marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その7)陰府(よみ)の世界。僕らの周辺の当たり前のこと。

2024-02-26 20:58:42 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 終わりに長いですが、新約聖書のイエスが語った陰府(よみ)の世界の話、『金持ちとラザロ』の話を書いています。

ブログが当面、発信されないときにあなたは何をしていたんだ、大丈夫か? と連絡が時折、知人からある。いつも本題に行く前に、ああだこうだと書いているので、最後まで読む人いないのではないの、と。そうです。すべての人に関係があると思っているのですが、くだくだ書いて体調を改めて見て意識と言葉付けをしているんです。自己の思考の芯の確認といいますか。どうも、あれやこれやと思いが浮かんできて、書けばただ文字にはなって、たまたま暗い気分の人が、引き付けられてぐ~っとそこに潜って、その人という生き物の琴線にふれるようなこと(希望)にいきつくかもしれない、それを願っているのです。

彼ら(👽:書きようがないので宇宙人のようですが、そうではなく『とりまく霊』たちと書いた方がいいでしょう)と会話しているのですよ。無論、椅子に座っていることだけをいいことだと思っていないのです。第一、身体のために。それは、エコノミー症候群といいますか、座りっぱなしで血液のめぐりを悪くしてはいけませんからね。それぞれが身体的に持って生まれた欠点がありますからねぇ。むろんいい面も。だれも、それが私の持って生まれた思考の礎となる脳みそであり、躰から疑いもなく受け入れているのですからね。これについてもだいぶ調べました。

ところで、良い考えを持った彼らから離れないようにしているんですよ。ますます、それが必要な時代になって来たと思うんだ。先のブログに『陰府(よみ)』のことを書いた。聖書にそのことが書かれているということを。けれども僕らは、誰も肉体が消滅した体験をしていないから、その『金持ちとラザロ』の話をイエスがしたことに対して、それが肉体の消滅のあとの実話だとは思わないでしょ。けれどもあれは、実名を挙げて彼が見た『陰府(よみ)』のことを語っているのですね。

陰府のことを、日常の話のように書いているでしょう? あれ『金持ちとラザロ』の話は、創作なのではなく、次の世界『陰府』の話なのですよ。それは生きている僕らが今の周囲に同時に起こっていることなのです。その世界と繋がっているのです。怖いものではありません。僕らが気づかないだけですね。ですから、『陰府』のことを知れば(そのことも書いてあるのですが)、イエスが何を語ろうとしていたのか、新約聖書の殆どすべてが分かると言っても過言ではありません。

神は何を考えられ、独り子イエスを地上に誕生させ、彼を信ぜよ、と言われ続けてきたことが。思想や観念ではなく、現実に僕らが今、生きていることに気づけば、周囲に、そして第一に私自身にいつもそばにいて語り掛けているではないかということが理解されてくるのではありませんか。

むしろ、語り掛けてない時が、前頭葉がすっからかんで実に自分にうっとうしい時なのです。

前頭葉で自己を見つめてみたとき、それは、まったく自己集中できるとき、離反しますけど、その時の身体など考えていないものでしょう。すべてにおいてoutputに優れた人は、才能があるというのでしょうけれど、その起動となるエネルギーはどこからくるのでしょうね。そこで、凡人である僕らにとって、その起動エネルギーが持てるようにするためには、よく眠ることですできる限り十分な睡眠をとることをお勧めします。思考が肉体の疲労に引きずられないために!

