marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(811回) (その9)小説のあからさまな虚構から何か得ることがあるのか

2021-02-24 22:12:36 | 小説
 
世界のベストセラーを読む(629回) (その1)アルベール・カミュ(Albert Camus)作品の神学的意味

 ◆先のブログ紹介のカミュの作品に周知のとおり「ペスト」という作品があって、新型コロナウイルスが騒がれるとこの作品を再読してきた。特にバヌルー神父の箇所を注目してね・・・。と、同時......
 

◆僕の小説を読んで「吐き気をするのだって?!」、それは君、成功だろう、だってサルトルの「嘔吐」という小説があるじゃないか、などとその作家は言わないだろうが、カミュのことが出てたので脇道に、ちょうど昨年のブログアップの内容がgooさんから送られて来たので。◆「私と言う小説家の作り方」の中で文章の表現に、サルトル式とカミュ式と決めて言葉の表現を表すことに歳を経るにつれ、自分の作ったその2分法を乗り越える着想を持つようになったと大江は書いている。それは、「文章を書く時、自分は言葉によるモデルを造っているのだ。つまり私は山の上に苦労して攻め上っていくのでもなく、こちらの高みから弓矢で狙いすますというのでもなく、言葉によって、解くべき主題、表現すべき状態のモデルを作ろうとしているのだ。・・・この考えは、仕事を始めた若い小説家としての私の準則となった。」(「虚構の仕掛けとなる私」<p147>)◆彼は、詩人でもあるから、この「言葉によって」というところが、飛躍した言葉が(しかも、その言葉にはすでにその作家の先理解のイメージがあるのだ)唐突に現われ作為的と感じられるところがあるので僕には少しイライラが生じるのだろう。彼の小説には(あくまで小説だが)、湿ったエモーショなるな部分が描かれてこない。僕はやはりひとむかし前の人間なのだろう。昨年の添付のように僕は、なにがしかのどんな人間の生き様にも当てはまる魂の普遍性なる言葉(言葉にならないコトバ)を求めて来たし、実存主義とはそもそも行きつくところはそのあたりだと考えてきたので。