marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(814回) (その12回)地上に生きる人であればその方面に向かうものではないのか

2021-02-27 12:00:13 | 小説

◆大江健三郎という作家を僕が好きな理由は、彼が引用の偏執狂ということ、で、それら引用する作家やその言葉を考えると土台には欧米の世界のベストセラーにカルチャべートされた世界が底辺にある基で引用された者たちであるから、必然的に人と言うものはいかなるものであるのかという点に、その考えが向かって行っているのではないだろうかという思いがあったからだ。高みまでに登れば、それは、人は神の像に似せて創造されたという、そのことの確認するために、ということになるだろう。神は全地、万物を創造されたというのだからいずこの地上の人であっても、国や人種に係わらずその方面に向かうであろうという方向性を示していると僕は思うのだ。◆ウイリアム・ブレイクなども当然しかり、すっかりキリスト教なのだ。しかし、日本の多くの人はそのイメージがカトリシズムをまとったものとしてその宗教をとらえるところが解決策が見えない課題を作り出してしまっていると思うのだが・・・。大江は魂の再生に対し神秘思想のブレイクをこう述べていると長々と引用してその向かうべく方向を次のように示した。****『想像力のこの世界は、永遠の世界である。それは、われわれが植物のように生じた肉体の死のあとすべて行く、神なるふところである。想像力の世界は無限であり、永遠である。けれども生殖される、あるいは繁殖する世界は有限の一時的なものだ。われわれが自然の植物の鏡に反映しているのを見る、あらゆる事物に恒久のリアリティーは、かの永遠の世界にある。すべての事物は、救い主の神なる肉体の内にある、それらの永遠の形式によって理解される。救い主、真の永遠の葡萄の樹、人間の想像力、それに私に永遠なるものが確立されるように、聖人たちの中で審判に加わること、一時的なもの投げ棄てることとして現れた。』(6章「引用には力がある」<p110~>)◆ブレイクは、結局、創作に係わる自分の、そしてすべての創作家にも当てはまるであろうこととして、その「私の中の創作の始源」について述べているのである。そう、あの小林秀雄という大江をコケにした評論家も、常に「引用」を求めている君には、「その作品にその始源が見えないぞ、問われているのは(読まれているのは)君自身なのだ!」と感ぜられておられてのことであろうと思われる。


世界のベストセラーを読む(813回) (その11)大江健三郎は実存主義を語るJ・P・サルトルを熟読していたが

2021-02-27 06:42:28 | 思想・哲学
 
世界のベストセラーを読む(631回) (その3)実存論的神学「民衆の神 キリスト」(野呂芳男:著)を読む

◆実存主義とかは、僕らは1960年代 過去には哲学者キルケゴールが語り、サルトルやカミュなどが盛んに騒がれたころ、僕らの時代は、学生運動の下火のころだったから、といっても授業なども......
 

◆実存主義とは、簡単に言えば自分という人間を問い、人とは何なのかを問う哲学であるということではないだろうか。このようなことが近代人の問題として問われたのは、キリスト者キエルケゴールによってでしたが、彼が19世紀において要求していた事柄は、20世紀に到達され、かのベルグソン(生哲学)やフッサール(現象学)やその門下のシェーラーにより先導の役目を果たし、現今、呼ばれるところの実存哲学に道が開かれ、第一世界大戦後、ハイデガーやヤスパース、そしてJ・P・サルトルに到達されていくわけです。ヤスパースは実存ということを語ってましたが、その他の人は明確には実存ということを語ってませんでした。しかし、サルトルは実存主義的と明確に語りましたねぇ。その極みと言えば、何ですが、サルトルまで行きつくと、僕にとっては人そのものが解体されてしまった感があったわけです。だから僕はカミュの方がしっくりくる訳なのです。これが流行った時代、文学はなぜか恣意的に思考実験しているように思われて僕には、ひっかかりがあったのです。大江健三郎は創作に彼に大いに影響を受けていたということです。