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『陰府(よみ)』のことを分かると、新約の言わんとすること、それはそこからの声でもあるということが解る。というのは肉体的に死んだ人に対しても聖書(とくに新約)は語られているからです。その世界は、目には見えませんが、『同時に今、ある』という存在です。そこからの霊として分かる生きている彼らへの言葉であるからです。そして今の我々への言葉でもある。ですから、それが解れば、聖書のイエスの言葉が分かるようになります。さらに、その後に書かれた弟子たちの手紙がわかるようになります。まったく、疑いもなく。彼の厳しい言葉は、その言葉のとらえ方についての忠告であると思われて来る。

さらに、他の宗教と異なり、イエスを観念としてではなく、何故、実体として生きていた真の人と言われたイエスを信じて欲しいと言っているのか、さらに、私(イエス)が与える聖霊に繋がっていなさい、と言われたのかもよく理解できるようになるでしょう。なんども言いますが、思えば彼らは、我々のそばにいます。その中でも、イエスは、送る聖霊にいつも繋がっていなさい、と言われます。そういう、不要なものの削除の思いを持ちながら、彼の言葉を、弟子の手紙を読めば、なぜ、神が天地創造来から信じた者らを引き上げるのかということが、理解できるでしょう。

陰府のことが解れば、仏教においての輪廻転生や法要のことも、なぜそういわれて来たのかかも分かってくるかもしれません。そして、よりイエスが来たことを理解されるでしょう。

イエスが例えとして、神の国でのことを言っているのか、それは次の世界『陰府(よみ)』の世界でのことなのか? そのこともイエスは、話された今居られる世界に類比して、同時性で語られる場面が多くある。それを聴いて、僕らはそうだな、そうしなければいかないな、などとの勧めは、聞いたものがその時、同時に起こっている『陰府(よみ)』の世界の同期のことなのである。つまり、繋がっているということ、同時にある、ということである。『陰府』での出来事がわかれば新約聖書の言わんとすることが解るでしょう。思った時、瞬時瞬時に彼はいます。縦軸としての今という時です。神学では、「永遠の今」という言葉も使われます。

さらに、新約聖書を読むとき、願っていることがあります。それは、歴史、時間の流れの中に彼はある、ということです。ここで、旧約が大きな意味を持ってくると思われます。天地創造来(システムとプログラムをつくり)から始まり、選民族を神の摂理のもとに演出します。世界の彼らの動きをみれば、世界の流れが、否、神の存在のありようが理解されてくるという思いです。

キリスト教神学を学ぶ人は、教養としても基本として、かの地の民族の歴史を学びます。歴史的な時間の流れを意識して、聖書を読んで欲しいと思います。さらに、世界中に散らされた彼らの歴史。。。彼らは長い、長い時間を経てこの国のかなり古い時代にも渡って来ていたという話は、とても面白いし大切な話です。

さらには、今の世界を動かしている仕組みみたいなものも見えてくる。あまり深入りすると危ないと思いますがねぇ。

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『金持ちとラザロ』(これはイエスが語った話である):ルカ福音書16章19~31節

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。

そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしは炎の中でもだえ苦しんでいます。』

しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前の間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に超えてくることもできない。』

金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。』

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちには預言者とモーセがいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者の中から誰かが兄弟のところへ行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

*****************ここまで

以上がイエスが、陰府のことを語った話である。僕らは誰もが肉体が地上から消滅する。そして、次の世界、陰府に行くのである。そこは、肉体はないが霊世界であり、今生と同様の世界観があるようだ。新約聖書は、イエスが陰府にくだりそこでも福音を述べ伝えたのだと語っているように読み取れる。

そして時間がたち、悔悛が無ければ、最後の審判で完全に魂が消滅する地獄へと向かう。

イエスは、地上の我々の欠陥(罪)の身代わりとなって十字架に掛けれらた。我々の欠陥(罪)を補填するために。よって、彼を信する者らは、個々の罪がどんなものだろうと彼が、それを担ったとされるのである。イエスは今生にいる者たちに叫ぶ。『生きてわたしを信ずる者は死ぬことが無い』と。信じて死んだものは、陰府の世界でアブラハムの宴会に招かれるであろう。

イエスは、他の箇所で語っている。『モーセと預言者は、わたしのことを語っているのだと。』(「モーセと預言者」とは旧約聖書のすべての要という意)

金持ちとラザロの話の最後に言う。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

新約時代となり、彼イエスは死者の中からよみがえった、復活したのであった。 あなたはこれを信じますか?

今はレントの時期となっている。苦しみの中にあるイエス。今年の2014年の復活祭は3月31日である。・・・



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