marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その6)実はイエスは当初から現存する陰府のことを語り続けていた。

2024-02-14 13:56:30 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 僕らが物事を理解する、とかという行為は、もともと、育ってきた伝統や因習や親の教えなどが先にあっての、その内心の一致点があっての了解があるものだろう。

陰府(よみ)については、イエスの他にも、たまたま、今まで生き返った人もいただろうが、こういう世界だったというのは、一般に宗教書の中では殆ど耳にしたことがない。時折、youtubeで見たりするけれど・・・。『人間は死なない』などと言う本が、たまによく売れたり、読まれたりする。終活近くなると関心があるのか、やはり、知っておきたいと思うものなのだろう。

けれども、お寺さんには詳しく聞こうなどという人は殆どいないだろうなぁ。訊いてもやはり『輪廻転生』だろうし、自分死んだら野となれ山となれ、なのだろうか? 思い通りにいかない肉体、生まれつきの欠陥、病気やトランスジェンダーの悩み、自分は何で生まれたんかと悩む人ら、自分の運命に幻滅し、あるいは格闘している人々。戦争で、あるいは天災で命を落とす人々。

『苦しみに会ったのは良いことでした。私はあなた(神)の掟を知ったからです。』(詩編119)

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『わたし(イエス・キリスト)は、あなたがたを孤児にはしない。』

全地全能と言われる神は、死後の世界(陰府)を願えば、我々に教えてくれるのだろうか?

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キリスト教では、陰府(よみ)の国も、現生と同じ世界があるようだ。しかも、三次元の物証界ではなくて、霊的な世界の次元である。神の言葉はそこからも来る。全てを見通しておられたイエスにとってこれは、彼が観た次元の異なる霊の世界『陰府』のことだろうと思われることが、実ははっきり書かれていたのではないだろうか、と思われる箇所がある。

冒頭に述べたように、ここで僕らが理解するという前提には、先理解があってしかるべきなのだが、現代もようやくこれほど地球の裏側のことが瞬時に分かるようになったのに、今、僕らが生きているこの時間、この空間を共有している次元の異なるその世界のことなどは、さっぱりわからないし、知る術もないということなである。

とすれば、まして2000年以上も前のことならな おさら先理解のことなど、どうこうのという時代ではないということになる。それにしても、イエスの弟子たちは、感じていたというか、知っていたのだろうと思われる言葉が記されている。人が今生に誕生し、そして生涯を終え、次の世界へいくということのその世界。

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イエスは、その世界をありありと見ていた。殆どは例えで語られたが事実としてそのあり様を語っていた。陰府(よみ)の世界のこと。それが書かれている箇所とその世界にもイエスが救いを宣教しに行ったことが述べられている箇所である。それにしても宗教の異なる人にも、イエス・キリストであると述べ伝える必要があるのだろうか?

あの世でも『わたし』が誰彼でなく、『私としての霊』としてはっきりと自覚し、その不完全さもキリストを着ることにより補填修繕され、いち個人として(誰彼のアドバイスを受け入れるとしても)生き続けるには、真の人と言われるその方との会話が必要になるということ。そこに人格があることは、前に述べた。人は観念でだけで生きるものではなく、一個人の実態として次の世界に生きるためには、対応する完全な一人格者がおられるということなのである。必要だということなのである。

それはキリストでなくてもいいのではないの、とトーンダウンしそうな声が聞こえる。しかし、再度、よくその声の出所がどこにあるか、捜して欲しいのだ。世界において、すべての人の信仰の質を求めていくとどこにいくかと言えば、実のところ、どこまでも洗練されたその原点の行きつくところ、所謂『神』に行きつくのである。イエス・キリストはそれを伝えるために来られたということである。

彼を信じない者は、罪に定められる、と書かれている。あぁ、だからキリスト教は排他的などと・・・。いやいや、実はその話は超えなければいけない。

神の声はどこから来るのだろうか? 彼を信じないで死後の世界に行った人々は、それは実際に存在する異界、異次元、肉体の死者の行くところからも来るのであって、その世界も我々と同じ、神に近ずく精進、浄化が行われている所となるだろう。

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『はっきり言っておく。わたしのことばを聞いて、わたしをお遣わしになった方を信ずる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いたものは生きる。』(ヨハネ伝5:24-25)

『キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。』(ローマ14:9)

『彼らは生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。』(Ⅰペトロの手紙4:5-6)

『汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来た我が家に帰ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。、そこで出かけて行き、自分より悪い他の七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。』(マタイ12:43-45)

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◆旧約聖書の話に『ヨナ書』がある。一読、願いたい。この不思議な物語は、実はイエスが語ろうとした陰府の世界の重要な話と思われる。ピノキオという子供向けの物語の下書きのような物語であるけれど、このヨナは実在した人物として他の箇所に書かれている。(列王紀下14:25)

この不思議なヨナの物語は、大きな魚に飲み込まれたヨナが、つまり肉体では陰府に行って、そこで回心する(ここが分からないと実際の僕らが行く、次の世界がわからないだろう)、そして大きな魚に吐き出され、神からの使命であったニネべの人々に神に帰れと宣教した物語なのである。それでも救われたヨナは、神に文句を言い、人間的に神の思いを察することができなかった弱さをもっていたが、そのことも通して、神の全人類に対する深い愛を示そうとされているという思いを教示された物語である。

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ここにイエスが、キリストを知らず亡くなった人への陰府に降り、福音を述べ伝えたというもう一つの深い隠れた物語が読み取れるのだ。だから、神にとっては、生きている者にも死んだ者にも、神の独り子となりすべてにおいて福音が述べ伝えられるということなのである。陰府の世界の話なのである。これは、イエスにとって重要な事柄であった。

◆ここで、『使徒信条』を思い出して欲しい。『・・・・陰府(よみ)に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり・・・』

しるしを見せてくれと問われた時、イエスはこう語った。

『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、ひとの子も三日三晩、大地の中に居ることになる。ニネべの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネべの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある』(マタイ12:39-41)(ルカ11:29-32)

『・・・このように空模様を見分けることを知っているのに時代のしるしを見ることができないのか。・・・ヨナのしるしの他にはしるしは与えられない。』(マタイ16:3-4)

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イクスースは、古代ギリシャ語で「魚」を意味します。この言葉は、キリスト教において特別な意味を持ちます。具体的には、以下の頭文字からなるモノグラム(組み合わせ文字)として用いられています:新約において魚はイエスを示すシンボルとなった。

  • Ι(イオタ): イエスース(イエス)
  • Χ(キー): クリストス(キリスト)
  • Θ(セータ): セオス(神)
  • Υ(ウプシロン): フイオス(息子)
  • Σ(シグマ): ソーテリア(救い主)

これらの頭文字をつなげると、**ΙΧΘΥΣ(イクスース)**という言葉が現れます。このモノグラムは、初期のキリスト教の信徒たちによって、キリストの象徴や教会のシンボルとして魚の形をしたものとして用いられていました

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◆最後に、実際イエスが、陰府の世界を垣間見たであろうその話が載っている箇所。これは死者の世界の話である。普段、『例え』で語るイエスが実名で語っているのだから、陰府の世界をそのまま見たことを語ったものと思われる。一読されたし。『金持ちとラザロ』の話である。陰府の世界があるということである。(ルカによる福音書16:19-31)

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめていた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴会にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。・・・・・アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳をかたむけないのなら、たとえ死者の中なら生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」』・・・



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