分のコトバで聖書を読んで欲しいのです。◆その道を伝える方々へ:どうして組織に安住することが、キリストの体をなしているのだというところで留まり続けるのですか? しがらみ作らず一人で闘いなさい。その道を伝えるべき人がどうしてキリストの名によって恥をかくことをむしろ喜ばないのですか? 議論を吹きかけている訳ではないのにどうして、信仰は知識ではないなどと逃げるのですか? キリストを知る知識も否定されるのですか? そもそもなぜ教派なんぞがあるのですか? 教派の組織に安住しているそのしがらみを何かと勘違いされているのではありませんか? どうして、宗教戦争の基にそもそもなっているのですか? それについての自分の見解はお持ちですか? M・ルターの言ったように必要なのはこの福音と話すことが出来ますか? おそらく全部ですよ などと言われるのでしょうね。「神学なきところに教会なし」とフォーサイスが言ったことに対してどう思われ神学はお持ちですか? ルターのどこが今、採用可能か? カルヴィンのどこが採用可能か? カール・バルトをどこまで読まれたか? ただ、そちら側の人になって、悩みもなく喜んで人から一応人目おかれる地位にいるばかりに何か勘違いをされているのではありませんか? 教師は、特別厳しい裁きを受けると言うコトバを心してください・・・Ω


秋田美人と与次郎に会いに来てねのお話

2016-06-11 11:41:59 | 日記
 太陽の下でブラ散歩してきました。普段、会社と自宅の往復、天気のいいときは自転車のったり、そう、とにかく歩かないとね。 衰えは足から・・・。いい汗かきました。駅前のジュンク堂に行きました。途中、城跡周囲のお堀の側を通ります。いい天気。  さて、
        
秋田に来られたら僕に会いに来てねと与次郎(写真:狐さんに象られたのは象徴としてだと思う)が言うとります。秋田の人で知らない人はいないのよね。昔、江戸と秋田を6日間で走ったんだそうです。殿様がとても誇りにしてたんだけど、妬みにあって不慮の事故で死んでしまったのだそうだ。殿様とても残念がって、今も千秋公園の(この像はお城への入り口を見て建てられてるね)お城には与次郎の神社があるのよ。で、思うんだけど、江戸時代参勤交代で、秋田の殿様佐竹さんが(今の県知事は遠戚の方)江戸におられたとき、秋田には傘になるくらいの大きな蕗があるといったところ、みんなに信用してもらえなかったんだって、その時、6日で走って大きな蕗を江戸に届けたのは、この与次郎だったのではないかしら。きっとそうだと思うよ。殿様は大喜びだったそうな。それで今でも秋田民謡には、大きな蕗があるから唐傘などいらぬ という歌詞が民謡で歌われているの。映画になりそうな話。と言うことで、今日は、みんなが知っている秋田美人(数年前、出張で東京品川駅を通ったおり、あの長い人通りの行き交う通路に全面、このポスターがずらっと掲げられたいたので、僕はいささか驚いたので、見たことある方もいると思ってみんなが知っていると書きました。昔の著名な木村いへいという写真家)の写真載せます。昨日、大きな蕗に美人さんのキャンペーンの写真撮影が行われましたので合わせて書かせてもらいました。

世界のベストセラーを読む(20回目)

2016-06-10 22:53:58 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆  さて18回目で佐藤 優さんが聖書を読むのであれば、引照索引つきのを推奨しておりますことを述べました。それからM・ルターさんの推奨で、福音書はヨハネ伝を読んでいますが、当時のイエスと話された人々のいた時代背景と、またどういう議論が、天の父からつかわされてきた自分(イエス)の会話であったのかを推察しながら読んでいくと、さらに深い理解が深まると思われます。この辺のところは、沢山の解説書なりがありますので、少しく学んでいただくことを希望します。「イエスとその時代」(荒井 献著:岩波新書)を推薦しますがちと難しいか?。    一見無味乾燥と思われる極めて情緒性を抜いた聖書も読み続けて行く内に、神と人、人と人との関係などが だんだん対等の間柄になってくるように思われるのです。これが人格神と言われることなのか、どのような人にも対等に関わる人権という思想がでてくるいわれなのかなど、何故かじんわり思われてくる・・・。さて、それでも、異邦人である我々には、イエスがそういう方だと理解されても、民族的に住む地方、伝統やその長い歴史感に引っかかりがどうしてもあるのではないかと思う。昔、和辻哲郎でしたか、砂漠の宗教などとして「風土」というちょっと有名になった著作がありました。いろいろ、今の世界をも底辺で動かし、その民族の歴史を通して様々な考えが生まれてきたことなどを考えると、自分の言葉で神を見いだそうとしてきた格闘の歴史のように思われてくる。今は、かなりの世俗化がおこって、ひとりひとりの「霊的なる質」の時代になってきたように感ぜられるのは僕だけだろうか。人類の滅亡が必須と思われる原発もやむところの気配はないし、イエスと会話をする人を多く起こさねばならんなと考えてしまうな本当に。ありあまる徳は得るが、損は全くないのだから。
第1章第1節 「初めに言があった。」 ことばは「言葉」でなく「言」とうひと文字。消えていく音ではなく、ものをあらしめるすべてを包括し、いのちを吹き込む 神のロゴスを「言(ことば)」と著した。なぜか、この冒頭の一節でもぞくぞくするんだよねぇ。ようやく、最初からとりかかる気配が出てきたかな・・・Ω 今日の写真は「神学部とは何か(佐藤 優:新教出版社)

世界のベストセラーを読む(19回目)

2016-06-09 21:27:33 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ルターさんの言いつけ通りヨハネ伝を読んでます。引照・索引付きの聖書をもたれましたら、イエスとファリサイ派、また群衆との会話「われらはずっと先祖からモーセのいわれを守ってきたんだよ」と言っているようなところ、旧約の預言者エリア、イザヤ、それからアブラハム、その他、過去の伝承を引用するところなど沢山あるがその索引を調べて関連を見てみるとよいと思います。   書かれている小文字以外にも実際、旧約にはもっとふさわしい箇所があるように思われる箇所もあるが、実際に旧約聖書に遡りその箇所を見てみると、歴史の底辺に流れる水脈が流れていて想像力をたくましくなって神はおられるのだろうなやっぱ! という思いにさせられるんですね。で、心情的に読むと理解できそうなところは、ほんのわずかだが、新約に書かれている旧約の意味を探っていくと、イエスが「救いはユダヤ人から来るからだ」(ヨハネ伝:4章22節)と言われた言葉がわかってくるような気がするな(あれ、キリスト教は世界宗教ではなかったのかと初め思ったものだが、その歴史を探るとどうしても、思われてくるのだなぁ)。引照・索引は旧約聖書にもあるから、こちらは、もっとスゴイのだな。淡々と無味乾燥な書き方しかしていない聖書も、自分の言葉で読んで意味がよく分からんと 頭の隅にためていたことがらが他の箇所に淡々と書かれているような箇所を見いだすと、いささかその衝撃はスゴイものがあるように思うな。それにしても旧約はわかりずらいところがありすぎ・・・ああ、文句は言ってはならんのでした。こういう読み方をしていると頭が呆けなくて、神学は役にたつ!ということになるな。 今日は内容薄く寂しいので、娘の残していった高校歴史資料「世界史詳覧(浜島書店)」から、ルターさんとカルヴァンさんの挿絵の写真をつけます。ルターさんは土佐犬、カルヴァンさんはコリー犬のようなお顔だち・・・Ω