marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

哀悼!(その3)大江健三郎:誰でもが一回限りの『個人的な体験』

2023-03-17 14:03:18 | #日記#宗教#思想・哲学#宗教#手紙#小説

 1960年代は、安部公房やらその他、多くの作家のハードカバー本が競うように販売され、写真は新潮社 大江の作品集6についていた平野謙の解説、石原慎太郎の『時代から超時代へ』と題しての評論が掲載されている付録である。亀井勝一郎、河上徹太郎、河盛好藏、小林秀雄、中島健蔵、山本健吉とそうそうたる著名な評論家の論評が載っている。

裏表紙には『編集メモ』。編集部のコメントと『個人的な体験』著者本人の言葉、それから先の選考の選評の抜粋と『性的人間』の書評の一部が再録されている。それらを読むだけでもとても面白い。ほとんどの方は故人なので再販されてもこの付録はつかないだろうけれど。

あの時代はまさに性の解放の曙のような時代であったと思う。今では週刊誌では、ものによってはHair nudeなどの 掲載はあたりまえ、少年向けでも胸もあらわな可愛い女の子が表紙になっている。こういう解放において成長期の若者は、欲求をセーブするのは大変なのではあるまいか。若人に生き物としての生殖活動は、あってしかるべきで何らいうこともない、少子化など言われれば大いに・・・と言いたくもなるのだが、衛生面についてはしっかり学ぶべきであろう。

しらける話だが、性病(梅毒)がたいそう流行ってきているのだそうな、抗生物質ですぐなおるようになるだろうけれど、放っておけば脳みそが馬鹿になるらしいし、デープな接吻も相手が歯周病など持っていたら親密にするほど完全に感染する。そういうことまで、きちんと話し合えるようになるお互いパートナーであらんことを願っている。

こと、見ることから性欲という次元の異なる領域は、一般化できないために学校で教えるのはせいぜい保険体育で衛生面あたりだろうが、成長期の動物欲求は理性を凌駕する。

想像力もいいだろう。しかし、彼が新しい実存主義として公言するサルトル(この方はノーベル賞を辞退)を専攻したことに、時代とは言え、身体や心の本来のありようを文学において言葉で解体していく小説を進めていったのには、僕にとってはおおよそ、神が居られるならば(彼は後半にその宗教性に近づいて小説の基底に流れるそれに当然のごとく近づいていた訳なのだから)、踏んではいけない地雷を踏んでしまっていると思われ苦しくなるのだったが、それは性についての描写であった。

男性器や女性器をあからさまに文章に持ち込み、『結婚は神の偉大な奥義である』などという、肉体は霊としての尊重すべきからだである、という聖書の教えにも、それを一目散に『見るまえに跳んで』、時代的に時代のサルトルの影響を受けてそこからインスピレーションを受けつづけたのだろうけれど、地雷を踏んでしまっている、これは神への挑戦のような戦慄を覚えるというのが僕の印象であった。

事実、彼には不幸なことに脳ヘルニアの光君が誕生することになった。僕個人にとっては、こと神の霊の器官ともなる肉体について理解しなければ、神学的には罪「的外れ」にならないように被創造物の人が努力しなければ、その生殖に関して身内や親族に不幸が起こるであろうことは事実考えられることなのであると思っていたのである。必然的に彼は後半、魂の救済に向かっていくのであったのだが・・・。

キリキリと前頭葉をイメージで満たすが、唐突に生殖器の言葉と言動でイメージを書き乱す。少しイライラする。それはその性に関する言葉の表現を露骨に著したり、その唐突な行動は、突然に脳みその最も動物としての初期の間脳部位に繋がっていることから来るイライラであろう。もっとも動物として秀でた部位ともっとも古代からの生き物としての脳みその部位の繋がり。

今までの巷の文学はその不明な部分のモヤモヤを感性で受け取り、言葉にする雰囲気が基調とされてきたのに 露骨にそのギャップが言葉を紡ぐ者としてどうなのか。

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『個人的体験』は昭和39年、第11回新潮社文学賞を受賞した。付録の解説の平野謙によれば、長編の中でも最も成功した作品と書いている。その中で三島由紀夫は「火見子との性描写の執拗な正確さ」を「戦後最上の性描写とも呼びうるもの」と推奨している、と述べている。しかし、評論もはやりというものがあるしねぇ。

大江の作品を読みにくいと思われる方は、批評の中で亀井勝一郎の次のような批評がもっともうなずくのではないだろうか。

「私は最初この作品についていけなかった。もって廻ったような翻訳調の文章に閉口したからだが、読み終わって確実に感じたことは、大江氏はこの独自の「戦慄」を創造したということである。」

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僕にとっての大江作品が与えるこの「戦慄」は人の生存の『異界』につながるものであった。時代を反映する思想も詩人も文学者も彼は遠慮なく自身の作品の中に取り入れた。(その1)に掲載した写真の僕がいつまでも机上に置いておいた彼の作品『いかに木を殺すか』の中の「その山羊を野に」の最後には、旧約聖書の「レビ記」第16章半ばの言葉が文語訳でそのまま掲載されて終わっている。僕などは大いなる慰めを受けたのだった。

付録の中で述べている石原慎太郎の表題「時代から超時代へ」、作品の可否はともかく彼の想像力は世界の超時代をこじ開けた作家だったろうと思っている。・・・今、次の時代へのおおきな曲がり角にさしかっている『われらの時代』・・・



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