marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(796回) (その2)『日本の神学』(ヨルダン社)を読む 

2021-02-03 19:18:15 | 思想・哲学

 ◆ミスター・ピューリタンと呼ばれた大木英夫先生の担当された文は読みやいです。ともによく議論をされたと書かれていました。かなり険悪になるまで。しかし、それはあるいは、僕が古屋先生の文を読んで「哲学に負けてるな」と思われる、何らかのひっかりが心に生じてきたものとの相違がやはりそうさせたものなのではないだろうかと思ったものです。学者ですから知識が豊富、並べて関連付けて、過去のものを現代に合わせて評価する。それなら、いくらでも評価できるであろうと。まして、「二つのJ(イエスと日本)」にイエスの言葉、「だれも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。・・・」(マタイ:6:24)を用いているところなどは(p136)良くありません。最近もyoutubeの説教メッセージである教会の牧師がイエスが、パリサイ人を「あんた方は白く塗りたる墓だ・・・」とパリサイ人を非難した言葉を用いて、いきなり「わたしたちはイエス様が言われた白く塗りたる墓ではないでしょうか!・・・」などと話し始めたので、おいおいだった。聞くわたし達は、当時の最先端の律法には律儀な非の打ちどころの無いと自認しているひとり一人なのだろうか?! ◆いずれ、神の言葉を語るには、肯定するにも人を批判するもすべて、まさに御言葉にあるように自分の信仰が神から問われているものです。そして、幼少のころ、否、母の体にある以前からと言っていい(一応、聖書にそう書いてあるから)その信仰心の根が養われているものなのです。内村の信仰心の根がどこから来ているのだろうか、そして、日本人の信仰心の要はどこにあるのだろうか、それは、いつ、どこから、そうなったのだろうか、長い長い歴史の中で、この島国の中で。内村は幼少の頃のそれを述べている箇所がある。◆僕はこう思う。「二つJ」のそれぞれの根は、次元の異なるところから来ているのである。それが、この肉なる3次元で言葉で表現すれば、受け取る人間にとっては二人の主人に兼ね仕えるように聞こえるのであろうと。内村のすべてが問われる信仰心がどこから来ているか、読み、推察して欲しい。信仰心の根というものは、本人にも言葉で表しにくいものだし、表しきれるものではないのである。まさに神学者お二人の喧々諤々の議論の意見の相違もあったと言われる、そのお二人の信仰心の根の相違は、お二人の誕生からの生い立ちすべてに係わっているのだと、神は言われているように思われてならない。調べ、推察されたし。


世界のベストセラーを読む(795回) (その1)『日本の神学』(ヨルダン社)を読む

2021-02-03 17:21:57 | 思想・哲学

 掲題の本は、ヨルダン社から1989年4月25日初版発行、巣ごもりの中、再読したのは1996年3月22日発行の第4版である。著者:古屋安雄、大木英夫。古屋先生は亡くなられたが、大木先生はご健在。お二人の御経歴はネットでも見ることができると思います。東京神学大学で教鞭をとられて、大木氏は東京神学大学の学長もされ、のアメリカで学ばれラインホールド・ニーバーの最後のお弟子さん。とても有名になったニバーの「平静を求める祈り」を訳された方。お二人ともたくさんの本を出されています。(実はこの本はいただき物です)◆神学(キリスト教の)などという困難なものにのめり込んでしまったついでにもっとのめり込んでおきたいと思う。とても大切なところ。神学はかなり困難な内容ですがとても面白いものです。一生続けても飽きないものです。しかし、真摯に学ばれる方には、面白いだけでは困る訳で、神の言葉には人の命がかかっていると僕は思っている訳です。それで、ブログで書いてきた内村鑑三について、古屋先生が「二つのJ」について内村を批判をされておられることについて反論。◆僕は「神学は進化する」と書いてきた。これも大きな課題を持っている本で、多くの神学生に読めまれてきただろうし、日本に伝道をするには、これからも再版されて読まれるかもしれない。しかし、進化した今という時から、読むならば全般に古屋先生の歴史的考察をされている日本の神学(そもそもこれは、とても難しい表題だと思うが)は「哲学に負けている内容」だな、まともに神学生が読めば、神学に頭は冴えるであろうけれど、人によっては信仰にはマイナスになるだろうと思った次第だった。まして「日本の神学」などという題名を付けているのだから、ますますよくない影響を後進に与えるだろうと思われた。時代考証、その時、どういう信仰をもって生きた来た者が、どういう啓示を受けたのかということへの批評。◆僕は右でも左でもないが、批判するには批判者の判断基準がどこにあるか、さらには、どういう生まれをして人生を歩んできたのか、などが信仰をもって語るには、すべて必ず問われているものなのです。信仰と神学は違うとなれば、それも第一に書かねば、後進に高い地位で牧師養成機関で教えられているので、とてもまずいのではないだろうか。神の言葉について、何かを語ろうとする者は、批判でも肯定でも、その人が気づいていないすべてのありようが神に問われているものなのです。・・・続く